ざんねんな歴史上の人物事典/日本/鎌倉時代以前

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奈良時代以前[編集 | ソースを編集]

天智天皇[編集 | ソースを編集]

  1. とにかくビビリ屋。少しでも造反の気配があったら即刻殺してしまう。
    • 元がほぼクーデター(乙巳の変。まあ、これは蘇我親子が調子に乗り過ぎていたからだが)で権力を手にしたようなものなので、奪われるのは怖かったんだろう。乙巳の変の実行犯である蘇我石川麻呂も自害させてるし。
    • 更に白村江の戦も「ヒィィー大陸が攻めてくるぅー!」とビビりすぎて出兵させたようなものであり、負けたら「ウワァー! 攻めてくる! どうしよ! どうしよ!」と防人制度まで作った。
  2. 今際の際に大海人皇子(弟、後の天武天皇)に皇位を譲ろうとしたのも勿論難癖付けて殺す為であり、出家されたことで肩透かしを食らう。そして死後に息子は大海人に討たれる。

聖武天皇[編集 | ソースを編集]

  1. 藤原広嗣の乱の最中に行幸を始めたり、遣都を繰り返したり、仏教にのめりこんで寺をあちこちに建てたりとメチャクチャして、官民の受けがよくなかった。
    • これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。どこかで聞いたような話である
  2. 元々藤原家は天皇家にすり寄っていたが、聖武天皇が光明子を「皇后」にしてしまったせいで藤原氏の台頭を招く結果となる。
  3. また、天下一の公共事業である東大寺盧舎那仏建立に着手するも、結局大仏が完成する様を見る前に崩御した。
    • なおその大仏は5回も破壊されている
    • 大仏の表面に施す金メッキによる水銀公害で、平城京は甚大な被害を受けてしまったので長岡京へ遣都したのではないか、という仮説が近年浮上している。
  4. 1873年(明治5年)にグレゴリオ暦へ移行した際、換算間違いにより、崩御日が1日早くなっていた。
    • 約140年後の2012年(平成24年)に、ようやく正しい崩御日に訂正された。

孝謙天皇/称徳天皇[編集 | ソースを編集]

  1. この人のせいで、万世一系の天皇家が危うく途絶えるところだった。
    • 男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。
      • 宗教にハマりすぎるのも怖いね。
    • 言い方は悪いがこの親にしてこの娘在りということかねぇ…。
  2. 趣味は、自分の気に入らない人間に、お下劣な名前を付けること。

平安・鎌倉時代[編集 | ソースを編集]

桓武天皇[編集 | ソースを編集]

  1. この人もビビリ屋。
    • 父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。
      • 早良親王については、聖武天皇と同じようなことをして死に追い込んだ故、後年は自責の念にとらわれていたようで、流刑した淡路国からわざわざ大和国へ改葬し、「崇道天皇」と追称したりしている。
    • 平城京から長岡京に都を遷すも、災害やら身内の不幸が起きまくったことにビビり、そこから更に平安京へ遣都した。
    • 石上神宮から神宝を運び出したら病気になり、自分の歳と同じ人数の僧侶にお経を読ませて、神宝を納め直すも回復せず、崩御してしまった。

花山天皇[編集 | ソースを編集]

  1. 一言で言うなら変態
    • 父の冷泉天皇も、手紙にでっかい×××の絵を添えて送るほどの変態であったが、花山天皇は性欲の権化の如きお方であらせられた。
  2. 即位式の真っ最中に女官と×××を行った。当時16歳なのに…。
  3. 即位後も親子丼に明け暮れる始末であった。
  4. 奥さんが死んでしまったため「オレもう出家する!」と言い出し、周囲からは「陛下ならそのうち飽きて還俗するだろ」と陰口を叩かれた。
  5. 結局在位2年で出家するが、そのときまだ19歳である。性欲が収まるわけがなく、女には手を出しまくり。
    • あまりにスケコマしすぎたため、恨みを買って暗殺されかけた。しかもそれをダシに藤原道長はライバルを蹴落とし出世した。
  6. 西国三十三所巡礼を復活させた人物として有名であるが、第20番札所の善峯寺は花山院崩御後の創建なので、明らかに矛盾している。

