ざんねんな競走馬事典/た~わ行

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たな行[編集 | ソースを編集]

ダイタクヘリオス[編集 | ソースを編集]

  1. 1991、92年のマイルチャンピオンシップを連覇した名マイラーだが、この馬が出走するレースは1番人気がことごとく負けるというジンクスがあった。自らも例外ではなく、1番人気で勝利したのは一度だけ。
  2. おまけに走るときには口をだらしなく開けたままだったので「笑いながら走る馬」と渾名されることになった。

ダイワメジャー[編集 | ソースを編集]

  1. 2004年の皐月賞馬。しかし、その後は不調だった時期がありダメジャーと言う不名誉なあだ名をつけられる羽目に。
    • 皐月賞で負かしたのがホッカイドウ競馬在籍で地方の星として耳目を集めたコスモバルクだったため、かなり厳しい目で見られ続けた。
    • もっとも、コスモバルクを発掘した岡田繁幸氏は「バルクが負けるとしたら、勝つのはダイワメジャーかもしれない」と語っていたとか。
  2. 最終的にはG1を4勝し、種牡馬入り後も多くの産駒が活躍している。

タニノムーティエ[編集 | ソースを編集]

  1. 1970年のクラシック三冠路線で関東のアローエクスプレスとライバル関係を築き、その対決は当時色濃かった東西対抗意識のなかで「AT対決」とも呼ばれたが、アローエクスプレスを退けて皐月賞・東京優駿(日本ダービー)の春のクラシック二冠を制した。
  2. ところが日本ダービーのレース後、タニノムーティエの馬主の谷水信夫は厩舎関係者全員の反対を押し切って自ら設営した大津市の放牧場への放牧を強行。
    • 放牧中に谷水・調教師の島崎宏・主戦騎手の安田伊佐夫が様子を見に行った際、タニノムーティエは降雨で寒い中に屋根も何もない場所で裸足のまま立っていたという。
    • この影響か、または谷水が土壌改良のために撒いた石灰を吸い込んだことが原因という説もあるが、何れにせよタニノムーティエはこの放牧中に喘鳴症(ノド鳴り)を発症してしまう。
  3. 秋初戦の朝日チャレンジカップは大差の最下位、菊花賞の前哨戦・京都杯(現在の京都新聞杯)は9頭立ての6着と敗れ、レース後に初めて喘鳴症を患っていることが公表された。
  4. 菊花賞はセントライト、シンザンに次ぐ史上3頭目のクラシック三冠達成が懸かっていたが、直前の調教では相変わらず喉を鳴らしており、3ハロンのタイムは43秒を切ることができなかった。
    • 引退も検討されたが、谷水の希望もあり出走。レース当日は5番人気に支持された(1番人気はアローエクスプレス)。
      • レースでは後方に控え、第3コーナーから第4コーナーにかけて先頭を窺う勢いで進出し観衆を大きく湧かせたが、そこから失速してダテテンリュウの11着に終わり(アローエクスプレスは9着)、史上3頭目の三冠は成らなかった。
  5. このレースを最後に引退となり、引退後は北海道で種牡馬入りしたが、中央競馬の重賞勝ち馬を出すことはできなかった。
    • ライバルだったアローエクスプレスは種牡馬として大きな成功を収め、この点では対照的な結果となった。
      • 「競走馬としてタニノムーティエの圧勝、種牡馬としてはアローエクスプレスの圧勝」とも評されている。
  6. タニノムーティエの種牡馬としての失敗は、繁殖牝馬の交配相手として重用していたカントリー牧場の低迷を招く原因の一つともなった。
    • 弟のタニノチカラが1974年に有馬記念を勝って以降、様々な改革を経て2002年にタニノギムレットが日本ダービーを制するまでの28年間、カントリー牧場から八大競走・GI競走を制する馬は現れなかった。

ダンツシアトル[編集 | ソースを編集]

