ざんねんな競走馬事典/あ~さ行

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あ行[編集 | ソースを編集]

ウインクリューガー[編集 | ソースを編集]

  1. マイル王タイキシャトルの産駒であり、産駒初の重賞馬でありGI馬でもある。人気薄ながらNHKマイルカップを勝利するも・・・。
  2. この年の秋から大スランプに陥る。中1週の連戦を行ったりダート重賞に挑むなどするも全く結果が出ず迷走状態に。
    • しまいには腸ねん転を発症して長期休養を余儀なくされる。その後は復帰し障害競走で4年ぶりの勝利を得るもその後故障を生じて引退することに。
      • 近親にディープインパクトがいる良血のためか種牡馬にはなれた。
        • なお2015年に種牡馬引退し、現在は相馬市の個人に引き取られ、野馬追に参加するために特訓を受けているとのこと。
  3. GI馬だというのにその後の負け続きから当時の2chでウインガーという愛称でネタ馬として親しまれていた。
    • JRAのNHKマイルCメモリアルレースの投票企画で95000票を集め、1位にはなれなかったもののクロフネやエルコンドルパサー以上の票数を集めたことも。
      • しかしその翌週から「同一人物からの多重投票は無効にします」という表記が追記されるなどネットからの多重投票が問題になってしまった。

オーシャンエイプス[編集 | ソースを編集]

  1. 新馬戦の勝ちっぷりで大きな話題に。一時はオーシャンエイプスの新馬戦の単勝馬券が高額でオークションに出されたほどだった
    • ・・・が、次戦のきさらぎ賞で平凡な馬だと分かり価値が暴落。入札者が出品者を脅迫して入札を削除させる事件までもが起きてしまう。

オグリキャップ[編集 | ソースを編集]

  1. 80年代後半から90年にかけて活躍。当時のバブル景気との相乗効果で第二次競馬ブームを巻き起こした。
    • 一時期は「競馬を知らない主婦でもオグリキャップの名前は知っている」と言われたほどだった。
  2. しかし種牡馬として中央の重賞勝利馬を輩出することは出来なかった。
    • 同年(1991年)に種牡馬デビューしたサンデーサイレンスの陰に隠れてしまった感が強い。
    • 一応2020年現在も母系でギリギリ残っているが…。
      • 2020年に父系の曾孫が産まれたのもお忘れなく。
  3. 1989年時のローテーションがとにかく批判を浴びた。それでもしっかり成績は残しているけど。
    • 前年の有馬記念から故障の影響で9か月間隔を開けてオールカマーがこの年の初戦(当初は毎日王冠からの始動だった)。そこを勝利したあと毎日王冠に出走し勝利。
    • 天皇賞秋ではスーパークリークの前に敗れ2着。その後マイルチャンピオンシップではバンブーメモリーをゴール寸前で差し切りハナ差勝ち。
    • そしてそこから連闘でジャパンカップに出走。ハイペースとなったこのレースを当時の芝2400mレコード2:22:2で走破するもホーリックスに敗れ2着。
      • そして年末の有馬記念に出走をするも今までの疲労が重なり5着に敗れてしまうことに。いくら何でも連闘で使ったのは無理があったと言えよう。

オフサイドトラップ[編集 | ソースを編集]

  1. 3歳時(1994年)は3連勝で皐月賞と日本ダービーにも出走したが、4歳・5歳時(1995年・1996年)は脚部不安のため僅か5戦しか走れなかった。
  2. 6歳(1997年)前半はある程度順調に走り、中山記念とダービー卿CTで2着に入るなど堅実に走ったが、ここで脚部不安が再発。
    • 引退も検討されたが、陣営はオフサイドトラップの高い素質を信じ現役続行を決断。7歳(1998年)春に復帰を果たした。
  3. 復帰後も勝ちきれないレース(2着→2着→3着)を続けていたが、7月の七夕賞で追い込み策がはまり遂に初の重賞勝利。
  4. 続く新潟記念も追い込んで勝ち重賞2連勝。そのまま秋の天皇賞に出走することになった。
    • レースのオッズは重賞5連勝中のサイレンススズカが1.2倍と抜けた1番人気。
    • 「生涯最高」という出来で挑んだオフサイドトラップは6番人気に過ぎなかったが…。
  5. レースは3コーナーで故障を発生したサイレンススズカが大きく外にコースアウトし、その影響で大きく空いた内のコースを突いたオフサイドトラップが1着でゴールしたが、素直には喜べないGI勝利となってしまった。
    • その後は有馬記念10着を最後に現役を引退。
  6. 引退後は北海道の門別で種牡馬入りしたが、秋の天皇賞は棚ボタ的な勝利と生産者に判断されたか種付け数は伸びず、2003年を最後に種牡馬も引退。
    • 中央で勝ち星を挙げたのも2頭(リュウハヤテ・コスモウェンブリー)だけだった。
  7. 種牡馬引退後は功労馬として余生を送っていたが、2011年8月に腸不全を発症し20歳で死亡。