菅原孝標女[編集 | ソースを編集]

  1. 本名不明なのでこう表記するしかない。『更級日記』の作者。
  2. 通称1000年前のお前ら。やる事なす事とても1000年前の人物とは思えないほどアグレッシブ。
    • 物語を読みたすぎて、13歳の時に薬師如来像(等身大)を彫る。しかもその内容が「この世の全ての物語を読ませてください」。海賊王かお前は。
    • やっと都入りを果たすと、源氏物語の写本を手にした途端部屋に引きこもり数日間微動だにしない。
      • 親も呆れて勉強しろと言ったが、耳に入るわけも無かった。
      • この時の心境が凄い。「ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」!! 当時の皇后はいわば「全世界のNo.2」であり、それすら今の心地には劣るわ! というわけ。
  3. こんなんでも一応結婚は出来たが、30歳になってからなので当時ではかなりの行き遅れ…。
  4. 更級日記とはいわば「子供たちも独り立ちし、夫にも先立たれた菅(ryの心境を綴った日記」であり、上記のようなイカれた回顧録の末には「こういうことはやるものではない」と結論付けている。

梶原景時[編集 | ソースを編集]

  1. 鎌倉幕府の重鎮であるが、豊臣で言う所の石田三成ポジション。
    • 元々は平家だったが、敗走した頼朝を見逃し、以降は鎌倉方に下った。
  2. 逆梶論争が有名なように、とにかく敵を作りやすいやつ。
    • 説明力が高かったらしく、報連相をきちんとするという点では評価できるのだが(笑)。
    • 空気を読まずに勇猛果敢な畠山重忠をボロクソに非難したことで、より源氏の猪武者どもから恨まれるようになった。
  3. ついには頼朝の死後、我慢の限界が来たのか66名もの連判(勿論重忠も含む)で訴追、失脚の後に襲撃を受けて一族郎党滅ぼされる。死人に口なし。
  4. 余談だが、茨城県の一部地域ではゲジゲジのことをカジワラと呼ぶ。深くは探るまい。

平宗盛[編集 | ソースを編集]

  1. 平清盛の息子の中でもできの悪いほう。
    • 兄の重盛や、弟の知盛などは武士らしく武勇に優れているが、宗盛はというと臆病で、とても武士らしくなく「驕る平家は久しからず」を体現している。
    • 清盛の正室の時子の息子としては長男になるので、嫡子としては宗盛の方が重盛より立場が上という事になるのだが、優秀な異母兄と凡愚な正室の子という対比になっている。
      • もっとも、同母弟の知盛や重衡が武勇優れた武将だったことを考えると、血統というよりも一人無能だったように思える。
  2. 清盛が亡くなり、すでに嫡男であった重盛も亡く、平家の棟梁として指揮をするも戦経験もほとんどなかったので、そのほとんどは弟の知盛まかせになっている。
  3. 壇ノ浦の戦いで、義経軍に敗れた平家武士が次々に入水自殺をする中、どうしたらよいのかわからずオロオロするばかりであった。
    • それを見かねた家臣が「お供いたす」といって入水するも、無駄に泳ぎが得意だったため、死ぬことができず源氏方に捕縛されてしまう。
    • 鎌倉に護送され、頼朝から死罪を賜るがその最中、ずっと頼朝にへりくだり、命乞いをしたという。
    • 平家の棟梁として、余りにも無様な姿をさらしたため、実母の時子から呆れられ「お前は実は私と清盛入道の子ではない」と三行半を突き付けられる。それを真に受けて、頼朝に命乞いをする時は、母の言う通り自分は実は平氏の人間ではないと訴えて呆れさせている。
  4. 平家物語によると、源仲綱が所有していた名馬「木下」を気に入って仲綱から強引に木下を奪った挙句、その木下の尻に「仲綱」の焼き印をいれて、「ほれ仲綱、もっと速く走らんか!」と本人を目の前にして戯れていたことから、怨みに思った仲綱とその父、源頼政らによって、平家打倒の以仁王の乱を引き起こされたとなっている。
    • 以仁王の乱自体は失敗に終わるが、以仁王から出された令旨が源頼朝、木曾義仲に渡って、源氏勢力の挙兵のきっかけになっている。

