ざんねんな内閣総理大臣事典/昭和時代戦後

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昭和20~44年[編集 | ソースを編集]

東久邇宮稔彦王[編集 | ソースを編集]

  1. 大東亜戦争終戦直後に首相に就任した人物だが、敗戦処理内閣でありGHQに一切逆らえない状況からの状況だったため、(当時としては)最も在職日数が少ない内閣となってしまった。
    • ちなみにこの最短記録は第一次岸田文雄内閣が更新したが、次も岸田氏が首相(第二次岸田内閣)を務めているため、東久邇宮稔彦王が最も在職日数が少ない首相であるという記録は未だに破られていない。
  2. 首相辞任後、戦争責任を問われ公職追放され、さらに皇族から外され一般人に降格。
    • その後は皇族だった頃は比べ物にならないくらい貧乏な生活を送っていたのだとか…。
    • ちなみに皇族出身者で首相になった唯一の人物でもある。
  3. 千葉工業大学という準国立大学の創設者でもあるが、皇族が関わった大学として私立大学に降格させられてしまった。
  4. 一般人になった後は「ひがしくに教」という新興宗教を発足させたが、宗教法人としての認可が貰えず、そのまま解散させられてしまった。
  5. 不運の多い人物だが、一応幸運な面もある。
    • 近衛文麿が首相を辞めた後の後継者候補として名前を挙げられていたが、最終的には東条英機に決まった。
      • これにより、東久邇宮稔彦王はA級戦犯に指定されずに済んだ。
    • 政権こそ短命政権に終わったものの、歴代の日本の首相で最も長生きした人物でもあり、1990年に102歳でこの世を去った。

関連リンク:日本の長寿者

幣原喜重郎[編集 | ソースを編集]

  1. 第44代首相。吉田茂の先輩にあたる人物。
    • 憲法9条の生みの親として知られるが、保守派の方々の間ではこれを批判する声が多い。
  2. 戦間期に幣原外交を行ったことでも有名だが、これが後の日中戦争や大東亜戦争(太平洋戦争)に繋がったという批判が多い。
    • この頃の中国では国民党と共産党の内戦が発生しており、現地で生活する外国人(日本人、アメリカ人など)の生命が脅かされていた。
      • アメリカやイギリスなどは集団的自衛権を行使するなどの強硬姿勢に出たが、日本は弱腰外交を行ったため、自国民を保護できなかっただけでなく、英米からの信用も失ってしまった。
        • 日英同盟の破棄もその結果の副産物。
  3. 戦前から活躍していた政治家の一人だが首相に就任した時には(長い間政界から去っていたのもあり)既に忘れられた存在になっており、「まだ生きていたのか」と言われた。
  4. 実は浜口雄幸が銃撃によって重傷を負っていた頃に首相代理を務めていたのだが、あまり知られていない。
    • また戦後の首相の中で衆議院議長を務めた唯一の人物でもあるが、その割に影が薄い。

吉田茂[編集 | ソースを編集]

