ざんねんな戦国武将事典
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あ行[編集 | ソースを編集]
- 荒木村重
- 織田信長に仕えた戦国武将で、茶器マニア。
- 羽柴秀吉が播磨攻めをやっている最中に、突然信長に反旗を翻す。
- 秀吉の死者としてやってきた黒田官兵衛を捕縛して、1年間土牢の中に監禁する。
- 信長に反旗を翻したまでは良いが、結局負けてしまう。
- 負けるのはやむなしとしても、平蜘蛛をかかえて爆死した松永久秀と違うのは、自分の家族や家臣を見捨てて一人、茶器コレクションをかかえて逃亡したという事である。
- 謀反を引き起こした当事者は単身逃亡中の最中、残された妻子をはじめとした一族郎党は皆処刑される。
- 妻の「だし」は当時でも楊貴妃に例えられるくらい美人との評判だったが、その美人の妻よりも自分の命と茶壷の方を優先した。
- こうして、あまりの無念さに自分の名前を「道糞」に変えてしまった。
- 結局、信長が死んで何十年も経った後秀吉に「もう流石にええやろ」と許されて「道薫」の号となる。
- 井伊直政
- 徳川四天王最年少で他国(元々は徳川ではなく今川の武将)出身ながら、明治まで名を遺した名門井伊家の当主。
- 絶世の美男子であり、武田や真田を思わせる勇猛果敢な赤備えで有名であるが…。
- どっかで織田の方の血を引いてるんじゃないかというくらい超短気。
- ミスをした部下はすぐに殺してしまう程苛烈で、戦場では我先に飛び出して周囲が慌てて追いかけるほど待つのが苦手。(後者に関しては、本人も自分の性分を分かった上でやってるのでタチが悪い)
- あまりにブラックすぎるため敵陣に寝返る兵士は数知れず、腹心たちは毎朝家族に水盃を交わしていたなんて話まで残っている。
- 石田三成
- 非常に戦が弱い。
- 官僚タイプだったので実際の「戦術」は下手で、ほぼ負け通しであった。
- 真面目一徹タイプ故に人望が無さすぎる。(当時珍しく側室がいなかったことでも知られる。子供は6人いたが)
- 「家康を討つぞ」と大谷吉継に漏らしたら、「お前が総大将じゃ誰もついてこねえよ」と即突っぱねられて、仕方なしに毛利輝元に総大将を依頼したくらい、その人望の無さは周知の事実であった。
- なお全くの余談であるが、水戸光圀公は「石田三成は主の為に心を尽くした憎めない奴だ、武士はかくあるべきだ」と褒め称えている。
- その光圀の従兄である三大将軍家光は…(以下家光の項目に続く)
- 宇喜多興家
- 誰やねんと思うかもしれないが、備前の覇者・宇喜多直家の父親であり、五大老・宇喜多秀家の祖父。
- おまけに父親は知勇兼備の勇将とされる宇喜多能家である。
- しかしこの興家だけはなんでこの父親と息子と孫からこんな男がというくらい無能であった。
- まず直家がよちよち歩きの子供だった頃に速攻で城を落とされている。
- 更に、逃げ延びた先で不倫して子供(後の忠家、春家)を作っている。
- その不倫先の父親がたまたま超大金持ちの商人だった為、そこで牛飼いとして働いていたという話もある。(無能ではあったが、頭を使わない労働にだけは真面目に働いていたあたり、そこまで悪い人ではなかったのだろう)
- が、そこで隣国領のガキどもと喧嘩を起こし、今で言えば小学校高学年~中学生くらいのガキどもと本気でケンカし負けて死んだ。3人も子供がいる年で、中学生と戦って負けて死んだのである。これはカッコ悪い。
- 勿論そのガキどもも処刑された。(※断じて直家が毒殺したわけではない)
- 上記の牛飼いの説話によれば、「あの牛飼いの興家さんってチョ~弱いんだって~」とバカにされて悔しさのあまり自害した、病死したとも言われている。
- つまりはそのくらいで死んでしまうような軟弱な人だと思われていたのであろう。合掌。
- 大友宗麟
- 名代のスケベさで名を遺した。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- グチグチ行ってくる道雪がムカついたようでペットの猿を嗾けて脅かそうとしたら、逆に鉄扇で一撃粉砕(物理)されてしまい猿のように反省した(創作説があるが、そういう創作が出てくるくらいざんねんな人物であったことは事実である)。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- 知名度に反して意外と敗北回数が多い。
- おまけに奥さん(重臣の妹なので無下に扱えなかった)が悪魔のように恐ろしかった、と宣教師が語っており、キリシタン大名なのに嫁さんがキリシタンを弾圧していた。
- 出自は奈多八幡宮の宮司の娘。当然、夫とは信仰で相いれない。
- 当時のキリスト教関係者は、彼女に対し旧約聖書に登場する悪女にちなむあだ名を付けていた。
- いうまでもなくチート武将であるが、重度のアル中。
- 馬の上で飲酒するためにわざわざ特注の盃を作らせていた。飲酒運転じゃん。
- しかも塩(敵に送るくらいだからたくさんあった)や味噌や梅干しといった高血圧まっしぐらメニューをつまみに浴びるように飲んでいたので、冬にトイレで気張り過ぎて脳の血管が切れて死ぬ。(まあ49歳だから早逝ではないんだが)
- おまけに後継者を決めずに何の前触れもなく突然死したので、甥の景勝と養子の景虎で大戦争が勃発してしまう。
- 最大のライバルこと、武田信玄が死んでから張り合いがなくなったから、との説も。
- 生涯不犯(未婚)であり、美少年をたくさん侍らせていたという逸話からガチホモ、もしくは女性だと言われている。ホントかよ?