源頼朝[編集 | ソースを編集]

  1. 鎌倉幕府初代将軍であるが、猜疑心が非常に強く陰湿なため、更生の創作では悪者に描かれる。
    • 実の弟である義経と範頼も難癖付けて殺しているため、結果的に源氏嫡流の血筋が滅ぶ遠因となる
      • 唯一全成だけは殺さなかったが、そんなのは褒める所でも何でもない。
        • 現に全成も、頼朝の息子である源頼家により誅殺されている。
      • 愛娘である大姫の夫である源義国も、義国の父・木曽義仲が戦死した途端に用済みとばかりに殺した。もう一度言うが、義国は娘婿である。(生かしておいてはいずれ翻意を示す可能性があるとはいえあんまりだ)
    • 自分の父の仇である長田忠正を寛大にも許し、「平家を倒す仲間に加われば、戦が終わった暁には美濃尾張(岐阜県愛知県)をやる」と言っておきながら、終わった途端に「お前にやると言ったのは『身の終わり』だ」という親父ギャグで約束を反故にし、処刑した。
    • 自分が裏切りで助かった(#梶原景時)ため、(自分は平気で人の事を裏切るくせに)裏切りにめっちゃ厳しく、義経の首を差し出して逃げのびようとした奥州藤原氏も「首を差し出すのが遅かった」と難癖付けて滅ぼした。
      • ちなみに仇敵である平清盛も同様の事をやっている(笑えん)。
    • 更に保身のために功績のあった上総介広常も難癖付けて殺してしまった。
  2. あまりに簡単に功臣を殺していいという前例を作りすぎてしまった為、妻である北条政子とその弟の北条義時の増長を招く結果となる。
    • その結果が子孫全滅という最悪の幕引きである。(まあこのオッサンの事だから余所で隠し子作ってるかもしれないけど)
  3. 戦もそれほど強くなく、まともに勝ったためしがない。
  4. 父や弟・義経同様に超スケベであり、政子以外にも女を作りまくって問題を起こしている。

源義仲(木曽義仲)[編集 | ソースを編集]

  1. 極めて美男子で戦も強かったが、あんまりにもあんまりなDQN
    • 都での礼儀作法はド素人同然で、無理矢理に客人に飯を食わせようとして拒むと「まるで猫のように小食ですな、ガハハ!!」と笑うなど、まるで近所のオッサンが来たかのような応対をやらかす。
  2. 腹芸が下手なだけならまだしも、補給すらロクにできない。
    • 木曾軍が都を荒らし回ったのは義仲の補給センスが壊滅的に無かったからである。
  3. そのくせ一丁前に政治に口出ししまくり、後白河法皇の逆鱗に触れて朝敵扱いされた挙句に、講和とか考えずに後白河法皇を捕まえて人質にしようとしたせいで、完全に鎌倉方に討伐のお題目を与えてしまう。
    • この期に及んで征夷大将軍の座を強引に奪い取るも、既に後の祭りであった。
      • 歴史の教科書でも名前だけは俱利伽羅峠の戦いで出てくるが、征夷大将軍の紹介でハブられることが多い。
    • この有様なので巴御前や今井兼平を始めとする重鎮(要するにワル仲間)はともかく、兵士は殆ど逃げ出してしまった。
  4. その結果、泥田に嵌って脱出できなくなったところを遠巻きに矢でめった刺しにされるという情けない最期を迎えることに…。

北条政子[編集 | ソースを編集]