オペックホース[編集 | ソースを編集]

  1. ダービー勝利後、実に32連敗。2着すら二度だけと言う成績で史上最弱のダービー馬と言われた。
    • ちなみにダービーで負かしたモンテプリンスはGⅠを2勝している。
  2. 7歳時に日本中央競馬会の種牡馬適正試験を受けるも不合格、その後地方競馬転出の話が出たが「ダービー馬を地方で走らせるのは…」との声が挙がり実現せず。
    • 8歳時には障害競走の練習で卓越した飛越能力を見せたが、ファンからの批判の声にオーナーが耐え切れず結局障害転向も白紙に。結局この年を最後に現役を引退している。

オルフェーヴル[編集 | ソースを編集]

  1. 2011年の牡馬三冠馬であり、凱旋門賞でも2年連続で2着になるなど世界でも通用した名馬。
  2. しかし完全無欠な馬ではなかった。2歳のときは牝馬に負けたり重賞で大敗するなど不安定な成績だった。
  3. またとにかく暴れっぷりも印象に残っており、新馬戦ではゴール後に鞍上の池添騎手を振り落とした、菊花賞では三冠達成のウイニングランで池添騎手を振り落とした。
    • 幸いにもレース中に騎手を振り落とすようなことはなかったが・・・。
  4. 4歳時の阪神大賞典(GII)では中団からいきなり先頭に立ち、第3コーナーでいきなり減速。観客どころかアナウンサーすら故障したと思ってしまった。その後は再び加速するも勝ち馬におよばず2着に敗れる。
    • 好き勝手走りまくった結果同馬は調教再審査を受けることに。審査はパスし天皇賞春に出走するもいつもと違いメンコを被ってたことや馬場が悪かったこともあいまって11着に大敗。
  5. それでも次の宝塚記念で巻き返し勝利。さらにフランスに渡り凱旋門賞へ挑む。
    • 本番では折り合いもつき、最後の直線で先頭に立つとそのまま後続を突き放す。悲願の凱旋門賞制覇だと思った矢先内ラチぞいに斜行しぶつかってしまいそこを追ってきた地元のソレミアに差されてしまいあとわずかというところで負けてしまった。
      • 翌年も挑むが3歳牝馬トレヴの前に敗れ2着。結局前年が一番の大チャンスだったのにそれをむざむざ逃してしまったのがざんねんであった。
  6. 引退レースの有馬記念は8馬身差の圧勝。本当に勝つときのパフォーマンスは凄かったがざんねんな負け方も多かった馬であった。

か行[編集 | ソースを編集]

カーム[編集 | ソースを編集]

  1. マイネルで有名な岡田総帥が3億2000万円と言う高額(サンデーサイレンス産駒中3番目の高額)で落札。やはりデビュー前は絶賛されたが中央未勝利に終わった。
  2. 一応種牡馬にはなれており、産駒が中央で勝てなかった父の無念を晴らしている。

カイソウ[編集 | ソースを編集]

  1. 1944年の日本ダービーの勝ち馬。
    • しかし太平洋戦争の戦況の悪化に伴い、1944年は競馬の開催が中止されて「能力検定競走」として東京と京都で行われた。
      • 東京競馬場のスタンドには観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人余りが見守るなかで行われた日本ダービーだった。
    • 鞍上の橋本輝雄は当時を振り返り「スタンドは無人同然で、いかにも寂しかった」と後に語っている。
      • 残念ながらレース映像は残っていない。
  2. その後半年ほど休養し、1レース挟んで菊花賞(長距離特殊競走)に出走。
    • この競走で1位に入線、一旦は結果が確定されたが、年が明けた翌1945年になって競走不成立の裁定が下された。
      • 理由は、これまで菊花賞は外周り2周で行われていたのに対し、この年から外回り2周→内回り2周に変更されていた。
        • しかし、この変更が騎手に伝えられておらず、全頭が前年と同じく外回り2周をしてしまった。
  3. その後2レース走るも6着→12着に終わり、更に母方の血統が嫌われ種牡馬入りも出来ず。
  4. 陸軍の名古屋師団が落札し乗馬となったが、1945年5月14日の名古屋大空襲に巻き込まれ、その後行方不明に…。

