ざんねんな相撲事典

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分割済み[編集 | ソースを編集]

相撲部屋[編集 | ソースを編集]

春日山部屋→中川部屋
  1. 神奈川県初の相撲部屋として川崎市に部屋を構え、川崎フロンターレとの交流でも知られた。
  2. 部屋を創設した春日富士の理事就任を機に濵錦が部屋を継承したが、春日富士はスキャンダルで退職。部屋は賃貸契約となる。
    • そして賃貸料の未払いで新旧親方が裁判沙汰になり、さらに濵錦は年寄証書を春日富士から受け取っておらず師匠として不適格と協会から判断されたため、部屋は一時閉鎖になり追手風部屋預かりに。
      • 最終的には協会から定められた期日までに裁判が決着せず濵錦は退職、それにより裁判が終結するもその直後に春日富士は急逝。
  3. しばらくして追手風部屋付きだった元旭里の中川親方が継承して「中川部屋」として再度独立するも、師匠のパワハラが発覚し部屋は解散。力士達は複数の部屋に散り散りに移籍することになってしまった。
式秀部屋
  1. 特に2013年に元北桜が部屋の師匠になって以降、所属力士達のざんねんぶりが目立つ。
    • その代表例が力士の項にある勝南桜である。
    • 他にも名前だけは立派だが怪我が多くて前相撲を5回も取っている宇瑠寅(うるとら)などが所属している。
  2. 親方が体調を崩している間、おかみさんの生活指導が厳しすぎて力士達が部屋から逃げ出しカラオケボックスにこもってしまったことがある。
貴乃花部屋
  1. 貴ノ岩が日馬富士に暴行を受けてからはゴタゴタ続きで、貴乃花親方が角界を去ったことで閉鎖された。
    • 被害者のハズの貴ノ岩が付き人への暴力が発覚するなど元弟子らの不祥事が相次ぐ。同じ元弟子で優勝を経験した大関の貴景勝が不憫でならない。
  2. 部屋開設直後に元安芸乃島の千田川(現高田川)親方と確執を起こすなど、初っ端からゴタゴタしていた。
    • 貴乃花親方が千田川親方の移籍承諾書の捺印をごね続け、協会の仲介により先代親方の捺印で移籍が認められた。
      • 無所属の高田川部屋に移籍、先代親方の停年により後継者となり、自身が元々属していた二所ノ関一門入りとなった。
    • 一説によると現役時代から不仲で、安芸乃島が新弟子時代の貴花田を兄弟共々いじめていたとも。
二所ノ関部屋(1911-2013)
  1. 大鵬や力道山を輩出した名門だった。
  2. しかし、2度の分家独立騒動が起こってしまった。
    • 分家独立した部屋のうち、押尾川部屋では本家同様の分家独立騒動が勃発した。
  3. 元金剛が引き継いでからは関取がなかなか生まれず衰退、そして親方が脳梗塞で倒れ部屋を畳んだ。
花籠部屋(1953-1985)
  1. 初代若乃花や輪島ら横綱を輩出した名門中の名門。
    • 但し、設立当初は食糧に困るほどの経営難で、巡業で二所ノ関一門からハブられた時期もあった。
  2. その輪島が引退し、花籠親方になったとたん、凋落が始まる。
    • 年寄株を相撲協会以外の人物に借金の担保にしていたことが発覚。
      • 花籠親方こと輪島は相撲協会を廃業し、花籠親方は空席に。
  3. その後、結局後継者は決まらず、花籠部屋は消滅した。
  4. 1992年に太寿山によって再興されるが、経営難を理由に峰崎部屋に編入されている。
    • 独立当時は部屋の所在地がなんと山梨県上野原町だった。
  5. 峰崎親方(元三杉磯)は立場や系譜が違えど、二度の花籠部屋消滅の当事者となった。
    • 三杉磯は元々花籠部屋所属力士だったが、上記の輪島の不祥事で放駒部屋移籍を余儀なくされた。

