ざんねんな日本の政治家事典
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あ行[編集 | ソースを編集]
足立康史[編集 | ソースを編集]
- 「こんな政党(民進党)は日本の国会の恥ですよね恥。嘘つき、あほ、ね、ばか、どうしようもない政党ですよ」と言い放ち懲罰動議にかけられてしまう。
- 懲罰動議後も「『あほ』がダメなら『日本死ね』はいいのか」「関西ではアホは敬称だ」と居直っていた。
- 一方話題になっていた女性支援団体を批判する人たちを「モリカケのときのサヨクと同じレベル」「低俗」と煽りまくる。
安倍寛[編集 | ソースを編集]
- 安倍晋太郎のお父さん。
- 晋三氏の父方の祖父にあたるが、世間一般的には首相経験者である母方の祖父である岸信介の方が有名。
- 晋三氏が生まれる前に亡くなったため、晋三氏はそもそも関わったことが無い。
- 晋三氏の父方の祖父にあたるが、世間一般的には首相経験者である母方の祖父である岸信介の方が有名。
- 岸信介に比べるとクリーンな人物として知られており、また、反戦政治家でもあった。
安倍晋太郎[編集 | ソースを編集]
- 安倍晋三元首相のお父さん。
- 竹下登、宮澤喜一と共にニューリーダーと呼ばれたが…。
- 1986年に清和会のボスになるが、1991年に膵臓癌で亡くなってしまい、首相の座を逃してしまった。
- 安竹宮で唯一首相になれなかった人物。
- 「バランス感覚に優れた人物」という評価がある一方で、お人好しな面はしばしば批判されていた。
荒舩清十郎[編集 | ソースを編集]
- 佐藤内閣で運輸相に抜擢されるが、就任直後に国鉄に
圧力要請して自分の選挙区にあった深谷駅に急行停車駅に格上げしてしまう。 - 世論から批判を浴びるが「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」と言い放ち火に油を注ぐ。
- この時荒舩が国鉄に要求したのはこれ以外に深谷駅からの始発列車を設けろ、深谷駅に裏口を設けろ、八高線の輸送力増強しろ、新駅設置しろとか無理難題ばかりで、一番予算がすくなくできる急行停車を「武士の情け」(当時の国鉄総裁談)で実現することになったという。
- このあと様々な疑惑が持ち上がり(後援会の会員が経営する上野駅の構内食堂の拡張を国鉄に陳情など)、1966年10月14日辞任した。
石井光次郎[編集 | ソースを編集]
- 1960年の総裁選では、当時予定されていた投票日が演奏会で延期となったことにより、当選の好機を逃した。
- 笠信太郎氏は池田勇人氏に石井光次郎氏を推薦するように忠告したが、池田氏は耳を貸さなかった。
石破茂[編集 | ソースを編集]
- 一般の自民党員や国民の支持は高いが国会議員の間での人望がなく、総裁選で4回も負けている。
- 一時自民党を離れていたというのも大きい。
- 一時期は自分の派閥である「水月会」を立ち上げたものの、勢力を拡大できず派閥からグループに格下げした。
市川房枝[編集 | ソースを編集]
- 愛知出身の女性政治家、婦人運動家。
- 平和主義者だったと誤解されがちだが、戦時中は「女性にも兵役義務を課すべき」と主張していた。
- あの悪名高い東条英機ですら女性に対しては優しかったのに…。
- そのせいで公職追放を喰らった。
- 歴史的に兵役と参政権はセットだった面があるので、女性参政権獲得を目指すうえで筋は通ってる。
- かつて弟子だった菅直人氏を破門したことがある。
小川友三[編集 | ソースを編集]
- 1947年に初当選した参議院議員。
- 大量の質問主意書を出して話題をかっさらうも、議員バッヂをわざとなくして新たに議員バッヂを入手したり、議員会館で自身が関わってる企業の商談したり、果ては議員資格を使って当時統制下だった砂糖の横領や不正取得に関わる。
- そしてついに予算案審議において反対討論に立ったのに採決では賛成票を投じた。これに対して任期満了まで1ヶ月を残す4月7日に、参議院本会議において除名されてしまう。除名されたのはのちの日本共産党の衆議院議員とこれだけで参議院では唯一だった。
