ざんねんな格闘技事典

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分割済み 編集

団体 編集

プロレス 編集

SWS
  1. 1990年に新日本・全日本から多くの選手・スタッフを引き抜いて誕生したプロレス団体だが、週刊プロレスにバッシングされまくって1992年に崩壊。
    • 当時週刊プロレスの編集長だったターザン山本は後年、ジャイアント馬場から金銭を受け取って、その見返りとしてSWSをバッシングしていたことを暴露本で告白している。
全日本女子プロレス
  1. 1968年に創立、ビューティーペアやクラッシュギャルズ、極悪同盟など数々のスター選手を輩出し、「女子プロレスブーム」の火付け役となる。
    • しかしその裏で、経営陣一族の浪費癖や経営多角化の相次ぐ失敗などで巨額の借金を抱えてしまう。
    • さらに、80年代の終わりにはスター選手だったクラッシュギャルズの2人(ライオネス飛鳥・長与千種)と2人の宿命のライバル・ダンプ松本が相次いで引退して以降、ガクッと客足が遠のく。
    • 1996年頃には、倒産騒動があり、主力選手が他団体に移籍する始末。
  2. 結局、巨額の借金を抱えたまま、2005年に惜しまれつつ解散した。
日本プロレス
  1. かの力道山が設立した、昭和プロレスブームの萌芽となったプロレス団体の金字塔であるが…。
  2. 力道山暗殺後に豊登が経営権を担ったが、生来のバクチ好きに端を発して放漫経営を招き、病気療養を名目に豊登を追放した。
    • 更に国際プロレスの分離独立を招いてしまう。(これに端を発し、今のプロレス団体の乱立を招いたと言えなくもない)
  3. その後に勃興したBI砲ブームでボロ設けした結果、幹部たちが酒色に溺れ腐敗を極めた。
  4. あまりの腐敗ぶりに猪木と馬場がキレてしまい、ボイコットしようとした結果、上田馬之助の内通で猪木が「ヒール」扱いされて誹りを受け、結果的に猪木による新日本プロレスが創立される。
  5. 結局、猪木脱退に伴うTV中継の視聴率低下、それに伴うTV局側とのゴタゴタもあって馬場が愛想をつかしてしまい、全日本プロレスにごっそりメンバーを引き抜かれて、瞬く間に落日を迎えた。
  6. 残った大木金太郎はなんとかして日プロを持たせようとするも、新日が「日プロと共同でやってもいいけど社名は『新・日本プロレス』な」という明らかにナメてるとしか思えない条件を突き付けられ、大木と新日が大喧嘩してとうとうTV局が日プロから撤退してしまった。
    • こうしてTV中継が無くなった事もあって観客動員数も右肩下がりとなり、1973年を持って解散することとなった。

その他 編集

戦極
  1. PRIDE消滅後に立ち上がった新団体のひとつだが、地上波放送がなかなか獲れず、テレビ東京がレギュラーのダイジェスト番組を放送するにとどまった。
  2. その後、吉田道場勢が離脱してから迷走が続き、メインスポンサーだったドン・キホーテの撤退でとどめを刺された。