本場所[編集 | ソースを編集]

昭和七年一月場所
  1. 春秋園事件の影響によりほとんどの幕内力士がごっそり抜け開催延期に。
    • 特に西方は首謀者の天竜と同じ出羽海一門だったため大関武蔵山しか残らなかった。
  2. 十両どころか幕下上位まで平幕に持ち上げて無理やり開催したがほとんど儲からなかった。
昭和二十年十一月場所
  1. 敗戦後初の本場所でGHQの圧力により広めの土俵で行われた。
    • しかし力士たちから不満の声が上がり1場所限りで戻された。
    • この場所後の双葉山引退の原因になったのではないかという声もある。
昭和三十年九月場所
  1. 仕事帰りのサラリーマンを狙って中入り17時半、打ち出し20時というナイター興行だったが不評により今場所限りで取りやめ。
    • いつもの場所とリズムが変わり体調不良の力士が続出。
    • 全国紙の遠隔地域版には締め切り時刻の関係で中入り後の結果が載せられなかった。
平成十二年三月場所十日目
  1. 時津海対追風海戦と千代天山対安芸乃島戦の二番が取り直しになった影響でNHKの大相撲中継が4分間延長。
  2. この日はBS2で『カードキャプターさくら』の最終回が放送されたが、この4分の延長で最終回の最後のシーンを録画できなかった人が続出。
  3. 所謂「武蔵丸の悲劇」。
平成二十二年七月場所
  1. 直前に発生した野球賭博問題の影響で、NHKの大相撲中継が中止に。
  2. 賭博問題の影響で大関琴光喜が解雇。18人の力士が謹慎休場となった。
平成二十三年五月技量審査場所
  1. 七月場所への番付編成のために開催された場所。
    • 天皇賜杯を含む外部からの表彰・取組に懸けられる懸賞金は辞退。
    • 呼出の着物に掲載される広告・力士幟は自粛。
    • NHKの大相撲中継も中止された。
      • 但し、今後の記録資料のための実況収録は通常通り行われた。
    • 「本場所ではない」との理由で、優勝額も作成されなかった。
平成二十七年一月場所
  1. 白鵬が史上初の全6場所全勝制覇を成し遂げた場所だったが、十三日目の稀勢の里戦が撮り直しになったことに対して審判批判を展開し物議を醸した。
平成三十年九月場所
  1. 1947年の三賞制度導入以来初めて、三賞の受賞力士が存在しなかった。三賞に推薦された貴景勝・竜電・嘉風の3力士は選考委員の過半数の票を得られず。
  2. 先場所13勝2敗で優勝した東関脇の御嶽海は大関昇進のかかる場所だったが、上位相手の取組で5連敗を喫し9勝6敗という3点の勝ち越しに留まった。

取組[編集 | ソースを編集]

