ざんねんな競走馬事典

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海外[編集 | ソースを編集]

  • 日本に輸入されて種牡馬となった馬も含みます。
アヌスミラビリス
  1. 現役時代は世界9ヶ国を走り回り30戦9勝。GIこそ勝てなかったが重賞4勝・二桁着順はラストランの一回だけと堅実な成績を残した。
    • 1996年と1998年に来日、1996年は毎日王冠に出走し見事に勝利を挙げた。
  2. 引退後は北海道・静内で種牡馬入りする予定だったが、検疫所での杜撰な対応が影響し体調を悪化。来日から約1ヶ月後の11月4日に僅か7歳の若さで急死してしまった。
イージーゴア
  1. 現役時代はサンデーサイレンスのライバルとして活躍。同馬の三冠を阻止したベルモントSなどGI9勝を挙げた。
  2. 引退後は巨額のシンジケートを組まれて種牡馬入りしたが、1994年の種付けシーズン中に心臓麻痺を起こし12歳の若さで急死。
    • 血統が嫌われ日本に輸入されたサンデーサイレンスとは対照的な結果となってしまった。
  3. 遺された136頭の産駒のうちGIを勝った馬も数頭出たが、現在父系としては滅亡している。
ウォーエンブレム
  1. アメリカで二冠を達成。引退後は日本で種牡馬となる。
  2. しかし、小柄な栗毛の牝馬(つまり人間で言う金髪幼女)でしか反応しないと言う性癖によりほとんど産駒を残せなかった。
  3. 数少ない産駒から重賞馬やG1馬を多数排出しており、産駒の質だけなら優秀な種牡馬であった。ロリコンでさえなければ・・・
コタシャーン
  1. フランス時代はパッとせず、1992年にアメリカに移籍したが成績は一般戦を1つ勝っただけだった。
  2. しかし1993年に入ると一転して芝のG1を5連勝し、アメリカ芝最強馬の称号を引っ提げてジャパンカップに出走。
    • ホワイトマズル(凱旋門賞2着)・スターオブコジーン(アーリントンミリオン)などの豪華メンバーを抑えて1番人気に支持され、レースでも最後の直線で鋭い末脚で追い込んできたが…。
      • なんと残り100mのハロン棒を騎乗していたケント・デザーモ騎手がゴール板と誤認し、一瞬だけ追うのを辞めてしまった。
        • 勘違いに気付いたデザーモ騎手は再び追い出したが、伏兵・レガシーワールド(日本)の1馬身と1/4差の2着に入るのが精一杯だった。
  3. 結局このレースを最後に現役を引退。引退後は日本で種牡馬入りしたが受精率が悪く、更に活躍馬もほとんど出なかったこともあり、2000年にはアイルランドに輸出されてしまった。
シャーガー
  1. 1981年のエプソムダービーを10馬身差という大差をつけて勝利。その後アイリッシュダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSを勝利し、この年のイギリス年度代表馬に。
    • 1999年から行われるようになった騎手選抜戦の名称にシャーガーの名前が使われている。
  2. 1982年に種牡馬入り、引退前にすでに1000万アイルランド・ポンド(約43億円)という種牡馬シンジケートが組まれており、初年度は28頭の産駒が誕生、その中ではアウザールがGIを3勝し、シャーガーの代表産駒となった。
  3. ところが、翌1983年の2月、繋養されていた牧場に覆面を付けた男6人が侵入、シャーガーは誘拐されてしまう。
    • 犯人グループから200万ポンド(約7億円)の身代金が要求されるも、シンジケート側がそれを拒否したことで連絡が途絶え、同時にシャーガーの行方も消えてしまう。
      • 誘拐を行ったのはIRA(アイルランド共和国軍)のメンバーで資金確保のために誘拐したが暴れ出したため射殺されたと言われている。
  4. 結局、わずか1代しか産駒を残すことが出来ず、代表産駒だったアウザールも引退後に日本へ輸出するも、重賞勝ちを収めたのはイブキラジョウモン(中日スポーツ賞4歳S)のみであり、直系は途絶えている。
  5. なお、毎年エイプリルフールになるとシャーガーが発見されたという嘘ニュースがイギリス内で報じられている。
ジャッジアンジェルーチ
  1. アメリカでGIを3勝し、1989年から社台スタリオンステーションにて種牡馬として供用された。
  2. ところが代表産駒が軒並み成績不振に苦しみ、種牡馬としては大失敗に終わってしまう。
    • 代表産駒のゴーカイも平地のレースで伸び悩んだ末、障害のレースでやっと活躍した。
  3. 母の父(ブルードメアサイアー)としてはオレハマッテルゼ・グレープブランデー・アジュディミツオーなどの産駒を残した。
    • 因みにキタサンブラックの母の母の父でもある。
ゼンデン
  1. 2018年にアメリカでデビューした競走馬。2020年末までは12戦4勝という極々平凡な成績だった。