  1. 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代目)を5回務め、歴代でも伊藤博文と並ぶ名宰相と呼ばれた人物だが…
  2. ハト派の重鎮であり平和主義者として知られているが、実は短気で喧嘩っ早い人物。
    • 特にマスコミ嫌いで有名であり、カメラマンに対して水をぶっかけたこともある。
    • タカ派でありながら温厚な性格だった岸信介(安倍晋三元首相の祖父)とは対照的。
  3. 実は生まれた時は「竹内茂」だった。これは実の父親の竹内綱が政治犯として逮捕されたため。
    • 竹内綱の友人であった横浜の豪商である吉田健三の家に預けられた。
      • 茂が小学生の頃に養父が亡くなったため、茂は莫大な遺産を手に入れた。
  4. 貧しい幼少期を過ごした伊藤博文や田中角栄などと異なり大金持ちのおぼっちゃまとして育てられたため、高慢で偉そうな性格をしていた。
    • 外務省の官僚だった頃は(当時は今でいう高級外車並みかそれ以上の贅沢品と言われていた)白馬に乗って堂々と通勤し、先輩職員に対してマウントを取ったのだとか。
    • 寺内正毅が首相だった頃に「私の秘書官にならんか?」と問われ、「首相なら務まるが秘書官は務まらない」と答え、寺内を激怒させている。
    • でもこのくらい豪快な人物でなければ敗戦後の日本で連合国と対等に渡り合うことは出来なかったとも言える。
  5. 鳩山一郎(鳩山由紀夫氏の祖父)は永遠のライバル。
    • 鳩山が公職追放を受けていた間、自分の代わりに首相をやるようにと頼まれたため引き受けた。ところが吉田は一時的なピンチヒッターどころかそのまま通算7年も首相を務めてしまったのである。
    • ちなみに吉田の孫の麻生太郎氏も鳩山由紀夫氏とライバル関係。
  6. 実は大東亜戦争(太平洋戦争)末期に憲兵に逮捕されている。吉田が反戦主義者だとされて軍部に危険視されたためである。
    • そして戦後、吉田も知らなかった衝撃の真実が判明する。実は吉田の家にスパイがお手伝いさんとして紛れ込んでいたのである。
      • なおこのスパイは戦後吉田に謝罪するが、吉田は「上司の命令に従っただけでお前は悪くない」と言いこのスパイのことを許したのである。それどころかその後の再就職も手伝っている。
  7. 衆議院解散のバカヤロー解散は中学校の歴史の教科書にも載るほど有名だが、実は大声で叫んだわけでなく、たまたま小声で「馬鹿野郎…」と呟いたのがマイクに拾われてしまったのである。
    • 豪快な性格で有名な吉田のことだから大声で叫んだと誤解している人も多いのだろう。
  8. 選挙区が(竹内綱が育った)高知だったために浜口雄幸と同様に「高知出身の首相」の一人に数えられるが、実は生まれたのは世襲議員の例に漏れず東京であり、さらに育ったのは横浜である。
    • また、坂本龍馬ややなせたかしと異なり(功績が大きい割には)地元では実はそれほど人気があるわけでも無いのだとか。
    • 地元高知県から有力者が陳情しに訪れたが、吉田は「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
      • 一応空港に銅像があったりするので山口県における菅直人の扱いよりまし。
  9. 1951年にアメリカとの間に安全保障条約(日米安保)を結んだが、当初は日本に圧倒的に不利な内容(例えば、アメリカに日本を守る義務は無い、など)だった。
    • これが対等に近い関係になるのは第2次岸内閣まで待たなければならなかった。
  10. 日本の経済復興に専念するため、再軍備に反対していた。

片山哲[編集 | ソースを編集]

  1. 和歌山出身の弁護士、政治家。日本社会党の初代委員長であり第46代内閣総理大臣を務めた人物だが…。
    • 生まれも育ちも和歌山なのに、選挙区が神奈川という理由だけで神奈川出身の首相という扱いになっている。
      • ちなみに藤沢市の名誉市民でもある。
  2. 保守系政党との連立による挙国一致内閣発足を目指したために人事が難航し、最初の9日間は全閣僚を片山1人で務めるという大暴挙に出ていた。
    • 1人内閣はこれ以降も何回かあるが、片山が最長である。
  3. ようやく閣僚が決定した後も与党の足並みが揃わず、それどころか社会党内部でも左派と右派の争いになり、さらにGHQの圧力もあって政権運営が難しくなったため、僅か8ヶ月で退陣した。
    • 後の非自民連立政権(細川護熙、羽田孜両首相)や民主党政権と同類の烏合の衆という評価である。つまりお察しください。
    • ちなみに後に自民党総裁かつ首相になる三木武夫も逓信大臣として入閣していた。
  4. 1949年の衆議院議員総選挙では社会党の議席数が大幅に減ってしまった上に片山自身も落選してしまった。首相経験者であったにもかかわらず、である。
  5. 決断力に乏しく社会党を万年野党にしてしまったため、「ぐずぐずしていた」ことからグズ哲というあだ名がついてしまった。
    • 次に村山富市氏が首相になるまでの47年間、社会党から首相は輩出されなかった。
      • とは言っても村山内閣も首相が社会党委員長ってだけであって実質的に権力を握っていたのは自民党だがね…。
    • それどころか今では日本共産党未満の弱小政党に…。
  6. 社会主義理論を鵜呑みにして国営の公団や公社を作りまくったため、経済面での評価は低い。
    • またこれが後に中曽根康弘氏や小泉純一郎氏の評価を上げてしまうことにも繋がってしまった…。
    • 一応フォローを加えると、失業保険制度を作ったり改正民法の公布、警察制度の民主化を目的とした警察法の制定などの功績もあるにはある。
    • ちなみに公営競技(競馬、競艇、競輪など)を提案したのも片山。
    • 目玉政策だった炭鉱の国有化も骨抜きになってしまった。
    • 厚生省から労働省を分離したのもこの時代(その後再統合)
  7. しばしば社会主義者と言われるが過激な共産主義にはむしろ反対しており、穏健な民主社会主義者であった。

