ざんねんな内閣総理大臣事典/昭和時代戦前
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五・一五事件まで[編集 | ソースを編集]
- 若槻礼次郎についてはざんねんな内閣総理大臣事典/明治時代・大正時代#若槻禮次郎へ。
田中義一[編集 | ソースを編集]
- 昭和天皇にメチャクチャ怒られたことでメンタルを壊し首相を辞任し、その後まもなく持病の心臓病の悪化で亡くなった人物。
- 昭和天皇が激怒した理由は「関東軍が張作霖爆殺事件に関与した疑いがあったにもかかわらず、田中内閣が調査に乗り出したのが遅かったため」。
- ちなみに昭和天皇は「自分が田中を厳しく叱ったことが内閣総辞職どころか田中の死に繋がった」と後悔しており、それ以降は政治に不満があっても一切口を挟まないように決めたという。
- 田中の行動が非難されるのは仕方ないのだが、当時神様に近い存在と考えられていた昭和天皇がお怒りになったのが不味かった、らしい。
- 幣原喜重郎の協調外交を転換し、積極外交に方針を変えた首相である。
- 昭和天皇が激怒した理由は「関東軍が張作霖爆殺事件に関与した疑いがあったにもかかわらず、田中内閣が調査に乗り出したのが遅かったため」。
- 政治家としては評価が低いが、人柄は良かったらしい。
- 軍人としては有能だったのは事実らしく、師匠だった山県有朋からは気に入られていたそうだ。(ちなみに有朋と義一は同郷でもある)
- タモリこと森田一義氏の名前は田中義一が由来。
- 同姓の田中角栄元首相に比べて知名度が低い。
- 評価できる点があるとすれば、高橋是清を大蔵大臣として入閣させたので経済は安定していたこと…くらい。
- 高橋是清に誘われて政界に転職したわけだが、このとき義一は長年所属していた陸軍から離れざるを得なくなった。
濱口雄幸[編集 | ソースを編集]
- 「浜口雄幸」とも。
- 高知出身の政治家。第27代内閣総理大臣。
- 誠実な人柄から「ライオン宰相」として親しまれ国民からの人気が高く、主な功績としてはロンドン海軍軍縮条約を結んだことがあげられる。
- だが経済面での評価は非常に低い。
- 詳細は後述の井上準之助の節に譲るが、世界恐慌下の日本経済をドン底に突き落とした戦犯と言われている。
- 軍部の暴走を抑えるために緊縮財政と金解禁を断行したが、これによって世界恐慌の直撃を受けて日本は大不況に陥る。そして餓死者も出てしまった。
- 庶民からの人気は高かったが、実は庶民を苦しませた首相でもある。
- 1930年に東京駅で銃撃され、重傷を負った。
- その時は懸命な治療のおかげで一命を取り留めたものの、政敵の鳩山一郎(鳩山由紀夫氏の祖父)によって無理やり国会に出席させられ、容体が急速に悪化し、銃撃事件の半年ほど後に亡くなってしまった。
- 元々名前は「幸雄」になる予定だったのだが、お父さんが出生届を出す時に間違って雄幸と書いてしまったためこの名前になった。
- ちなみに旧姓は水口。結婚した際に浜口家に婿入りしている。
犬養毅[編集 | ソースを編集]
- 平和主義者だったと思われがちだが、野党時代は軍部とグルになって与党(浜口雄幸内閣)を攻撃したことがある。
- 鳩山一郎と共に統帥権干犯問題に火を付けた人物である。
- 軍部が統帥権の利用価値に気付き、政治家からの批判を全て「統帥権の干犯」として押しのけるようになってしまい、結果として軍部の暴走を手伝ってしまった…。
- しかも犬養は元々軍縮賛成派だったにもかかわらず、浜口のロンドン海軍軍縮条約調印に反対するだけのために軍縮反対派に寝返ったのである。
- 鳩山一郎と共に統帥権干犯問題に火を付けた人物である。
- 首相に就任した後は軍縮賛成派に戻ったのだが、それが軍部の怒りを買って暗殺された。五・一五事件である。
- しかも国民が同情したのは犬養ではなく軍部だった…。
- 犬養を暗殺した犯人たち(海軍の青年将校)に対しては軽い刑が科されただけ。これが原因となり4年後により重大な二・二六事件が発生することに…。
- 515の犯人たちを死刑に処していれば226も大東亜戦争も無かったんじゃね?という意見もある。
- 犬養を暗殺した犯人たち(海軍の青年将校)に対しては軽い刑が科されただけ。これが原因となり4年後により重大な二・二六事件が発生することに…。
- これにより政党政治が終わってしまった。以降、挙国一致内閣が続き、軍部が強大な権力を握る時代に突入してしまう…。
- これ以降の首相は殆どが武官であり、敗戦までの文官の首相は広田・近衛・平沼の3人だけとなっている。
- ただ「犬養が亡くなったから政党政治が終わってしまった」という意見が多いが、そもそも「犬養が戦前日本の民主主義を殺してしまった」という考え方すらある。
- しかも国民が同情したのは犬養ではなく軍部だった…。
