ざんねんな歴史上の人物事典/日本

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鎌倉時代以前[編集 | ソースを編集]

ざんねんな歴史上の人物事典/日本/鎌倉時代以前

室町時代[編集 | ソースを編集]

足利尊氏[編集 | ソースを編集]

  1. 室町幕府初代将軍であるが、生きている内に乱戦を終わらせられなかったどころか、むしろ悪化させている。
  2. 一般的なイメージ(後述)とは異なり、尊氏は「私は早く隠居してゴロゴロしたい」という手紙を残しているくらい、めんどくさがり屋であった。
    • まず建武の新政の折、弟の直義が鎌倉幕府残党に虐められていたので、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに出兵。尊氏をウザがっていた後醍醐帝は「尊氏が関東の武士を手下にして、鎌倉幕府を復活させる気だな」と難癖をつけて新田義貞に尊氏討伐令を下す。
    • これを知った尊氏は「私はそんなことしましぇぇーーーん!!」と即出家して隠居。勿論その程度で新田軍は攻撃をやめず、直義はボコボコにやられる。ヘタレか!
    • 結局尊氏もボコボコにやられ、北朝を開いて抵抗。後醍醐一味に逆襲したが、鋼鉄メンタルで吉野に逃げた後醍醐帝は南朝を開き、南北朝時代が開始される。
    • ところが今度は尊氏の執事・高師直が直義と政争に明け暮れ、直義は南朝に逃げて猛襲。ではここで尊氏は何をしたか!?
      • はい、諸悪の根源である師直を見捨てて逃げました。人として正しいことにしろ武将としてそれはどうなのか。
    • その後、心労がたたって直義共々病没。これにより更に南北朝の戦いは激化していく。
  3. 要するにヘタレであり、消極的な方に消極的な方に逃げて保身にばかり走ったせいでこんなにわかりづらい歴史を歩ませている。筆者も学生時代は「何がしたいんだこいつは!」と頭を抱えながら歴史の勉強をしていた物である。
  4. 更に、南北朝時代を作った張本人ということで、幕末~戦前にかけては「勇者」楠木正成を崇め奉るためのわかりやすい「魔王」にされ、木像が義詮(息子)・義満(孫)共々首を刎ねられるわ、教科書でも平清盛と並ぶ極悪人呼ばわりされるわ、尊氏ファンだということがばれただけで国会で訴追されるわ、日本史史上No.1の嫌われ者扱いされていた。

高師直[編集 | ソースを編集]

  1. 足利尊氏の執事。
  2. この人の最もざんねんな点は、江戸時代に「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介義央のポジションにされてしまったことである。
  3. バサラ大名として知られているが、同じバサラ大名の佐々木道誉が天寿を全うし子孫の京極家が四職の一家として室町幕府の重職を担い戦国乱世も生き残り明治維新まで全うしたのに対し、こっちは師直の死と共に一族の大半が死亡。以降、高家はほとんど浮上しなかった。

足利義教[編集 | ソースを編集]

  1. 室町幕府6代将軍。かの有名な3代将軍義満の子(三男説が有力)。
  2. 元々出家していたが、5代将軍義量(義教の甥っ子)が早死にしたため、くじ引きで選ばれた。
  3. くじ引きで選ばれた負い目故に、部下をうんと厳しく縛り付けたため、万人恐怖とまで呼ばれた。
    • 闘鶏の見物人に道を遮られたのに激怒し、都中から鶏を追放した。
    • 酌の仕方が下手だっただけで侍女の髪を掴んで切り落とし、出家させてしまった。
    • あまりにバンバン部下を手打ちにするため日親という高僧が説教に来たが、カッとなって灼熱の鍋を被せ、舌を切り落とした。
  4. こんなんだから家臣の赤松満祐があまりにビビり過ぎてしまい、「やられる前にやるしかない」と決起して嘉吉の乱を起こして殺された。厳しすぎる締め付けが逆効果となったのである。室町幕府としては初の暗殺された征夷大将軍となる(後に13代・義輝も暗殺される)。

足利義政[編集 | ソースを編集]