昭和十八年五月場所十日目 龍王山対青葉山戦
  1. 最初の取組では右四つに組み合って動かず水入りとなり、二番後に取り直しとなったがまた右四つとなり2度目の水入り。
    • 再開後も両者決め手に欠き、協会預りの引分という珍しい結果となった。
      • 因みに青葉山は前日の九州山との取組でも引分となっていたため、2日連続の引分となった。
  2. ところが打ち出し後、協会は両力士に対して「敢闘精神不足」という理由で無期限の出場停止処分を下した。
    • 実はこの日、連合艦隊司令長官である山本五十六の戦死が発表(戦死そのものは4月18日)されたこともあり、国技館でも取組を中断して黙祷が行われていた直後の取組がよりにもよってこの一番だった。
  3. その後力士会の抗議もあり、両力士の出場停止は2日で解除。
    • 13日目に協会が両力士に対して「今度こそ決着まで敢闘を尽くすように」と勧告した上で再戦が組まれ、青葉山が勝ち星を収めた。
昭和四十四年三月場所二日目 大鵬対戸田戦
  1. 円熟期を迎えた大鵬が前年の秋場所2日目から45連勝(当時戦後最長記録)中に組まれたこの一番。
  2. 立合いから戸田がぶちかまし、のど輪、両ハズ押しで一気に大鵬を土俵際まで追い込んだ。
    • 大鵬は回り込みながら叩き込んで戸田の右足が一瞬土俵の外に出たが、その直後に戸田が大鵬を押し出した。
    • 立行司の式守伊之助は大鵬に軍配を上げたが、直ぐに西溜勝負審判の千賀ノ浦(元大関の栃光)から物言いがつき協議に。
  3. 正面審判長の春日野(元横綱の栃錦)は「戸田の足が出た」と言っていたが、他の勝負審判4人はその発言を見落としていたため、協議の結果行司軍配差し違えで戸田の勝ちとなり、大鵬の連勝は45で止まってしまった。
  4. この一番、新聞やテレビの写真や映像には戸田の右足が土俵から出た瞬間が捉えられていたため、「世紀の大誤審」として大問題に…。
  5. この場所では他にも微妙な判定の取組(9日目の大関・琴櫻と前頭2枚目の海乃山の一番)があったためか、場所後に相撲協会は「翌場所から物言いがついた時の判定にビデオ映像を導入する」と発表。
平成十三年五月場所十四日目 貴乃花対武双山戦
  1. この場所、初日から13連勝と全盛期の強さが久々に戻ってきた貴乃花は14日目に大関の武双山と対決。
  2. 立ち合いから貴乃花が左差し右上手で攻め込んだが、一枚廻しの影響で武双山が思いのほか崩れず、武双山の土俵際の巻き落としで貴乃花に初の黒星が付いてしまった。
  3. この一番で敗れた貴乃花は右膝亜脱臼の重傷を負い、取組後の夜に師匠の二子山(元大関の貴ノ花)から休場勧告を受けたが、それを無視して翌日の千秋楽に強行出場。
    • 翌千秋楽は決定戦の末、武蔵丸を上手投げで下し22回目の幕内最高優勝を果たしたが、膝の負傷が響きこの後7場所連続で休場。
    • 横綱審議委員会からの勧告もあり2002年9月場所で復帰したが、全盛期の強さは戻らないまま翌2003年1月場所の途中に現役を引退。
  4. 武双山もその後は怪我の影響で10勝5敗が最高成績に終わり、2004年11月場所の途中に現役を引退している。

その他[編集 | ソースを編集]

1967年度生まれの幕内力士
  1. 貴闘力、舞の海、剣晃、大翔鳳、小城ノ花、龍興山、大輝煌の7人がいるが、このうち龍興山は虚血性心不全で、剣晃は難病の汎血球減少症により現役中に病死。
    • 更に大翔鳳は膵臓癌、大輝煌は脳出血により引退後に病死。
  2. 舞の海は引退時に年寄名跡の空きがなかったこともあり相撲協会に残れず、貴闘力と小城ノ花は年寄に転身したが貴闘力(大嶽親方)は賭博問題に絡む形で解雇。
    • 2022年現在、相撲協会に残っているのは高崎→出羽海を継承した小城ノ花のみとなっている。
四股名に「川」の入った力士
  1. 横綱まで昇進した力士が4名(綾川、小野川、境川、男女ノ川)しかいない。
    • 「山」や「海」の二桁台と比べるとどうしても少ないイメージがある。
    • 平成に入ると幕内力士でも若瀬川や徳瀬川ぐらいしかいなくなってしまった。
  2. 「日本人の郷土意識の希薄化や自然破壊の進行」「川は流れるから星も流れる・足が流れる」というので好まれなくなったという分析もある。
    • もっとも追手風部屋の遠藤や大栄翔に部屋の由緒ある四股名である「清水川」を襲名させる構想があったことを考えると、完全に使われなくなったというわけではなさそうだ。

関連項目[編集 | ソースを編集]