人物 編集

プロレス 編集

アジャ・コング
  1. 本名が宍戸江利花なので、フジテレビの「めちゃイケ」でエリカ様をやる羽目になってしまった。
  2. 相手に裏拳を当てた後、フォールしようとしたら、相手に丸め込まれて、3カウントを取られてしまったことが何度もあった。
泉田純
  1. リングネーム代わり過ぎ
    • 竜舞→竜角→竜(本名)→純至→純寿→純佑→純太朗。占い師の忠告を素直に聞き続けた結果とはいえ…。
  2. ノア退団後の2012年にノアの内情を暴露する本を刊行し、その中で巨額詐欺事件に遭っていたことを告白。
  3. 刊行から5年後の2017年に自宅で51歳の若さで死去。
  4. 人格は良かったがスター性や華が無く、メジャー団体のタイトル歴は全日本プロレス時代のアジアタッグ王座のみ。
大仁田厚
  1. こっちは引退し過ぎ
    • 1回目は1985年、2回目は1995年、3回目は2003年、4回目は2005年、5回目は2009年、6回目は2010年、7回目は2017年…。
    • そして引退するたびに復帰を繰り返している。
  2. 1990年代にインディー団体のFMWを限りなくメジャーに近い団体まで持って行ったのは評価すべきだが、1990年代後半以降のインディー団体乱立の原因になったのも否定はできない。
  3. 2001年から2007年までは参議院議員を務めたが、パフォーマンス中心だったこともあり目立った実績のないまま政界を引退した。
垣原賢人
  1. 現役期間中に所属した所属団体が、崩壊・分裂・経営不振などといった良くない事態に陥るというジンクスがある。
    • 新生UWF→デビュー直後に分裂。
    • Uインター→新日本との対抗戦で佐々木健介を破り名を上げるも、1996年12月に崩壊。
    • キングダム→後輩の桜庭和志や金原弘光らの台頭に影が薄くなり、1998年2月に解散。
    • 全日本→三沢光晴率いるアンタッチャブルの一員となって活躍したが、2000年6月に分裂。
    • ノア→フロントへの不信感を募らせ、8月の旗揚げ戦で大森隆男を一方的に叩きのめして、そのまま退団。
      • 垣原は引退直前のインタビューで「試合後、大森から『ああいうのはボクは出来ない』と言われ、自信を無くした。小橋さんらが真剣に相談に乗ってくれてありがたかったが、本当はこの世界を辞める気でいた」と語っている。
    • 新日本→ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝を果たしたが、怪我を繰り返し2006年4月に引退。
  2. 昆虫採集が好き過ぎて、ブラジルや北朝鮮の密林を探索しようとしたことがある(いずれも断念)。
剛竜馬
  1. 1972年に国際プロレスでデビュー。翌1973年には早くも海外に武者修行に出され、カナダでは新日本の吉田光雄(後の長州力)をタッグを組んだこともある。
  2. 1976年に凱旋帰国。ファン投票で「剛竜馬」という新たなリングネームを名乗り、国際の次代のエースとして期待されていたが…。
    • 金銭面の不満から1978年5月に国際プロレスを退団し、新日本プロレスに移籍。
  3. 移籍後に藤波辰巳とWWFジュニアヘビー級王座のタイトルを懸けて2回戦ったがいずれも敗れ、翌1979年前半は海外遠征に励んだ。
    • 前回のタイトルマッチから約一年後の10月2日の大阪大会で逆さ抑え込みで藤波から初勝利を挙げたが、2日後の蔵前でのリターンマッチに敗れ2日天下に終わってしまう。
      • この二連戦以降、剛は藤波を生涯のライバルと定め、1980年に新日本に入団。
  4. しかし新日本入団後はなかなか日の目を見ず、前座戦線が定位置となってしまう。
    • 1981年にはテレビ朝日のドラマ『警視庁殺人課』にレギュラーとして出演していたが、第13話を最後に途中降板となってしまった。
  5. その後、新日本の内部対立から発生したUWF(第1次)の旗揚げメンバーとして名を連ねたが、ラッシャー木村と共に4ヶ月で退団。
    • UWFへの参加もラッシャー曰く「新間(寿)さんへの義理で参加していただけ」とのこと。
  6. 1984年11月には全日本プロレスに移籍。元国際のメンバーで「国際血盟軍」を結成したが、選手事情もあり1986年に人員整理の一環として解雇されてしまう。