ゴールドシップ[編集 | ソースを編集]

  1. GIを6勝し、ドリームジャーニー、オルフェーヴルと共に父ステイゴールド・母の父メジロマックイーン時代を築いた。
    • 宝塚記念初の2勝、及び連覇を達成するなど芦毛馬の英雄となった。
  2. しかし、ともかく気性が荒く調教や本馬場入場とかで急に立ち上がるなどロデオぶりを披露することが多かった。
    • ほかにも、他の馬を蹴ろうとしたり、須貝調教師に噛み付くといった行為も多かった。
  3. 2015年春の天皇賞ではゲート入りを嫌がりまくり目隠しされたが勝利した。
    • 発走調教の再審査を受けることになってしまった。
  4. そして史上初の中央同一平地GI3連覇を賭けて同年の宝塚記念に出走、圧倒的1番人気だったが…。
    • スタート直前で立ち上がってしまい大きく出遅れてしまいブービーの15着に終わってしまった。
      • またしても発走調教の再審査を受けることになってしまった。
        • ちなみにこの出遅れで約117億円が紙屑と化した。そんな大惨事にも関わらずスタンドからは笑い声もあがるほどだったようだ。世が世なら暴動モノだぞ・・・。
          • とうのゴルシはレース後申し訳なさそうに須貝調教師の前で目線をそらしたという。
  5. その後JC、有馬記念でも1番人気に推されたが惨敗し引退。
  6. 1番人気で大敗することが多く、とくに1倍台の支持を受けながら4回も着外に敗れたことがあった。(上述の宝塚記念のほかに、4歳の天皇賞春・京都大賞典・6歳のアメリカジョッキーズクラブカップ)
  7. そんなわけで、あのゲームでもそこら辺が反映されまくり。

コスモバルク[編集 | ソースを編集]

  1. ホッカイドウ競馬でデビューし3歳時は牡馬クラシック3戦を皆勤。皐月賞とジャパンカップで2着に入ったが、遂に中央のGIを勝つことはできなかった。
    • 海外のGIなら2006年のシンガポール航空国際カップを勝っている。
    • 2007年の天皇賞(秋)ではエイシンデピュティと共に斜行し、その影響で進路を横切られたカンパニー(3着)鞍上の福永祐一から「五十嵐(冬樹)さんはGIに乗る騎手じゃない。(ローカルの)福島にでも行っていればいい」と激しく非難された。
      • もっとも福永自身はこの発言を「事実ではない」「そんな失礼な言葉を口にするはずがない」と否定している。
    • 晩年は凡走が続き、2009年のジャパンカップ出走時には一部の競馬評論家から批判の声が上がったことも…。
  2. 2009年の有馬記念(新記録の6年連続出走だった)10着後に馬主サイドから「国内での現役続行断念と海外への移籍」を表明。
    • 翌2010年3月にアイルランドへ移籍し現役を続ける予定だったが、出国前の調整中に左後脚の剝離骨折が判明し移籍を断念して現役を引退。
  3. 引退後は「血統的に需要が少ない」と判断され種牡馬入りは叶わず。その後は新冠のビッグレッドファームで功労馬として余生を送っている。
    • 因みに2011年にはアイルランド移籍の話が再燃したが、出国前の調整中に今度は屈腱炎が判明し断念。

コンゴウダイオー[編集 | ソースを編集]

  1. 2歳のときですでに500キロを超える馬格を持ち調教のタイムも優秀だった。
    • が、それで調子に乗ってしまったのか、調教師は「同じ重量で走らせるのは他の馬がかわいそう」「このまま函館スプリントSに出しても勝てる」「日本どころか世界のGIでも勝てる」と吹きまくった。
      • 結果、新馬戦は単勝1.1倍に支持されたが3着に敗退。3戦目でどうにか勝ち上がれたがその後は1勝しかあげられず、当然国内のGIにすら出ることもできず2008年レース中に故障を生じて予後不良に。
  2. 今では調教師が吹きまくった語録だけが語り継がれている。

さ行[編集 | ソースを編集]

サクラスターオー[編集 | ソースを編集]