  1. 室町幕府8代将軍。今でいう、オタク。
  2. 超口うるさい乳母や重臣たちが何でもかんでも決めてくれた(最も義政の父・義教があまりに強烈なワンマンだった反動かもしれないが)ので、「義政」という名前にもかかわらず全く政治に興味を示さず、もっぱら芸術にばかり関心を示していた。
    • 銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。
      • 当時、芸術家というのは最低の扱いであり苛烈な差別を受けていた。しかし義政はそーゆーのに全く興味を示さなかったため、身分に関係なく優秀な(芸を持つ)人は丁重に召し抱えた。
  3. そして「もう一刻も早く将軍を辞めたいから、子供もできないし弟・義視に譲ってやる」と言い出した途端に息子が生まれ、鬼嫁・日野富子の後押しもあって応仁の乱が勃発してしまう。
    • この最中も戦争をうっちゃらかして芸術に金を使っていたため、富子は「あのバカ夫め~!」と激怒しながらも政治改革に次ぐ政治改革を行い、市民を滅茶苦茶に搾り取りつつかろうじて幕府の運営を保っていた。
  4. が、応仁の乱は予想以上にグダグダとなり、京都周辺は灰燼と化し、結局何のために戦争をしているのかもわからなくなって義視も降参し9代将軍は義尚となった。

日野富子[編集 | ソースを編集]

  1. 足利義政の正妻で鬼嫁
  2. 同じ鬼嫁でも北条政子の場合、武家政権確立の為にと辣腕を振るった尼将軍だったが、こちらは守銭奴といった方が良いかもしれない。
  3. 足利義尚と足利義視との後継者争いの体で始まった応仁の乱勃発の原因の一人であるが、この混乱に乗じて金儲けをしようとたくらむ。
    • 敵味方関係なく、戦費に困った東軍・西軍の諸大名に高利貸しを行い、自分の懐を蓄えようとする。

足利義尚[編集 | ソースを編集]

  1. というわけで、親はオタクでも子は育つということで選ばれた9代将軍。
    • 「緑髪将軍」と言われるほどの美男子で、女の子にモテモテであった。しかしこれが彼の悲劇を生む。
  2. 応仁の乱が原因で信用が地に落ちた幕府の威光を取り戻す為、六角氏征伐などを敢行。母譲りの才覚と父譲りの芸術観を持ち多くの人に慕われた。
  3. …のだが、あまりに働き過ぎで遂にプッツン来てしまったのか、六角征伐終了後に突如として女狂いとなり、浴びるように酒を飲んでは×××にふけった。
    • その結果、わずか25歳で早逝。父よりも先に逝く親不孝により、義政は心身を病み後を追うように亡くなった(55歳没なので人生わずか50年の時代としては大往生である)。

武田信長[編集 | ソースを編集]

  1. 武田信玄でおなじみの甲斐武田氏の傍流にあたる、上総武田氏(真里谷氏)の祖。
    • ネーミングだけ見ると、「武田」と「信長」で何かと強そうなイメージだけは湧く。
  2. 上総一国でおよそ10万石を有する有力な大名ではあるが、戦国時代の主戦場である畿内から離れた関東にあるので、何かと歴史の片隅に追いやられている感が強い。
  3. 信長の野望より、前の時代のひとなので、ゲームには登場しない。

一休宗純[編集 | ソースを編集]

  1. 僧侶の中ではかなりのスケベだった。
    • 男色だけではなく女犯も平気で行い、森侍者という愛人がいたり、実の子供の弟子がいたりした。
    • 彼の漢詩集「狂雲集」では女性との×××のことが多く詠まれている。

細川政元[編集 | ソースを編集]

  1. 一言で言うならオカルトおじさん
  2. 「半将軍」と呼ばれるほどの権力の座にありながら、天狗となって空を飛ぶことを夢見る修験道オタクであった。
    • 度々公務をすっぽかして「旅に出ます」と書き残して失踪したり、後柏原天皇の即位式を「意味がないから」と言って中止させたりと、もうムチャクチャ。
    • そのため名門細川家の当主でありながら生涯独身であり、養子を3人貰っているが、そのせいで派閥闘争が発生。
    • しかし我関せずと修行にふけっていたため、風呂場で行水していた所を暗殺される。
  3. ちなみに、信長より先に本能寺を焼いている。

戦国・安土桃山時代[編集 | ソースを編集]

武将はざんねんな戦国武将事典へ。

淀殿[編集 | ソースを編集]

  1. 浅井三姉妹の長女で太閤秀吉の側室。
    • 当時としては男よりも高い165㎝もの長身を持つ絶世の美女として知られている。
  2. しかし「織田一族の短気な所だけを受け継いだ」と言われるくらい気性が荒く空気が読めない。
    • もう少し大局的な見地を有していれば、豊臣家は滅亡せずに済んだかもしれない。
  3. ちなみに息子・秀頼には大野治長や石田三成の隠し子という説もある。その位秀吉に似てなかったらしい。