- そもそも515は浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことがきっかけとなって起こった事件。軍縮条約を結んだ際に全権大使だったのが若槻礼次郎だったため、本来ならば青年将校の怒りは若槻に向くはずだった。
- ところが浜口内閣崩壊後に誕生した第2次若槻内閣が1年未満の短期政権だったため、若槻ではなく政府自体が怒りの対象となってしまったのである。
- そして政府の長となった犬養がとばっちりを喰らったのである。
- 犬養は浜口内閣を攻撃していた側の人間であるため本来ならばむしろ軍部に感謝されるべき人間だった。にもかかわらず最終的には暗殺されてしまった。
- そして政府の長となった犬養がとばっちりを喰らったのである。
- ところが浜口内閣崩壊後に誕生した第2次若槻内閣が1年未満の短期政権だったため、若槻ではなく政府自体が怒りの対象となってしまったのである。
- 毒舌が多かったために敵が多かった。
- シチューや油っこいパンが大好物だったが、妻が洋食嫌いだったために、家では食べさせてもらえなかった。
- 理由は「家がバター臭くなるから」。
- 一応満州国の承認には消極的だったらしいが、その割には多額の軍事費を出しているので結果的に陸軍を助けてしまった。
挙国一致内閣[編集 | ソースを編集]
- この時代の首相は(鈴木貫太郎を除いて)大東亜戦争への流れを止められなかった、あるいは戦況の悪化に対して無策だったなどの理由から総じて評価が低い。
斎藤実[編集 | ソースを編集]
- アメリカ留学の際に「細身の体格」がコンプレックスとなり、太って体力をつけるためにビールをがぶ飲みしている。
- 海軍軍人だった斎藤は体格を良くするためにビールを毎日大量に飲んだ。
- 作戦は見事成功しました。
- また、西郷従道(当時の海軍大臣)と共にヨーロッパに行った際、当時外交官だった原敬に借金をしている。
- 参謀本部から支給された旅費を酒代に使ってしまったため、お金を借りないとアメリカに帰れない状況だったため。
- 海軍軍人だった斎藤は体格を良くするためにビールを毎日大量に飲んだ。
- シーメンス事件(ドイツの造船会社が日本海軍に賄賂を渡していた汚職事件)で当時首相だった山本権兵衛と海軍大臣だった斎藤が責任を問われ失脚に追い込まれた。
- しかしそれでも何度でも復活した。
- 国際派の首相として期待されていたが、結局は満州国を承認し国際連盟を脱退したことで日本の孤立化を深めてしまった。そのため斎藤内閣の評価は低い。
- ちなみに犬養毅が暗殺された後、犬養と同じ立憲政友会の鈴木喜三郎が首相になる予定だったが、陸軍が反対したため斎藤が首相になった。
- 軍部の中では比較的良識派だったのだが、最期は二・二六事件で暗殺された。(当時の首相は岡田啓介)
- 首相退任後も昭和天皇からの信頼は厚く、内大臣に任命された。
- ちなみに斎藤同様226で暗殺された高橋是清とは親友。斎藤、高橋共にアメリカ留学経験があり、英語力も非常に高かった。
岡田啓介[編集 | ソースを編集]
- 福井出身の海軍軍人。第31代首相。
- 在任中に二・二六事件が起こる。
- 岡田本人は間一髪で助かったものの、秘書官の松尾伝蔵が殺害されてしまった。
- 斎藤前首相、高橋蔵相も殺害されてしまった。
- 結局、責任をとって辞任してしまった。
- なお515の時と違って、226事件を起こした陸軍の青年将校たちに対しては厳しい刑が科された。(17人に死刑判決が下された)
- ちなみに岡田本人は被害者側だったにもかかわらず、襲撃してきた陸軍の将校たちに同情するような発言をしていた。
- 岡田本人は間一髪で助かったものの、秘書官の松尾伝蔵が殺害されてしまった。
- 一応、首相を辞めた後もも米内光政や井上成美などと共に海軍の重臣として活躍している。
- 東条内閣倒閣運動でも重要な役割を果たしている。
- 終戦後は米内や若槻礼次郎、宇垣一成らと共に平和主義者としてアメリカでも人気が高く、東京裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンからホームパーティーに招待されている。
- 日本が主権回復したのを見届けて、1952年に84歳でこの世を去った。
- 軍人にしては常識人だったとも言われるが、裏を返せば軍人らしい豪快なエピソードが少ない人物でもあった、とも言える。
廣田弘毅[編集 | ソースを編集]
- 「広田弘毅」とも書く。
- A級戦犯として死刑になった7人の内の一人。その中で唯一の文官である。
- 東条英機をはじめとする他6人は全て武官(軍人)であり、逮捕される直前に自決した近衛文麿や病死した松岡洋右に代わって「どうしても連合国が文官を一人死刑にしたかった」という理由で死刑判決を受けた悲劇の人物…。
- 実際、連合国側の中にも「広田の死刑判決は不当である」と抗議した者も多かった。
- 広田に同情する意見が多いのは、「落日燃ゆ」という小説で悲劇のヒーローとして描かれていたことも大きい。
