ざんねんな力士事典

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あ行[編集 | ソースを編集]

安藝ノ海節男[編集 | ソースを編集]

  1. 双葉山の70連勝を阻止したということだけで横綱になったような力士。
    • 優勝も関脇時代の1度だけ。
    • 地元の広島でもあまり知られてないような印象がある。
  2. 親方時代に経営していたちゃんこ店の地下にキャバレーを出店させたことや離婚問題のせいで協会にいられなくなった。
  3. 戦後の混乱期と言う事情はあったが、昭和20年秋場所で横綱で皆勤しながらも負け越し(4勝6敗)を記録している。

曙太郎[編集 | ソースを編集]

  1. 外国出身力士として初めて横綱になり11回の優勝を重ねたがなぜか全勝優勝は一度もできなかった。
  2. 足が長い体形だったため下半身がもろいという弱点があった。
    • 平成初期の相撲本でも「曙は重心が高く小錦ほど出世できるかどうか不安」と書かれたこともある。
  3. 相撲協会退職後は総合格闘技に転向したがさっぱり勝てず「マケボノ」と揶揄された。
  4. 2017年に心不全で死の淵をさまよい記憶のかなりの部分も消えてしまった。

朝潮太郎(3代目)[編集 | ソースを編集]

  1. 奄美諸島出身だったが日本復帰前に密航して入門したためしばらく神戸出身を装う羽目になった。
  2. 横綱昇進後は調子のムラが激しく「強い朝潮と弱い朝潮がいる」と揶揄された。
    • 大阪場所に強く、4回の優勝の内3回が大阪場所で「大阪太郎」の異名もあった(横綱昇進を決めたのも大阪場所)。
    • 反面、東京場所の優勝はゼロ(残りの1回の優勝は九州場所)。
  3. 還暦土俵入りで使う赤い横綱をもらい楽しみにしていたが前年に急逝してしまった。
    • 一説によると体を鍛えるために無理なトレーニングをしていたのが原因だとか。
    • 弟子の小錦や南海龍がトラブルを起こしたことによる心労が原因とも。

朝青龍明徳[編集 | ソースを編集]

  1. 00年代の大相撲を代表する名横綱だったが土俵外での不祥事のイメージが強い。
    • 引退原因も一般人への暴力行為だった。
  2. 土俵上での振る舞いも物議をかもすことが多かった。
    • これによって、マスコミから「大ヒール」の烙印を押される羽目に。
  3. モンゴル人だったことが日本人の横綱審議委員や好角家の心証を悪くさせたように思えて仕方がない。
  4. Twitterの日本語があまりうまくない。
    • 「仕事何でもやる!」というツイートに「アルバイトですか?」というリプライが来た際には「アホ死ね」と返したことも。

朝ノ霧満[編集 | ソースを編集]

  1. 平成12年夏場所7日目、対千代白鵬戦で取組中に廻しが急に緩み、行司の待ったも間に合わずに×××が露わになってしまった。
    • 審判長から物言いがついた後「東方力士(朝ノ霧)の前袋が落ちたので西方力士(千代白鵬)の勝ちとします」と場内に説明され、朝ノ霧は反則負け(不浄負け)となった。
      • 大正6年夏場所3日目、十両・男嶌と幕下・友ノ山との対戦で男嶌が喫して以来、実に83年ぶりの珍事だった。
  2. この取組は翌日の日刊スポーツの一面トップに掲載、ロイター通信によって世界に打電されてしまった。
    • その記事で打たれた大見出しいわく→「決まり手は モロ出し」
  3. そのショックからか、当該場所は1勝6敗と大敗を喫し、それから1年も経たずに引退。

阿覧欧虎[編集 | ソースを編集]

  1. 身長187cm、体重156kgという立派な体格の割には引き技・立ち合いの変化が多く、生涯戦績のうち最多の決まり手が叩き込みだった。
    • しかも叩く際に相手力士の髷に指が入る癖があり、幕内ワーストとなる3度の反則負けを記録してしまった。
  2. 師匠の三保ヶ関(元大関の2代増位山)が審判副部長を務めていた頃は優遇とも取れるほどの番付運にも恵まれていた。
    • 2010年春場所では西前頭2枚目で1勝14敗も、次の夏場所は僅か7枚半落ちただけの東前頭10枚目。
    • 2010年九州場所では東小結で4勝11敗したのにも関わらず、翌2011年初場所は3枚落ちただけの東前頭3枚目。
  3. 2013年秋場所を最後に所属の三保ヶ関部屋が師匠の定年により閉鎖となると春日野部屋へ移籍したが、場所後の10月に突如引退届を提出しそのまま引退となってしまった。

維新力浩司[編集 | ソースを編集]

  1. 十両屈指の人気力士で西筆頭まで出世したが惜しくも入幕はできなかった。
    • 曙や若花田を破ったこともあるだけに平幕の実力はあったと思われる。
  2. プロレス入りした後も名前のわりに維新軍や長州力とは一切縁がない。
  3. あまりの小兵ゆえに付け人を連れて飲みに行った際に自らが付け人と間違われた。

板井圭介[編集 | ソースを編集]

  1. 大乃国から3つの金星を奪っているが、何れも綺麗に勝ったとは言えない相撲内容だった。
    • 板井の引退後の年寄襲名が認められなかった一因とも言われている。
      • 大乃国本人は板井のことを心底嫌っており、引退後のインタビューで「1人顔面を張ってくる力士(板井)がいた。あまりに腹が立つので組み止めたら両肘を極めて、土俵の外に出さずにそのまま腕を折ってやろうかと思ったほどだ」と語っている。
  2. 1991年7月場所で幕内全敗(0勝15敗)を記録してしまった。
    • その次の9月場所限りで現役を引退したが、何故か年寄名跡の襲名は認められなかった。
  3. 引退後に八百長を告発し物議を醸した。
  4. 高校時代に痛めた膝の影響があったとはいえ稽古態度は悪かったらしく、元横綱栃ノ海の中立親方にある時の巡業で「ちょっとは稽古しろ」と促されると「自宅のベランダで四股を踏んでますよ」と反論したという。

か行[編集 | ソースを編集]

魁皇博之[編集 | ソースを編集]