宮本武蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 1000人に一人の異相と言われるほど、顔が怖かったとされる。しかもムサシは6尺(180㎝以上)もあり、恐れられていた。
    • おまけに大の風呂ギライで、メチャクチャ臭かったらしい。
    • 無敵、無敗と名高いが、実の所本当に強い人とは戦いを避け……いやなんでもありません。
      • イメージ通り卑劣、よく言えば策士だったことは事実なようで、一説によれば巌流島の戦いでは合図と同時に弟子と一緒に襲い掛かって小次郎を倒したという話もあるとか。
  2. 最後の戦いとして天草四郎の島原の乱に出撃したが、投石が膝に当たって敗走。なんと、生涯初の敗北が生涯最後の敗北となった。
    • 結局、生涯殆どを浪人として過ごし、剣で身を立てるのは養子の伊織の代になってからであった。
      • 現代の定説では関ヶ原・大坂・島原の三大戦役でいずれも徳川方に付いていたことが判明している(吉川英治の小説では西軍・宇喜多隊が壊滅し関ヶ原から逃げ出すところから始まっており、当時はそれが定説だった)が、それでも仕官できなかったということは相当に人格的に問題があったのであろう。(伊織はコネで小笠原氏に仕官したが優秀だったので21歳の若さで家老になっている)
  3. ちなみに武蔵の著作「五輪書」にも偽書説が出ている。
  4. 彼をメインにした大河ドラマは非常にざんねんな出来だった。序盤のあるシーンが「七人の侍」に似てると言われ黒澤プロ側から提訴され、そのときは棄却されたものの・・・
    • 「芸術的な完成度が全然違うから」という理由だった。さらに「『武蔵』には『七人の侍』のような高邁な人間的テーマや高い芸術的要素はうかがえない」とまで言われてしまった。
    • 同作は21世紀の大河ドラマで唯一ソフト化も再放送もされておらず、2016年に開催された大河人気投票では0票で最下位に…。

佐々木小次郎[編集 | ソースを編集]

  1. 武蔵に負けてしまっただけで歴史に永久に名を残してしまった人。
  2. 武蔵に敗死したことにより巌流は彼の代で途絶えてしまい、今残っている巌流剣術はほとんど後世の伝承による再現である。
  3. 多くの人は吉川英治の小説のように武蔵とは犬猿の仲で宿命のライバルか何かだと思っているが、当の武蔵の記した五輪の書(前掲の通り偽書説あり)では「佐々木とかいう凄腕の剣士にも勝った。俺凄いだろ」としか言われてない。
    • というか今に残っている「前髪頭に長羽織のイケメン」という小次郎像のイメージはほとんど全部吉川英治の作った虚構である。

江戸時代[編集 | ソースを編集]

三代目服部半蔵正就[編集 | ソースを編集]

  1. 有名な二代目服部半蔵(家康に仕えていた)こと正成の息子であるが…。
  2. あまりに人望が無さすぎて、部下の伊賀同心隊から「我々は家康様の忍びであって、お前の部下じゃない」と言われストライキを敢行されてしまった。
  3. 上記の一件の審判中に、親族の看病の為に幕府の許可を得ない外出をして、そこで誤って幕臣を斬り殺してしまった為に改易された。
  4. その後は大人しく蟄居していたが、大阪の陣で汚名返上を目論んで参陣するも行方をくらました。(恐らく戦死)
  5. 彼の死後、弟が四代目を就任するも、義父・大久保長安のしくじりが遠因となってまたも改易を喰らった。

後水尾天皇[編集 | ソースを編集]

  1. 花山天皇とタメ張れるくらいのスケベ。
    • お忍びで遊郭へ遊びに行ったり、宮中に遊女を招き入れて×××を繰り広げた。
    • 色んな女に30余人の子を産ませる。
      • 56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。
        • この霊元天皇も父親譲りのスケベ。
    • 徳川秀忠の末娘・和子が中宮として入内することが確定してたが、大坂の陣やらで入内が延期になってしまい、その間に典侍・四辻与津子に手を出して子供を2人孕ませてしまった。
      • 幕府側が与津子ら関係者を内裏から追放処分したので、それに激怒して退位してやろうとしたら藤堂高虎に恫喝されて辞められなかった。これが「およつ御寮人事件」。
    • 幕府が禁中並公家諸法度を制定したのは、このように風紀乱れ切った朝廷を見かねてのことだった。
  2. 大の父親嫌いだった。
    • 父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。
      • 父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。
        • つまり、わざと父子逆の追号をするという、歴史に残る嫌がらせをやってのけたのである。
  3. 大変長命であったことで知られ、これより長命なのは昭和天皇ぐらいらしい。
    • 当時の日本の平均寿命が30歳代だったことを考慮するならば超人の領域である。