  2. 2021年に入ると1月にアローワンス競走で2着、2月にリステッド競走のペリカンSで5勝目を挙げ、UAEで行われるドバイゴールデンシャヒーンに遠征。
    • 日本での前売りオッズは13頭立ての最低人気だったが、レースではスタート直後に先手を奪うとそのまま快調なペースで逃げ、最後は追い込んできた日本馬のレッドルゼルを約3馬身振り切ってコースレコードで勝利。
  3. ところがゴール入線直後に左前脚を複雑骨折し鞍上のアントニオ・フレス騎手を振り落とし転倒、そのまま安楽死の措置が取られてしまった。
    • 管理するカルロス・デイヴィッド調教師はレース後のインタビューで「喜び以上に落胆している」「賞金やトロフィーよりも、レースに勝って私のもとに無事に帰ってきてほしかった」と語った。
セントクレスピン
  1. アイルランドの凱旋門賞馬。種牡馬としても愛、日でGI馬を複数排出し大成功するが、種牡馬引退後は屠殺されてしまう。
    • 1981年では功労馬繋養展示事業はなく、動物愛護意識も薄かったと言う時代背景も大きいかもしれない。
      • その約20年後にはケンタッキーダービー馬ファーディナンドも同様の末路を辿ったとされている。
ソルティンゴ
  1. 現役時代は社台の総帥・吉田善哉氏の所有馬としてイタリアのGIを2勝。
  2. 引退後は当然社台スタリオンステーションで種牡馬入り、輸入初年度は約40頭に種付けを行い、その中から後に宝塚記念を勝つスズパレードを産んだが…。
    • 初年度の種付けシーズン終了後、ソルティンゴは担当厩務員のミスでバウンティアス(バローネターフの父)のパドックに放牧されてしまい、縄張り争いで局部を蹴られて繁殖能力を失ってしまった。
      • 責任を感じたソルティンゴの担当厩務員は数日後に自殺。ソルティンゴは繁殖能力の回復を期待され種牡馬登録は抹消されずに懸命の治療を施されたが、回復しないままスズパレードがデビューした1983年に死去。
チチカステナンゴ
  1. 現役時代はフランスでGIを2勝。フランスダービーでも2着に入り、引退後はフランスのヴィクトー牧場で種牡馬入り。
  2. 2008年の12月に日本の社台スタリオンステーションが種牡馬として7億円で購入したことを発表。
    • 当時、社台グループにはサンデーサイレンスの血を持つ繫殖牝馬が溢れかえっており、血統面でヘイルトゥリーズン(サンデーサイレンスの祖父)の血が入っていないこの馬が購入された。
  3. 翌2009年から日本で種牡馬生活を開始。1年目からダイワスカーレットやキストゥヘブンといった2009年に引退した活躍馬の初年度の交配相手として人気を博し、2009年は152頭・2010年は153頭・2011年は147頭に種付けを行ったが…。
  4. 2011年の年末に便秘から疝痛を発症し開腹手術を受け療養していたが、年が明けた2012年の1月13日に容態が急変し14歳の若さで急死。
  5. 2012年にデビューした産駒も中央・地方含めて重賞勝ち無しという大失敗に終わってしまった。
ピルサドスキー
  1. アイルランド生まれの競走馬。1997年のカルティエ賞(ヨーロッパにおける競馬の年度代表表彰)で最優秀古馬を受賞した。
  2. 名義貸しの問題や馬名の問題などもざんねんだが、一番のざんねんエピソードは1997年のジャパンカップだろう。
    • このレースのパドックでピルサドスキーは激しく「馬っ気」を出していたため、3番人気まで人気を落としてしまう。
      • ところがレースでは、直線粘るエアグルーヴをあっと言う間に差し切って勝ってしまった。
        • エアグルーヴに騎乗していた武豊は、レース後のインタビューで「あれだけ完璧なレースをしたエアグルーヴを差す馬が世界にいるとは…」と愕然としていた。
  3. 翌1998年に静内町で種牡馬として供用され、当初は「ポスト・サンデーサイレンスの有力候補」と評されたが…。
    • 初年度に勝ち上がった馬が0頭という惨憺たる結果に終わり、2003年にアイルランドへ戻った。
      • しかも現在(2020年)時点でジャッジアンジェルーチと違い母系でも成功していない。
ラムタラ
  1. 欧州で活躍した競走馬。引退後は種牡馬として英で1年供用された後、3000万ドルで日本に導入されるが結果は大失敗。再輸出の価格は購買時の100分の1以下であった。
    • 代表産駒はGⅢ馬のメイショウラムセス。一応母の父として天皇賞馬ヒルノダムールを送り出し最低限の意地は見せたが……。
  2. 何故かヨーロッパでの評価は総じて低く、1995年のカルティエ賞(ヨーロッパにおける競馬の年度代表表彰)の年度代表馬のタイトルは獲得できなかった。

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