- 東条英機をはじめとする他6人は全て武官(軍人)であり、逮捕される直前に自決した近衛文麿や病死した松岡洋右に代わって「どうしても連合国が文官を一人死刑にしたかった」という理由で死刑判決を受けた悲劇の人物…。
- ただ、(死刑の是非は置いておいて)広田がやったことは実際かなり酷かったのも事実ではある。
- 首相として就任した後、軍部の言いなりとなって軍部大臣現役武官制を復活させ、結果的に軍部の暴走を助長してしまった。
- 外交官としては有能だったらしく首相になる前は協調外交を心掛けていたが、首相になってからは軍部(特に陸軍)の操り人形になってしまい、日中戦争にも協力してしまった。
- かつて広田を尊敬していた部下も、広田が軍部に迎合するようになってからはかつての上司だった広田を見限っている。
- 平和主義者だったと思われているが、実は右翼団体「玄洋社」の社員だった。
- 実は昭和天皇からは近衛文麿と並んでメチャクチャ嫌われていた。そもそも昭和天皇は当時の右翼系の人間のことは例外なく嫌悪していた。
- 東大出身者で死刑執行された数少ない人物である。
- 他にもオウム真理教の豊田亨などがいるが…。
- 数少ない庶民階級出身の首相だったことから、昭和天皇から「大丈夫なのか?」と心配された。
- 昭和天皇からは「絶対に名門を崩すな」(≒華族制度、貴族院を尊重しなさい)と念を押されていた。
- 他の首相は実家が地元の名士だったという人が多いので…。
- 広田は福岡の貧しい石屋に生まれた。広田が若かった頃は藩閥政治がちょうど終わろうとしていた時期であり、勉強さえできればどんな生まれの人でも偉くなれる時代だった。
- そのため、田中角栄が首相になる前までは立身出世の象徴として有名だった。
林銑十郎[編集 | ソースを編集]
- 石川出身の政治家、陸軍軍人。
- 阿部信行、森喜朗は同郷である。
- 決断力には欠けていたが他人の意見に耳を傾ける性格だったことから皇道派の石原莞爾に推されて第33代首相になった。
- しかしその性格が災いして首相になってからは急に統制派になり、予算を通したらすぐに衆議院を解散させてしまった。
- 軍部に協力的な昭和会や国民同盟の勢力を伸ばすことを目指していたが、マスコミからは食い逃げ解散だと批判され、国民からも失望され、結局は政友会や民政党に負けてしまった。
- 最終的には内閣総辞職…。
- 軍部に協力的な昭和会や国民同盟の勢力を伸ばすことを目指していたが、マスコミからは食い逃げ解散だと批判され、国民からも失望され、結局は政友会や民政党に負けてしまった。
- 当時としては歴代最短政権であり特に実績も無かったことから何もせんじゅうろう内閣と言われてしまった。
- 敗戦より前に亡くなったため、皮肉にも戦犯にならずに済んだ。
近衛文麿[編集 | ソースを編集]
- 後述の東条英機と並んで「史上最低の首相の一人」に数えられることが多い人物。
- 戦後生まれの人間だと「むしろ東条よりもイメージが悪い」って言う人も多いかも…?
- 文芸評論家の福田和也氏は自身の著書『総理の値打ち』にて近衛に対して最低の得点を与えている。
- 血統の良さだけで持ち上げられた人物だったため、リーダーシップはまるで無かった。軍部の暴走を抑えつけることができず、日中戦争を泥沼化させてしまった…。
- しかし(海軍の影響もあっただろうが)本心は平和路線を追求していたらしく、強硬派の松岡洋右をクビにしたりもしている。
- たしかに日中戦争の責任者であったことは非難されるべきだが、それでも近衛本人はアメリカとは戦いたくなかったようだ。だから多少は同情の余地もある。ちなみに近衛内閣が崩壊したのは当時陸軍大臣だった強硬派の東条英機がゴネたため。
- しかし(海軍の影響もあっただろうが)本心は平和路線を追求していたらしく、強硬派の松岡洋右をクビにしたりもしている。
- 難局に遭遇するとすぐに投げ出す「弱い人物」と言われることが多い。
- そのため昭和天皇からは東条英機以上に嫌われていた。
- アンサイクロペディアにも「何でも責任転嫁する人物」と書かれてしまった。
- ちなみにその性質は孫の細川護熙氏にも引き継がれている。
- 日本の歴代宰相の中で最も若くして亡くなった人物。かつ死因が自殺である唯一の人物である。
- 理由は「戦犯に指名されたことが恥ずかしかったから」。しかしそれでも「戦陣訓」を出しておきながら自分はそれに従わなかった東条英機よりはまだ「男らしかった」と言えるかもしれない…。
- ある意味、貴族の誇りを保ったとも言えるが…。
- ちなみに自決の方法は青酸カリによる服毒自殺だった。
- きわめて裕福な家庭で育ったと誤解されがちだが、実は父親の近衛篤麿は多額の借金を背負っていたため、文麿は子供時代は貧乏な生活をしていたのだとか…。
- 西園寺公望が近衛を自分の後継者として育てようとしたのだが、西園寺が親欧米派だったのに対し、近衛はアジア主義者かつ社会主義に関心を持っていたため、上手くいかなかった。