  1. 最高優勝5回、大関在位65場所という記録を残しているがとうとう横綱には上がれなかった。
    • 特に平成16年九州場所(先場所優勝→優勝次点)の後には理事会で賛成多数だったが北の湖理事長の意向により横審への諮問が見送られた。
  2. 地元福岡での九州場所では毎年大声援を送られていたが優勝は一度も果たせなかった。
  3. 怪力すぎて握力計やホテルの手すりなどを破壊してしまったことがある。
    • 特に酒が入ると危険だったと伝えられる。
  4. 彼の功績から博多から出身地である直方を結ぶ特急「かいおう」が創設されたが、肝心の一番列車の出発式には体調不良で出席することができなかった。
    • ちなみに引退して浅香山を襲名したが「かいおう」の名前は変更されず今も残っている。

笠置山勝一[編集 | ソースを編集]

  1. 出羽海一門で打倒双葉山の参謀役を務めたが本人は17回戦って一度も勝てなかった。
    • 奇策を考えても土俵に上がれば雰囲気に呑まれて出せなかったとか。
  2. 晩年は専門誌に自伝小説を連載していたが本人の死去により完結できなかった。

柏戸剛[編集 | ソースを編集]

  1. 第47代の横綱。同時に横綱へ昇進した大鵬と共に「柏鵬時代」を築いたが、怪我や病気に泣き優勝回数は僅か5回にとどまった。
    • ただし横綱在位記録は輪島と並んで7位タイの47場所、優勝次点の成績は15回も残していたので「弱い横綱」と評する人は少ない。
      • もっとも横綱在位が長かったのは同い年の栃ノ海・佐田の山らが先に引退し、自らが引退すれば横綱が大鵬一人になる事情からだったのだが…。
    • 大鵬との対戦成績は最後に5連敗を喫するまでは16勝16敗と全くの五分だった。
  2. 1969年7月場所3日目の朝登戦を最後に現役を引退し、年寄鏡山を襲名。幕内通算成績は599勝で通算600勝にはあと一つ届かなかった。
  3. 引退後は1982年から1994年まで審判部長を12年間も務めたが、「物言いの際に経過を説明しない」「微妙な勝負に物言いを付けない」「旭富士の横綱昇進を中々答申しなかった」と素人筋からの評判は散々。

金城(栃光)興福[編集 | ソースを編集]

  1. 北の湖・2代若乃花(若三杉)・麒麟児・大錦らと共に「花のニッパチ組」と呼ばれ期待さていたが、北の湖とは29回対戦して遂に一度も勝てなかった。
    • 北の湖戦29連敗は同一力士に対する連敗ワースト記録となっている。
    • それ以外にも対2代若乃花は2勝29敗、対三重ノ海2勝17敗、対輪島2勝15敗と上位陣に滅法弱かったのが響き、三役には定着できなかった。
    • 因みに1982年の日本大相撲トーナメントでは準決勝で北の湖、決勝で2代若乃花をそれぞれ破って優勝を果たしている。
  2. 1987年5月場所で東十両12枚目の地位で2勝13敗と大敗し幕下陥落が濃厚となり、場所後に現役引退を表明。
    • 年寄として角界に残れる資格は満たしていたが、金銭トラブルや日本国籍を持っていないことが響き廃業となってしまった。
  3. 廃業後は愛知県で相撲料理店を出店していたが、2002年12月に心筋梗塞のため49歳の若さで亡くなってしまった。

稀勢の里寛[編集 | ソースを編集]

  1. 14年ぶりに誕生した日本出身横綱だったが、昇進初の本場所(平成29年3月場所)で優勝した後、怪我が多いため8場所連続休場や横綱ワーストの8連敗(不戦敗除く)もあり、横綱としては長くはなかった。
    • 日本出身だから昇進できたような気がしてならない。
  2. 2場所連続優勝をしたがその際の怪我を引きずってしまい、無理をして出場→連敗で怪我が悪化し休場という悪循環に陥っていた。
  3. 某バーチャルYoutuberとの同一人物説が噂されていたことが一時期あった。

北の湖敏満[編集 | ソースを編集]

  1. 全盛期はとにかく強すぎてかえって人気がなかった。
    • 自分が破った相手に一切手を貸さなかったことも響いている。
    • 横綱時代でも1場所に何日か一切懸賞が付かない取り組みがあった。
    • 当時ネットがあればどれほど叩かれていたか想像もつかない。
    • 70年代後半には嘗ての流行語だった「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、子供が嫌いなものとして「江川・ピーマン・北の湖」と揶揄されていた。
  2. 現役末期は両国国技館の土俵に上がるためボロボロの体で現役を続けたため休場が多かった。
    • そこまでして迎えた昭和60年初場所でも1勝もできず引退した。
  3. 理事長としても実績を残したが激務がたたり62歳で早世してしまった。
    • 相撲協会史上初めて理事長に2回就任したが、2回とも任期を全うできなかった。
  4. 現役時代(おそらく関取になる前)に部屋の近くで騒いでいる酔っ払いを追い払おうとして逆に凄まれて逃げ帰ったことがある。
  5. 歴代横綱で唯一、取的時代に全敗を経験している。
  6. 強い相手にはとことん強かった(金城/栃光には29戦全勝、豊山にも21戦全勝)が、何故か朝汐→朝潮とは相性が悪く7勝13敗と苦手にしていた。

旭鷲山昇[編集 | ソースを編集]

  1. モンゴル人初の関取となり大相撲とモンゴルの懸け橋となった人物だが同郷の後輩である朝青龍とはトラブルもあった。
    • その件で朝青龍に車のサイドミラーを壊されたこともある。
  2. 引退の原因に暴力団が絡んでいる。
    • モンゴルの金鉱山利権を二つの暴力団に二重に売ってしまったらしい。
      • 所属していた大島部屋に車が突っ込むという事件も発生している。
    • もっともその件がなくとも心臓がボロボロでこれ以上の現役続行は不可能だった。

久島海啓太[編集 | ソースを編集]