小沢一郎[編集 | ソースを編集]
- 人呼んで、壊し屋。
- 宮沢内閣の不信任案に賛成して自民党を離党。自民党を野党に転落させる。
- 新進党を結党。しかし都合が悪くなったので代表選をやった後、解党。
- 自分は自由党を率いて自民と連立入り。しかし言うことを聞いてくれないので連立離脱。その際に残留派は保守党として残る。
- 民主党に入って政権に就く。その後消費税で離党。民主党の野党転落に貢献。
- つくった日本未来の党も対立して分裂。
- この後維新や民進党分裂の遠因になったといわれている。
- 平成5年以降の日本史の政治分野を難しくした張本人である。
- 岩手選出だったにもかかわらず、東日本大震災が発生した際には(一応盛岡市には行ったものの)被災地には全く顔を出さなかったため、地元民から見放されてしまうことに…。
- それどころか妻や子供たちからも見放されてしまった…。
- 2021年(令和3年)の衆議院議員総選挙では初めて小選挙区で落選した。一応比例で復活はしたが…。
- 自民党の藤原崇氏に負けた。
- 細川・羽田政権では中心的と言える人物だったが、勢力では当時最強と言われていた日本社会党からは嫌われていた。
- 温厚な性格で知られる村山富市委員長ですら、小沢氏に対して不快感を露わにしていた。
- 羽田政権のときに小沢一郎が新生党や日本新党などを糾合して保守系会派「改新」を作って社会党を野党第一会派から追い落とそうとしたため(改新に参加した議員は130人、一方社会党は74人)、社会党のみならずさきがけまで怒らせてしまい連立離脱と羽田内閣の短命で終わった遠因を作ってしまった。
小渕優子[編集 | ソースを編集]
- 故・小渕恵三元首相の娘。
- 第二次安倍改造内閣で経済産業大臣に就任するも、政治資金の問題からわずか1ヶ月で干されてしまう。
- その後の家宅捜索では自宅のパソコンのハードディスクに穴が開けられていたことが発覚。
- 優子氏自身が隠蔽工作を図ったという疑いからドリル優子というあだ名がついてしまった。
- その後の家宅捜索では自宅のパソコンのハードディスクに穴が開けられていたことが発覚。
か行[編集 | ソースを編集]
河村たかし[編集 | ソースを編集]
- 東京五輪のソフトボール優勝に貢献した選手が、市長に表敬訪問に訪れたのだが、河村市長は女の子のメダルを手に取ってパクっと咥えて、汚いよだれまみれにしてしまい、せっかくの金メダルを台無しにしてしまった。
- これでケチがついてしまい、のちに干し柿が送られた際にかじりついたら批判が殺到してしまう。
- 国会議員時代は、『(名古屋から)総理を狙う男』というキャッチフレーズで「TVタックル」を筆頭に数々の討論番組に民主党議員の代表として出演していたが、結局は総理大臣どころか民主党の代表にすらなれなかった。
- ハッキリ言って、党内からの人気は無かったようだ。
亀井静香[編集 | ソースを編集]
- 広島出身の警察官僚、政治家。
- 男性なのに名前のせいで女性と思われがち。
- そして名前は静香だが態度はジャイアン(武)と言われている。
- 保守政治家を自称している割にはキューバのチェ・ゲバラを尊敬していたり、北朝鮮による拉致問題の解決を遅らせてしまったことなどもあって厳しい評価が下されることも多い人物。
- 小泉首相の新自由主義的な政策に反対したため自民党から追放された。
- 官僚時代に浦和市の居酒屋でヤクザ風の男3人を叩きのめしたことがあり、店内が大騒ぎになったことがある。
- もっとも、そのヤクザ風の男どもが近くにいた客に絡んでいたのが悪いのだが。
- 石原慎太郎は親友だったが一時的に仲違いしていたことがあった。
- しかし2013年の円卓会議では共演し仲直りしている。
- 石原が亡くなった際には深く悲しんでおり、「馬鹿野郎…!先に死にやがって…!」と言っていた。
河本敏夫[編集 | ソースを編集]
- 経済通、政策通として知られていた。