  7. その後は建設内装業の下働きやアメリカのAWA参戦・1シリーズだけの全日本スポット参戦を経て、1988年に「パイオニア戦志」の設立を発表。
    • 翌1989年4月30日に旗揚げ戦を行い、物珍しさから後楽園ホールを満員にしたが内容はボロボロ、来賓に来ていた藤波からは酷評を受けてしまう。
  8. 1990年からは「パイオニア軍団」として新日本に参戦したが評価は厳しく、12月の藤波とのシングルマッチを最後に業務提携を終了。パイオニア戦志も活動休止となってしまう。
    • 藤波とのシングルマッチ直前の週刊ゴングのインタビューで剛は「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きていけない、プロレスバカですよ」と語っていたが…。
    • 一時期、パイオニア戦志をSWSに吸収合併する話もあったが、選手会のほぼ全員から反対を受けて頓挫。
  9. パイオニア戦志の活動休止から1年半後、新たなスポンサーを獲得し1992年に「オリエンタルプロレス」を旗揚げ。
    • 「出前プロレス」や「ほっかほかビデオ」などのユニークな企画で当初は好調だったが…。
      • 剛が海外遠征の利益をピンハネしていたというスキャンダルが発覚し、選手会から永久追放処分を受けてしまう。
  10. 1993年8月にはたった一人で「剛軍団」を結成したが、執拗に再戦を要求した藤波からは「二度と名前を出すな」と絶縁宣言を受けてしまう。
    • そんな中、旗揚げ1周年の後楽園大会で試合中に何度も「ショア」と叫び、試合後のマイクで「私はプロレスしかできないプロレスバカです!」と発言。客の喝采と「バカ」コールを浴び、プロレスマスコミでも大々的に取り上げられた。
    • これ以降、プロレス界でちょっとした「プロレスバカ」ブームが起き、テレビ朝日の「リングの魂」にも数回連続で出演。
    • 1995年4月2日に東京ドームで行われたオールスター興行「夢の懸け橋」の第4試合にも参戦し、試合後には観客席から「ショア!」「バカ!」という掛け声が鳴り響いた。
  11. この勢いで個人プロダクションの「冴夢来プロジェクト(冴夢来プロレス)」を1996年に設立。
    • 新人の育成・弁当付きの無料興行など太っ腹な企画で話題を呼んだが、金の使い方を巡ってスポンサーと衝突、1年程で呆気なく崩壊してしまった。
  12. 様々なトラブルで90年代末にはプロレス界からは完全に干され、上がれるリングは国際の先輩だった鶴見五郎率いる国際プロレスプロモーションぐらいしかなくなってしまった。
    • 2001年には鶴見の計らいで引退試合が組まれたが、ギャラに納得できない剛がドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴らされる前代未聞の引退試合に。
  13. 2003年にはひったくりの疑いで逮捕され(本人は否認)、更に東京スポーツがこの報道に合わせて、2001年に剛がゲイビデオに出演していたことを報じた。
    • このゲイビデオ出演は、CSの番組で新日本の田中リングアナが既に存在を示唆していたり、週プロの投書欄で「剛竜馬が信じられないようなビデオに出演している」という噂が立っていたため、少なくともプロレス関係者の中では周知の事実だったと思われる。
    • 剛本人も後に「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」とゲイビデオ出演の事実をあっさり認めている。
  14. 釈放後は更にボロボロになり、零細団体のエース格となったが1年後に団体が自然消滅。
    • 半引退状態を経て2006年にDDTで復帰戦が組まれたが、過度の飲酒で身体は無惨なほどに衰えていた。
    • 2009年には若手の時の剛と顔が似ている竜剛馬というレスラーと夢のタッグを結成したが、もうこの頃になると立っているのがやっとという状態だった。
  15. 生涯最後の試合の約1ヶ月後の10月7日、自転車を運転中に交通事故に遭い、その際開放骨折した右手首の傷口から入った細菌が原因となり、敗血症のため53歳という若さで死去。
ザ・コブラ(ジョージ高野)
  1. デビュー戦がざんねんだった。