- 大東亜戦争開戦時の首相と言えば東条英機が有名だが、食料品の配給制度の導入や日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創設などの戦時体制の確立は近衛内閣で行われている。
- だからこそ近衛がアメリカと戦争をしたがっていたと誤解されがち…。
- 逮捕寸前で自決したため戦犯指定を免れたが、もし仮に東条同様自決に失敗していたら、確実に終身刑以上の判決になっていた。
- 一応近衛は和平工作も少しはやっていたので、もしかしたら死刑は免れていたかもしれない。しかしやはり日中戦争の責任は重いので、良くて終身刑。
- ただ広田弘毅が近衛や松岡の代わりに死刑になったことを考えると、やはり死刑になっていた可能性も低くは無かったと思う。
- 生きていたら広田や東条の代わりに処刑されてた…と思う。
- 広田は死刑を免れたかもしれないが、東條はやはり死刑を回避できなかったのでは?とも思う。(あくまで個人的感想です)
- 一応近衛は和平工作も少しはやっていたので、もしかしたら死刑は免れていたかもしれない。しかしやはり日中戦争の責任は重いので、良くて終身刑。
- アメリカとの関係が最悪のタイミングで首相を投げ出したため、「都合が悪くなるとすぐ逃げる人物」と後世からの評価は非常に低い。
- ただこれは近衛本人だけでなく第三次近衛内閣の幹部だった東条のせいでもあるため同情する意見も多い。次に首相となる東条が自分で自分の首を絞めた結果(自業自得)とも言える。
- 近衛「俺にはアメリカと戦争する自信が無い。自信がある奴がやってくれ!」
- ただこれは近衛本人だけでなく第三次近衛内閣の幹部だった東条のせいでもあるため同情する意見も多い。次に首相となる東条が自分で自分の首を絞めた結果(自業自得)とも言える。
- 次の首相(東条英機)を決めるための重臣会議を、病気を理由に欠席している。前の首相だったにもかかわらず、である。
- しかもこの会議、当時91歳の清浦奎吾ですら出席していたので、「その近衛の病気というのは老体の清浦より悪いのか?」と批判されている。
- 側近に尾崎秀実という人物がいたが、この人は実はソビエトのスパイであり共産主義者だった。
- 重光葵と親しかったが、敗戦後は「あの戦争の指導者の中でも近衛は別格に酷い」と厳しく批判されている。
- 今でこそ歴代ワースト宰相の候補として名前が挙がることが多いが、こんな人物でも終戦後しばらくは国民からの人気は高かったのである。
- 終戦直後に誕生した東久邇宮稔彦王内閣では副総理格の無任所国務大臣として入閣していた。そのため戦後の平和な日本に貢献してくれると期待されていたが…。
- GHQから急遽逮捕状が出された際には多くの国民が驚いたという。
- 終戦直後に誕生した東久邇宮稔彦王内閣では副総理格の無任所国務大臣として入閣していた。そのため戦後の平和な日本に貢献してくれると期待されていたが…。
- 政治家としてはきわめて評価の低い文麿だったが、非常に高い教養を持っていたのは事実らしい。
- 弟の秀麿曰く、「哲学者や評論家になっていればあんな末路にはならなかった」らしい。
- 一部の人たちからは「昭和の安倍晋三」と呼ばれているらしい。
- この理屈だと安倍氏が「平成(令和)の近衛文麿」みたいな感じになりそうだが…。
平沼騏一郎[編集 | ソースを編集]
- 右翼団体「国本社」を創設するほどの極右主義者。
- 平沼と正反対のリベラル派・親英米派の西園寺公望とは犬猿の仲だった。
- 一応大東亜戦争が始まってからは同じく首相経験者であった岡田啓介や若槻礼次郎などと協力して東条内閣を倒そうとしている。そのため和平工作に尽力したと評価する声もある。
- しかしその割には降伏反対も唱えており優柔不断で立場が一貫しておらず、昭和天皇からは厳しく批判されている。
- A級戦犯として終身刑になった。
- 刑務所では深夜に大声で泣き出したり、「西園寺公望こそが国を誤った元凶だ!」などと叫ぶなど奇行が目立った。
- 精神衰弱を理由に仮釈放され、その後すぐに亡くなった。
- 刑務所では深夜に大声で泣き出したり、「西園寺公望こそが国を誤った元凶だ!」などと叫ぶなど奇行が目立った。
- 実は司法省の官僚としてはかなり有能だったらしく、犯罪者の指紋登録を考えたのは騏一郎である。
- 今の最高裁判所長官に相当するポジションの大審院長を経験した唯一の首相でもある。
阿部信行[編集 | ソースを編集]
- 平沼騏一郎が退陣した後に「他に相応しい人間がいない」という消極的な理由で首相に選ばれた人物。
- 陸軍の中では良識派であり日中戦争の決着や協調外交を目指そうとしたが、反感を買って半年にも満たずに内閣総辞職。
- 一度はA級戦犯として連合国に逮捕されたものの、目立った罪状を見つけることができず、証拠不十分として釈放された人物。連合国から見ても影が薄い人物だったようだ…。
- 一応学生時代は成績優秀だったらしく、陸軍大学校卒業時には明治天皇から「恩賜の軍刀」を頂いている。政治家にさえならなければ後世の評価は多少はマシだったかも?