- 総裁候補に挙がっていたが、自身がオーナーである三光汽船の倒産と若手の抜擢を理由に総裁になることはできなかった。
- 決して人前で笑顔を見せない事から、付いたあだ名が『笑わん殿下』。
小泉進次郎[編集 | ソースを編集]
- 地方遊説では神的存在。
- 各地の方言を勉強し、自ら原稿を作っている。物書きに書かせるあぐらをかいた政治家とは一肌も二肌も違った立派な政治家。
- しかし結婚したころから変わってしまった。
- そもそも結婚会見を公の場である総理官邸で行ったことに批難が出る。
- これに関しては自民党幹部が図った説もあるので、個人だけに責任があるとは言い切れないが…
- 丸山穂高への糾弾決議の採決を自民党の意向に反し棄権。厳重注意処分を受けることに。
- その後大臣になっても発言が宙に浮いてしまっている。「ポエム大臣」と呼ばれる始末。
- 被災地に赴いた際に「環境省と付けた人たちは私の代理だと思って意見を言ってください」などの名セリフもあるし、国会の建物外で記者会見を行うなど画期的なことはやってはいるのだが…
- 「環境問題はセクシーに」「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている」などの発言から、自身の職務及びそれにまつわる問題の本質と解決方法を理解していない疑惑がもたれる。
- そもそもでき婚だったのがストレスだったのかもしれない。自業自得と言われればそれまでだが。
- そもそも結婚会見を公の場である総理官邸で行ったことに批難が出る。
河野洋平[編集 | ソースを編集]
- 自民党が野党に転落した時期に総裁を務め、史上初めての「総理大臣になれなかった自民党総裁」となった。
- 一応翌年には自民党が与党に復帰したものの、首相は河野ではなく社会党の村山富市が務めている。
- 「河野談話」は右寄りの人々から評判が最悪。
- 政党の項目の「新自由クラブ」も参照。
さ行[編集 | ソースを編集]
櫻井規順[編集 | ソースを編集]
- 1989年参院選のとき、沼津市の演説会場に向かう途中、静岡駅から新幹線に乗車した。
- その列車は目的地の三島駅を通過するひかりだった。
- そして関係者に圧力をかけ列車は三島駅で臨時停車した。
- 批判が殺到し党の公認を取り消され、当日の輸送指令長やその上司あわせて3人が訓告や厳重注意の処分された。
- ただ、当時の土井たか子委員長率いる社会党のマドンナ旋風の追い風を受け、直後の参院選では自民党候補に大差で勝利。
杉田水脈[編集 | ソースを編集]
- 失言女王
- 具体的にどこでどういう発言があり、どのような騒動が…… と全部並べているとページがかなり長大化するだろう。
- 彼女を無理やり援護しようとしたライターも巻き込んで『新潮45』を無期限休刊(実質的に廃刊)に追い込んだ。
- 守旧・保守的家族観の思想などがネット右翼からは支持されており、数々の失言も彼らにより理非などどうでも良しにフォローされている。
- 彼らをいちいち論破するほど社会人は暇でないから構っていられないのだが、そういう社会の反応を「自分たちは支持されている」と思い込んでいる。実におめでたい。
- 彼女の言動からは「女の敵は女である」という格言が想起される。
鈴木俊一 (東京都知事)[編集 | ソースを編集]
- 世界都市博覧会を開催しようしたが1995年都知事選で後継とみられていた石原信雄が落選してしまう。
- 石原ではなく当選した青島幸男知事により世界都市博覧会は中止が決定された。このとき鈴木は「都政にサリンをばら撒かれたようだ」と発言し、各方面から批判された。
- そもそも世界都市博覧会は1970年万博事務総長を鈴木が務めていた際に最後まで首都圏開催を主張していたが叶わなかったため開催しようとしたものだった。
鈴木宗男[編集 | ソースを編集]
- 親露すぎる発言が物議をかもす。
- 長女を民主から無理やり自民に移籍させたくせに自分は維新にいる。そのせいで北海道での維新の会が伸びない。