    • 1983年11月3日に蔵前国技館で行われたザ・バンピート(デイビーボーイ・スミス)戦で日本デビューを果たしたが、スミスが技を受けようとしなかったり、トップロープ越しのノータッチ・プランチャーを仕掛けたがスミスがかわして鉄柵と床へ激突、両膝に大ダメージを受けてしまった。
      • このデビュー戦は後日ワールドプロレスリングで中継されたが、途中からはダイジェストになっていた。
        • プランチャーを仕掛けたシーンはカットされている。
  2. その後ジュニアヘビー級の二冠王(NWAとWWF)となったが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。
    • 新設されたIWGPジュニアヘビー級王座には二回挑戦したが、二回ともタイトルを獲得できなかった。
      • 1回目は越中詩郎に敗れ、2回目の高田延彦(当時伸彦)戦は両者リングアウトでタイトルは移動せず。
佐山聡
  1. 言わずと知れた初代タイガーマスク。
    • 新日本伝統のストロングスタイルと空手を活かした打撃技、メキシコで培ったルチャリブレを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルで、日本全国に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。
  2. しかしざんねんなエピソードも多い。例えば大の甘党で「ようかんをポッキーのように食べていた」「山籠もりで10kg痩せたのに下山してしばらくしたら元に戻った」「喫茶店で甘いものばかり注文して1万円近く払った」など…。
    • ある時の記者会見で「今は107kgだが、試合までに97kgまで減らす」と宣言したにも関わらず、会場で赤福餅を頬張っていたことを報道陣に目撃されてしまった。
      • 佐山は「4個しか食べていません。赤福餅は美味しい」と弁解したが、対戦相手の丸藤正道からは「それを2個に減らせば減量できる」とツッコまれた。
    • このため、新日本退団後は体重が急増しジュニアヘビー級の体重に戻せなくなってしまった。
  3. 思想がやたら右寄り。特に戦前の日本軍を悪く言われると物凄く怒る。
    • 2001年の参議院選挙に自由連合公認で出馬した時の公約は「一般人の拳銃所持を認める」「悪人を見たら撃ち殺せ」だった(当然落選)。
ジャイアント馬場
  1. 説明不要、『世界の巨人』。故に残念エピソードもダイナミック。
  2. ある日の試合中、トップロープから攻撃しようとしたら、足を滑らせ、トップロープに股関を強打した。
    • ちなみに、その試合は日本テレビで生中継され、全国のお茶の間に流れてしまった。
スーパー・ストロング・マシン
  1. 当初は「キン肉マン」をモチーフにしたレスラーになる予定だったが、作者(ゆでたまご)や集英社の了承を得ていなかったため、ボツとなっている。
  2. 1985年の熊本での試合後に、藤波辰巳(当時)に「お前平田だろ!?」と言われてしまった。
  3. 1994年のSGタッグリーグに蝶野正洋とタッグを組み出場。
    • 優勝決定戦(VS武藤敬司・馳浩組)では試合の終盤に自らマスクを脱ぎ、孤軍奮闘したが武藤のムーンサルトプレスを喰らいフォール負け。
      • 試合後、リング上で「こんなしょっぱい試合ですいません!」とファンに謝罪した。
高野拳磁(高野俊二)
  1. 上記のジョージ高野の弟。身長200cm・体重130kgという恵まれた体格だったが、練習嫌いが災いし大成することなくフェードアウトしていった。
    • 山本小鉄は「小橋健太のような根性があれば、ゆうに前田日明を超える逸材だった」と語っている。
ハル薗田
  1. 全日本プロレスで選手としてだけでなく若手のコーチとしても活躍していたが南アフリカ航空295便墜落事故で新婚の妻とともに命を落とした。
    • 新婚旅行を兼ねた南ア遠征へ向かう途中の悲劇であった。
      • しかも当初はパリ経由の予定が相手側プロモーターの手違いで当該便に乗ることになってしまった。
藤波辰爾(藤波辰巳)
  1. 選手としては日本人2人目のWWE殿堂入りを果たすなど、決して残念ではないが…。
  2. 主力選手の退団や総合格闘技ブームがあったとはいえ、新日本の社長としては残念としか言いようがない。