芦田均[編集 | ソースを編集]

  1. 片山内閣の後を継いで首相になるも、昭電疑獄で失脚。
    • 片山内閣よりさらに短い半年あまりの短命政権で終わった。
    • ちなみに片山哲は盟友であり、東大の同級生でもある。
  2. 日本国憲法の審議において第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したが、この解釈をめぐって議論を巻き起こしている。
  3. 実は世界的指揮者の小澤征爾とは親戚である。
    • というかむしろ小澤征爾は知っていても芦田均は知らないという人が多いのでは?
    • もっと言えば、シンガーソングライターの小沢健二とも親戚。

鳩山一郎[編集 | ソースを編集]

  1. 第52・53・54代首相を務めた人物。
    • 由紀夫・邦夫兄弟の祖父でもある。
  2. 戦前は犬養毅と共にロンドン海軍軍縮条約の批准を非難し(統帥権干犯問題)、浜口雄幸首相を攻撃。
    • また、銃撃事件で重傷を負った浜口首相を無理やり国会に出席させたため、結果的に浜口首相が亡くなってしまうことに…。
    • 日本が軍国主義への道へ突き進むことになるきっかけを作った人物の一人と言われている。
    • 他にも「日本人には普通選挙はまだ早い」とも言っていたらしい。
  3. 戦後は公職追放を喰らったため友人の吉田茂に(一時的なピンチヒッターとして)首相就任を頼んだものの、そのまま7年も居座られてしまった。
  4. 首相としてはソビエトとの国交回復と国際連合加盟などの功績を残したが、北方領土問題を有耶無耶にしてしまった。

石橋湛山[編集 | ソースを編集]

  1. 報道畑出身では唯一の総理大臣。鳩山一郎内閣の後を継いで1956年の年末に内閣総理大臣に就任。
    • しかし混戦となった総裁選の影響からか組閣人事で閣僚の人選が遅れ、一時は石橋が臨時代理の形で全ての閣僚を兼任した。
  2. 更に年明けの1月25日に自宅の風呂場で倒れ、医師から「軽度の脳梗塞、2ヶ月の絶対安静が必要」との診断を受けた。
    • 結局1ヶ月後の2月25日に辞任、僅か65日(歴代4番目の短さ)での内閣辞任となってしまった。
  3. 即刻辞任の理由が記者時代に当時の首相が狙撃されて国会に出てこれないのを批判してたから。
  4. 日本国憲法下で一度も答弁や演説をしなかった首相でもある。
    • 岸信介が代理で施政方針演説を行ったため。
  5. 比較的名宰相が多いとされている吉田茂(再登板後)から田中角栄までの歴代首相の中でこの人だけ名前が挙げられない、語られないことが多い。
  6. 一応、ジャーナリストとしては一流だったらしい。
    • 大日本帝国の植民地政策を批判していた。

岸信介[編集 | ソースを編集]

  1. 第56・57代目の首相を務めた人物。
    • 佐藤栄作の兄、安倍晋三元首相の祖父としても有名。
  2. 東条英機内閣で幹部だったため、A級戦犯の一人と言われがち。
    • 実際には岸も東条内閣の倒閣に協力した一人なんだけどね…。
    • アメリカと司法取引したので起訴されなかったという噂もあるらしい…。
  3. 実際には国民皆保険制度を作るなど左派的な政策もやっているのだが、どうしても日米安全保障条約改定のせいで右翼政治家だと思われがち。
    • しかも自衛隊による武力行使でデモを鎮圧させようと本気で思っていた。(当時防衛庁長官だった赤城宗徳が阻止したが)
    • 社会党に入ろうとして断られたこともある。
    • 戦前は「革新」官僚(国家社会主義)の有力者の1人だったから。