  1. 高校・大学時代に様々なタイトルを獲得したが、角界入りすると腰高で脇の甘い取り口からか三役への昇進は果たせなかった。
    • 平成5年春場所13日目の旭道山戦で、立合いから旭道山の強烈な張り手を一発喰らい土俵の中央で崩れ落ちてしまった。
      • 全体的に番付運にも恵まれなかった。
      • この旭道山戦、実はあのレオパルドンを凌ぐ最短KO記録であったことが判明。(レオパルドンは0.9秒、久島海は0.8秒でKO、水曜日のダウンタウン調べ)
      • 久島海はここまで7勝していながらこの時に膝を打ってしまい休場。負け越してしまい三役昇進のチャンスを逃してしまった。
  2. 引退後は田子ノ浦部屋を創設し、碧山を幕内まで育て上げたが2012年2月に急死。
    • 部屋を継承する親方もおらず田子ノ浦部屋は閉鎖、所属力士は出羽海部屋と春日野部屋にそれぞれ移籍した。

蔵間龍也[編集 | ソースを編集]

  1. 高校を中退し双葉山の時津風部屋に入門するも、直後に師匠が死去したため双葉山最後の弟子となってしまった。
  2. 腰痛に悩まされ思うように活躍できず、「善戦マン」と揶揄された。
    • 北の湖とは17回対戦したものの一度も勝てなかった。
      • 関脇までしか昇進できず、天覧相撲で昭和天皇に「蔵間は必ず大関になります」と大見得を切った春日野理事長の顔を潰してしまった。
  3. 白血病が発覚し引退、芸能界に転身し人気タレントになったが、優勝予想がいつも外れてしまうため現役力士から「俺が優勝するって言わないで下さい」と文句を言われることもあった。
  4. そんなこんなありながらも芸能人として活躍の場が広がりつつあったが、白血病が悪化し42歳の若さで急逝。
  5. 現役時代に四股名を地元・滋賀県の三上山の異名である「近江富士」へ改名する案が持ち上がったが、運悪く三上山で深刻な害虫災害が発生し、縁起が悪いということで立ち消えになってしまった。
    • 地元の後援会が「近江富士は低い山でスケールが小さい」と猛反発してお蔵入りになったという説もある。

高鐵山孝之進[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代はスピード感のある押しや左四つ、タイミング良く決まる引き技を得意としており、1967年初場所には自身最高位となる関脇に昇進。
    • もっともこの場所は3勝12敗と大きく負け越し、1場所で前頭へ逆戻り。
    • 結局三役はこの1場所のみに終わり、小結の経験がないまま現役を終えてしまった。
  2. 現役晩年は幕内と十両の往復を繰り返し、1975年初場所を最後に32歳で現役を引退。
  3. 引退後は年寄・大鳴戸を襲名し同年10月に大鳴戸部屋を創設。
    • 実業団相撲のホープだった板井は小結、維新力も十両まで昇進したが両者とも相撲協会には残れず。
    • 最後は借金問題もあり1995年1月限りで廃業。部屋の力士・行司は桐山部屋へ移籍した。
  4. 廃業後の1996年に八百長や脱税などの角界の問題を告発する暴露本を出版したが、発売直前の同年4月に重症肺炎と心不全により愛知県内の病院で死去。
    • 暴露本の発売を援助した後援者の橋本成一郎も同じ日に同じ病院で同じ病気で亡くなったため事件性も疑われたが、結局病死として処理された。

琴錦功宗[編集 | ソースを編集]

  1. 速攻を持ち味として大関の有力候補とされたが自らの不祥事や怪我のため関脇止まりだった。
    • 一部からは八百長で儲けるためにあえて大関昇進を回避していたのではないかとすら疑われたこともある。
  2. 引退後は15年にもわたり借株でしのぎ続けた。

小錦八十吉(6代目)[編集 | ソースを編集]

  1. とにかく巨体すぎた。
    • 昭和61年夏場所の北尾(後の双羽黒)戦でつり出そうとしたら自然と鯖折りになってしまい膝を強打し重傷を負った。
    • 飛行機のトイレに入りきらなかったという証言もある。
    • ヨーロッパ巡業の際に訪れたある宮殿でも一人で階段を登れなかったらしい。
  2. 順調に番付を上げていた頃には「黒船襲来」と恐れられたがとうとう横綱になれなかった。
    • 特に平成3年から4年にかけては3場所合計38勝(優勝2回)という成績を残したが連覇でなかったため昇進を逃した。
    • しかもその件に絡んで付け人に問題発言を捏造され一時は自殺すら考えたという。
  3. 現役最後の場所となった平成9年九州場所では千秋楽に家族を呼んでいたがその前に負け越して休場させられてしまった。

小役丸勇走[編集 | ソースを編集]

  1. 1934年5月場所で初土俵を踏み、順調に番付を上げ6年後の1940年5月場所で十両に昇進。
  2. しかし左踵の怪我の影響で8日目(布引に負け)のみの出場に終わり、9日目の不戦敗以降は再出場の無いまま幕下へ陥落。
  3. 幕下陥落直後に応召し、復員することなく1942年1月場所前に25歳の若さで廃業してしまった。

さ行[編集 | ソースを編集]

勝南桜聡太[編集 | ソースを編集]

  • 服部桜祥多→太志
  1. とにかく弱すぎることで知られた。
    • 2015年11月場所の初土俵から22連敗し、4場所目となる16年5月場所にて23戦目で初勝利を挙げたものの、そこから89連敗と丸2年白星なし。
    • 18年7月場所の2勝目は相手の腰砕けだった。2019年1月場所には3勝目を挙げる。
    • しかしここからまたしても全く勝てなくなる。2021年には「勝南桜」に改名したものの効果はなく、連敗記録をさらに104連敗まで伸ばし、同年9月場所前に引退した。

新海幸藏[編集 | ソースを編集]

  1. しつこい足癖で鳴らし「タコ足の新海」とも呼ばれた力士だが、気性が荒く酒が入ると手がつけられなかったため、力士仲間からは嫌われていた。
  2. 1937年の九州巡業中に、酒に酔って先輩力士をビール瓶で殴ってしまい強制引退。
    • 引退相撲でも祝儀の分配を巡って師匠の出羽海と揉め、師匠を殴ったと言われている。
  3. 廃業後は様々な事業に手を出したが全て失敗し、晩年は川崎のアパートに移り住んで一人暮らしをしていた。
    • 最期も自身が吸っていた煙草の不始末からアパートを全焼させる火災を起こし、自分の部屋で焼死してしまった。