- 自民党議員時代、ある皇族に対して「俺を知らないのか!名前を名乗れ!」と喚き散らしたことがあるらしい…。
たな行[編集 | ソースを編集]
立花孝志[編集 | ソースを編集]
- NHK党の党首。
- 一番のウリは、NHKと契約しないこと。
- 参議院議員に当選後、議員会館にテレビを設置し、NHKと契約してしまった。
- そして速攻訴えられた。
田中直紀[編集 | ソースを編集]
- 田中眞紀子の夫。
- 眞紀子が自民党を離党してから眞紀子と自民党との板挟みに苦しんだあげく夫婦一緒に民主党に入党。
- 自民党時代、青少年有害社会環境対策基本法案を起草したが民放テレビが特番を組むほどの猛反対を受けて提出を断念。
- 民主党政権時防衛大臣に就任し自民時代では叶わなかった入閣を果たしたが…。
- 就任直後からテレビ番組などで国防に関する知識の欠如をさらけ出してしまう。
- 国会では模範解答の耳打ちで「腹話術」と非難される。
- 何回も審議が中断するほど事実誤認答弁を繰り返す。
- 審議を勝手に抜け出して「行方不明」となり議員食堂でコーヒーを飲んでしまう。
- 後任の防衛相を民間から招聘せざるを得なくなってしまった。
- 2016年、民進党公認候補として出馬した参院選で落選したばかりでなく法定外文書を頒布した容疑で書類送検されてしまう。
- 公民権停止となり民進党を離党。
田中眞紀子[編集 | ソースを編集]
- ご存じ、田中角栄の娘。
- 父・角栄同様、演説の名人であったが…
- その発言で問題になったことも数知れず。
- 有名なのは、急死した小渕恵三元首相に「お陀仏さん」と言ったことで、大騒動になり眞紀子が一時謹慎するまでになった「お陀仏さん事件」。
- その発言で問題になったことも数知れず。
- 父・角栄が脳梗塞で倒れた際に、強制退院させたことがある。
- 文部科学大臣時代に大学の不認可を行い大問題になった。
谷垣禎一[編集 | ソースを編集]
- 麻生太郎氏の後継として自民党総裁に就任したが、民主党政権が誕生した直後だったため首相になることができなかった。
- この人と同じ。ちなみに宏池会所属だったのも河野氏と同じ。
- 麻垣康三の中で唯一首相の座を逃してしまった人物。
- サイクリングが趣味だったが2016年に自転車事故で転倒して仕事を続けるのが難しくなったため、政界引退を余儀なくされた。
土井たか子[編集 | ソースを編集]
- 「おたかさん」の愛称で知られる。
- 日本初の主要政党(日本社会党)における女性党首や女性初の衆議院議長などを歴任。日本初の女性首相の呼び声も高かった。
- 1989年参院選には、「マドンナ旋風」で社会党を勝利に導くが…。
- 旧・民主党の結党時には、鳩山兄弟のいわゆる「排除の論理」で参加を断られる。その後、社会党から改名した社会民主党の党首に。
- 2000年代の北朝鮮による日本人拉致問題が明らかになると、社民党は北朝鮮寄りの政策を取っていたことが批判され、社民党はここから一気に没落の道へと転げ落ちる。
- 2003年の総選挙で比例復活も社民党惨敗の責任を取って党首を辞任、2005年の総選挙で比例区で出馬も落選。
- その後の選挙にも出馬することなく、ひっそり政界を引退した。
中川一郎[編集 | ソースを編集]
- 下記の昭一の父親。出身地から「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。
- 1963年の衆議院選挙で初当選を果たし、1977年の福田改造内閣で農林大臣(のち農林水産大臣)として初入閣。
- しかし1979年に自由革新同友会(事実上の中川派)を結成したあたりから少しずつ運が傾きだす。
- 酒に強かった中川の飲み方が「朗らかそのもの」から「愚痴っぽい飲み方」になっていったのはこの頃だったという。
- 1982年の自民党総裁選挙では推薦50人の確保に苦労し、他の派閥から議員の名前を借りてどうにか立候補。
- しかし結果は予備選最下位で本選にすら残れず。この頃から奇行も目立つようになってしまった。