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- だが否定されながらもサブカル界隈ではいろんなところで女性版謙信が登場している。
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- さらに近年では、後述の弱い方のオダの城の人間を食い扶持に困るからという理由で売り飛ばしていたことが判明している。勿論、謙信以外の武将もこのようなことは当たり前のように行っていた。
- また「敵に塩を送る」の美談は、現在では「塩を有料で売り捌いた」ということが判明している。世の中そう甘くはないのである、塩だけに。
- しょっぱい話だ。
- 小田氏治
- 通称「弱い方のオダ」。
- 小田城の城主であったが6回も奪われており、史上最も城を奪われたことが多い大名として知られる。
- 裏を返せば5回は取り戻している(最後は取り戻せなかった)わけでただ弱いだけではないのだが…。
- 最後は豊臣秀吉の小田原征伐の巻き添えを喰らって惣無事令違反で全領地を没収されてしまい、結城秀康の家来にまで零落れてしまった。
- 織田信雄
- 信長の次男で、スケート選手・織田信成のご先祖様なのだが…。
- 非常に素行に問題があり、「うつけ」な所しか受け継がなかったなどと言われる。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりにぼろ負けしたので「親子の縁切ってやる」と書状に残すほどキレた父ちゃん信長が総攻撃し、伊賀が一時期壊滅状態に陥る。その後家康の庇護下に入るが。
- 本能寺の変で父と兄が死ぬと、勝手に安土城に火をつけて焼いてしまう。
- そのせいで信長の後継者を決める清須会議でも誰も推薦せず、尾張一国を渡され大人しくしているように言われる。
- 賤ケ岳の戦いでは秀吉に乗せられ、まんまと異母弟・神戸信孝を敗死させてしまう。
- が、その秀吉から冷遇されたことに怒り(立て直した安土城から追い出された)、家康と結託して小牧・長久手の戦いを起こすが…。
- 途中で面倒になって家康に無断で秀吉と講和。これには家康もポカーンであった。
- こうして秀吉の手下に成り下がり、三河への転居を命じられるも、「俺の故郷だから」と言い張ったため改易を喰らう。天下人の息子がこの扱い…。
- その後、家康のおかげでなんとか大名に戻る。この恩義を感じてか、大阪の陣では西軍方でありながら最後は東軍に寝返り、5万石を得た。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりに「うつけ」だったため、周囲からは「三介殿のなさる事」と呼ばれ呆れられていた。
- 裏切られすぎ。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 最終的に一番目をかけてた奴に裏切られて死んだ。
- 最初に裏切った弟の信勝は、一度許してやったのにまた裏切ったせいで殺す羽目になった。これはまあ信勝が兄を舐めすぎたというのもあるが。
- 従わない奴はキルオブゼームとばかりに殺しまくるほど短気な割に、身内と優秀な奴には評価が甘いので、悉く裏切られ、何度も包囲網を敷かれる羽目になる。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 一方本人はそんなに裏切ったことはない。せいぜい足利義昭を操ろうとしてたくらいか。
- 肝心な時に限って雨がやたら降る「雨男」であり、せっかく鉄砲戦術で戦争史に革命を起こしたのに、雨のせいで火縄銃が全く使えず完敗ということもあった…。(まあ、桶狭間に関してはそれが勝因になったんだけどね)
- 食生活の内容が不健康すぎていた。40歳を過ぎたあたりから糖尿病の合併症由来と思われる体調不良の記録が多く見受けられる。
- 40前後でそうなるということは30代前半あたりで既に基礎疾患として持っているということ。それゆえ、仮に本能寺の変が無かったor切り抜けられたとしても早々に表舞台から退場となったかもしれない。