- 朝鮮半島では何故か安倍晋三元首相の祖父であると誤解されている(それも一般人だけでなく歴史学者にも…)が、血縁関係は全く無い。
- ちなみに安倍元首相の父方の祖父は安倍寛、母方の祖父は岸信介元首相である。
- 今となっては同姓同名のアニメプロデューサーや、ミニストップの社長を務めた人物の方が有名になってしまっている。
- もっと言えば、声優の柴本浩行の本名でもある。
米内光政[編集 | ソースを編集]
- しばしば山本五十六と並んで「海軍の平和主義者の一人」に数えられることが多いが、正直美化されすぎ。日中戦争を悪化させた責任や首相としての無能ぶりはあまり語られない…。
- 百歩譲って大東亜戦争(太平洋戦争)についてはほぼ陸軍が悪いとしても、日中戦争に関しては海軍にも陸軍と同じくらい責任がある。
- 成績はあまり宜しくなく、学生時代はお世辞にも優等生とは言えなかったらしい。
- 米内の人物像や功績を後世に伝えることを目的とした米内光政会という秘密結社があったが、長い間活動を休止していた。
- 戦争回避を目的として作られた内閣だが、陸軍の抵抗に遭い、僅か半年しか保たなかった。
- 陸軍が陸軍大臣の畑俊六を辞めさせたため、米内内閣そのものが総辞職に追い込まれてしまった。(当時は1人でも閣僚が辞めると首相も辞めなくてはいけないというルールだったため)
- さらに広田弘毅が復活させた軍部大臣現役武官制を陸軍に利用されてしまったのも痛かった。
- なお昭和天皇は「米内内閣があのまま続いていれば戦争にはならなかった」と仰っていた。
「じゃあ昭和天皇が米内を辞めさせなければ良かったじゃん」とは言ってはいけない。
- 陸軍が陸軍大臣の畑俊六を辞めさせたため、米内内閣そのものが総辞職に追い込まれてしまった。(当時は1人でも閣僚が辞めると首相も辞めなくてはいけないというルールだったため)
- 小磯内閣では小磯首相の能力不足を理由に海軍大臣兼サポート役として入閣している。
- しかし戦況の悪化を止めることはできなかった。
- GHQのマッカーサーから手紙が来て「貴方の経歴は全て調べた。貴方を戦犯に指定することは絶対に無い。今度、一緒に東条をいじめようぜ。」と書かれており、後で出席した東京裁判では東条英機に対して不利な証言をしまくった。
- もっともその殆どが事実ではあったのだが…。
東條英機[編集 | ソースを編集]
- 「東条英機」と書くこともある。
- しばしば「太平洋戦争(大東亜戦争)の直前で運悪く貧乏くじを引いて総理大臣になった人」と同情されることが多いが、その不幸の原因を作った最大の元凶がこの人であるということはあまり知られていない…。
- 前任の近衛文麿内閣で陸軍大臣だったのが東条英機。対米戦争に反対していたと誤解されがちだが、事実はその真逆で、むしろ開戦を煽りまくった人。
- しかも太平洋戦争の遠因にもなった日中戦争を強力に促進したのも東条英機。
- そもそも首相になる直前まで強硬派のリーダー格だった人間が首相になってから急に平和主義者になるはずなどないと思うのだが…。
- そもそも東条自身が好戦主義者だったため、「たまたまタイミングは悪かった」は当てはまらないと思う…。
- 前任の近衛文麿内閣で陸軍大臣だったのが東条英機。対米戦争に反対していたと誤解されがちだが、事実はその真逆で、むしろ開戦を煽りまくった人。
- 「ヒトラーと違って独裁者ではない」という意見もあるが、その割には総理大臣だけでなく沢山の大臣を兼務。強力な権力を握っていた。
- また、身内には甘い一方で、少しでも自分に対して批判的な人間に対しては容赦なかった。
- 憲兵を使いまくって恐怖政治を行った。
- 中野正剛のように「実質的に東条に○された」と言っても過言では無い人もいた。(中野は反戦主義者であり東条を批判したため憲兵に逮捕された)
- ついた仇名が「東条幕府」である。
- 陸大の同期だった前田利為とは仲が悪く、首相になった際には彼を最前線に飛ばした。(その後、利為は亡くなった)
- 憲兵を使いまくって恐怖政治を行った。
- また、身内には甘い一方で、少しでも自分に対して批判的な人間に対しては容赦なかった。
- 日本とアメリカの国力の差が非常に大きかったのは事実。にもかかわらず「根性さえあればアメリカも怖くない」と豪語するほどの重度の精神論者。
- 東条が重度の精神論者だったことを示すエピソード。「根性さえあれば1+4=80にもなり得る!」と発言し、「致命的に算数ができない首相」と揶揄された。
- これは「東条英機の算術」とも呼ばれ、戦時下の松下電器産業の社内スローガン「2+2=80」のモデルにもなった。
- 東条が重度の精神論者だったことを示すエピソード。「根性さえあれば1+4=80にもなり得る!」と発言し、「致命的に算数ができない首相」と揶揄された。
- 「極東国際軍事裁判(東京裁判)で昭和天皇を守ったヒーロー」と言われることがあるが実際には東条は全く関係なく、東条がいなくても昭和天皇はアメリカの強い意向で無罪が確定していた。
- それどころか東京裁判で「我々日本人は誰もが天皇の命令に従わなければならない」という超弩級の失言もかましている…。
- 田中隆吉が東条を説得し、アメリカが東条の失言を撤回させたため事なきを得たが、この東条の失言によって昭和天皇を訴追したがっていたソビエト連邦や中華民国が態度を強めたのは事実であり、最悪の事態だと昭和天皇が死刑になってしまう可能性すらあった。
- そもそも東条は後述の自決未遂も起こしているので、「もし仮に自決に成功していたら天皇を守れないじゃないか」と言われたら東条信者は果たして何て反論するのだろうか…?