松倉勝家[編集 | ソースを編集]

  1. 史上最低の大名と名高い。最大にして最後の農民反乱・島原の乱の諸悪の根源である。
  2. ハッキリ言って「ざんねん」というか「ざんん」な歴史上の人物であった。
    • 前年度比250%という誰がどう考えても無茶な徴税を行い、年貢だけでは足りないため「死亡税」「窓税」などありとあらゆることに税金を課した。
    • 勿論そんなにたくさん税を払えるわけもなく、勝家は農民に苛烈な拷問・処刑を繰り返した。
      • 更にキリシタンに対しては蓑踊り(蓑を被せ火を点ける)などの処刑で弾圧した。
  3. その結果、天草四郎をはじめとする農民や国衆の怒りを買い、島原の乱が勃発。
  4. 幕府も九州のみならず日本中の兵力を集めて鎮圧する大騒ぎになったため、「どうしてこうなった」と追及した結果、勝家が苛烈な年貢の取り立てを行っていたのが主因と判明。探ってみたら出るわ出るわ、屋敷からまで刑死者の遺骸が出た
  5. これを知った家光(後述)は綱紀粛正のため、松倉家を改易。そして切腹すら認めぬ斬首刑に処した。江戸時代260年以上の歴史の中で、唯一斬首された大名となってしまったのである。

徳川家光[編集 | ソースを編集]

  1. 当時の男色は珍しくもなかったが、家光はあまりにも男好きすぎて、世継ぎが出来そうにないからという理由で大奥が作られる。
    • 後述の柳生十兵衛も家光の衆道相手だったとする説がある。
    • 大奥から家光の枕元に女性を送る際に、わざわざ男装させ、男性名の通称を設定していた時期がある。
      • ちなみに、最初の妻は石田三成の曾孫。なんとも奇縁である。
    • そこまで筋金入りの同性愛者になったのは後天的な理由との説もある。母親(お江の方)との関係が悪すぎて極端な女性恐怖症になった、というもの。
  2. 歴史上の知名度はあるが、だいたいの偉業は親父の秀忠と、優秀な部下(知恵伊豆、土井利勝、柳生親子他)がやってくれたおかげであり、このオッサン自体は大したことをやってない。

徳川忠長[編集 | ソースを編集]

  1. 3代将軍家光の弟。
    • 子供の頃は美男子であり兄よりも賢かったことから父親の秀忠や実母のお江からはかわいがられていたが…。
  2. 祖父の家康が「次期将軍候補は長男を優先するように」と言っていたため将軍候補から除外されてしまう。
    • もっとも家光も厳密には長男では無く次男であり、長男の徳川長丸が早世してしまったため実質的に家光が嫡男となった。
  3. 結果的に表向きは将軍家光の家来になるが、裏では将軍に対する反抗的な態度が目立ち、評価が著しく悪化した。
    • 駿府の55万石を貰ったのにこれで満足できず、父・秀忠に対し「100万石が欲しい」とか「大阪城が欲しい」などの要求を出したが、却下されてしまった。
      • また、この一件でかつて自分をかわいがってくれた秀忠にも愛想を尽かされてしまった。
    • 家康の代から禁止されていた大井川への架橋(幕府の防衛上の問題から禁止)も独断で行ってしまい、家光の怒りを買った。
      • この頃、最愛の母・お江が亡くなる。この悲しみからアルコール依存症になってしまった。
    • 聖地だった賤機山(家康が元服した場所)にて猿狩りを行ったのも大きなマイナスポイント。(ここでは猿は神聖な動物である)
  4. 賤機山で駕籠の担ぎ手を自分勝手な理由で殺害したり、他にも家臣や僧、女中などにも危害を加えるなど野蛮な行為が目立ち、人望ゼロに等しくなってしまった。
    • この悪行の数々は他の大名にも知られてしまっている。
    • その後、甲府に左遷させられ、さらに高崎に左遷させられる。
    • 秀忠が危篤状態になった際には江戸入りを希望したが、家光がこれを拒否している。
  5. 秀忠が亡くなってからはさらに立場が厳しくなり、最終的には家光の命令で自害させられてしまった。

柳生十兵衛[編集 | ソースを編集]