- そして翌1983年1月9日、札幌のホテルのバスルームで亡くなっているのを妻が発見。まだ57歳の若さだった。
- 当初の死因は「急性心筋梗塞」だったが、2日後に「自殺」に訂正されている。
中川昭一[編集 | ソースを編集]
- 安倍晋三や麻生太郎と共に「ANA」というあだ名で期待されていたのだが・・・。
- 父親の中川一郎譲りの大の酒好きで、政界で重要な役を占めるにつれて酒癖を指摘されることが多かった。
- そして2009年2月にG7の財務大臣・中央銀行総裁会議の場で酩酊状態で会見してしまい、それが原因で失脚してしまった。
- その後は再起を図って同年8月の選挙に出馬するが、泥酔会見の余波が抜けず落選。
- そして10月、56歳の若さで自宅で急死した。
- 中川一郎は57歳で自殺しているのだが、彼も父親と同じ悲惨な最期を遂げてしまったのである。
- ANAの中では彼だけ総理大臣になることが出来なかった。
- 父親の中川一郎譲りの大の酒好きで、政界で重要な役を占めるにつれて酒癖を指摘されることが多かった。
- 昭一の死後は妻の郁子が議員を継いでいるのだが、郁子は同じ自民党の議員と不倫してしまった。
- 口唇口蓋裂を持って生まれたため2回手術を受けている。
- このため彼の母は昭一がこのようになったのは父の中川一郎の家系のせいだと責めた。
中川秀直[編集 | ソースを編集]
- こちらは女好きの中川と呼ばれている。
- 第2次森内閣で官房長官に就任するも、愛人問題が報じられて3ヶ月で干されてしまう。
- 中川昭一氏とは苗字が同じってこと以外の共通点は殆ど無い。血縁関係も無い。
- また、秀直氏はリベラル派であり、保守派の昭一氏とは対照的。
- ちなみに息子の俊直も同様のトラブルを起こしている。
永野茂門[編集 | ソースを編集]
- 羽田内閣で法務大臣に任命されたが、その直後の毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言したのが問題視され、在任僅か11日で法務大臣を辞任(事実上の更迭)。
- 戦後の大臣最短在任記録2位(当時、現在でも3位)という短さだった。
- 因みにあまりにも在任期間が短すぎたため、死刑の執行人数はゼロ。
二階俊博[編集 | ソースを編集]
- 和歌山出身の政治家。自転車事故で入院した谷垣禎一氏の後継として自民党幹事長に就任した人物。
- 2Fと呼ばれている。
- 安倍政権下で日本の観光立国化を推進した人物だが…。
- 経世会出身者の例に漏れず中国と太いパイプを持つため、右寄りな方々からの評判はあまり良いとは言えない。
- 和歌山にパンダが多いのも彼のおかげ、とも。
- 一時期死亡説が流れていたが、これに激怒して「流した奴を叩き殺さなければならない」と発言し、物議を醸した。
野々村竜太郎[編集 | ソースを編集]
- 言うまでもない。
- 「城崎温泉」「号泣会見」それだけでわかるはず。
- さよう(佐用)でござるか。
- その後、ネット上であの会見のコラ画像や動画が出回るのにとどまらず、アニメ『銀魂』、ドラマ『ドクターX』などでもパロディ化される始末。
- 唐澤貴洋弁護士と並びネットのおもちゃとされた人物として有名。
- 「城崎温泉」「号泣会見」それだけでわかるはず。
は行[編集 | ソースを編集]
鳩山邦夫[編集 | ソースを編集]
- 鳩山一郎の孫であり、由紀夫氏の弟でもある。
- 2007年に「友人の友人がアルカイダ」という発言をし、物議を醸した。
- 地上デジタル放送のイメージキャラクターを務めていた草なぎ剛氏がある事件を起こして逮捕された際、総務大臣だった邦夫氏は「そんな者をイメージキャラクターに選んだのは恥ずかしい」と発言し、大バッシングを受けた。
- 法務大臣時代、死刑執行人数が多かったため「死神」というあだ名がついた。
- 単純に人数だけなら上川陽子氏の方が上なのだが、上川氏の場合は13人が死刑になったオウム真理教事件の死刑執行分が含まれている。
- 2016年に十二指腸潰瘍で亡くなった。享年67。