- それどころか東京裁判で「我々日本人は誰もが天皇の命令に従わなければならない」という超弩級の失言もかましている…。
- 本籍地は岩手県盛岡市で本来ならば「岩手県出身の内閣総理大臣の5人目」と認められるべきなのだが、英機本人は東京都千代田区生まれなので、原敬や米内光政などと異なり岩手県では地元出身の首相とは認められていない…。
- ちなみに英機の父親の東条英教が盛岡育ちである。
- 左翼どころか右翼ですらこの人を高く評価する人はほとんどいないという事実…。
- 故・石原慎太郎氏ですら東条を酷評していた…。
- 全方位からとにかく評価が低い人物である。
- 「昭和天皇からの信頼が厚かった」と言われているが、それは他の陸軍の面子がお粗末な報告しかしなかったのに対し、東条は細かいところまでちゃんと報告してくれるのでその点は見直したってだけ。
- 「東条は開戦回避のために努力した」と言う人がいるが、そんな記録は全く存在しない。海軍の山本五十六や米内光政などは残っているが。
- 「ボンボンの近衛文麿と違って東条英機は立派な人物!」と擁護する人が多いが、そういう人は「英機も陸軍中将の息子なのでボンボンである」ということに気付いていない…。
- しばしばアドルフ・ヒトラーと比較されるが、ヒトラーは貧しい家庭で育ち最終学歴も中卒だったため、おぼっちゃまだった東条英機とは対照的である。
- 大東亜戦争の日本側の最高責任者であったにもかかわらず、米軍に逮捕される直前まで(自分が逮捕される可能性があることすら気付いておらず)「これからは戦後の平和な世の中に貢献したい」などと呑気なことを言っていたのだとか。
- 「東条英機が開戦を回避できなかったために皇居に向かって号泣した」という話が有名だが、孫娘の東条由布子氏(故人)による作り話である。
- ちなみに由布子氏は結婚して一旦別の姓に変わったにもかかわらず、大好きなおじいちゃんの名誉を回復させるためにわざわざ東条姓に戻したらしいw
- ただこれに関しては由布子氏が戦後、学校で壮絶ないじめを受けたというのもあるので、多少は同情の余地がある…、かも?
- 「東条くんのお爺ちゃんは泥棒よりも悪いことをしました!」と当時の担任教師が言ったらしい。
- ただこれに関しては由布子氏が戦後、学校で壮絶ないじめを受けたというのもあるので、多少は同情の余地がある…、かも?
- ちなみに由布子氏は結婚して一旦別の姓に変わったにもかかわらず、大好きなおじいちゃんの名誉を回復させるためにわざわざ東条姓に戻したらしいw
- 政治家ではなく官僚としては有能だったらしく「カミソリ東条」のあだ名があるが、具体的にどんな功績があったのかを語れる人間はほとんどいない…。
- 「同盟国であるナチス・ドイツの手からユダヤ人を守ったヒーロー」と誤解されることが多い。それは杉原千畝氏だろ定期。
- ソ連国境で足止めを食らっていたユダヤ人の満州入国を独断で認めた樋口季一郎の上司だったのだが、当の東条本人は何かしたわけでもなく…。
- とはいえナチスのユダヤ人虐殺に加担しなかったのも事実ではある。この点は普通に偉いと思う。
- 当時東大と並ぶエリート大学と言われた陸軍大学校を卒業しているが、実は留年を繰り返していたことはあまり知られていない…。
- 長州閥が大嫌い。
- 理由は父親が長州閥の連中のせいで出世できなかったため。
- 史実では東京裁判で死刑判決を喰らったが、もし仮に東京裁判が無かったとしても上記の恐怖政治を行った罪などを問われて死刑になっていた可能性が非常に高い…。
- 時々「東京裁判は連合国による復讐劇」だの「茶番劇」だの言って「東条英機は英雄だ!」と擁護する人間がいるが、そもそも東条は日本人から見ても「国賊」と呼ばれても仕方ない人物であり、「東条が始めた戦争で惨敗し餓死者が沢山出た日本で、日本人の代わりに連合国が東条を処刑してくれた」という考え方すらある。
- 東京裁判が日本人の手で行われたとしても彼は極刑を免れなかったであろうという意見もある。
- 歴代首相の中には「あいつはお粗末だった」と言われる人間が何人もいるが、実際に国を潰すレベルの大失態を犯してしまったのは東条英機だけ。
- 「あの鳩山由紀夫氏や菅直人氏ですら、(少なくとも結果論で言えば)日本を焼け野原にした東条英機よりはマシだった」と言われる始末…。
- 悪名高い「戦陣訓」を出した張本人。
- にもかかわらず英機本人は米軍にあっさりと逮捕されてしまった(笑)
- 一応逮捕される直前に自決しようとはしたのだが、成功確率の高い頭部ではなく、心臓を狙ったため失敗した。