た行[編集 | ソースを編集]

大輝煌正人[編集 | ソースを編集]

  1. 中学3年次に中学生横綱、近畿大学4年次には学生横綱となり、鳴り物入りで武蔵川部屋に入門。
  2. 1990年3月場所に幕下最下位格付出で初土俵を踏み、同年9月場所では7戦全勝で2度目の幕下優勝を果たし、場所後に十両へ昇進。
    • 新十両となった11月場所でも勢いは止まらず、11勝4敗で優勝。
      • 番付の良さや幕内の定員増員もあり、年6場所制では史上初めて十両を1場所で通過し、翌1991年1月場所で新入幕。
  3. しかし同場所の直前に足を痛めてしまい、5勝10敗と負け越して1場所で十両に陥落。
    • その後は度重なる怪我の影響で十両と幕下の往復が続き、1993年5月場所を最後に26歳の若さで現役を引退。
  4. 引退後は自動車整備士に転身したが、2009年に脳出血のため41歳の若さで亡くなってしまった。

大鵬幸喜[編集 | ソースを編集]

  1. 誤審で連勝を止められた。(昭和44年春場所2日目)
    • なおビデオ判定の導入は翌場所からの予定だった。
    • あの戸田戦が正しく判定されていたら50連勝は間違いなかったという相撲ファンは少なくない。
  2. ライバルだった柏戸とともに拳銃密輸事件で書類送検されたことがある。
    • 当時はあまり騒がれなかったが没後に某新聞が蒸し返すような記事を載せたこともある。
  3. 引退後には脳梗塞で倒れ後遺症が残ったため理事長への道を閉ざされた。
  4. NHKの相撲解説としては差別発言を複数回してしまったことがある。
  5. 現役時代にタニマチからプレゼントされたヨーロッパ旅行に行った際になぜか女性と間違えられたことがある。
    • 髷が日本髪に見えてしまったのではないかと思われる。

隆の里俊英[編集 | ソースを編集]

  1. 糖尿病を克服して横綱になり千代の富士のライバルとも目されたが病魔により本来の実力を発揮しきれず引退。
    • 最高優勝4回というのは明らかに少なすぎる気がする。
      • 但し4回の優勝のうち2回は全勝優勝。
  2. 鳴戸親方としては稀勢の里や高安など多くの名力士を育てたが自らの目で大関や横綱になるのを見届けることはできなかった。
    • 弟子の管理が厳しすぎたという噂もある。

貴闘力忠茂[編集 | ソースを編集]

  1. 1990年に入幕。2000年には幕尻で初土俵から102場所目(歴代2位。当時は歴代1位の遅さ)での初優勝を遂げた。
    • また、大鵬の三女と結婚しており、大鵬との養子縁組も行った。そのため現役引退後は大鵬部屋付きの親方となり、部屋を継承したこともあった。
  2. しかし根っからのギャンブル好きであり、年収の9割を費やすほどの依存症であった。
    • 幼いころはギャンブル依存症の父親のせいでギャンブルが嫌いだったが、初めてやった競馬で大穴を当てたことが切っ掛けでギャンブルにのめり込んでしまう。
      • その結果実に5億円以上ギャンブルで失ってしまった。また、ギャンブルで作った借金はたびたび大鵬に肩代わりしてもらっていたという。
  3. そして2010年、野球賭博に手を出したことが明らかになってしまう。結果相撲協会からは解雇されてしまう。
    • その後大鵬の三女とも離婚し、大鵬との養子縁組も解消。そして大鵬死去後の葬儀へも参列できなくなってしまった。
  4. 今現在も彼のギャンブル依存症は続いている。
  5. 息子が4人おり次男・三男・四男は相撲の道に進んだが、長男の幸男は父親と揉めた末に相撲の道を諦めてしまった。

高見藤英希[編集 | ソースを編集]

  1. 東洋大学時代に学生横綱、大学卒業後の2003年には実業団横綱を獲得し2004年3月場所で初土俵(幕下15枚目格付け出し)。
  2. 幕下上位で伸び悩んでいたが2007年3月場所で漸く新十両昇進を決めた。
    • 新十両の3月場所は6勝9敗で負け越し、幕下に転落した翌5月場所は4勝3敗と勝ち越して7月場所での十両復帰を決めたが…。
  3. ギャンブル癖のあった高見藤は再十両昇進の給金をあてにし数百万円の借金をしていたことが発覚。
    • 東関親方との口論の末部屋を飛び出しそのまま引退となってしまった。

玉ノ海梅吉[編集 | ソースを編集]

  1. 師匠玉錦の急逝により二所ノ関親方としての職務も果たす羽目になったため大関になれなかった。
  2. 終戦直後に捕虜徴用の容疑でGHQに捕まったことがある。
    • その時の協会の対応が冷淡だったため親方をやめNHKの相撲解説者に転身した。

玉の海正洋[編集 | ソースを編集]

  1. 北の富士とともに「北玉時代」を築き上げたが盲腸手術後の血栓症により急逝。
    • 健在なら一代年寄級の実績を残していてもおかしくなかった。
    • 女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたらしい。
  2. 父親は在日コリアンだったが存命中にその事実を明かすことができなかった。
    • 弟が暴力団員となった後、×××で逮捕されたため、出自や家族については隠されていった。

鶴ヶ嶺昭男[編集 | ソースを編集]

  1. 井筒親方として自らの息子3人を関取にし霧島を大関にまで育て上げたが晩年は寂しいものだった。
    • 内縁の妻が金遣いが荒い人物だったせいで慢性的な金欠状態だったという。
    • 息子の逆鉾や寺尾とも不仲だったという。

出羽ヶ嶽文治郎[編集 | ソースを編集]

