ざんねんな歴史上の人物事典/日本/幕末~明治時代

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  • 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
  • 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。

幕末[編集 | ソースを編集]

西郷隆盛[編集 | ソースを編集]

  1. 知っての通り巨漢であるが、あまりに太り過ぎて「あんた、このままだと死ぬよ」と医者に本気で言われるほど太っていた。
    • 仕方がないからダイエットを始めた。この時に犬を連れて野山を走っていたので、上野西郷像は犬を連れ浴衣を着ている。
      • しかし、食事制限に失敗し激しい下痢にさいなまれ、一時期は一日50回もトイレダッシュしていた。
  2. フィラリアに罹ったため×××がとても巨大化していた。
    • 西南戦争で首実検を行った際
      兵卒「太って身なりの良いホトケがありました!」
      将軍「西郷どんとは限らんでゴワス」
      兵卒「で…ですがものすごく×××がデカいんです!」
      将軍「逝ったでゴワスか西郷どん…」
      という会話があったというウソかホントかわからん伝説もある。
    • ×××を丸出しにしながら周辺の毛を火であぶり、「薩摩の焼き芋」と台詞を決める一発芸をやったことがある。
  3. 鷹揚な性格のイメージを持たれやすいが、実は人に対する好き嫌いの差が激しかったらしい。
    • 例えば宿敵の井伊直弼が暗殺された際に大喜びしており、若い頃はお世辞にも人格者とは言えなかったのだとか…。
  4. 写真を撮られることが大嫌いで、それがために明治天皇に抗命したことがある。

勝海舟[編集 | ソースを編集]

  1. 幼い頃に犬に金玉を咬まれて生死の境を彷徨い、死ぬまで犬がトラウマだった。
    • 狂犬病ウイルスに感染しなかったことだけは幸運だったが…。
  2. イケメンだったのでモテたようで妾がたくさんおり、しかも子供を全部家で育てていた。その結果、正室・民子は死に瀕した時「た…頼みます! 海舟の…夫の墓に…入れないでぇ~~!!!」と言い残して死んだという。
  3. 彼を主人公とした大河ドラマはトラブルが頻発した。

近藤勇[編集 | ソースを編集]

  1. ブ男で有名であった(笑)。
    • しかし結婚していた上、愛人も2人いた。
      • ちなみに奥さんは「弟子たちが見惚れたりしないように」とお見合い相手の中から一番ブスなのを選んだ
      • こういうこともあって新選組を題材とした乙女ゲーでは大体土方か沖田がメインで近藤は脇役である。
  2. 元は武州の田舎剣道の跡取りだけあって、武士になってからの天狗ぶりが酷かったと言われる。
    • とはいえ、永倉・原田脱退事件に関しては、わざと彼らを逃がす為に天狗の芝居を売ったという説もあるが。
  3. 兵学には疎く、後述の武田のようなボンクラですら近藤よりはマシな采配が取れたという程であった。
    • 甲陽鎮撫隊結成の折には「諸君らも武士にしてやるぞ!!」と付近住民を勧誘したが、「今更侍になったって先が見えてる!」と一蹴された。
      • この際に大名行列並みの豪勢な入場を行って気を引こうとしたため、新政府軍が先に目的地に到達してしまった。もうツッコミきれない。
  4. 結果として新選組で唯一、新政府軍からの戦死ではなく「斬首刑」扱いを受けた隊士となってしまった。(勿論内ゲバや暗殺は除く)

土方歳三[編集 | ソースを編集]

  1. 写真からもわかる通りイケメンであったが、とにかく自信過剰。
    • 新選組は女にモテた奴が多かったが土方はその中でも1番と言っていいくらいモテた。モテすぎて、現代で言えば中坊の時に奉公先の女に手を出してクビになるくらいモテた。
      • 「京都では私は若い婦人にモテモテで、国の為に働くことを忘れてしまいそうだ(意訳)」という手紙(ホレられた女の名前を全部書いている)を地元に送っている始末。
    • 刺繍や俳句もたしなんでいるが……要は中学二年生レベルである。(隊内からも不評だったらしい)
  2. 局中法度を作って部下の自律を促したが、あまりに厳しくし過ぎて切腹・暗殺だらけに。これが原因で優秀なブレーンだった山南総助や、弟分だった藤堂平助、有能な経理だった河合耆三郎などを失っている。谷三十郎? あいつはまあ別にいいや…。
    • 最終的に新選組は戦死者よりも隊士に殺された奴の方が多いという破綻する組織の典型例のような惨状を招いた。

武田観柳斎[編集 | ソースを編集]