- 実際には「普段はどっしり構えていられるけどいったんキレてしまったら誰にも止められない」と言ったところだが、どういうわけかのべつ幕無しでキレまくっているような誤解を持つ人も多い。
- 織田信行(織田信勝)
- 信長の弟。
- 人望も才気もそれなりにあったが、兄貴が「うつけ」呼ばわりされているのを知って「これならオレが親父の跡目になれるんじゃねーの」と調子に乗りすぎた。
- 一回謀反に失敗して「もうするんじゃねーぞ」と信長に油を搾られたにも拘らず、またも謀反を企てて結局暗殺された。何を考えてるんだか。
- その際には重臣である柴田勝家が諫言したのだが、「こいつ兄貴に与したか」と考えて勝家も殺そうとしたため、その事を知った勝家は本当に信長に付いてしまった。藪蛇…。
- もっともこれらの記録は太田牛一ほか信長寄りの歴史家の記述のため、実際は信長から疎んじられて始末されただけの可能性もある。
か行[編集 | ソースを編集]
- 片倉小十郎景綱
- 伊達政宗の腹心で某ゲームで有名な人。
- あまりに忠誠心が高すぎて、政宗より先に男子を授かった事に悩みすぎた余り、その場で殺そうとして政宗に止められるというトンデモない逸話が残ってしまっている。
- 若い頃は美男子で知られていたが、晩年はブクブクに太ってしまったため、同じくメタボってしまった政宗から「軽い鎧をやる」と揶揄われていた。
- ちなみに死因は糖尿病。
- 黒田長政
- 福岡藩初代藩主。黒田官兵衛の嫡男であり、文武両道の名将であるが…。
- 戦国時代唯一と言っても過言ではない、音痴ぶりが歴史書に残ってしまった人。
- あまりに歌が下手だったので母里太兵衛(黒田節で勝った方の人)から「人前で歌ってはなりませぬ」と言われたが、あんまりわかってなかったのか「おぬしはワシの無礼を諫めてくれた、礼を言うぞ」と褒美を与えた。
- 京極高次
- 嫁さんのおまけ。
- ただ奥さんの姉が淀殿で、妹が江というだけで歴史に名を残した人。
- 七光りと言う事でついたあだ名が「蛍大名」。
- いちおう四職の中で唯一明治まで名を遺しただけの事はある。この辺は幸運なモノ事典にでも載せてあげるべきか。
- ただ奥さんの姉が淀殿で、妹が江というだけで歴史に名を残した人。
- 小早川秀秋
- 言うまでもない。
- しかし関ヶ原以前から非常に問題がある人物として知られていた。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- それでも足りなかったのか、友人からも金を借りまくっていた。
- また片倉重長の美男ぶりに惚れ熱烈に付きまとっていたなど、醜聞が絶えない。
- 朝鮮出兵ではっちゃけすぎたため、石田三成から疎まれて石高が1/2の越前に左遷。
- その後、筑前に転封となり石高が4倍にまで膨れ上がるが…。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- 知っての通り関ヶ原での裏切りの後、たった2年後に亡くなっている。享年わずか21歳。
- その死因も「急性アルコール中毒」「大谷刑部の祟り」「裏切った罪悪感によるノイローゼ」「農民と喧嘩したら金玉を蹴られてショック死」など、どれもこれもろくな説が挙がっていない。
さ行[編集 | ソースを編集]
- 佐久間信盛
- 信長のかなり古い家臣で、「退き佐久間」の異名を持つ重臣だが…。
- 裏を返せば「攻めには使えない」って言ってるようなものである。
- あまりに使えなさ過ぎて「もうお前いらんから、敵の城でも分捕るくらいの手柄立ててくるかサッサと隠居しろ、イヤなら腹切れ」というとんでもない命令を受けてしまった人。
- その際に19項目にも及ぶダメ出しを受けており、相当に苛立たせていたことが推察される。
- 基本的に信長は下っ端は即手打ちにするが重臣は割と大事にするので、ここまで怒らせてしまった人は彼と明智光秀くらいであろう。
- 真田信繁
- 真田幸村の名前で知られる、終わり良ければ総て良しを地で行く人。
- 一生のうちのほとんどを人質として暮らしており、戦場に立った回数よりも人質にされた回数の方が多い。なんと初陣は23歳になってから(当時、元服直後に初陣なんてのはザラであった)である。