  1. 身長2mを超え昭和初期の大相撲を代表する人気力士だったが本人はその巨体を恥じるところがあった。
    • 当時のラジオ放送で「総身に知恵が回りかね」などと茶化されたのも効いていると思われる。
    • 実際のところ巨人症のせいで骨がボロボロだった。
  2. 同時代に取っていた天竜三郎は「出羽海一門の宣伝で誇大評価されていたのではないか」と評している。
  3. 関取から転落した後は部屋で肩身が狭い思いをしていた。
    • 今でいうパワハラまがいの行為の標的にもされたという。
    • 引退後も巨体のせいで煙たがられていたとか。
  4. 頭脳明晰なこともあって医者を目指していたが、養父で出羽海部屋のタニマチでもあった斎藤紀一(斎藤茂吉の義父)が強制的に力士にしたともいわれている。
    • 義理の甥になる北杜夫は出羽ヶ嶽が来るたびに恐怖でその場を逃げ出していた。

栃赤城雅男[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代は「技の博覧会」「サーカス相撲」と呼ばれる程の多彩な技を駆使し、一時は大関候補にも名前が挙がっていた。
    • ただ立ち合いの雑さや消極的な技の繰り出し方が嫌われたのか、技能賞の獲得はなかった(殊勲賞と敢闘賞はそれぞれ4回ずつ受賞)。
    • 師匠の春日野親方(元横綱の栃錦)にも取り口は全く評価されず、「あいつが大関になったら逆立ちして土俵を一周してやる」と語られるほどだった。
  2. 晩年は怪我や糖尿病に苦しみ幕内→十両→幕下と転落し、1990年1月場所後に廃業。
    • 廃業届の提出が遅れたため、翌3月場所の番付では東三段目の4枚目に四股名が載っていた。
    • 大のタニマチ嫌いだったことも廃業の一因とされている。
  3. 廃業後は実家の呉服店を手伝い、後に店主となったが1997年に兄弟子の山分親方(元前頭3枚目の栃富士)とのゴルフ中に倒れ、そのまま心筋梗塞で死亡。まだ42歳の若さだった。
  4. 愛煙家だった貴ノ花に「禁煙すれば横綱も狙えるのに」とまで言われる程の愛煙家だった。
    • これに対して「禁煙して横綱だったら、煙草を吸いまくって幕内の方が良いです」と答えたという。

栃乃和歌清隆[編集 | ソースを編集]

  1. 明治大学から幕下付出で角界入りし大関も期待されたが攻めの遅さや怪我のせいで関脇止まりだった。
    • 武蔵丸に一度も勝てなかったことも響いている。
  2. 春日野親方としては大関も育てているがその一方で弟子への暴力事件や保護責任者遺棄も明るみに出ている。
    • なぜかマスコミにほとんど取り上げられていないのが謎。

栃乃若導大[編集 | ソースを編集]

  1. 報徳学園高校3年生時には高校横綱に輝くなど実績を残し2007年初場所で初土俵を踏んだ。
    • 初土俵の時には「最終的には李(栃乃若の本名)が全員追い抜くよ」と予測した親方が数人いた。
    • 因みに入門時の四股名は「李」と大相撲史上最も短い四股名で、呼び出し泣かせと話題になった。
  2. 初土俵後はとんとん拍子の出世も幕下で壁にぶつかり、十両昇進は2年もかかった。
  3. 十両昇進後は3場所で新入幕を決めたが八百長問題で2011年の春場所が中止となってしまい、ご当地での新入幕を逃してしまった。
  4. 翌2012年の春場所では最高位となる西前頭筆頭まで番付を上げたが、その後は一進一退の成績を続け2014年12月に電撃引退。
    • 引退会見では春日野親方の指導に最後まで馴染めなかったことを告白。春日野親方も「栃乃若の疑問や苦労に気づけなかった私が不甲斐ない」と悔いていた。
  5. 幕内で2回一本背負いで負けたことがある(2011年9月場所5日目・磋牙司戦と、2014年1月場所12日目・里山戦)。

豊嶌雅男[編集 | ソースを編集]

  1. 双葉山を2度倒すなど戦時下の大相撲で活躍した人気力士だったが昭和20年3月10日の東京大空襲で命を落とした。
    • 東武伊勢崎線高架下の隅田川で岸辺につかまり猛火から逃れようとした姿のまま遺体となって見つかった。
    • 没したときにはまだ25歳だったためあの戦争を生き延びていればどれほどの実績を残していたことやら…。
  2. 同じ出羽海部屋の横綱安芸ノ海は「生きていたら横綱は間違いなかった」と評しているが意外と苦手力士が多かったという。
    • 羽黒山には6戦6敗とまったく勝てなかった。

鳥羽の山喜充[編集 | ソースを編集]

  1. 運動経験なしから角界入りし入幕を果たすが新入幕初日(平成14年春場所)の朝稽古で膝を負傷し幕内の土俵には立てなかった。
    • その後も幕内復帰を目指し取り続けたが2015年に無念の引退。

なは行[編集 | ソースを編集]

南海龍太郎[編集 | ソースを編集]

  1. 西サモア(現サモア独立国)から入門し「サモアの怪人」と呼ばれ期待されたが酒癖の悪さで力士人生を棒に振った。
    • 一度飲み始めるとビール100本は軽く飲み干すという底無しの飲みっぷりだった。
    • 酒乱でホテルマンに暴力をふるったり二日酔いで本場所を休場したりと数々の問題行動を起こし廃業に追い込まれた。
      • 酒と相撲のどちらかを取るか迫られ酒を選んでしまった。
  2. 引退後にプロレス入りしたがこちらでも酒絡みの問題を起こしリングに立つことなく帰国した。

長谷川勝敏[編集 | ソースを編集]

  1. 私生活では食中毒や航空事故での死の危機を何度も回避しているが番付運には恵まれなかった。
    • 関脇を通算21場所も務めたがとうとう大関に上がれなかった。
      • 昇進時に出す予定だったレコードも引退記念として出すことになった。
      • 引退会見でも大関への未練をはっきり口にしていた。
  2. 年寄としても引退時期の関係で佐渡ヶ嶽襲名のチャンスを逃している。

