ざんねんな歴史上の人物事典/日本/大正時代~太平洋戦争

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東郷平八郎[編集 | ソースを編集]

  1. 鹿児島出身の海軍軍人。日露戦争において戦艦「三笠」の艦長を務め、ロシアのバルチック艦隊を撃沈させた英雄と名高い人物。
  2. しかし晩年は神格化され過ぎて、かえって悪影響を与えたと言われている。
    • 世界的には軍縮の流れだったのに東郷やその影響を受けた若手将校は軍縮に反対しており、むしろ大艦巨砲主義を強力に推進していた。
    • なお井上成美、山本五十六など東郷の神格化に反対する海軍軍人も少なくなかったのだとか。

大杉栄[編集 | ソースを編集]

  1. アナキストとして有名だった大正時代の社会活動家。
  2. いわゆるヒモ生活を送ることで活動していたのだが、自由恋愛論を信奉していたために事件まで起きてしまった。
    • 最初は堺利彦の家に居候していたのだが、そこに同じく居候していた堺の妻の妹である堀保子を婚約者がいたにもかかわらず×××した挙句、自分の着物に火をつけて保子に対し焼身自殺すると脅すことで内縁の妻にさせた。
      • ちなみにその時大杉は年上の未亡人と同棲していた。
    • 大杉はその後、雑誌「青踏」の編集に携わっていた神近市子と付き合うようになり神近に金銭援助をさせていたのだが、さらに当時辻潤の妻だった伊藤野枝と縁を深めるようになる。
    • 伊藤は1916年2月に夫の辻潤や子供たちを捨てて大杉のもとへ走り、自身も編集に携わっていた「青踏」も終刊させたが、これによって伊藤は貧困状態に陥り、大杉の家に転がり込んだ。
    • やがて大杉自身も雑誌の発禁が続いて家賃が払えない状態になって伊藤と2人でホテルに同棲するようになり、大杉はこれを「雑誌が発禁になった責任は内務省にある」と考え、内務大臣に直談判してお金を出させた。
      • これによって神近の嫉妬を抑えていたのだが相変わらず大杉は神近に資金援助をさせ、さらに伊藤のみならず神近とも肉体関係を持った。
    • 神近はとうとうこれに耐えられなくなり、1916年11月、伊藤とともに日蔭茶屋にいた大杉の首を刺す事件を起こした。
      • 当然神近は逮捕されたのだが、神近には同情が集まって刑が減刑されたのに対し、大杉と伊藤には批判が殺到し、結果として大杉と伊藤は孤立した。
  3. その後は伊藤との間に子供を作り、伊藤とともに雑誌を発行するなど社会活動を進めていったが、1923年9月1日に関東大震災が起きてしまい、その15日後、伊藤と甥とともに憲兵に殺害され、遺体は井戸に投げ入れられた。
  4. 極度の吃音があり、陸軍幼年学校時代に「下弦の月」を言うことが出来ずに「上弦ではありません」と言って切り抜けたり、前述の内務大臣への直談判の際に「500円」が言えずにやむを得ず「300円」と言ったりした。

松岡洋右[編集 | ソースを編集]

  1. 東条英機と並び「大東亜戦争で最も責任が重い重要人物の一人」と言われている。
  2. リットン調査団が満洲国を認めなかったため、松岡は国際連盟脱退を宣言。これにより日本の孤立化を招いた人物。
    • また、国際連盟では日本が常任理事国であったにもかかわらず抜けてしまったため、実質的に機能しなくなってしまい後の第二次世界大戦を防ぐことができなくなってしまったのである。
    • しかし意外にも当時のマスコミや国民は松岡を英雄として称えたのである…。
    • この時調査団は即時撤退を求めたわけではなく権益は認めるという甘々な態度だったのにそれすら認めなかった日本…。
  3. 第二次近衛内閣では外務大臣として悪名高い日独伊三国同盟を締結した。
    • また、独断で日ソ中立条約を結んでいる。しかしナチスドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻した際には、自分が結んだばかりの日ソ中立条約を無かったことにしてソ連侵攻を主張するというメチャクチャぶり…。
    • ちなみに第三次近衛内閣は暴走した松岡をクビにするためのだけに成立した内閣である。(戦前は首相が国務大臣をクビにすることができなかったため)
  4. A級戦犯として逮捕されるが、判決の直前で病死してしまう。
    • もし仮に病死していなかった場合、確実に死刑になっていただろうと言われている。また、もし松岡が死刑になっていたら広田弘毅は終身刑止まりで済んだのでは無いかと言われている。

山本五十六[編集 | ソースを編集]