- 兄より後に生まれたが亡くなったのは兄より先。
- 兄曰く、「弟だが人生の先輩」らしい。ちなみに政界入りしたのも兄より先。
- 兄より後に生まれたが亡くなったのは兄より先。
- 実は邦夫氏の方が(由紀夫氏よりも)祖父の一郎の考え方に近いらしい。
浜田幸一[編集 | ソースを編集]
- 「政界の暴れん坊」として、乱闘には付き物に。
- 例のラスベガス賭博事件では、すられたカジノが当時「浜幸先生のカジノ」として有名に。
- 「40日抗争」の時の、反対派議員に激怒しバリケードを破壊して大太刀回りを繰り広げた姿は、何度も繰り返しテレビで放映される。
- よせばいいのに、予算委員長に就任するも…
- 共産党議員にとんでもない暴言を吐いてしまい、結局辞任。
東谷義和[編集 | ソースを編集]
- 本名よりも「ガーシー」の通称がよく知られる国会議員。
- 2022年(令和4年)7月の参議院議員選挙の比例代表で、NHK党から初当選した。
- 「寝てるおっさん議員を叩き起こす」などと豪快な公約を掲げ、当選したにもかかわらず、1度も国会に出席せず、結局寝てる議員を叩き起こすことはなかった。
- 国会からも陳謝を要求されているにもかかわらず、それすらも無視。
- 仮に陳謝したところで、どうせ「反省してまーす」というような稚拙なものになったであろう。
- 国会からも陳謝を要求されているにもかかわらず、それすらも無視。
- そして、2023年(令和5年)3月になって、正式に最も重い除名が決定した。
- さらに、除名の直後に暴力行為等処罰に関する法律(暴力行為等処罰法)違反による脅迫とかの容疑で逮捕状まで出る始末。
平沼赳夫[編集 | ソースを編集]
- 岡山を地盤とする政治家。戦前に首相を務めた平沼騏一郎の養子である。
- 大協石油の役員だった中川恭四郎の息子として生まれ、赳夫の曽祖父の弟であった騏一郎に引き取られた。
- なお平沼家は赳夫の母方の家系である。
- 大協石油の役員だった中川恭四郎の息子として生まれ、赳夫の曽祖父の弟であった騏一郎に引き取られた。
- 日東紡績で働いた後、佐藤栄作や中川一郎の秘書を経て、自主憲法の制定を主張して選挙に挑んだが2回とも落選。
- その後、1980年に初当選し、それ以降は石原慎太郎や亀井静香といった保守派の政治家と行動を共にするように。
- 保守派なのに自身が村山富市内閣に入閣していたのもあって村山談話に署名してしまっている。
- 年金が未納だったことがバレてしまった。
- 第1次小泉内閣で経済産業大臣を務めていた頃、日本国債の格付けがボツワナの国債より下だったことに触れ、ボツワナの国民やエイズ患者に対する差別的な発言を行い、物議を醸した。
- 郵政民営化へ反対していたこともあり小泉純一郎首相と対立。一時期、自民党から離党していた。
- 他にも小泉氏の政治手法や拉致問題に関する考え方の違いから対立していた。
- 後に安倍晋三氏や麻生太郎氏らから復党を要請されたが、断っている。
- 2010年に新党たちあがれ日本(後に太陽の党に名称変更)を結成するが、僅か2年半後に日本維新の会と合併することに。
- その後、維新から独立した次世代の党を立ち上げるが、最終的には自民党に吸収されてしまった。
- 赳夫自身も自民党に戻っている。
- その後、維新から独立した次世代の党を立ち上げるが、最終的には自民党に吸収されてしまった。
ま~わ行[編集 | ソースを編集]
丸山穂高[編集 | ソースを編集]
- 北方領土での「領土を守りたいなら戦争すべき」という旨の発言で批判を受けた。
- 一方、自称「憂国の士」連中が韓国には強気な癖にロシアにはだんまり、という輝かしきダブルスタンダードをあぶり出したという功績はある程度評価しなければならない。
- 島根県に属するある離島の関連でも似たような失言をやらかす。
- その際、ある著名人の挑発に乗って「3億円くれるならやります」と返答するも、相手方から本当に用意する素振りを見せられて大慌ての醜態を晒す。