  3. 2003年には近い将来の引退を宣言していたが、その後健康状態が良化し引退カウントダウンを撤回。
  4. 1985年に発売された「マッチョ・ドラゴン」はとして知られている。
  5. 師匠の猪木からシングルで勝つことが遂に出来なかった(タッグでは一試合ピンフォールを取ったことがある)。
クリス・ベノワ
  1. 世界ヘビー級王座や世界タッグ王座を獲得するなど輝かしい実績を残した名選手だったが一家心中事件を起こしたため一時は存在がほぼ抹消されていた。
    • WWEの公式サイトからもプロフィールが消されている。
    • 事件の原因は激しい戦いによる脳の損傷だったとされている。
  2. 自伝の中で「1995年に起きた新日本の練習生の死亡事故の犯人は佐々木健介」と告発しているが、実際にはその自伝自体がベノワの死後に勝手に出された本ということもあり、信憑性は極めて低い。
    • そもそも死亡事故が起きた際にベノワはアメリカに帰っていた。
森嶋猛
  1. 身長190cm・体重125kg(デビュー時は113kg、ピーク時は170kg)という巨体を活かし、GHCヘビー級王座を3回獲得したが…。
    • 天龍源一郎とのタッグマッチではジャンボ鶴田のテーマ曲で入場したが、試合後に天龍から「ジャンボってあんなのだったっけ?」「『嶋』って名前の付くヤツであんなおどろおどろしい奴も珍しいよ(天龍の本名は嶋田源一郎)」と酷評。
    • 更にWWEのトライアウトではビンスに「太ったアジア人の少女だ」と酷評。
  2. 2015年4月に糖尿病による脂肪肝を理由に引退を発表。
    • 9月に大阪府立体育会館で引退試合を行う予定だったが12月末に延期となり、結局その引退試合も行われずにノアを退団。
  3. その後2018年7月に後楽園ホールのリング上で10月に復帰することを表明したが、練習中の化膿性関節炎を理由に復帰を断念。
    • そしてその直後の11月4日に歌舞伎町の路上でタクシー運転手を殴って現行犯逮捕。
    • 実は逮捕される直前に「『幸福伝道師』という肩書きの名刺を配っていた」「インディー団体や女子プロレス団体で酒や金の無心をする森嶋の姿が頻繁に目撃された」という話も…。
力道山
  1. 説明不要の日本プロレスの開祖であるが、人格はというと…。
    • 相方であった木村政彦に八百長をさせまくり、最終的に自分との決戦ですら負けブックを強要した。
      • あれほどプロレスはスゴイ!と言いまくっていた梶原一騎でさえ、上記の顛末は『空手バカ一代』(これもほとんど創作だが)で主人公・大山倍達の口を借りてボロカスに力道山を非難している。
    • 異常なまでに気が荒く、すぐにキレる短気もので知られていた。
      • 付き人であった猪木は「このままじゃ殺されるんじゃないか」と本気で怯えていたほどに力道山からシゴかれまくっていた。
        • 上記梶原一騎の漫画『プロレス・スーパースター列伝』では美談みたいに書いてあるが、勿論あれは力道山を悪しざまに描けないから仕方なしの脚色である。
      • 酒乱でもあり、結果的に下記の最期を迎えることとなる。
    • 人格者で知られるジャイアント馬場をして「人格的な長所が一つも思い浮かばない」と答えるほどであった。
  2. 当時の時節柄しょーがないとはいえ、今でいう「反社」とも個人的な付き合いがあった。今のスポーツ界ならば絶対にアウトなくらいには。
    • しかも上記の通りの短気ものな上に滅茶苦茶強かったのもあって、ヤクザをボコりまくって抗争の火種を巻き起こすというリアル『じゃ〇ン子〇エ』みたいなこともしょっちゅうだったらしい。
  3. そして、酒場でチンピラと喧嘩になって腹部を刺されてしまう。
    • 結局自分の身体の頑健さを過信しすぎて治療が遅れ、39歳の若さで急逝してしまった。
      • ちなみに「絶対安静と言われていたのに飲食したせいで死んだ」という(『列伝』で紹介されていた)話は、現在では誤りであると判明している。
  4. 元々は力士であり関脇まで昇進していたが、素行の悪さや金銭問題もあり26歳で廃業しプロレスラーに転身した。
渡辺桃
  1. Queens Questのリーダーだが、林下詩美より目立っていない。
  2. ワンダー・オブ・スターダム王座を13回防衛したことが話題にならなかった。