池田勇人[編集 | ソースを編集]

  1. 第58・59・60代内閣総理大臣。所属倍増計画を唱え、日本を高度経済成長に導いた名宰相だが…
  2. 実は大蔵大臣だった頃は森喜朗氏に匹敵するほど失言が多く、「貧乏人は麦を食え」や「中小企業の倒産はやむを得ない」など庶民を舐めた発言を繰り返して猛抗議を受けた。
    • 師匠だった吉田茂にすら「お前は何も喋るんじゃねえ!」と叱責されてしまう始末…。
    • しかし首相になってからはそれを逆手にとって、「私は嘘を申しません(正直者です)」とアピールし庶民を勇気づけた。歴代首相の中でもトップクラスの人気を誇った。
    • ちなみに白米よりも麦飯の方が栄養価自体は高いので、おかずを買える富裕層以外は麦飯を食べた方が栄養失調になりにくく脚気の予防にもなっていたため、当時としては正しい論理ではあった。
  3. 実は受験に何回も失敗している。
    • 子供の頃は軍人を目指していたらしく、陸軍幼年学校を受験したが、体が弱いことを理由に不合格となっている。
    • 旧制第一高等学校(現在の千葉大学の前身)を目指して二浪したが結局行けず、第五高等学校(今の熊本大学)に入学。その後、京大法学部に入学し卒業した。
  4. 官僚の中でも少数派の京大卒だったため、東大にコンプレックスを持っていたのだとか。
    • 弟子の宮沢喜一は池田のことは表向きは一応尊敬していたものの、内心では自分より学歴の低いことを馬鹿にしていたという。
  5. 戦前は大蔵省の官僚だったが、京大卒だったことから出世コースから外されてしまっていた。
    • また、落葉状天疱瘡という難病に罹ってしまったため一旦大蔵省を退職してしまっている。
      • しかしそれまで大したことのなかった経歴のおかげで公職追放の対象者にならずに済み、戦後大活躍することができたのである。
  6. 首相在任中に末期癌に罹ってしまい、東京オリンピックの閉会式で首相を辞任することを表明。その翌年亡くなった。
  7. 日本をアジア初の先進国に導いたのは素晴らしいのだが、同時に公害問題や自然破壊などが各地で発生するようになり、この課題は佐藤内閣に引き継がれることとなった。
    • また、農村での人口減少や都市部での人口増加(過密化)も進んでしまった。

佐藤栄作[編集 | ソースを編集]

  1. 第61・62・63代首相。公害対策、沖縄返還、非核三原則などの功績があり、歴代でもトップクラスの名宰相と言われている人物だが…。
  2. 当時としては戦後最長政権を築いた人物だが、これはあくまで大野伴睦や河野一郎(河野洋平氏の父親)などのライバルが亡くなったためであり、栄作本人の人気はそれほど高くなかった。
    • 「栄ちゃんと呼ばれたい」と言っていたが、国民人気も政治家の間での人気も低かったため、呼ばれなかった。
      • もっとも、政治家の評価は必ずしも人気とは直結しないと言ってしまえばそれまでだが。
    • また、河野が亡くなった際には「これで悪い奴は全員死んだ」などという、たとえ自分が嫌いな人のことであっても絶対に言ってはいけないことを言っていたという。
  3. 政界でもイケメンとして知られていたが、同時に癇癪持ちで短気な性格だったため周りからは恐れられていた。
    • 礼儀に関してはかなりうるさく、宮内庁の職員に対して「俺は総理大臣だぞ!」と怒鳴ったこともある。
    • 温厚だった兄の信介や、陽気な性格だった池田勇人とは対照的。
  4. 新聞が嫌いな人物だったらしい。
    • 理由はまだ新人だった頃の佐藤のことを各新聞社が社説で悪く書いていたため。
    • また、佐藤が首相に就任していた頃は海外の政治家(フランスのシャルル・ド・ゴール大統領など)がテレビを通じて国民に直接語りかけており、佐藤も会見場に新聞記者を入れずにテレビ記者のみを入れた。
    • とある新聞記者に「アメリカから沖縄に返還する際に土地原状回復費を日本が肩代わりする」という密約をスクープされたのはこの時期。
      • なお当初は否定されていたが、民主党政権時代に佐藤邸の中から見つかった。
    • 退陣表明の記者会見では新聞記者を批判した挙句「出てください。構わないですよ」と言い放ち、これに毎日新聞の記者が「出よう出よう!」と呼びかけ他の新聞記者全員が退席。誰もいなくなった記者会見室でテレビカメラに向かって一人でしゃべっていた。
  5. 吉田茂の弟子ではあったが、当の師匠はと言うとライバルの池田勇人ばかりをかわいがっており、佐藤はあまり気に入られていなかったのだとか。
    • でも吉田が亡くなった時に国葬を決定したのは佐藤内閣である。
  6. 福田赳夫を後任として考えていたが、田中角栄が田中派を立ち上げたことにより、実現しなかった。