- 確かに一般論として「わざとメチャクチャな条件を提示し相手から議論を引っ込めるよう誘導する」のは論戦のテクニックの一つだが、相手をよく見なければならない。
- その際、ある著名人の挑発に乗って「3億円くれるならやります」と返答するも、相手方から本当に用意する素振りを見せられて大慌ての醜態を晒す。
- 「北方領土を取り返すなら戦争するしかないのでは?」というある意味日本のタブーを口走ったともいえる(笑)。
- 結局反省したフリで辞職しなかったが、やはりほとぼりが冷めた後はTwitterでの横暴な発言や行動(例:国会議員のJR線無料特権を乱用するなど)が目立つ。
- 某大物YouTuberがポスターの横で写真を撮っていたことから彼を知り、その問題を本会議にもっていったとか。
- しかし、代理人などが起こした騒動で、迷惑をこうむったらしい(本人談)。
- 上記の問題発言以前にも飲酒後に一般人とトラブルを起こしたり、Twitterでの発言が原因で橋下徹と揉めたこともあった。
- 前者ではその後「断酒宣言」をしていたが、再度酒を飲んでしまいあの発言をしてしまった。
吉田茂 (内務官僚)[編集 | ソースを編集]
- 首相とは別人である。
- 第一高等学校(現・東大)在学時代、私立探偵が身辺調査に来たというので、よくよく聞いたら外務省に入省していた吉田茂(外務省)と間違えていた。
- 近衛文麿の秘書が来たので話を聞いたら、当時の岡田啓介首相辞任後にの広田弘毅外相を次の首相にしようと口説くために外務省の吉田茂に掛け合おうと秘書を行かせたら間違えてきてしまった。
- 本人が米内内閣で厚生大臣に就任した際に、外務省の吉田にお祝いがきてしまう。当の外務省の吉田は激怒したという。
- 濱口内閣の時、外務省の吉田が外務次官、内務省の吉田が社会局長官で同席する機会が多かったため「どっちか名前だけでも改めたらどうだ」と提案された。
- 内務省の吉田は「僕は生まれてからずっと吉田茂。向うの吉田茂(外務省)は元は竹内の姓を名乗っていたじゃないか。」と拒否したという。
- なお、両方の吉田には和子という娘がいた。
横路孝弘[編集 | ソースを編集]
- 「社会党のプリンス」として衆議院議員を務めたのち、北海道知事を3期務める。民主党に入党後、衆議院議員に復帰。民主党政権下では衆議院議長を担当した。
- 北海道知事時代の1988年、悪名高き「世界・食の祭典」で約90億円にものぼる多額の赤字を計上し、関係者が自殺する事態に発展。
- 道議会から、知事の横路に対して問責決議が出される始末。
渡辺美智雄[編集 | ソースを編集]
- 税理士の資格を持っており、経済通として知られており、総理大臣候補にも挙がったが、リクルート事件により、実現しなかった。
- 1994年4月の細川内閣退陣の際、新生党の代表幹事を務めていた小沢一郎から「自民党からの離党」を条件に首相就任を打診されたことがある。
- しかし同調者が10数名に留まったこともあり、自民党の河野洋平総裁からの慰留を受け入れる形で離党を断念。
- 更に同年、羽田内閣退陣後の首班指名選挙でも「社会党の委員長(村山富市)を首相なんかに推せるか」と造反し、連立政権の統一候補だった海部俊樹に投票した。
- この離党未遂や造反投票といった行動は既に年齢や体力面でもう時間がなく、自分より10歳以上若い河野に差を空けられたことへの焦りから起こしたものだったと言われている。
- 結局翌1995年に心不全のため72歳で死去。
- この離党未遂や造反投票といった行動は既に年齢や体力面でもう時間がなく、自分より10歳以上若い河野に差を空けられたことへの焦りから起こしたものだったと言われている。
- 名前を言ってはいけない某協会の信者をごり押しで自民党公認で選挙に出馬させた(結果は落選)。
- 歯に衣を着せない物言いでも知られており、それが仇でアメリカから反感を買ったことがあった。
- みんなの党の代表を務めた渡辺喜美の父親でもある。
- ちなみに上記の離党者の一人に柿沢広治がいて偶然にもその息子もみんなの党にいた。