- ちなみに敗戦直後に自決した高級軍人は30人以上いた。(その中には夫人も後を追って自決したケースも少なくない)
- 公家の近衛文麿ですら自決を成功させていたため、「貴様はそれでも軍人か!?」と大バッシングを受けた。
- 一応逮捕される直前に自決しようとはしたのだが、成功確率の高い頭部ではなく、心臓を狙ったため失敗した。
- 多くの未来あった若者を無駄死にさせてしまったと言われている。
- にもかかわらず英機本人は米軍にあっさりと逮捕されてしまった(笑)
- 靖国神社には一般の兵士の方々だけでなく東条英機など戦争指導者も一緒に祀られているが、果たして自称右翼さんたちは「不幸にも亡くなってしまった一般の兵士の方々が東条英機のことをあまり快く思っていない」ということを知っているのだろうか…。
- だから歴代天皇は靖国神社に参拝しないのである。
- 「東条英機は昭和天皇の忠臣だった」という人がいるが、そもそも天皇陛下は開戦に反対していたし、その天皇陛下の反対を押し切って開戦したのが東条英機である。どこが忠臣なのだろうか。
- 東条英機を忠臣と言っている人たちは、果たして昭和天皇が本気で戦争をしたがっていたと思っているのだろうか…?
- むしろ東条(だけでなく陸軍全体の話だが)の方が昭和天皇を操り人形のように利用したようにすら思える…。
- 意外にも部下に対しては優しかったらしく、自分の失敗を部下に責任転嫁することはしなかった。一応これは誉められる点かも。
- しかし非常に細かい点まで部下に聞く癖があり、やはり上司にしたら面倒くさい人ではあったと思う。
- 優しかったのはあくまで自分が気に入った部下に対してのみ。実際の東条はパワハラの権化のような人物であり、嫌いな部下に対しては嫌がらせをしまくっていた。
- 決して一部のネット右翼(健全な保守派を除く)が言うような英雄的人物・聖人などでは無いと言っておく。
- よく「東条英機は家族想いの人間だった」とか「東条英機は人格者だった」などと擁護する人がいるが、残念ながらそんなのは政治家としての評価には一切関係ない。
- そもそも東条は身内には甘かったがライバルに対しては陰湿ないじめを平気で行っていたため、お世辞にも人格者だったとは言い難い…。
- ちなみに東条英機の家族や遺族には戦争責任は一切無い。念のため。
- 社会的に極悪人とされている人間でも1つくらいは良い点があるのは常識。あのアドルフ・ヒトラーですら芸術を愛する人という面があったのだから。
- サイパンの戦いで降伏した責任を取って首相を辞任したことになっているが、実際には海軍などによる激しい倒閣運動に勝てなかったために「辞めさせられた」だけ。
- ちなみに東条内閣の商工大臣だった岸信介も東条首相を裏切っている。だから戦犯指名リストから除外されたのである。
- 指導者として余りにも無能だったにもかかわらず恐怖政治を行い権力にしがみついたため、海軍どころか陸軍内でも東条首相暗殺計画があった。もし東条が首相を辞めていなければ敗戦より前に暗殺されていた可能性すらあった。
- 昭和天皇にも見限られたので、流石に諦めたらしい。
- しばしば一部の自称左翼さんが言うような「残忍な独裁者」や「狂人」のイメージとは程遠い人物である。誤解が多いという意味で「ざんねん」な人物でもある…。
- 東条英機の評価が低いのはむしろ「視野が狭く大局観やリーダーシップに欠けていたこと」「独裁者としての能力すら中途半端だったこと」などが理由。少なくともヒトラーやスターリンなどと比べてかなり小物。せいぜいムッソリーニと並ぶかどうかレベル。
- 金銭面ではクリーンな人物であり金権政治の類は一切やっていなかった(これは事実だが、だからといって良い政治家だったと擁護するわけではない)のだが、東京裁判では連合国によって汚職の罪をなすりつけられてしまった。
- 日本がポツダム宣言を受け入れて降伏した際に「国民がこんなに意気地なしだったとは思わなかった。たった2発の原爆で降伏してしまった。」などという、あまりにも無責任すぎるメモを残している。
- 「本土決戦になってでも最後まで戦うべき」と本気で思っていた…。困った人物である。
- 東条信者の中には「東条だけが悪かったわけではない」という人もいるが、そういう人は国政を任されることはどういうことなのか、とか総理大臣の地位や権限、責任をよく分かっていない場合が多い…。
- また東条信者の多くは「東条大将は愛国者だったし私欲も無かった。現代の政治家よりよっぽど立派!」と口を揃えて言うが、そういう人たちはそもそも政治家の評価は結果が全てであるということを理解しているのだろうか…?