  1. 新選組五番隊組長で軍学者であった。
  2. しかしすぐにオベッカを使って近藤や土方らにすり寄るため、永倉ら古参勢からは憎悪されていた。
    • おまけに男色趣味もかなりキツかったようで、隊内のイケメンにセクハラしまくっていた。
      • どうもデマらしい。
  3. 後に伊東甲子太郎という武田の上位互換にあたる「参謀」が着任したことにより、評判はがた落ち。
    • 伊東にすり寄ったが既に時代遅れの軍学しか能が無い武田は相手にされず、近藤からも呆れられて「もういいよ、お前さん辞めたきゃ辞めなよ」と言われてしまった(新選組は脱退したら死刑なので、こういう扱いを受けることはかなり稀である)
  4. しかし脱退後も伊東の尊王討幕思想に賛同していたことが判明したため、新選組からあっさり暗殺されてしまった。
  5. 『るろうに剣心』の和月伸宏も「新選組を描く上で獅子身中の虫と言うのは4人おりまして、まず芹沢鴨。こいつは曲者です。山南敬介。この人はいい人でした。伊藤甲子太郎。こいつは強敵ですね。最後の一人、武田。こいつは単に頭が悪いだけの悪役という認識で固まってます」と発言している。(その結果、序盤の雑魚敵として武田観柳という悪徳商人が登場している)

坂本龍馬[編集 | ソースを編集]

  1. 明治になるまで生き延びていたら経済面でどれほど活躍していたことか…。
  2. 友人の武市半平太の家でしょっちゅう立ちションをしており、あまりにいつも立ちションをするので武智夫人が半平太に注意するようにせがんだらしい。
    • ガキの頃は10歳になるまでオネショしていた話といい、なんでこうションベンに縁があるんだこの人は。
  3. 歴史上の超有名人だし、ドラマも何作も作られ「日本の夜明けぜよ」と言った人という事で知名度はあるが、実際、何をしたのかよくわかっていない。
    • 海運商社の海援隊を作って、薩摩と長州をくっつけて、裏貿易をしていたということまでは分かるが、直接戦争にも政治にも参加していたわけではない。
  4. 日本史上初の海難審判の当事者になった際、現在の貨幣価値に換算し約137億4400万円を紀州藩から詐欺った。
    • 但しこの金は龍馬に渡る前に本人が死亡しており、どこに資金が消えたのかは大きなミステリーになっている。
      • 現場である福山市鞆の浦の観光ガイド原稿では「岩崎弥太郎横領説」を示唆している。

岡田以蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 幕末四大人斬りの一人。前掲の龍馬の幼馴染で、結社「土佐勤王党」の最古参メンバーの一人。
  2. 土佐藩は極めて身分制度が激しく、岡田家は最下層の足軽出身だったため学も無く剣しかすがるものが無かった。
    • 勿論我流だったので、親分の武市半平太にはかなわなかったという(土佐にいた頃の話)。
  3. とにかく自分に自信が無さ過ぎたため、一回はずみで人を斬ったのを誉められたのをいいことに、「武市がウザいって言った奴を斬れば人気者になれる」と勘違いして暗殺に手を貸しまくった。
    • 勿論武市もそれを止めるどころか推奨した。そういう時代だったのだ。
  4. …が、ここで調子に乗って酒と女に溺れたせいで捕まってしまい、拷問にかけられ、物凄くあっさり仲間を売ってしまった。結果的に、一番土佐勤王党で働いたのに、その土佐勤王党にトドメを刺した張本人に成り下がってしまった。
    • 漫画『竜馬がゆく』とか大河ドラマ『龍馬伝』では激しい拷問に耐え…みたいな描写だが、あれは創作である。
    • あまりに簡単に口を割ってしまったので、武市からは「日本一の泣き味噌である」と嘆かれた。
      • しまいには毒殺用のまんじゅうまで送る計画が出た(未遂)。『龍馬伝』では楽に死ねるように、という解釈だったが、どう考えても怒りか呆れで送り付けてるよなあ…。
  5. 死に際に反省したのか「武市先生によろしゅう」と言ったそうだが、武市からは「お前のせいだろがい!」と最後まで許してもらえなかった。

高杉晋作[編集 | ソースを編集]

  1. 金の扱いがルーズすぎる。
    • どうも公金とポケットマネーの違いが全く分からなかったらしく、藩の許可を得ずに4万両もの金をはたいて戦艦を購入している。
    • 藩命で「上海に行ってこい」と命令が下った時には、長崎でお小遣いを使い果たしたうえ、芸者を見受けまでした。んでもって、金が足りなくなったので、その芸者を売った(さすがに同意は貰ったうえである)金で上海に向かった。

大村益次郎[編集 | ソースを編集]