  1. 名前の由来が悲しすぎる…。
    • 生まれたとき父親の年齢が56歳だったことから名付けられた。
      • ちなみに母親も45歳。高齢出産である。
  2. 本当は軍人ではなくギャンブラーになりたかったらしい。
  3. 親英米派であり日独伊三国同盟には反対していたが、結局は開戦への流れを止めることはできなかった。
    • そこで仕方なく真珠湾攻撃を実行し、「敵(アメリカ)の戦意を喪失させ、こちら(日本)に有利な条件で講和に持ち込もう」と考えたが、この作戦が大きく外れてしまった…。
      • 結果、アメリカの闘争心に火を付けてしまったのである…。
    • ちなみにアメリカでは当時五十六は悪魔と言われていたが、最近は評価が見直されているのだとか。
  4. 最期はアメリカ軍の戦闘機の襲撃に遭い、戦死してしまった。

牟田口廉也[編集 | ソースを編集]

  1. 大日本帝国陸軍の軍人で、「史上最低の作戦」の代名詞である「インパール作戦」の立案者。
    • 当時、イギリス領であったインドを攻めるのに、ビルマ方面から物資輸送もままならないジャングルを超えて、インドの都市インパールを攻めようという作戦。
    • 約9万人近い兵を動員して、飢餓やマラリア、英国からの攻撃により、7~8割が死傷するという有様だった。
    • 「もしベタなダメ上司・上官キャラの法則が現実に存在したら」を体現したような人物である。
  2. インパール作戦で前線で戦う兵士が食料も物資も無い最中で、後方にいる作戦立案者の牟田口は料亭で酒と女を連日喰らっていたという。
  3. 物資を運ぶのに「自動車が無ければ牛に牽かせればいいじゃないか。食料にもなるし」とジンギスカン作戦を思いつくが、当の牛は足が遅くてイギリス軍の恰好の的になり、泳げないので河を渡ろうとして流される有様だった。
  4. 物資が無くなって作戦継続が不可能となっても牟田口は撤退させず「武器が無いのなら腕がある、腕が無くなれば足で蹴ればよい、足も無くなれば口で噛みつけ、それが大和魂というものだ」と取り合わず。自身の無策を棚に上げて、精神論で片付けようとした。
  5. 前線指揮官の一人である佐藤陸軍中将は、物資食糧が尽きて補給が無く伝染病が蔓延し全滅不可避となった余りの惨状から、死刑になるのを覚悟して独断で撤退を決定する。
    • 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
      • 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
        • 佐藤中将の剣幕をみて、恐れた牟田口は顔を合わせないようにとどこかに隠れていた模様。
    • 佐藤中将が勝手に撤退したことに対し、牟田口は「気合と根性が足りないからだ!」「ジャングルなんだから食料になる草くらい生えているだろ!」と佐藤中将を罵倒する。
      • 牟田口は、飢餓と病で苦しむ兵を集め、訓戒と称して佐藤中将の悪口を長々としゃべるが、栄養失調で気力を失っている兵は訓戒中に次々に倒れていった。
  6. インパール作戦の失敗に多少は責任を感じて部下に「自刃して陛下にお詫びしたいのだが」と問いかけるも、部下は「一応、私の役割だから上官が自刃すると聞いて止めないわけにもいかないが、古今東西、人に死ぬと告げて実際に死んだ人間はいません。閣下が少しでも責任を感じ、本当に自刃する意思があるのならば、誰にも告げず自刃してください。」とバッサリ返される。
    • 戦後も生きながらえ続けている通り、そういわれても自決なんてしなかった。
  7. 戦後「インパール作戦の失敗は、自分のせいでなく、部下が無能だったためだ」と喧伝し、一切反省はしなかったという。
  8. 余談であるがゲーム『パワプロクンポケット2』の裏サクセスで無能な参謀長「任月高志」が登場するが、そのモデルは牟田口であり、やっていることがほぼ全部牟田口の逸話そのまんまである。
  9. 戦後イギリス軍によって裁判にかけるため戦犯として逮捕されたが、こいつを処罰したらむしろ日本人は大歓迎される恐れがあったため…かどうかは知らないが嫌疑不十分で釈放された。
    • イギリスから「生きて虜囚の辱を受けろ」というのが刑罰だったのかもしれない。
    • そのせいでアンサイクロペディアにイギリス陸軍の指揮官と書かれてしまった。(勿論皮肉)
  10. 現在は牟田口に好意的な評価を下す者はほぼいないが、最近では牟田口の上司だった河辺正三や東条英機の責任も大きいんじゃね?という意見も多いらしい。

井上準之助[編集 | ソースを編集]

  1. 帝大卒業後に日本銀行に入行。横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋是清の計らいで日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。
  2. 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行し、第二の「渋沢」と称される存在となったが…。。
  3. 濱口内閣の大蔵大臣として入閣した時、緊縮財政路線を取り金解禁を断行してしまう。
    • しかもよりによってニューヨーク株式市場の株価大暴落(いわゆる暗黒の木曜日)が発生して、アメリカのみならず世界経済は大混乱に陥っていたというタイミングである。
  4. 結果円高により日本の国際競争力が急速に低下し、円買いドル売りによる金の大量流出を招いてしまう。
    • これにより日本経済はデフレーションに陥り昭和恐慌と呼ばれる状態になってしまう。
  5. これがもとで濱口首相が襲撃され、後任の若槻内閣でも再び大蔵大臣となるが、金解禁と緊縮財政はそのまま実行される。海軍の予算を大幅に削減したことは、海軍サイドを怒らせ後の統帥権干犯問題へとつながっていく。
  6. 満州事変の混乱などにより若槻内閣が内部分裂で崩壊し井上蔵相は一緒に辞職。後任の犬養内閣では高橋是清蔵相の元で積極財政を推進するようになって日本経済は回復に向かうようになる。
  7. 不況を放置したとやり玉のあげられ、昭和7年(1932年)2月9日、選挙への応援演説会場で右翼により射殺された。