昭和45~63年[編集 | ソースを編集]

田中角栄[編集 | ソースを編集]

  1. 田中眞紀子氏のお父さんで、第64・65代目の首相を務めた人物。
  2. ロッキード事件の裁判で有罪判決を受けたため、大勲位菊花大綬章を貰うことができなかった。
    • 首相を1年以上務めた人物は通常、亡くなった後にこの勲章が貰える(吉田茂など生前に貰った人も一部いる)のだが、角栄は貰えなかった。
    • ただしそれでも新潟では英雄視されており、西山町名誉町民の称号を貰っている。
  3. かつて同姓同名だった少年が田中元首相の汚職事件のせいで風評被害でいじめられた事件があり、それが原因で改名が認められたという事例がある。
    • 小学校でのあだ名は「ロッキード」だったらしい。
  4. 上越新幹線の他、羽越新幹線なども作ろうとしていたが、自身の影響力の低下により後者は未だに実現していない。
  5. 日本列島改造論では周囲の反対を押し切ってまでに箇所づけを行ったことにより、地価の高騰を招いた(無論、オイルショックの影響もあったが)。
    • 皮肉にも、政敵である福田赳夫氏を大蔵大臣に起用し、彼が物価の抑え込みを実施した。
    • 「日本列島改造論」でさらに過疎化や東京の一極集中をさらに拍車を掛けた。
  6. お父さんの田中角次が事業に失敗したため、少年時代は貧しい生活を余儀なくされていた。
    • 高等小学校では体育以外は優等生と言われていたが、家計の事情で旧制中学校に進学することができなかった。
    • 一応、高小卒業後は土木工事の仕事をしながら建築系の専門学校に通っていたんだけどね。
  7. 妻の田中はな(旧姓・坂本)が病弱だったため、娘の眞紀子がファーストレディを務めていた。
  8. 今でこそ国葬に相当するというくらい再評価されているが、死去時は葬儀も自民党・田中家合同葬というシンプルな形になっていた。
    • しばらく表舞台から姿を消してしまい(かといって病床から指示したわけでもなく)、さらにロッキード事件で最高裁に上告中の身だったせい。
    • 一応葬儀には当時の自民党関係者のみならず細川首相や村山社会党委員長も弔問に訪れている。
      • もっとも細川氏は元々は自民党員であり、田中派に所属していたのだが…。
  9. 知名度が非常に高い首相の一人であるがその割に在職期間は約2年半程度であり、当時は「短命政権」と言われてしまった。
    • そのため、首相になる前の功績は大きいが、首相としてはそれほど大きな功績を残してはいない(日中国交正常化くらい)。
    • もっとも、前任や前々任が長期政権だったからってのもあるだろうが…。
    • とはいえ今基準で言えばそれほど短かったとも言えない気がする。
  10. 関東大震災で東京にいる親戚が田中家へ来た際には、彼らから冷たく接して来たという。
    • それで、地元の人々の意見を大事にするようになったとか。
  11. 宴席では飲酒を控えることが多かったが、竹下登らが創政会を設立し、裏切ったことにより、ウィスキーをがぶ飲みしたことにより、脳梗塞で倒れた。
    • 特に実の息子のようにかわいがっていた小沢一郎に裏切られたのはかなりショックだったらしい…。
  12. 公共事業を推し進める政治家、族議員が台頭し始めたのは、彼がきっかけであったと思う。
    • 自ら立ち上げた派閥を「総合病院」と称したくらい。
  13. 実は本人は首相を辞めた後、「二度と首相にはなりたくない」と言っていたらしい。
    • でも「自民党幹事長は何回でもやりたい」と言っていた。おそらく縁の下の力持ちでいる方が好きだったのだろう。
    • それでも、ロッキード事件以降も再び首相の座に返り咲くことを狙っていた(結果的には実現しなかったが…)。
  14. 日本鉄道建設公団の生みの親でもあり、公団の手で開業したローカル線で国鉄の赤字の負担を大きくした。
  15. 大麻唯男から立候補を誘われたが、一度は断った。
    • 二度目の誘いで引き受けたらしい。
  16. 吉田茂は「いつも刑務所の塀の上を歩いているような危ない男だ。」と評していた。