- 裏を返せばその間に文武を磨いていたとも言えるが。
- 大坂の陣においては後藤又兵衛の普請を無視して真田丸の着工に取り掛かった為、あやうく出奔寸前になるほど又兵衛から嫌われていた。
- 島津忠恒
- 薩摩藩初代藩主。島津義弘の息子で本名は家久(徳川家康の「家」の字を拝領した)だが、紛らわしいことに義弘の弟にも家久という人物がいるのでこちらで表記する。
- 通称「DQN四天王・南の忠恒」。親父同様に気が強く、朝鮮出兵では10倍もの兵力をひっくり返した「薩摩隼人」だったのだが、あまりに気が強すぎた。
- 性格が極めて苛烈かつ陰湿であり、気に入らない部下はすぐ殺してしまう。
- 前掲の朝鮮戦争の時も、部下が朝鮮側に寝返ったほど人望が無かった。
- 正室・亀寿(いとこ同士であり、父は義弘の兄・義久)をことあるごとにブスと罵り続けており、子が出来なかった腹いせに、叔父にして義父の義久が死んだ途端に速攻で城から追い出し、当てつけのように側室を8人囲い、×××しまくって子供を作っては政略結婚のダシにした。
- この時亀寿のシンパを一族郎党虐殺した。
- 朝鮮のみならず琉球でも侵略を重ねたため、後々まで島津の繁栄を築いたと同時に数百年にもわたる憎悪を買うことになる。
- ただ、こんなんでも(法律で殉死が禁止されてたのに)9人も殉死者が出たので、必要最低限の人望はあったのだろう。文化的には優れていた人のようで、「錦江湾」の名も忠恒の歌に因むという。
- 薄田兼相
- 「誰コイツ?」と言っている読者も、「狒々退治の岩見重太郎」と言えば1割くらいは伝わるかもしれない。
- 小早川隆景の剣術指南役だった父が部下に裏切られて殺され、流浪の果てに剣の腕を極め、仇討ちを成し遂げたということで有名な豪傑で、今でも彼の名をした柔術が残っているのほど猛者なのだが、ざんねんながら脳の出来が力に追い付いていなかった。
- 大坂冬の陣では5000石の食い扶持を持つ大名として大坂方についたが、戦の最中に遊郭で飲み過ぎてその間に砦を落とされる。今川義元ですらそこまで慢心してはいなかったぞ!
- あまりのふがいなさに、「見掛け倒しで中身は食えない(役に立たない)」ということで「橙武者」という仇名で呼ばれてしまう。
- 夏の陣においては霧でウロウロしている内に豪傑・後藤又兵衛を討ち取られてしまい、「あの後藤又兵衛を討ち取ったぞー!」とテンションが限界突破していた伊達・水野連合軍の総攻撃を受けて絶命した。
- もっとも、この際に何人もの東軍兵をあの世の道連れにしており、(個人の武勇が)「強い」という最大の長所だけは発揮したまま華々しい最期を遂げられただけマシか。
た行[編集 | ソースを編集]
- 武田勝頼
- いろいろ評価は分かれようが、甲斐武田を滅ぼした張本人。
- 側室の子の産まれ、偉大過ぎる先代を持つプレッシャー等もあっただろうが、腹芸が下手で自分を強く見せたがりすぎた。
- 家臣からも「本当は謙信の隠し子じゃねえのか」と言われるくらい好戦的だった(真偽不明)。
- 旧臣たちは結果的に生き急いで長篠での死に逃げを敢行してしまった。
- 父親のウホッな愛人でもあった高坂弾正からは使えないトップの4パターンの1つ「強すぎたる大将(人に頼れない大将)」と痛烈に批判されている。
- 残るは「馬鹿(今川氏真)」「利口すぎ(武田義信)」「臆病(上杉憲政)」。これと同等扱いはひどい。
- ライバルである上杉景勝が、なんやかんやありつつも明治まで家を残してしまったのが余計に低評価になっている。
- 古くから「もっと早く生まれていれば天下取りにも絡めていただろう」という見解が多い。
- 実際には外交の天才ながら戦にはあまり強くなかったのでかえって埋もれた可能性もあり。
- 敵軍を味方ごと後ろから鉄砲隊で蜂の巣にして白を切る、馬を煽り運転して「前田利家様のお使いです」と言われ血相を変えて謝罪する、貴重な文化財を欲しいと言われ真っ二つにして片割れを渡すなど、ざんねんな逸話には事欠かない。
- ちなみに上記細川忠興も文化財に関しては政宗と一緒に悪乗りしていた。政宗はともかく忠興、お前は当時日本最高峰のインテリだっただろうが。
- 直江兼続にシカトされキレたところ、猛烈な嫌味で切り返された。