小川平吉[編集 | ソースを編集]

  1. 1902年総選挙で初出馬するも貧乏弁護士で木綿の紋付しかなく友人が貸してくれたダブダブのフロックコートを着て街頭へ出たところ珍妙な服装で一躍人気となったものの37票差で落選した。
  2. その後衆議院議員は初当選するが、日露戦争時に日露講和条約締結に「戦いに勝ちながら屈辱的講和をなすとは何事だ」と強硬論を唱えて日比谷焼討事件を引き起こす発端を作り逮捕されるが証拠不十分で無罪となる。
  3. 虎の門事件の翌日に思想団体青天会を発起し、また北昤吉と共に『日本新聞』を主宰して国粋主義を提唱したり、加藤高明内閣で司法大臣に就任すると治安維持法の制定を図る。
  4. 田中義一内閣では鉄道大臣に就任。
  5. 在任中は、それまで左書きだった駅名標をすべて右書きに改め、説明のローマ字を廃止する。
  6. そして二百近い私鉄の営業許可を与え、その際に鉄道会社から小川に便宜を図っていたことが発覚。
  7. 鉄道大臣辞任の2か月後、1929年(昭和4年)に5つの私鉄買収にからむ収賄事件(いわゆる五私鉄疑獄事件)で起訴され、懲役2年の判決を受ける。
  8. この五私鉄疑獄事件により政党政治が衰退して軍部が暴走し、創刊にかかわった『日本新聞』もまた右翼勢力に広く影響を与えることになる。

内田信也[編集 | ソースを編集]

  1. 東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、三井物産へ入社。退職後に神戸で船舶仲介業社「内田信也事務所」と内田造船所を設立。
  2. 事業は第一次世界大戦の急激に伸びた造船需要の波に乗り、山下亀三郎、勝田銀次郎とともに船成金として実業界にその名を轟かせる。
  3. 自社船を一括売却と内田造船所を大阪鉄工所(現・日立造船)に無償譲渡するなどして戦後不況における没落を免れる。
  4. 岡田内閣で鉄道大臣に入閣。しかし政友会の反対を押し切って入閣したため、高橋是清らとともに政友会から除名される。
  5. この間富士号にシャワー浴室を燕号の食堂車に冷房が設けられたが、前者は1両のみの改造であったため4日おきしか営業できず一・二等乗客限定であったために利用率は極めて低く、後者は直接冷房装置のため停車すると冷房が停まってしまい短期間で廃止された。
  6. その後宮城県の官選知事や東條内閣の農商務大臣として入閣。戦後は公職追放にあったが、1952年再び衆議院議員になり吉田内閣では農林大臣をつとめた。
  7. 東海道本線の列車が相川橋梁で転覆した際に「おれは神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ。」と叫んだといわれている。

木戸幸一[編集 | ソースを編集]

  1. 大正〜昭和時代戦前にかけて活躍した政治家。
    • 長州の志士、木戸孝允(桂小五郎)の妹の孫でもある。
  2. 第1次近衛文麿内閣に入閣していた際、1940年に開催予定だった東京オリンピックの開催権を返上してしまった。
  3. 第3次近衛内閣が崩壊した際に次の首相を決めることになったのだが、ここで東条英機を推薦する。
    • 「毒を以て毒を制す」の論理でアメリカと戦争したがっていた東條を指名したが、これは東條は昭和天皇の命令に対しては忠実だった(と思われていた)ため、昭和天皇が戦争に反対だったことを知れば急に考えを改めて開戦を避けてくれるだろうという考え方から。
      • ところがこの期待は大きく外れ、太平洋戦争(大東亜戦争)が起こる。そして、大日本帝国は崩壊し、310万人もの日本人が亡くなってしまった。
  4. 敗戦後、自身が東條首相を推薦したことを後悔しており、「あれは失敗だった」と言っていた。国が潰れてから言っても手遅れだ。
  5. 戦後はA級戦犯として逮捕された。
    • 東京裁判では死刑をギリギリ回避したが、終身刑となってしまった。
      • でも健康上の理由から仮釈放された。その後、1977年に87歳で亡くなった。

大川周明[編集 | ソースを編集]

  1. 山形出身の思想家。
    • 民間人で唯一A級戦犯となった人物。
  2. 東京裁判では東条英機の頭を叩いたため精神異常者と認定され、訴追を免れた。

関連項目[編集 | ソースを編集]