三木武夫[編集 | ソースを編集]

  1. 1970年代前半は田中角栄と人気を二分するほどの大物政治家だったが、角栄と異なり今はあまり人気が無い。
    • 当時はあの角栄が「政治のプロは俺と三木だけ」と言っていたほど。
      • 角栄もかつては三木を信頼しており、自身の内閣に副総理兼国務大臣として入閣させていた。
  2. 三角大福の一人だったが、他の3名に比べて派閥が小さく、しかも異質だと考えられることが多い。
    • 大きな勢力とは常に対立関係にあり、小規模な政党や派閥を渡り歩いたことからバルカン政治家というあだ名がついた。
  3. 田中角栄のライバルとして有名だが、同じく角栄のライバルだった福田赳夫とはそれほど親密な関係では無かった。
    • 田中角栄と大平正芳が親密だったのとは対照的。
    • 実際、三木内閣では福田は三木と対立し、角栄や大平に協力したことで角福戦争は一旦休戦したほどである。
      • ちなみに福田が三木と対立したのは、福田が三木内閣のロッキード事件の対応を批判したからである。
  4. クリーンな政治家と言われたが、これはあくまで親戚が裕福だったから本人が政治資金を稼ぐ必要が無かったってだけ。
    • 自分で稼ぐ必要があった角栄とは事情が異なる。
    • 三木の妻が大物実業家の娘だった上に、三木の派閥にも実業家から政治家になった人物が多い(河本敏夫など)。
    • そして三木内閣の数少ない功績は政治資金規正法を大幅に改正したこと…、くらい。
  5. 1975年に前々任の首相だった佐藤栄作の国民葬に参列する直前に、右翼に殴られる事件があった。
    • この事件がきっかけとなって首相などのVIPを守る警察官(SP)が配置されることが決められた。
  6. 毀誉褒貶が非常に激しい政治家の一人であり、革新寄りの学者・ジャーナリストからの評価はまあまあ高いが、保守寄りの言論人からの評価は低い。
    • 政治浄化に一点集中し過ぎたせいで経済や外交といったより重要な課題が疎かになったという批判も多い。
      • そして自民党の団結力低下も招いてしまった。
  7. 靖国神社問題に火を付けた張本人と言われている。
    • 理由は1975年の終戦の日に参拝した際、(公人ではなく)私人として参拝したと強調したため。それでマスコミから叩かれまくった。
      • 「公用車では無く私用のタクシーで行ったからセーフ」と考えていたらしい。
    • そもそもリベラル寄りの政治家でありながら靖国に行ったのは、三木の派閥が小さかったために人気取りに走ったのが大きい。
      • 保守派の福田赳夫や石原慎太郎、中川一郎などを味方につけようとしたというのが実情。要はパフォーマンスである。

福田赳夫[編集 | ソースを編集]