双津竜順一[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代は幕内に29場所在籍し最高位は小結。1982年11月場所を最後に現役を引退し年寄・錦島を襲名した。
    • 2002年に定年を迎えた先代の時津風(元大関の豊山)の後継者に指名され、15代時津風に名跡を変更し時津風部屋を継承。
      • 部屋の師匠としては豊ノ島や時天空らを育てた。
  2. ところが2007年の名古屋場所直前の6月25日、序ノ口力士の時太山が部屋を脱走したことに激怒しビール瓶で額を殴打。
    • 更に部屋の力士に対して「かわいがってやれ」と暴行を指示。
      • 翌26日も集団暴行の末に時太山は心肺停止状態となり、搬送先の病院で死亡が確認。
      • 時太山が倒れた直後も救急車を呼ばずに弟子たちに口止めをしたり、時太山の遺族に対して証拠隠滅のために火葬の承諾を取ろうとしていた。
        • 結局遺族側が火葬を拒否し、地元での行政解剖で暴行が発覚。
  3. 双津竜本人はテレビ番組で暴行の事実を否定したが、最終的には管理責任を問われる形で同年10月に相撲協会から除名処分の次に厳しい解雇処分が下された。
  4. 翌2008年、双津竜は愛知県警に傷害致死の容疑で逮捕され2011年に懲役5年の実刑判決が確定。
    • 判決確定後は三重刑務所に服役。後に肺癌のため刑の執行停止がなされ、東京都内の大学病院に入院したが2014年8月に死去。
    • 因みに判決確定の直前に暴露本を出版し、その出版記念で出演したニコニコ生放送でのインタビューで十両時代に八百長を数回やっていた事を告白している(但し具体的な対戦相手は明言しなかった)。

双羽黒(北尾)光司[編集 | ソースを編集]

  1. 戦後で唯一の優勝経験なしの横綱。
    • 力士生活を通して最高優勝がないというのは横綱としては異例すぎる。
      • 優勝次点は5回、優勝同点は2回も記録していたが…。
    • 当時千代の富士の一人横綱だったことや、大関に据え置くと翌場所が「1横綱6大関」というバランスの悪い番付になるため、北尾(双羽黒)の横綱昇進が決まったという裏話がある。
  2. 幕下時代から素行が最悪で実家に逃げ帰ることも普通にあった。
    • 最終的におかみさんへの暴力行為により引退に追い込まれる。
      • 双羽黒自身は「女将さんが止めに入ったのを振り切って部屋を後にしたが、親方が『暴力を振るった』と新聞記者を煽った」と主張している。
    • 後世の相撲ファンにとっては不祥事のイメージしかない。
    • 当時発売された「つっぱり大相撲」(FC)での変名が「大腹黒」だったのが妙に納得できる。
    • もっとも「立浪親方が甘やかして育てたからこうなった」という意見もあるが…。
  3. 引退後はプロレスラーに転身したが相手を八百長野郎呼ばわりし実質的にプロレス界からも追放されてしまった。
  4. その後は総合格闘技に挑戦したり、古巣立浪部屋のアドバイザーを務めたりしたもののどれも長続きせず、病気を患い50代で死去。

北天佑勝彦[編集 | ソースを編集]

  1. 新弟子時代から「末は大関、横綱」「双葉山の再来」「相撲を取るために生まれてきたような男」と期待されていた。
    • しっかりした足腰、均整の取れた体つき、左右100kg近くあった握力と素質は申し分なし。
    • 師匠の三保ヶ関(元大関の初代増位山)は「北の湖と北天佑を東西の横綱に並べるのが夢」と口癖のように話していた。
  2. 初土俵から7年後の1983年夏場所優勝後、当時5番目の年少記録となる22歳9ヶ月で大関へ昇進。
  3. ところが大関昇進後はそれまでの荒々しい豪快な相撲が影を潜め、目先の勝ち星のために相撲が消極的になってしまい1回の優勝にとどまってしまった。
    • 大関時代は9勝や8勝の場所が多く、朝潮と共に「三役の主」「クンロク大関」と皮肉られることも多かった。
    • 2回目の優勝以降は常々「10勝が大関の勝ち越しだと思う」と口にしていた。
  4. 結局1990年秋場所の途中に引退を表明。大関在位44場所は当時歴代2位の記録だった。
  5. 引退後は二十山の年寄を襲名し、1994年6月に弟子6人を連れて二十山部屋を創設。
    • ロシア出身の白露山を幕内まで育てたが、審判委員を務めていた2006年春場所中に体調不良のため緊急入院。
      • 当初の病名は「多発性脳梗塞により入院加療2週間」とされていたが、精密検査の結果は「多発性脳梗塞と腎臓癌、その転移による悪性脳腫瘍」というものだった。
      • 既に癌は末期症状であり、入院から3ヶ月後の2006年6月に45歳の若さで死去。
    • 二十山部屋には継承者となるべき親方がいなかったこともあり、所属力士11人は兄弟子の北の湖部屋へ移籍した。

ま行[編集 | ソースを編集]

前田山英五郎[編集 | ソースを編集]

  1. 大関時代は張り手を得意として大暴れしていたが横綱になってからはろくな実績が残せなかった。
    • 横綱在位6場所は昭和以降ではワースト1位、皆勤は僅か2場所、横綱時代の最高成績は9勝6敗、横綱通算勝率5割未満という有り様。
    • 力士としての現役生活は長かったため、「横綱にならず名大関で終わっていたほうが良かった」とも評されている。
  2. 本場所を休場中に来日したサンフランシスコ・シールズの試合を見に行ったことがばれ引退に追い込まれた。
  3. 横綱昇進時に「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」という但し書きを横綱免許状に付けられてしまうほどの暴れん坊。
    • 現代語訳すると「暴力的な行動がみられるため自覚が必要」といったところ。
    • 晩年は「角をもがれた鬼」と形容されるほど温和な性格になっていた。
  4. ただ引退後は朝潮(3代目)を横綱に、前の山を大関に昇進させるなど育成能力は高く、一時期は高砂部屋所属の力士が幕内で最多人数を数えたこともあった。
    • またアメリカ巡業の実施や高見山の入門、出羽海一門を破門された九重(千代の山)を受け入れるなどの功績を残している。

枩浦潟達也[編集 | ソースを編集]