  1. 鬼嫁
    • 当時としては非常に珍しい恋愛結婚であり、夫・頼朝が浮気した際には浮気相手の家をハンマーでぶっ壊している。
  2. 政治的には非常に優秀だったが、優秀過ぎて自分の息子たちも最終的に死に追いやる結果を招く(意図していたのではないと思うが)。
    • 彼女と弟の義時によって頼朝の重臣たちはほとんど始末されている。前漢の呂一族かよ(呂一族と違って完全に夫の一族を滅ぼしている分たちが悪い)。
      • とは言え、自分の実子である実朝の暗殺事件に関与した父親の北条時政を、義時と一緒になって執権の座から引き釣り下ろし、失脚させている。身内にも甘い顔をしない点が呂皇后と違うところ。
  3. 最終的に頼朝との間の子は全て先立たれ、源氏政権は数十年で滅亡している。

源義経[編集 | ソースを編集]

  1. しか得意じゃなかった英雄。兄の頼朝は戦だけがダメだったので性格も真逆(女癖は同レベルだが)。
    • 政治的センスの欠如のせいで、「俺は頼朝兄さんの弟だから鎌倉武士より優遇されているはずだ」と思い込み、後白河法皇から官位を躊躇なく受け取り決定的な亀裂を生んでしまう。
  2. その戦の方法も奇襲とか放火とか、木曽義仲と大差ないレベルのDQNぶり。
    • 彼らだけがそうだったわけじゃなく、基本的に源氏はやり方が汚い。
    • 特に問題視されたことが、非戦闘員(船の漕ぎ手など)への加害行為。当時の価値観では絶対的なタブーだった。
  3. 平家物語では「出っ歯で背が低く、平家の中の選り屑よりもブサイク」などと不必要なまでに容姿をけなされている。
    • 両親が美男美女だったんだから彼だけそこまでブサイクだったとも思えないので、ブサイクだった方は山本義経という別の武将ではないかという説が濃厚。
    • 隣にいつも弁慶がいたから相対的にチビに見えたという説もある(笑)。
  4. 生存し蝦夷地(北海道)からモンゴルに渡りチンギス=ハンになりましたというのはとっくに否定されている。
    • 北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。
      • しかもアイヌの伝承では義経は悪役になることが多かった。

武蔵坊弁慶[編集 | ソースを編集]

  1. 上記義経の側近でありDQN仲間
    • そもそも、義経に会うまでは自分の修行していた寺に放火して逃げ出した(真偽不明)程であり、その後も夜な夜な武士を襲って刀を強奪しまくっていた(これは多分本当)。
    • 屋島の合戦においては「暗いじゃねえか、おい民家に火を点けて明るくして来い」と無茶なことを言い出した義経に対し、流石に佐藤兄弟や伊勢三郎と言った側近たちですら躊躇していたにもかかわらず、一人率先して放火しまくっていた
  2. これだけ有名にも拘らず長らく実在の人物かどうかすら怪しまれていた。
    • 史書では「義経四天王」にまず入れてもらえない。付き合いは伊勢三郎と並んで長いのに…。
  3. 後世においても「強がる奴」「威張る奴」の代名詞扱いであり、義経の前座感が根強い。
  4. 生涯DTであった(らしい)ことから、江戸時代には「弁慶と 小町は馬鹿だなあ かかあ」というDTSJを皮肉る狂歌を読まれてしまった。

四条天皇[編集 | ソースを編集]

  1. 歴代皇室で最も4コマ漫画みたいなざんねんな御崩御を遂げた天皇。
    1. ある日のことです。陛下は廊下をご覧になり、「この廊下に滑る石を置いたら転ぶかもな」とお思いになられました。
    2. 陛下は試しに石を置いてみましたが、本当に滑るのか気になって、自分でお試しになられました。
    3. ところが陛下が石を踏んでみると、思った以上に滑りました。そして、別の石がたまたま転んだところにございました。
    4. 頭をお打ちになられた陛下はそのまま12年の短い一生を終えました


関連項目[編集 | ソースを編集]