- 「後ろ姿しか存じあげなかったもので……」→負けて逃げ回ってばっかりのところしか見たことが無い
- 「恐れさせた男」があまりに多すぎる。
- 何でもかんでもビビりまくるほど小心者だったからこそ、あれほど盤石な政権を建てたのも頷ける。
- ??「10%の才能と20%の努力…そして、30%の臆病さ…残る40%は…運だろう…な…」
- 何でもかんでもビビりまくるほど小心者だったからこそ、あれほど盤石な政権を建てたのも頷ける。
- 我慢強いくせに気が小さく、三方ヶ原の戦いでは「よっしゃ! 信玄の野郎ワシらに背向けよったがね! 今のうちに追撃だぎゃ!(方言間違ってたらごめんなさい)」と突撃してまんまと返り討ちに会い、ウンコを漏らすほど完敗する。
- 「これは味噌じゃ!」
- 我慢強いイメージどおり非常にケチであり、「フンドシは黄色いものを使え、汚れても目立たないから何百回も洗濯できる」と言いつけていたほど。
- また秀吉に並ぶほど助平であり、青年期によそで愛人を囲いまくったために正室・築山殿から何度も叱責されている。
- まあ子供がやたら多かったがために男は親藩・譜代に、女は外様大名に嫁がせ盤石な政権を作れたのは秀吉と真逆と言えるが。
- 自分の子供たちを見た目の良し悪しで差別していた。
- 見た目が良くないがゆえにぞんざいな扱いを受けた子と文献にもバッチリ書かれてしまったのが、次男・秀康と六男・忠輝。
- 日本史上最も出世した男であるがゆえに、良くも悪くも庶民的。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。
- あまりに美女に目が無さ過ぎるため、後述の細川忠興なんかは奥さんに「天下人に言い寄られそうになったら自害しろ」と本気で帯剣を勧めていた。
- しかも己の出自の低さ故に、高貴な身分の女性を特に好んでいたという。
- そこまでスケベだったにもかかわらず子供が出来るのが非常に遅く、2代で御家断絶となってしまった。こればっかりはしょうがないが。
- イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- 天下統一後はハッキリ言ってボケ老人である。
- 二度の朝鮮出兵、利休抹殺、秀次を一族郎党抹殺したうえに「殺生関白」の汚名を被せると、もうやりたい放題。そりゃ次の代で滅ぶわ。
- 何もかも金ピカで飾るという足利義満の猿マネに走り、千利休からも失望される。
- もっとも彼の親友である前田利家も同じようなことをやっていたのでヤンキー友を呼ぶとでも言うべきなのか…。
- ストッパーである弟・秀長が先に逝ってしまったのがターニングポイントだったのだろうか…。
- 家康と縁戚関係を結びたいが為に、すでに結婚していた妹を強引に離婚させて家康に嫁がせている。
- その妹、朝日姫も40歳を過ぎており、よその家に嫁いだ人を離縁させてまで無理やり押し付けられる家康の方も迷惑しただろうに…
なは行[編集 | ソースを編集]
- 福島正則
- 大酒飲みだが非常に酒癖が悪かった。
- 酔った勢いで部下に切腹を命じ、翌日「おい、アイツはどうした」と聞いたら「死にました」と言われ、生首に縋りついて泣いた。
- 母里太兵衛に「酒に酔ったら黒田武士は何もできん」と挑発して盃を勧め、怒った太兵衛と飲み比べをした。しかも敗北し、日本三名槍の一つ「日本号」を奪われる。かの有名な黒田節の由来である。
- 戦場では怖いもの知らずだったが、カミさんが物凄く怖く、浮気がばれて薙刀を振り回したため背中を見せて逃げ出した。
- 台風が直撃してボロボロになった城の修理を幕府に届け出るのを忘れたため、これ幸いと旧豊臣派の一掃を図る二代将軍・秀忠にあっさり改易を命じられてしまった。
- 細川忠興
- 当時の歴史書で「戦国で一番気が短い殿」と断言されてしまうくらい、とてつもなく短気。彼に比べれば信長など「相撲大好きおじさん」でしかないくらい。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- そんな性格なのに八十三歳まで生きた。ストレスを発散しまくったから?