  1. 色白の二枚目力士として知られ戦時下に幕内上位で活躍していたが東京大空襲で新婚の妻とともに犠牲になった。
    • しかも豊嶌とは異なり遺体すら確認されていない。
      • 目撃証言から本所の自宅付近で消火にあたろうとしたが激しい火災のため断念し深川方面へ避難途中に焼死したものと推測されている。
    • 遺品も自宅とともに燃えてしまったせいか今や出身地の唐津でもほぼ知る人はいない。

男女ノ川登三[編集 | ソースを編集]

  1. 一時期、高砂部屋伝統の「朝潮」を名乗っていたが、春秋園事件に連座したことが親方の逆鱗に触れ、四股名を剥奪されてしまった。
  2. 四股名を「男女ノ川」に戻した後は調子を戻し、1936年夏場所後に横綱に昇進。
    • しかし春秋園事件前に痛めた関節炎の影響で強弱の差が激しく、横綱時代は双葉山に全く歯が立たなかった。
      • 横綱時代の対双葉山戦では一度も勝てなかった。
  3. 1938年夏場所千秋楽では武藏山と対戦するが、両者とも横綱でありながら6勝6敗同士で勝ち越しと負け越しを掛けた一番という悲壮な対戦となってしまった。
    • 男女ノ川はこの一番に敗れて、横綱の皆勤負け越しという不名誉な記録を作ってしまう。
  4. 引退後は一代年寄制度で年寄・男女ノ川を襲名して相撲協会の理事に就任したが、自宅の庭に作った農園の経営に熱中し、相撲協会を去った。
    • その後は様々な職を経験するも長続きせず、不遇な晩年を過ごした。
  5. 最晩年は武蔵村山市の料亭で下足番をしていたが、1971年に脳出血のため都内の病院で死去(67歳)。

雅山哲士[編集 | ソースを編集]

  1. 明治大学を3年で中退して武蔵川部屋に入門し、1998年7月場所で初土俵(幕下60枚目付け出し)。
    • そこから幕下2場所・十両2場所を4連続で優勝しわずか4場所で新入幕。
    • 早過ぎる出世に丁髷が追い付かず、長髪の荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」とも呼ばれていた。
  2. 入幕後も快進撃は止まらず、2000年5月場所終了後に大関昇進が決定。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード記録である。
    • 一方で「同部屋の横綱武蔵丸、大関武双山・出島と対戦せずに3場所34勝での昇進は物足りない」という意見もあり、理事会では10人のうち3人の理事が反対を表明した。
  3. 案の定、大関昇進後は負け越して角番→翌場所に角番脱出という悪循環を繰り返し、2001年7月場所と9月場所で2場所連続の負け越しで大関陥落。
    • 大関時代の在位8場所は当時ワースト3位、二桁勝利はゼロという散々な成績を残してしまった。
  4. 大関陥落後の2003年1月場所では2日目に横綱の貴乃花と対戦したが、疑惑の判定の末貴乃花戦初勝利を逃し、更に右足を負傷して休場と踏んだり蹴ったりな場所となってしまった。
  5. 2006年に復調し3月場所で10勝・5月場所で14勝(白鵬の優勝次点)・7月場所で10勝。
    • 大関昇進の目安となる「3場所33勝」はクリアしていたが、優勝争いに加われなかったことや番付構成のアンバランスさが響き2度目の大関昇進は見送りとなってしまった。
    • 翌9月場所は9勝止まり、11月場所は8勝7敗で辛うじて勝ち越し、翌2007年1月場所は5勝10敗と大敗を喫し関脇からも陥落。
  6. その後は長く幕内で戦っていたが、2010年の大相撲野球賭博問題に関与したとされ7月場所は出場停止処分を受け、翌9月場所は史上2人目の「元大関の十両陥落」となってしまった。
    • 流石にこの場所は力の差を見せつけ、12勝3敗の好成績を残し1場所で幕内復帰を果たした。
  7. 2013年1月場所後に再び十両へ陥落。翌3月場所は東十両9枚目の地位で3勝12敗と大敗し、千秋楽後に現役引退を表明し年寄・二子山を襲名した。

武藏山武[編集 | ソースを編集]

  1. 新十両・新入幕・新三役で当時の最年少記録を樹立、近代的な容貌、筋肉質の体型等で人気が高く、武藏山を題材にした応援歌まで作られた。
  2. ところが昭和6年秋場所9日目の沖ツ海戦で強烈なぶちかましを右肘に受け、それまでの最大の武器だった右腕の怪力が失われてしまった。
    • 大関昇進後は後遺症に苦しんで充分に相撲が取れず、休場が相次いで優勝争いに加わることすら出来なかった。
  3. それでも昭和10年春場所・夏場所と好成績を残し、夏場所後に第33代横綱に昇進。
    • しかし横綱昇進後は前述の肘の故障が更に悪化、胃酸過多症もあって休場がちで、皆勤したのは1938年夏場所のみ。
      • 幕内での最高優勝は小結時代の1回のみだった。右肘の故障が無ければ…。

武双山正士[編集 | ソースを編集]

  1. 高校時代に学生横綱、専修大学時代にはアマチュア横綱を獲得し、角界入り後も期待通りのスピード出世で「平成の怪物」と呼ばれていた。
    • しかし度重なる怪我の影響で最高位は大関止まり、幕内優勝は関脇時代の1回のみ。しかも一度怪我の影響で関脇に陥落している。
    • 力士生活の晩年は大関角番と角番脱出の繰り返しに終始していた。
  2. 大関時代の2001年5月場所14日目の貴乃花戦、土俵際の巻き落としで下した際に貴乃花に右膝亜脱臼の重傷を負わせ、場所後に「武双山のユルフン(※)が貴乃花の怪我の一因になった」と猛批判されることに…。
    • ※ユルフンというのは、廻しを意図的に緩く締めたりして廻しを取った相手力士の力を十分に出させない戦術。
    • ただし武双山は大関時代の腰痛が原因で、廻しをきつく締められなかったことに留意しなければならない。

やらわ行[編集 | ソースを編集]

豊山勝男[編集 | ソースを編集]