K-1 編集

ボブ・サップ
  1. 2002年にK-1デビューするとアメフトをはじめとした数多くのスポーツで鍛え上げられた巨体と「ザ・ビースト」と呼ばれるほどのアグレッシブなファイトスタイルやそのキャラクターが人気を博し、バラエティ番組にも多く出演。
    • また、大晦日に放送されたダイナマイトでの曙太郎との一戦は当時紅白歌合戦の視聴率を瞬間的に上回った。
  2. 2006年に契約のこじれから出場予定だった試合をボイコット。一時法廷闘争まで噂されたが後に和解。その後2010年にも試合のボイコットを起こすなど2度の敵前逃亡を起こしてしまった。
    • ただしこれに関しては契約していた会社にも問題があるわけで本人の問題という訳ではないのだが・・・。
  3. 技術を覚えてからセオリーに沿ったファイトに拘ってしまい成績が悪化。たびたびKO・TKO負けを喫していた。
  4. 2017年には週刊文春に6年近くDVを行っていたことをスクープされてしまった。

柔道 編集

石井慧
  1. 下記の棟田康幸を抑えて北京オリンピックに出場し、見事21歳で最重量級の金メダルを獲得するも、その後問題発言を連発し柔道ファンから嫌われる。
  2. 2008年秋に柔道を引退し総合格闘技に転向。裏切り者として柔道関係者を完全に敵に回す。
  3. あとに「夢だった総合格闘技に転向するために、わざと批判されて柔道界から追放されるためにこのような発言をした」と証言(消えた天才より)
内柴正人
  1. アテネ・北京とオリンピック連覇し大ヒーローだったが2011年に×××
  2. 北京オリンピックの男子柔道の金メダリストは2人ともざんねんな選手に。
篠原信一
  1. シドニー五輪男子100kg超級決勝ではダビド・ドゥイエの前に誤審の末敗北し、金メダルを逃してしまった。
  2. しかしそれ以上にざんねんだったのは柔道男子日本代表監督時代。
    • 2012年のロンドン五輪では日本男子史上初の金メダル0個という散々な結果に終わり、責任を取って五輪後に監督を退任した。
    • その後、篠原の後任として監督に就任した井上康生はリオデジャネイロ五輪で金メダル2つを含む全階級でメダルを獲得と柔道日本代表を立て直したこともあり、篠原の監督としての力量が再び問われることになった。
      • 篠原本人も「前回の監督と違って素晴らしいとしか言いようがない」「前の監督は何してたんや!」と自虐的に語っている。
棟田康幸
  1. 2003年男子100kg超級、2007年男子無差別級とそれぞれオリンピック前年の世界選手権で2度の優勝経験がありながら、オリンピックに1度も出場できず。
  2. アテネオリンピックは2003年世界選手権の100kg級優勝の井上康生と同無差別級優勝の鈴木桂治に敗れて出場逃す。
  3. ラストチャンスだった北京オリンピックは若手の石井慧に阻まれて出場できず。

総合格闘技 編集

青木真也
  1. 2009年の大晦日のDynamite!!で、対戦相手の廣田瑞人の右腕を骨折させ一本勝ち。
    • ところが試合後に、対戦相手の廣田や観客に向かって中指を立てるファックサインで侮辱。後に厳重注意を受けた。
  2. その一年後の大晦日のDynamite!!で長島☆自演乙☆雄一郎と対戦。
    • 逃げ回るわ反則はするわで2R4秒・失神KO負け。
      • 試合後には「しょっぱい逃げ方してるから罰が当たった(須藤元気)」「人生逃げてちゃ勝てない(魔裟斗)」と酷評されてしまった。
    • 試合前のインタビューで青木が答えていた「2Rになったら五体満足で帰れないから、その辺よろしくお願いします」という内容を、皮肉にも自身が体現することになってしまった。