  1. とにかくひどすぎる酒癖。親父の親友である沢庵和尚から「君は酒だけは注意してくれ」と言われる始末。
    • 謹慎の原因も酔って暴れたから、家光を殴ったからという説があるくらい。

徳川綱吉[編集 | ソースを編集]

  1. 家光の四男で第5代将軍。
  2. 生類憐みの令の評判がとにかく悪い。
    • …が、実際には児童虐待を禁止したり、治安の改善を目指すなどの目的があった。綱吉は社会福祉の実現を目指していたのである。
      • 正直、今の政治家よりも慈悲深いと思う。
  3. 経済面での評価も低い。
    • 小判の流通量を増やしまくって質を下げたのだが、これがかえって(幕府の財政はともかく)物価の高騰を招いて庶民の生活を苦しくしてしまった。
    • また、野犬収容所を作るために増税したのも痛かった。

徳川光圀[編集 | ソースを編集]

  1. 若い頃の職業は『人間のクズ』でだいたいあっている。
    • 昼間から酒を飲んで女を侍らせ、夜は辻斬りまで行っている。信長が可愛く見えるレベル。
    • 要は水戸黄門に出てくる悪代官そのものである
  2. その後、司馬遷の『史記』を読んで感動して猛勉強を始め(実に日本人の好きなパターンである)、藩主の座を継いでからは改革に乗り出した。
    • のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。
      • 水戸藩挙げての大事業である『大日本史』編纂作業に予算をつぎ込んだため。光圀以降、明治になってようやく完成するまで、代々の藩主のライフワークとなっていった。
  3. 将軍・綱吉の生類憐みの令に対し犬の毛皮を送り付けるという実に元ヤンらしい仕返しを行っている。
  4. ドラマでは悪者を懲らしめているが、史実では地元でめちゃくちゃ高い税を取っていた。
  5. かなりの食道楽で、(当時の価値観的には)ゲテモノ食いでもあった。「初めて〇〇を食べた日本人」に彼が名を残しているものが複数ある。

水野成之[編集 | ソースを編集]

  1. 通称水野十郎左衛門。名将水野勝成の孫で、家康の孫の孫という名門の出。
  2. なのだが生粋のクズで、旗本奴を名乗り威張り散らして城下で略奪をくりかえすという、江戸時代にもなって戦国時代みたいな真似を行っていた。
  3. 所謂現在で言うところの不良…というか「ヤ」だった町奴の幡随院長兵衛と抗争をくりかえした挙句、武士にも拘らず風呂場に誘って素手の所を薙刀で斬り殺すという武士の風上にも置けない暗殺を行う。
  4. この事を咎められて蟄居の末に切腹が行われ、以降は武士の反面教師として知られるようになった。
    • 本人もどうせハラキリだろうと見透かしていたのか、裁判にもふざけた格好で現れ、辞世の句では「落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすべい」と詠んだ。

小林一茶[編集 | ソースを編集]

  1. 農家の長男として生まれたが、継母(相当性格が悪かったらしい)や腹違いの弟とあまりに仲が悪すぎて、父の死後、家を巡って13年にもわたってバトルを繰り広げた。
  2. 52歳(当時からすれば老人である)で結婚するまで童貞であったが、非常に性豪であったため、毎日×××の回数を日記につけている。しかも年間1000回を超えるレベルで。
    • 妻の夭折の原因も×××による過労と言われている。
    • 童貞をこじらせるとヤバイことになるという事実を後世に残した人。

梶川頼照[編集 | ソースを編集]

  1. ざんねんと言うか不運としか言いようがない存在。
  2. 平たく言えば忠臣蔵の原因。吉良上野介に斬りかかった浅野長矩を止めたのがこのお人。
  3. まあ当然と言えば当然の行いだったが、この結果があの吉良邸討ち入りと言う名の刃傷沙汰である。
  4. そのため忠臣蔵での扱いはたいてい悪役。
    • 「何で止めたんだよ、止めなきゃ死ぬのは二人で済んだんだぞ」無茶を言うな。
    • 自分の悪口を言っていた連中に斬りかかったとか言う無茶苦茶なことをやらかして女将に止められようやく覚醒、懺悔。ってオイ、忠臣蔵事件の時もう55歳なのにんな事するかよ。
      • その結果、現実では寿命を全うしたのに創作では殺されている。

徳川家継[編集 | ソースを編集]