  1. 日本陸軍の父とも呼ばれた長州の天才軍師。
    • この人が戊辰戦争勝利に導いたと言っても過言では無いくらいの重要人物である。
    • 軍師としてだけで無く医者としても活動している。
  2. しかし他人とコミュニケーションをとるのが苦手だったらしく、対人関係に問題が多かったとされる。
    • 近所の人に「今日は暑いね」と言われた時、大村は「夏なんだから暑いのは当たり前だろ」と返した。
      • 物事を合理的に考えることに長けていたが、あまりにも合理的過ぎて「変人」扱いされていたらしい。
    • やがて政府の要職に就くが、その空気が読めない性格から恨みを買うことが多くなっていた。
      • 職人気質であったことや、自分のことを他人にあまり語らない性格から敬遠されていた。
  3. 京都の旅館を訪れていた際に守旧派の刺客に襲われ、重傷を負う。
    • しかも大村は重要人物だったにも関わらず、自分の安全を疎かにしており護衛を付けていなかった。これが非常に不味かった。
    • その2ヶ月後、破傷風を発症し46歳の若さで亡くなってしまった。
  4. 上野戦争の際にも仲間の犠牲を多く出すような無茶な作戦を立て、西郷隆盛を呆れさせた。

明治時代[編集 | ソースを編集]

総理大臣経験者はざんねんな内閣総理大臣事典/明治時代・大正時代#明治時代

後藤象二郎[編集 | ソースを編集]

  1. 21世紀に入って肖像画がホモビ男優である野獣先輩に瓜二つであることから悪い意味で有名になった。

三浦啓之助[編集 | ソースを編集]

  1. 学者・佐久間象山の隠し子。
  2. 象山が河上彦斎に討たれたため、その仇を討つべく新選組に入ったのだが…。
  3. 新選組では親の威光を振りかざして威張り散らすばかりで、ドラ息子丸出しだった。
    • 剣技が劣ることを同僚からバカにされた際には、土方と沖田が囲碁を打っているのを見物している所を闇討ちにしようとした始末であり、逆上した沖田から面罵された挙句に畳に顔面をぶつけて鼻に傷を作った。
    • おまけに仕送りの金をばらまいて郎党を手名付けており、沖田からは恨まれていたらしい。
  4. そして「隊を脱するを許さず」の禁を破って逃げ出し、故郷の松代で地元のDQNとつるんだ挙句「俺は新選組だぞぉ」と言いふらしていた
  5. その後、無銭飲食がばれて逮捕され、西郷隆盛のとりなしで出所し慶應義塾に入ることになるが、ここでも素行が悪すぎて退学。
  6. 呆れた勝海舟のコネで裁判官として就職するが、酔った勢いで人力車夫を殴って左遷。
  7. 左遷先で結婚し一児を設けるも、34歳の若さで食中毒で死ぬという、死ぬまでざんねんな一生であった。

小磯忠之輔[編集 | ソースを編集]

  1. 首相を務めた小磯國昭の叔父。
  2. 1893年12月22日、松沢光憲の辞職に伴い実施された衆議院議員補欠選挙で当選するも…。
    • 12月30日、第5回帝国議会において衆議院が解散されたため、たった9日間でただの人になった。

大久保利通[編集 | ソースを編集]

  1. 薩摩出身の元勲であり、同郷の西郷隆盛や長州の木戸孝允(桂小五郎)と共に明治維新の三傑と呼ばれた人物。
    • また、内務卿を3回務め、内閣制度ができる前の日本の事実上のリーダーとして活躍した人物でもある。
  2. しかし国内の整備を優先すべきという理由で征韓論に反対しており、かつての親友だった西郷と決別することになる。
    • そして西郷に勝利し、明治政府のリーダーとなった。
  3. やがて士族たちの大久保に対する不満は一気に高まり、各地で反乱が起こるようになった。
    • そして西郷率いる九州の士族たちが大規模な暴動(西南戦争)を起こした。
      • その後、大久保率いる新政府軍が勝利し、鎮圧には成功した。
  4. 日本を欧米列強に並べる強国に育て上げるためなら非情に徹することができる意志の強さを持っていたが、内心では様々な思いが錯綜しており、常にストレスが溜まっていたという。
    • 西郷を含むかつての仲間を死に追いやったことを亡くなるまで後悔していた。
    • タバコを吸う量が増えてニコチン依存症に。また、胃腸も弱かった。
  5. 堅物なイメージが強いが、西洋コンプレックスを持っていた人物でもあった。
    • 日本の西洋化を進めるため、自ら率先して洋服を着るようになり、オートミールとコーヒーの朝食を摂るようになった。
  6. 1878年、不平士族の残党によって暗殺されてしまった。享年49。
  7. 明治時代の超重要人物である割に鹿児島での人気は今でも低いらしい。