  1. 皐月賞、菊花賞の二冠を制し「菊の季節にサクラが満開」の名実況で知られている。
  2. 3戦目までは「サクラ」の主戦騎手だった小島太が騎乗していたが他の馬主と専属契約を結んだことによる馬主からの制裁で降板させられてしまう。
  3. 常に脚部不安に泣かされ日本ダービー出走はできなかった。
  4. 菊花賞勝利後休養するつもりだったが他に有力馬がいないという理由でJRAが依頼したため有馬記念に出走。
    • その有馬記念で故障を発生し競走中止、治療の甲斐もなく翌年死亡。
      • コースに出来てしまった穴に脚を引っ掛けてしまったのが故障の原因という説が出ている。

サクラロータリー[編集 | ソースを編集]

  1. 上記のサクラスターオーと同期。
    • 新馬戦、りんどう賞、府中3歳ステークスを3連勝し同世代の筆頭格と評価されたが、3連勝目の府中3歳Sで左後脚を痛めそのまま引退となってしまった。
    • 3戦で鞍上を務めた小島太は後に「無事なら三冠馬になったかもしれないだけに大ショックだった」「本当の史上最強馬はこの馬」と振り返っている。
    • その後、りんどう賞で2着だったメリーナイスは朝日杯3歳Sと日本ダービーを勝ち、府中3歳Sで3着だったマティリアルも皐月賞と日本ダービーで1番人気に支持された。
  2. 引退後は3戦無敗という成績を期待され種牡馬入り。2年目には約100頭の繫殖牝馬を集めるなど高い人気を博したが、中央競馬でオープンまで走ったのは僅か2頭で重賞勝利馬なし。
    • 地方競馬では北関東を中心に重賞を11勝したイヴニングスキーを出したが、他に重賞勝利馬を出すことはできなかった。
  3. しかし中央4勝のマイネルスマイルが一口馬主だった鍵谷篤宏氏に引き取られ、マイネポラリスとの間に8頭の産駒を残した。
    • その内の2頭、プニプニヨークンとスベスベヨークンは鍵谷氏が種牡馬入りさせると公言していたが実現せず、トウショウボーイの父系はここで潰えた。

サルノキング[編集 | ソースを編集]

  1. デビュー戦こそ3着だったが、その後はレコード勝ち1回を含む4連勝。
    • 暮れの目標であった阪神3歳Sは直前の体調不良で出走取消となったが、その後も東京4歳S・弥生賞と連勝を重ねる。
  2. ところが続くスプリングSで1番人気に支持されたサルノキングは、出走11頭中の最後方(しかも10番手の馬から更に20馬身程離れた後方の位置)からレースを進めた。
    • 当然、逃げた2番人気のハギノカムイオーにとっては理想的なスローペースとなったため、そのまま楽々と逃げ切って1着。
      • 一方のサルノキングは向こう正面からロングスパートを仕掛けたが、レース中に骨折した影響もあってか、ハギノカムイオーには追いつけず2着争いから僅かに遅れた4着に敗れてしまった。
  3. レース後に「このレースはサルノキングがわざと負け、本賞金の足りないハギノカムイオーに皐月賞の出走権を確保させたのでは?」という疑惑が浮上した。
    • ハギノカムイオーとサルノキングの共有馬主の1人が同じだったのが疑惑の理由となっている。
  4. サルノキングに騎乗していた田原成貴は「これは決して八百長ではない」と八百長の疑惑を否定。
    • 実は関西におけるサルノキングのレーススタイルは後方待機策であり、関東に進出した東京4歳Sと弥生賞では引っ掛かって先行する競馬をしていた。
      • 「このままではクラシックではとても戦えない」と判断した田原と中村調教師が、脚質を本来の後方待機策に矯正すべくスプリングSで実行したというのが真相らしい。
        • 因みにこの年の三冠レースは悉く乱ペースとなっており、田原の懸念は的中した格好となった。
  5. このレース中に重度の骨折を発症したサルノキングは、クラシックに出ることなくこのレースを最後に引退。
  6. 引退後は種牡馬となったが、札幌日経オープンでホクトベガの2着のモガミサルノが目立つ程度と結果を残せなかった。

サンエイサンキュー[編集 | ソースを編集]

  1. 重賞3勝、GIでも2回2着に入っており、十分賞金を稼いだはずだが…
  2. 当初から過酷なローテーションで、案の定疲労の蓄積で予後不良級の故障を発症した後も繁殖牝馬として金にしたいと言うオーナーによって無理矢理生かされ続けた挙句死亡。競馬史上最も胸糞悪い事件として悪名高い。

スーパークリーク[編集 | ソースを編集]