  1. 6代将軍徳川家宣の息子。
  2. 歴代最年少の将軍であり4歳で江戸幕府の第7代征夷大将軍にするが、わずか8歳で亡くなってしまった。
    • インフルエンザを拗らせて肺炎により呼吸ができなくなったと言われている。
    • それで紀州の吉宗が急遽将軍として迎え入れられた。
  3. 年齢が年齢なだけに何もできず、功績は父の時代に新井白石が行っていた正徳の治をそのまま継承したこと…くらい。

松平清武[編集 | ソースを編集]

  1. 徳川家宣の弟。
    • 家継の叔父にあたる人物でもある。
  2. 素行が悪かったことや年齢が(当時としては)高齢だったことなどの理由から2度も将軍就任の機会を逃してしまっている。
    • 1度目は家継に、2度目は吉宗に奪われてしまった。

徳川吉宗[編集 | ソースを編集]

  1. 享保の改革によって幕府の財政を立て直したことで有名な第8代将軍。
  2. だが過度の緊縮財政や増税によって庶民の生活はかえって苦しくなった。
    • 一揆も増えた。

水野忠邦[編集 | ソースを編集]

  1. 虎の尾でダンスダンスレボリューションした男。
    • 過去に松平定信がやって失敗した緊縮財政を、何を勘違いしたんだかもっと強烈にするという愚行に走る。
  2. 前に改革を行った3人と違って水野忠邦は本当に誰からも好かれなかったというのだから、いかに天保の改革が悲惨であったかがよくわかる。
    • あまりに嫌われすぎて、失脚後に家が焼き討ちに遭っている。
  3. そもそも己の幕政参画の野心のために領地替え関連で贈賄しまくった末に家老が抗議の切腹をしたり、以後の禍根を残しまくっている。

鳥居耀蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 上記水野忠邦の腰巾着。通称「妖怪」「蝮の耀蔵」。
  2. 極度の石頭であり、幕府軍の西洋式訓練に徹底反発。蛮社の獄を引き起こしている。
    • 邪魔する奴は権力にものを言わせて左遷の嵐。かの「遠山の金さん」こと遠山金四郎も、天保の改革の行き過ぎた言論統制に文句を言ったせいで、鳥居にトばされてしまった。
    • しかも風呂や便所に筆硯を持ち込むほどの勤勉さであった。何でこういう奴に限ってサボり癖が無いのだろうか。
  3. ところが忠邦が上知令を出すと、幕臣の腹積もりを伺い、手のひらを反して忠邦を糾弾する。
    • 政敵のドンである老中・土井利位に密かに国家機密を横流しし、忠邦を失脚に追い込み、自分は元の権力の座を固持。
  4. しかし、江戸城の失火の責を取らされて利位は辞任。「他にいないので、心底ざんねんだが再び水野忠邦を大老とする」と12代将軍・家慶が命じたことにより、忠邦から恨まれて職を解かれる。
  5. 私怨義憤に燃える忠邦に訴追された結果、全財産没収の末に丸亀藩に軟禁状態にされる。
    • その際には丸亀藩士たちから恨まれまくり、1年間一言も口をきいてもらえなかったり、私物をパクられたりした。どんだけ嫌われてたんだ…。
    • 勿論市民の味方である遠山の金さんを冷遇したため、江戸の人々達からも嫌われていた。というか、好かれたという資料がほとんど残ってない。
  6. なお明治維新の際には「ワシに任せなかったから、日本はこうなったのだ」と言っていたという。なって良かったとしか言いようがない。
  7. こんな奴だが後のテレビドラマでは名優・岸田森が演じた(しかもかなりのハマリ役)。また時代劇TRPG『天下繚乱』では史実と全く異なるキャラクターになっている。どうなってんだか。

徳川家茂[編集 | ソースを編集]

  1. ライバルの慶喜を抑えて第14代将軍に就任した人物だが…、能力的には慶喜より数段劣っていたと言われている。
    • これは大老の井伊直弼が政敵の徳川斉昭の子である慶喜を避け、自分が操りやすい家茂を好んだことが理由。
      • 「神輿は軽くてパーが良い」という感じ。
  2. お菓子の食べ過ぎによって栄養失調を起こしていた。
    • ビタミンB1の不足によって脚気になり、わずか21歳で亡くなってしまった。
    • 虫歯が沢山あったらしい。

幕末~明治時代[編集 | ソースを編集]

ざんねんな歴史上の人物事典/日本/幕末~明治時代

大正時代~太平洋戦争[編集 | ソースを編集]

ざんねんな歴史上の人物事典/日本/大正時代~太平洋戦争

関連項目[編集 | ソースを編集]