竹内綱[編集 | ソースを編集]

  1. 土佐の武士。維新後は長崎の炭鉱を経営し実業家として活躍した。
    • また、政治家としても活躍し、板垣退助と共に自由党を作った人物でもある。
    • 戦後に首相となる吉田茂の実のお父さんでもある。
  2. 西南戦争の直前に政府転覆を企てたとして逮捕された。
    • そして士族の身分も剥奪されてしまった。
    • ちなみに親友の商人・吉田健三の屋敷に息子の茂を預けた。

板垣退助[編集 | ソースを編集]

  1. 土佐の志士の一人。維新後は政治家として活躍。
  2. 新政府では重要人物となるが西郷隆盛らと共に征韓論を主張していたため大久保利通らと対立。明治6年(1873年)の政変で負けて下野してしまった。
    • 翌年、民選議院設立建白書を提出したが却下されてしまった。
  3. 「10年後に国会を開く」という国会開設の勅諭が発表された1881年に自由党を作り全国を遊説するが、翌年、岐阜で政府を批判する内容の演説を行っている最中に暴漢に襲われ重傷を負う。
    • 幸い、一命は取り留めた。
  4. 1898年にはライバルだった大隈重信(第8代首相)と手を組み日本史上初の政党内閣を作るが、僅か4ヶ月で崩壊してしまった。

東條英教[編集 | ソースを編集]

  1. 岩手出身の陸軍軍人。
    • 東条英機のお父さんとしても有名。
  2. 日露戦争の際に作戦ミスを犯してしまったため、大将になれなかった。
    • なお英教本人は「長州の連中に意地悪されたせいで出世できなかった」と思い込んでいたらしく、これを息子の英機に語ったことから英機の性格が捻くれてしまったと言われている。
  3. 長男と次男が病気のため早く亡くなってしまったため、三男の英機を実質的に長男として育てることになってしまった。

岩倉具視[編集 | ソースを編集]

  1. 明治維新の立役者として有名な人物。
    • 岩倉がいなかったら伊藤博文や大久保利通などが表舞台に立つことは無かったと言っても過言ではないほどの重要人物である。
  2. 孝明天皇(明治天皇のお父さん)の妹と徳川家茂(14代将軍)の結婚を実現させたが、これが原因で幕府派の人間と誤解され、過激な尊皇攘夷派から暗殺されそうになる。
    • 一時的に政治の世界から離れ、京都の郊外の岩倉村で約5年間潜伏生活を送っていた。
  3. 一応公家の生まれではあったものの公家の中でも下級の身分であり、若い頃は貧しい生活をしていた。

三條實美[編集 | ソースを編集]

  • 「三条実美」と書くことも。
  1. 太政大臣を務めたこともあり、明治政府の公家の中では最も高い地位に就いた人物。
    • 先ほどの岩倉具視よりも家柄の格式が高く、初代内閣総理大臣の最有力候補として期待されていた。しかし…。
  2. 実際に初代総理になったのは井上馨が推薦した伊藤博文である。
    • 三条が英語が苦手だったことが最大の敗因だったと言われている。
      • 逆に言えばそれ以外の要素は圧倒的に三条が有利だったらしい…。(貧農の倅だった伊藤が首相になれたのはむしろ奇跡)
    • 一応、2代目の黒田清隆が退陣した後に2ヶ月だけ臨時首相を務めてはいたんだけどね。

幸徳秋水[編集 | ソースを編集]

  1. 土佐出身の思想家、社会主義者。
    • 足尾銅山鉱毒事件についての明治天皇への直訴状の下書きを書いたのも秋水である。(後に田中正造が修正しているが)
  2. 旧自由党の流れを汲む憲政党がかつての政敵だった伊藤博文と手を組んで立憲政友会を結党したことに立腹し、「自由党は死んだ」という内容の批判論文を発表する。
    • また、義和団事件制圧の際に日本軍のお金を盗んだことを追求し、真鍋斌(陸軍中将)を出世コースから外させた。
    • これらのことから真鍋や山県有朋らの怒りを買い、危険思想人物と見做されてしまったと言われている。
  3. 1901年5月に社会民主党(今の社民党とは全くの別組織)を、同年6月に社会平民党の設立を申請したが、どちらも却下されている。
  4. 1910年に明治天皇暗殺を企てたとして逮捕され、翌年に死刑執行されてしまった(大逆事件)。享年39歳。
    • だがこれは後に冤罪だったことが判明。たしかに秋水は国家を否定する論調が強かったが、武力による革命までは肯定していなかった。

関連項目[編集 | ソースを編集]