  1. 東京農業大学4年次に学生横綱となり、卒業後鳴り物入りで時津風部屋に入門。
  2. 1961年3月場所で幕下10枚目格付出として初土俵を踏み、同年9月場所には早くも十両に昇進。
    • 翌11月場所では栃光以来史上2人目となる十両全勝優勝を果たし、翌1962年1月場所で新入幕。
  3. その後もとんとん拍子の出世で1963年1月場所後、大学出身の力士として初めて大関に昇進。
    • 大関昇進前の3場所は12勝・12勝・13勝で合計37勝と、文句なしの好成績。
  4. しかし大関昇進後は大鵬・柏戸の全盛期と完全にぶつかってしまい、横綱どころか優勝すら1回も経験できないまま、1968年9月場所後に現役を引退。
    • 優勝決定戦への進出や優勝同点もゼロだった。因みに優勝次点は8回も記録している。

吉葉山潤之輔[編集 | ソースを編集]

  1. 第43代の横綱だが、昇進までには様々な不運を経験してきた。
    • 十両昇進を目前としていた1942年に召集された不運。
    • しかもその召集中に戦地で銃弾2発を浴び、それが尾を引いて大事な場面で怪我に泣く不運。
    • 所属部屋の高島部屋の規模が小さく、稽古相手に苦労した不運。
    • 同時に大関へ昇進した鏡里と比べて強豪力士と当たることの多かった不運。
    • 昭和25年9月場所、13勝2敗の好成績を挙げたが優勝決定戦で照國に敗れ、大関昇進を即決されなかった不運。
    • 昭和28年5月場所、14勝1敗の好成績を残したが前頭6枚目の時津山(15戦全勝)に優勝をさらわれる不運。
  2. 様々な不運を乗り越え、昭和29年1月場所で15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たし、場所後に横綱昇進を決めたが…。
    • 新横綱の昭和29年3月場所は全休。その後も怪我の多さから横綱時代は一度も賜杯を抱けず「悲運の横綱」とも言われた。

露鵬幸生[編集 | ソースを編集]

  1. ロシア出身力士では初めて三役まで昇進したが、とにかく気性が荒かった…。
    • 2006年7月場所7日目の取組後に九重審判部副部長から厳重注意を受けた後に風呂場のガラスを拳で割り、それを撮ろうとしたカメラマン2人を平手で殴打、1人に打撲を負わせる事件を起こし3日間の出場停止処分を受けてしまった。
  2. 2008年9月場所直前に抜き打ちの尿検査で大麻の陽性反応が検出され、弟の白露山共々相撲協会から解雇されてしまった。

若嶋津六夫[編集 | ソースを編集]

  1. 諸方面から「次の横綱」と期待され続けたが取り口や恵まれない体格などのせいでとうとう昇進できなかった。
    • 2度目の綱取りがかかっていた昭和59年秋場所では11勝4敗と健闘するも多賀竜の大活躍もあり昇進を逃した。
      • しかも多賀竜戦には八百長疑惑まで出ている。
  2. 還暦を迎えた直後に路上で転倒し一時は死の淵をさまよった。
  3. 現役時代に焼き肉12人前を平らげるも店を出るなり戻してしまったことがある。

若ノ鵬寿則[編集 | ソースを編集]

  1. 身長195cm・体重162kgという恵まれた体格、所要11場所での十両昇進(初土俵からの負け越しなし)を果たすなど将来性は評価されていた。
  2. しかし立合いの変化が多く、平成19年初場所の5勝中、3勝が立合いの変化で挙げた白星だった。
  3. また言動も粗暴で、平成20年夏場所8日目に安馬(後の日馬富士)に豪快なうっちゃりで敗れた後、悔しさの余り部屋の風呂場の壁を叩き割り、風呂桶を壊すなど暴れて厳重注意を受けてしまった。
  4. 平成20年名古屋場所後に大麻所持で検挙され、相撲協会から解雇されてしまった。

若乃花幹士(2代目)[編集 | ソースを編集]

  1. 第56代の横綱だが、昇進後は北の湖の全盛期と重なってしまい3回しか優勝できなかった。
    • 1978年には6場所で78勝12敗の好成績を残したが、北の湖が82勝8敗という驚異的な大記録を打ち立て年間最多勝を逃してしまった。
  2. 大関時代までの若三杉という四股名を大変気に入っており、昇進後も若三杉を名乗る予定だったが、師匠の初代若乃花の意向で無理矢理2代目の若乃花を襲名することになってしまった。
  3. 1983年1月場所を最後に29歳の若さで現役を引退。同年12月に間垣部屋を興し4人の幕内力士を育てたが、三役力士を出すことは遂になかった。
    • 中学生横綱のタイトルを獲得していた高見盛には中学卒業後に声を掛けていたが、「高校は卒業しておきたいので…」という理由で断られてしまった。
  4. 2005年以降は夫人に先立たれる・脳出血で緊急手術・序二段の力士を竹刀で叩く・所属力士の若ノ鵬が大麻所持で逮捕・同じく所属力士の若三梅は白血病で死亡とトラブルが頻発。
    • 若乃花本人も脳出血後は後遺症で十分な指導が出来ず、力士の食糧にすら事欠くという有様だった。
  5. 結局2013年3月をもって間垣部屋は閉鎖となり、所属力士と共に一門外の伊勢ヶ濱部屋へ移籍。
    • このとき移籍した力士の中には後に横綱に昇進する照ノ富士(移籍後に若三勝から改名)もいた。
    • 同年4月には満60歳の還暦を迎えたが還暦土俵入りは実現せず、同年12月に相撲協会を退職。

若羽黒朋明[編集 | ソースを編集]

  1. しつこい押し相撲で大関まで昇進したが、大の稽古嫌いが響き大関在位13場所で陥落。
  2. 柏戸・大鵬が優勝した場所で土を付け「オレは柏鵬の反逆児」と発言したが…。
  3. 廃業後の1965年にハワイから拳銃を暴力団へ密輸入していたことが発覚し、逮捕されてしまう。
    • 柏戸・大鵬・北の富士らが書類送検される拳銃密輸事件のきっかけを作ってしまった。
  4. 刑務所を出所した後、嘗てのファンの誘いで岡山市内の相撲料理店の副店長に就任、心機一転してよく働いたが、1969年に脳塞栓症のため岡山市内の病院で急逝した。34歳の若さだった。

関連項目[編集 | ソースを編集]