  1. GIを3勝、菊花賞で武豊騎手に初のGIをプレゼントし、オグリキャップ・イナリワンとともに「平成三強」を形成。
    • 後に武本人も「スーパークリークで菊花賞を勝ってから競馬以外のメディアの取材が多くなった」と語っている。
  2. しかし種牡馬としては産駒が晩成傾向だったことが災いし、中央の特別戦の勝ち馬すら出せなかった。
    • 代表産駒はハギノハンター(中央5勝、但し準オープンで完全に頭打ち)、ハダシノメガミ(スイートピーS2着、オークスにも出走)の2頭か。
    • 一応、母の父としては阪急杯を勝ったブルーショットガンを出している。

ステートジャガー[編集 | ソースを編集]

  1. 南関東・笠松で活躍し1985年春に中央に移籍。中央移籍初戦の読売マイラーズカップでいきなりニホンピロウイナーの2着と好走。
  2. 続くサンケイ大阪杯ではミスターシービーとの競り合いをハナ差制して重賞初勝利。
  3. 春の天皇賞を回避して挑んだ宝塚記念、シンボリルドルフの出走取消もあり1番人気に支持されたが4着と凡走。
    • このレース後に行われたドーピング検査で尿から禁止薬物のカフェインが検出され失格・賞金没収となり、管理調教師は半年の調教停止処分を受けてしまう。
  4. その後高松宮杯の出走予定があったが取り消し、美浦へ転厩したが約2年間一走も出来ず引退。
  5. 引退後は種牡馬になったが目立った活躍馬を出せないまま廃用。
    • 愛知県にある乗馬クラブに預けられた直後に残された僅かな産駒たちが活躍。奇跡的に種牡馬復帰を果たしたが新たな活躍馬は出せず、1997年に再び供用停止となりその後は行方不明に…。

ステイゴールド[編集 | ソースを編集]

  1. 数多くのGIで好走、引退レースで最初で最後のGI制覇を成し、種牡馬としてもオルフェーヴルをはじめとした名馬を続々輩出した。
  2. しかしデビュー前からとにかく気性が激しく調教中にも立ち上がったり他の馬を威嚇するなど問題児だった。
    • 「肉を与えたら喰うんじゃないか」と同馬の調教師だった池江泰寿氏は語っている。
  3. デビューしてからもカーブを曲がらずに逸走し騎手を振り落とすなどやっぱり問題児だった。
  4. 京都大賞典(GII)に出走した際は思いっきり斜行してしまいナリタトップロードを妨害し騎手が落馬。1着でゴールをしたものの失格になってしまった。
  5. 産駒にもその激しい気性はしっかり遺伝している。オルフェーヴルがあんな気性なのはだいたいこの馬の血統のせい。

スペシャルウィーク[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代は日本ダービー、春秋天皇賞、ジャパンカップとGIを4勝。種牡馬としてもシーザリオやブエナビスタらを輩出した。
  2. これだけを聞けば文句なしの一流馬なのだが、実は現役時代に獲得した勲章は1999年のJRA賞特別賞のみ。
    • これは同世代にグラスワンダーやエルコンドルパサーがいたことが大きく影響している。
  3. また引退後の顕彰馬投票でも常に上位の票を集めていたが2019年に規定の年限をオーバー。
    • このため、今後2014年のような特例選出がない限り、顕彰馬になれないことが確定してしまった。
  4. 後継の種牡馬にあまり恵まれなかった(リーチザクラウンとトーホウジャッカルぐらい)のもざんねん。
    • せめてゴルドブリッツが長生きしてくれたら…。

スシトレイン[編集 | ソースを編集]

  1. デビュー1戦目、2戦目はいずれも圧勝。エルコンドルパサーの再来と持ち上げられ海外遠征の話まで上がる。
  2. しかし、その後は惨敗続き。結局3勝目はおろか掲示板にすら入れないまま引退した。
    • だが、2戦目と3戦目は同条件で殆ど変わらないタイムである。つまり、今まではレベルが低すぎただけであった。

関連項目[編集 | ソースを編集]

競走馬(五十音順一覧)
日本 JRA 三冠馬 | 1980年代 | 1990年代(1990年/1992年/1998年)
2000年代 | 2010年代 | 2020年代 | 障害馬
地方競馬
海外 三大始祖 | 日本輸入繁殖馬 | 欧州 | 北米 | アジア・オセアニア | 中南米・アフリカ
関連項目 ざんねんな競走馬事典(日本:あ~そ/た~わ) | 偽競走馬の特徴
もしあの競走馬が○○だったら(故障していなかったら/長生きしていたら)