  1. 福田康夫氏のお父さんで、第67代首相を務めた人物。
  2. 派閥的にはタカ派の岸信介の後継者なのだが、ダッカ事件の対応で非難を浴びた。
    • 「テロに屈した総理」という汚名が残ってしまった…。
    • 一応、田中角栄が対処できなかった狂乱物価を抑え込んだり、東南アジア諸国連合(ASEAN)との友好関係を築くなどの功績もあるにはあるが…。
    • ちなみに福田の派閥が後に清和会(森喜朗氏などの派閥)になる。また、同じ清和会の小泉純一郎氏はかつて福田の秘書を務めていた。
  3. 池田勇人との関係は険悪だった。
    • これは福田が過度にインフレを嫌った人物であり、池田が首相だった頃は彼の所得倍増計画に反対していたため。
      • もし福田の考えが本当に成立していたら、日本は永遠に先進国になれなかったかもしれない…。
    • 田中角栄の「日本列島改造論」にも批判していた。
  4. 三角大福中の一人だが、田中角栄ほどの大物感は無い…かも?
    • ただし福田の地盤だった群馬では未だに根強い人気を誇っており、同郷の中曽根康弘よりも格上扱いされている。
  5. 某韓国系宗教団体のトップを会合で「アジアの偉大な指導者」とべた褒めしたことはもはや×××…。
  6. 佐藤栄作氏から後継者として、注目されていたが、演説が下手で1972年の総裁選で田中角栄氏に敗れた。
    • さらに言えば、同郷の中曽根康弘や小渕恵三が福田では無く角栄を支持していたのも大きかった。
    • 多数派工作をせず、佐藤栄作からの禅譲を期待しすぎたのも原因。
  7. 中国とズブズブだったのは角栄と同じ。
    • だが角栄はバリバリの反派であり北方領土問題にも真剣に取り組んでいたのに対し、福田にはそういった実績はほぼ無い。
  8. 日中平和友好条約を結ぶ際に尖閣諸島問題を棚上げにしてしまった。
  9. 元々は親台派・親米派だったが、田中・三木内閣から課題を引き継いでしまい、結果的に台湾を裏切り東側諸国と仲良くせざるを得なくなってしまった。
  10. 日中友好平和条約の調印などにより、実績を積み上げ、内閣支持率も持ち直した中で、総選挙で田中派の支援を受けた大平正芳に負けた。

大平正芳[編集 | ソースを編集]

  1. 香川出身の政治家。三角大福の一人だが、政権基盤が他の3名に比べて弱かったため、自民党総裁・首相の座は最後となってしまった。
    • さらに盟友の田中角栄の影響力が非常に強かったため、後継の鈴木善幸政権と共に角影内閣と呼ばれた。
  2. 政界でも随一の知性派で先見の明があり、素晴らしい考えを沢山持っていた人物だが、権力闘争が激しい時代に首相に就任したため、あまり功績を残すことができなかった。
    • 一般消費税導入や田園都市構想は大平の構想だったが、実現しなかった。(ただし前者は後の竹下登政権で実現済み)
    • またかつて田中内閣の外務大臣であり日中国交正常化を実現した人物であったことから親中派のイメージが強いが、それ以上に日米同盟の強化を訴えていた人物であり、後の中曽根康弘政権の親米路線にも繋がっている。
      • アジア太平洋経済協力会議(APEC)も大平が提唱した環太平洋連帯構想がモデルとなっており、外交面での評価は高い。
  3. 元々心臓に持病があった上に権力闘争による過度のストレスから心筋梗塞を発症し、首相在任中に亡くなってしまった。
    • 現職総理の死去は犬養毅が暗殺された五・一五事件以来である。
    • 皮肉にも、亡くなったことで分裂の危機に瀕していた党が結束し、直後の衆参ダブル選挙で自民党が圧勝した。
  4. 甘党で、酒豪が多い宏池会の中では、珍しく酒はあまり強くなかったらしい。
  5. 佐藤栄作からはあまり気に入られておらず、佐藤内閣では三角大福の中で最も冷遇されていた。
    • 通商産業大臣として日米繊維交渉の解決を命じられるが失敗し、クビになっている。
      • ちなみに大平のライバルの宮沢喜一が後継となるがこちらも失敗。最終的には田中角栄が話をまとめた。
    • 上司に対してもはっきりと物申す性格だった(一応フォローを加えると、これは政治家としては必要な要素ではある)ため、プライドの高い佐藤からは嫌われていたそうだ。
  6. 失言を避けるために慎重に話すようにしていたが、それが原因となってあーうーという口癖がついてしまった。

鈴木善幸[編集 | ソースを編集]