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 降伏した相手も完全無抵抗でも皆殺しにする。あんまり殺し過ぎるので光秀(後述)から「降伏する者をやたらめったら殺しちゃダメなんだよ」とやんわり断り書きの手紙が来るくらい殺す。
- こんな性格のせいで、自分の妹婿を躊躇なく討ち取らせたため、妹がマジギレして顔に短剣で切りかかり、死ぬまで顔に傷が残った。武士なんだから避けろよ。
- 妻は明智光秀の娘・玉。とても美人であったが、忠興は独占欲も強かったため、色目を使った(と勘違いして)庭師を妻の眼前で首チョンパしている。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- その後、光秀は本能寺の変を起こし玉は謹慎となり、細川家に戻った時には忠興は妾を抱えていた。そんなんだから玉はキリスト教に帰依して「細川ガラシャ」に名を変えちゃうんだよ。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- こんな性格だから豊臣の学級委員長こと石田三成と反りが合うわけもなく、三成の書いた記録に「なんで俺、忠興公にここまで嫌われなあかんねん」と記されている始末。そんでもって、関ヶ原前哨戦で三成は細川屋敷を真っ先に狙い、その結果ガラシャは主の元に召される。
- 要はヤンデレ。
ま~わ行[編集 | ソースを編集]
- 毛利輝元
- 凡人すぎる…。
- 優秀な祖父や叔父たち、人望高かった父と異なり、突出した才が無く極めて地味。「毛利輝元のやった最大の偉業は、関ヶ原の戦いで何もしなかったこと」とか言われるくらい。
- 足利義昭という負債を抱え、秀吉には散々にやられて朝鮮出兵で全体の4割もの将兵をねん出され、関ヶ原の戦いでは「何もしなかった」が故に処刑は免れるがド田舎に転封、せっかく建てた広島城は分捕られ、後継ぎ騒動は勃発し…。
- 森長可
- キング・オブ・殺人狂。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 森家の当主なのに自ら槍を振り回して単騎で突撃し、慌てて部下たちが追いかけていくという、戦国時代なのに三国志みたいな合戦を行っていた。
- が、民間人の虐殺も率先して行っており、非常に評判が悪い。
- 「人質を無事に国境で解放する」と言っておいて、解放した直後に全員殺す、なんて序の口。
- 武芸一辺倒ではなく卑怯な手も平気で使う策謀家であり、清州会議後は神戸信孝(信長の3男)を利用するだけ利用した挙句、旗色が悪くなるや否や寝返っている。
- カッとなったら味方でも平気で殺してしまうため、小牧・長久手の戦いで戦死したら味方からも泣いて喜ばれた。
- ちなみにこの鬼を倒したのは井伊直政と水野勝成という、長可に勝るとも劣らないざんねんなコンビである。
- 人呼んで「戦国一のバーサーカー」である。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 何より恐ろしいのはあの超短気な信長に、1度も怒られたことが無いと言う事である。弟のコネとはいえ…。
- ある日、橋を渡っていた長可は、織田の門番から「ここは通行禁止です」と言われ、その場で殺してしまった。当然家臣団は激怒したが、信長は「橋で勝ったんだから、お前武蔵坊弁慶みたいだな! よしお前は武蔵守を名乗れ」と一笑に付したという。
- 塩の専売を「腐らないから内地でやれ」と命じるなど意外と合理的な思考を持つのだが、晩年にはすっかり政治がめんどくさくなってしまい、遺言書に「万が一にもワシが死んだら、城に火をつけて死ぬように」という恐るべき内容を書き記している。
- 山内一豊
- 嫁さんのオマケ。
- というか、地元以外では嫁さんの逸話しか知られてない。『功名が辻』はよくやったよ。
- 嫁さんのヘソクリで馬買った、城を家康に差し出した、くらいしか知らんかったよ。
- その地元では長宗我部派一層の為に「親睦を深めるために相撲大会を開きます」と言って一か所に集め、全員撃ち殺して黙らせたというひどい話が残っている。
- 嫁さんの話は信憑性がないが、こっちは史実と確定している。最近は慰霊祭も行われた。
- その後も長宗我部一派は差別されまくり、一豊の死後は上士下士の制度が幕末まで残り悲惨なことに…。