- 名前が無駄にカッコ良いため、それがかえって英機のイメージダウンにつながってしまっている印象が強い。
- 西城秀樹氏のモデルだというデマもある。
- なお両氏とも63歳で亡くなっている。
- 西城秀樹氏のモデルだというデマもある。
- 何よりざんねんなのは、こんな人物を未だに美化している輩が一定数存在するということである…。
- 特に5ch、Yahoo!知恵袋、YouTubeのコメント欄、ガールズちゃんねるなどに沢山生息している。
- もっとも、当時のマスコミや国民も東条首相に喝采を送っていたため、東条首相を支持した彼らにも責任はある。
- 一応書いておくが、開戦に至った経緯は複雑であり、全てを東条のせいにすることはできない。
- …が、それを考慮しても東条がやったことは普通に酷い。
- 「他の人が首相になっていたとしても開戦は避けられなかっただろう」という意見が多いが、東条が傷口を広げたのも事実なので…。
- …が、それを考慮しても東条がやったことは普通に酷い。
- 庶民がどのような生活をしているか調査するためにゴミ箱を漁っていた。
- 本来ならば部下にやらせれば良いことを含め、何でも自分でやらなければ気が済まない人だったらしい。
- 「サザエさん」に登場する磯野波平のモデルが東条英機であるというデマもあるらしい…。
- 見た目や性格が似ているから、らしいよ。
- ついでに言うと、娘や孫には甘く、息子には厳しいことも共通している。
- 余談だが長谷川町子美術館と東条邸跡はどちらも世田谷区にあり600m離れていない。
- 見た目や性格が似ているから、らしいよ。
- アメリカとの戦争を避けようとしていた近衛前首相を脅して強硬路線を貫き通した。
- 和平を望んでいた近衛に対し「中国からは撤退しない。アメリカと戦争するぞ!」と横槍を入れた。
- そして「たまには清水の舞台から飛び降りる覚悟も必要だ」と言った。これに対し近衛は「個人として考えるならそれも間違ってはいないが、俺は国家の最高責任者だからそれはできない」と言った。そしたら東條は「性格の違いだな」と笑った。
- 結局、たかが性格の違いで国を潰してしまった。たまったもんじゃない。
- そして「たまには清水の舞台から飛び降りる覚悟も必要だ」と言った。これに対し近衛は「個人として考えるならそれも間違ってはいないが、俺は国家の最高責任者だからそれはできない」と言った。そしたら東條は「性格の違いだな」と笑った。
- 和平を望んでいた近衛に対し「中国からは撤退しない。アメリカと戦争するぞ!」と横槍を入れた。
小磯國昭[編集 | ソースを編集]
- 「小磯国昭」と書くこともある。
- 「東条英機以外なら誰でも良いんじゃね?」という消去法的な理由で選ばれた、太平洋戦争末期の日本の首相になった人物。
- サイパンの戦いでアメリカに負けた責任を問われ辞めさせられた東条英機に代わって首相に選ばれた人物。日本の戦況が悪化した最悪のタイミングで就任した首相である。
- 本当に貧乏くじを引いたのは東条ではなく小磯だと思う。
- アンサイクロペディアにも小磯の項目があるが、項目名が「東條じゃなきゃ良いんだろ」になっていた。
- サイパンの戦いでアメリカに負けた責任を問われ辞めさせられた東条英機に代わって首相に選ばれた人物。日本の戦況が悪化した最悪のタイミングで就任した首相である。
- 流石に小磯だけでは力不足だったためか海軍の米内光政と協力して組閣し、実質的には2人首相という状態だった。
- そもそも元々「東条よりはマシ」程度の認識しか無かったため、大して期待されてはいなかったし能力値もお世辞にも高いとは言えなかった。
- 東条英機の知名度の高さに比べてあまりにも知られていなさすぎる影が薄い首相の一人。
- 最後はA級戦犯に指名され終身刑となった。東条英機などと異なり死刑にならなかったのだけは救いだが。
- 首相に就任した際、日本の戦況がかなり悪化していることに気付いていなかった。
- 小磯内閣は決断が遅く何をするのも非効率だったため「木炭自動車」と揶揄されていた。
鈴木貫太郎[編集 | ソースを編集]
- ポツダム宣言を受諾し終戦へと導いた救国の名宰相と言われている。しかし…。
- ポツダム宣言を一度は黙殺しているためアメリカは激怒。原爆投下を防ぐことができなかった。
- 本当は政治家になりたくなかったらしい。
- 首相になった時には既に77歳であり、ほぼ隠居したも同然であった。
- 鈴木本人も組閣の大命を「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から断り続けたが、最後は昭和天皇から直々に「心境はよく分かるがもう他に人はいない。頼むから信念を曲げて承知してもらいたい」と説得され首相に就任した。
- 首相になった時には既に77歳であり、ほぼ隠居したも同然であった。
- 二・二六事件では死亡こそしなかったものの重傷を負った。
- 頭部・胸部・肩・股に銃弾を浴び一時は心臓も止まる瀕死の重傷だったが、胸部の弾丸が僅かに心臓を外れた事や頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。
- 同姓同名の数学系Youtuberがいるが、これは流石に総理大臣のほうが有名か。