  1. 岩手の網元の家に生まれた政治家。大平正芳の急逝に伴い首相に就任するも、海外での知名度は低く、「Zenko?Who?」と言われてしまった。
    • 大平派の2番手であり田中角栄と仲が良かったことから首相に選ばれた。要は角栄の都合で選ばれたのである。
      • 中曽根康弘、宮澤喜一、河本敏夫も後継者候補になってはいたのだが、いずれも除外されてしまった。(特に宮澤は角栄や大平から嫌われまくっていたのが大きかった)
  2. 実は最初は社会党に在籍していた。
    • 学生時代に共産主義的な思想を持っていたことから就職活動では苦戦していた…。
    • 後に同郷の小沢佐重喜(小沢一郎氏のお父さん)に誘われて自民党に入った。
  3. 元々社会党出身であったためか外交や安全保障の分野は苦手であり、「日米同盟は軍事同盟では無い」などの失言が少なくなかった。
  4. この人が首相になってから、首相が小粒化していった気がする…。
    • 三角大福の時代までは然るべき経歴や実力を持った者のみが首相になっていたが、善幸が首相になってからは平凡な人物でも総理の椅子に座れるようになってしまったと言われている。
  5. 東北新幹線を善幸の地元の盛岡駅まで引っ張ってきたのは良いが、盛岡駅以北の開業が大幅に遅れてしまった。

中曽根康弘[編集 | ソースを編集]

  1. 第71・72・73代首相を務めた人物。
    • 戦後では安倍氏、佐藤、吉田、小泉氏に次いで5番目に長い政権であり、外交面ではサミットの主導権を握るなど大きな功績を残したと言われるが…。
  2. 初の内務官僚出身だったためか経済に関しては批判されている面が多い。
    • 大平内閣では消費税やグリーンカード(今でいうマイナンバーみたいなもの)の導入が検討されていたが、これを誤魔化して新自由主義的な経済政策を行ったためバブルが発生し、これが崩壊して経済がおかしくなったと言われている。
      • 日本をアジアの盟主の地位から陥落させた戦犯の一人とも言われている。
      • 地方から東京への一極集中を加速させた人物でもある。東京の地価が異常に上昇した。
    • 功績と言われる国鉄(今のJR)の民営化に関してもメリットはあったものの「鉄道の安全をもっと重視してからやるべきだった」という意見が多い。
  3. 大物の首相経験者だったにも関わらず、選挙では同じ旧群馬3区の福田赳夫に勝ったことが一度も無い。
  4. 小泉純一郎から引退勧告を受けた際に激しく抵抗した。
    • ちなみに小泉首相は宮澤喜一に対しても引退勧告を出していたが、宮澤氏の方はすんなり受け入れていたという。
  5. 元々は田中角栄の舎弟みたいな扱いだったのに、いつの間にか平成の元老のようなポジションになっていた。
    • その田中角栄とはあまり仲が良くなかったらしい。

竹下登[編集 | ソースを編集]

  1. かつての師匠だった田中角栄を裏切り経世会を立ち上げ、その後10年以上自民党内の最大勢力を維持した人物。
    • 自身の門下から2人(橋本龍太郎氏、小渕恵三氏)も首相を輩出しており、政治屋としては超一流と言われていたほど。
      • 後に自民党を離れた人物を含めるなら羽田孜氏も。
      • 「政治屋としては一流だが政治家としては二流」と言われることも多い。
  2. しかし竹下内閣は超不人気内閣であった。というのも消費税を導入した政権だったし、さらに戦後最大と言われた汚職(リクルート事件)もあったためである。
    • 一方、平成の元号を発表した小渕官房長官は人気者だったが…。
    • もっとも、消費税の構想自体は10年前の大平政権の頃に既にあったんだけどね。
  3. 孫のDAIGOの方が有名人かもしれない。
    • さらに漫画家の影木栄貴氏も孫であり、DAIGOの姉でもある。
    • DAIGOの学生時代に消費税が導入されたため、彼は同級生や教師から「お前のおじいさんが消費税なんか導入しやがって」と大ブーイングを受けたとか。
  4. 角栄からは「俺の悪いところばかり真似した」として酷評されていたらしい…。
  5. 若い頃は地元島根で中学校教師(教科は英語)を務めていたが、これは当時所属していた青年団の活動が夕方になるため昼間は暇人になってしまうためという理由だった。
  6. 温厚な性格だったと言われるがこれは政治家としてある程度成長してからの話であって、若い頃は頑固者だったという。
    • 最初の妻(政江)と大喧嘩し、自殺に追い込んでしまった。登は後悔した。
    • 後述するが、(主に学歴の件で)宮澤喜一に対しては激怒したこともある。

関連項目[編集 | ソースを編集]