試合・シーズン展開 編集

プロレス 編集

1990年6月8日 全日本プロレス ジャンボ鶴田vs三沢光晴
  1. ジャンボ鶴田が何度も「オー!」をやったら、客に「『オー!』はいいよ。」と野次られてしまった。
  2. ジャンボ鶴田がロープに寄りかかっている三沢光晴にドロップキックをかまそうとしたが避けられ、ロープに股間をぶつけてしまった。
    • その後、ジャンボ鶴田が三沢光晴のバックドロップを返して、フォールしたが、三沢に返され、3カウントを取られてしまった。
1998年5月17日 新日本プロレス BEST OF THE SUPER Jr. Bブロック公式戦 金本浩二vs安良岡裕二(後楽園ホール)
  1. 試合開始直後から金本が一方的に安良岡をボコボコにする展開となり、金本が放ったフライングニールキックで安良岡は右顎を骨折。
  2. 安良岡は泣き叫びながら金本に立ち向かっていったが、その後も金本にいたぶられ続ける展開に…。
  3. 試合は勝負を決める気が無い金本の隙を突いたスクールボーイで安良岡が大金星を挙げたが、この一戦で顎や右肩を負傷した安良岡はBOSJの残り全試合を欠場。
    • 更に試合終了後には凄惨な試合内容に激怒した一部の安良岡のファンが暴走、後楽園ホールの駐車場に止めてあった金本の愛車を傷つけるなどの問題行為を起こしてしまった。
    • 安良岡自身もこの試合から約1年後に現役を引退しているが、この試合との関係はない。
1999年1月4日 新日本プロレス 橋本真也vs小川直也
  1. 小川が橋本を一方的に痛めつける試合となり無効試合に。
    • 試合後に小川がマイクで「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」と発言。
      • リング下ではセコンド同士の言い争いに端を発した乱闘が発生しており、当時引退していた長州力がカメラマンを押し退け、小川に対して「これがお前のやり方か?」と詰め寄った。
        • この乱闘で小川側のセコンドだった村上和成が、飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負うなど、かなり後味の悪い試合となってしまった…。
  2. 一説では大仁田厚の新日本初参戦を警戒した猪木の当て付けという説もある。
2000年4月14日 新日本プロレス・ヤングライオン杯公式戦 柴田勝頼vs福田雅一(宮城県・気仙沼市総合体育館)
  1. 試合開始数分後に柴田のフライングエルボーを受けた福田が頭部を強打。
    • 試合終了後に福田は意識不明の重体に陥り、5日後の4月19日に急性硬膜下血腫のため死去。まだ27歳の若さだった。
2004年10月9日 新日本プロレス・IWGPヘビー級選手権試合 (王者)藤田和之vs佐々木健介(挑戦者)
  1. 藤田和之が佐々木健介にグラウンドでの胴絞めスリーパーをやったが、藤田の両肩がマットについていたのでレフェリーが3カウントを入れてしまった。
    • 佐々木健介の妻である北斗晶は大激怒。
    • 勝利した佐々木健介はうっかり、喜んでしまい、北斗晶に怒られた。
2005年2月20日 新日本プロレス・IWGPヘビー級/3冠ヘビー級W選手権試合 (IWGP王者)天山広吉vs小島聡(3冠ヘビー級王者)
  1. 試合終了直前、天山が脱水症状でKO負け。思わぬ形での決着にリング上も混乱した。
    • 某選手はそれにキレて小島にガチで蹴りを入れたとか。
2022年6月12日 CyberFight Festival 2022 中嶋勝彦・小峠篤司・稲村愛輝vs遠藤哲哉・秋山準・樋口和貞(さいたまスーパーアリーナ)
  1. ノアvsDDTの対抗戦として組まれたカードだったが、試合開始後6分に丸藤正道の代打で出場した中嶋が遠藤のエルボーを受けた後の張り手(掌打)で遠藤をKOし、そのまま試合終了となってしまった。
  2. 試合終了後、DDT側の秋山が中嶋に怒りの表情で詰め寄り、バックステージでも「これはもう(技を)受ける受けないの問題じゃない」「ちゃんとプロレスやろうぜ」と怒りのコメントを発した。
  3. 結局、遠藤は張り手で負った脳震盪の影響で保持していたKO-D無差別級王座を返上する事態になってしまった。

総合格闘技 編集

2004年6月20日 PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND セルゲイ・ハリトーノフ対セーム・シュルト
  1. ハリトーノフがシュルトをマウントからのパンチや鉄槌打ちの連打でTKO勝ちした試合だったが、敗者のシュルトの顔面が腫れ上がり血まみれになるという凄惨な状態になり地上波ではダイジェストでしか流されなかった。
  2. この試合を控室で見ていた選手たちもこれには唖然としており、ヒョードルやノゲイラですらハリトーノフの冷酷なファイトに言葉を失うほどであった。

競技場 編集

両国メモリアルホール
  1. 戦前は初代両国国技館だったが、敗戦後はGHQの接収され、「土俵を広げる」条件で1場所だけ行われた。
  2. 接収解除後は蔵前国技館が既に建設に入っていたなどから売却された。
大阪大国技館
  1. 旧両国国技館より大きな施設だったが、戦局悪化のため4年で7回の準本場所を開催したのみで倉庫に転用→戦後に接収で解体されてしまった。
東京ドーム
  1. プロレス団体が、東京ドームを興業に使うと「崩壊または分裂。最悪の場合、消滅する」というジンクスがある。

その他 編集

決起軍
  1. 1988年5月に全日本プロレスで結成された若手5人組によるユニット。
    • メンバーは2代目タイガーマスク(三沢光晴、リーダー格)、仲野信市、高野俊二、前年デビューの高木功、この年デビューした田上明の5人。
  2. 「打倒天龍同盟」を目指して発足したが、当時フットルース(川田利明、サムソン冬木)が所持していたアジアタッグ王座は奪取できず。
    • 更にリーダーのタイガーが左膝靭帯の損傷から1989年4月に手術を行い、長期欠場に…。
  3. 結局同年6月にジャイアント馬場が「全然、決起していない」「あまりにもだらしないので、解散させることにしました」と発表し、決起軍は強制解散となってしまった。

関連項目 編集