  1. 2度の長期休養を乗り越え、明け6歳(当時)になって本格化。
    • 準オープン1着→オープン特別3着(4コーナーで致命的な不利があった)→オープン特別1着→安田記念除外で代わりに出走した京阪杯で重賞初制覇。
  2. 続く宝塚記念では2番人気に支持され、レースでも道中3番手から押し切って勝利。
    • 走破タイムの2分10秒2は当時の芝2200mの日本レコードだった。
  3. しかし3コーナーで故障を発生し、競走を中止したライスシャワーの影響で素直に喜べないGI勝ちとなってしまった。
    • その後脚部不安を再発し、2年後の1997年1月に引退。
  4. 引退後は九州で種牡馬入りしたが、これといった産駒を出せず2017年を最後に種牡馬を引退。血統は良かったのだが…。

ダンツフレーム[編集 | ソースを編集]

  1. クラシックでは全て入着。その後も重賞やG1を賑わせ続け、グランプリホースにもなった。
  2. しかし引退後は種牡馬入りできず、屈腱炎にも関わらず地方で再び走らされ散々戦績に傷がついた挙句、肺炎で急死。あんまりな末路である。
    • 元々血統が悪くサンデー産駒全盛期の時代に需要が無かったこと、勝った宝塚記念もジャングルポケットやマンハッタンカフェ・ナリタトップロードと言った有力馬のいないレースであり低レベルだった事情もある。

ディープインパクト[編集 | ソースを編集]

  1. 日本の悲願だった凱旋門制覇だ!とばかりに意気揚々とフランスに遠征。テレビで特番が組まれたりツアー旅行が組まれるなど盛り上がった。
    • だが結果は3着に完敗。さらに餌に禁止薬物が入ってたことが判明し失格になるという散々なことになってしまった。
      • 観光客のマナーの悪さも問題になった。
  2. 本馬に関しては、種牡馬としても大成功の部類ではあるが、未だにこれと言った後継種牡馬が出ていないとされるまま死亡してしまったのも残念かもしれない。
    • 本馬が亡くなった翌年、コントレイルが父と同じく無敗の三冠を達成したのは皮肉か。
  3. 産駒がたびたび凱旋門賞に挑むもキズナの4着、ハープスターの6着以外は惨憺たる成績が続く、特にマカヒキ、サトノダイヤモンドがブービー、フィエールマンに至っては勝ち馬から48馬身離された最下位に沈んでしまう。
  4. 同馬が勝ったGI競走で2着に入った7頭のうち、6頭(シックスセンス、インティライミ、アドマイヤジャパン、リンカーン、ナリタセンチュリー、ドリームパスポート)は1年以内に故障を発症してしまった。
    • 7頭のうち唯一無事だったポップロック(2006年の有馬記念2着)は9歳まで現役を続けたが、GI未勝利のまま最後はレース中に屈腱炎を発症して引退となってしまった
    • 因みに国内で唯一土を付けたハーツクライも喘鳴症でディープより先に引退。
      • 更に凱旋門賞でディープを破ったレイルリンクは翌2007年に骨折や腱の故障が影響し引退となっている。

ナリタブライアン[編集 | ソースを編集]

  1. クラシック三冠を果たしたが古馬以降怪我に泣かされるなどでG1を勝てなかった。
  2. ともかく調教師へのバッシングがすごかった。
    • あまりのバッシングの酷さに調教師が反発し、3歳時の皐月賞・菊花賞・有馬記念の直前には競馬マスコミに対してJRAを通じて取材拒否の通達を出していた程だった。
  3. 1996年の阪神大賞典は名勝負と呼び声もあったが土曜開催だったことへの批判や名勝負を否定する声もあった。
    • 開催日程に関しては翌1997年から日曜開催に移動。
    • マヤノトップガンの鞍上だった田原成貴曰く「あくまで春の天皇賞の前哨戦」「ブライアンが本調子ならトップガンはスタンドまで吹っ飛ばされていた」。
  4. その年の天皇賞春に敗れた後出走した1,200mの高松宮杯はファンファーレも残念だったとされる。
  5. 引退後種牡馬入りするも翌年に死亡し一頭も後継種牡馬を残すことができなかった。
    • 生産し種牡馬として繁養していた牧場が倒産する一因になった。

は行[編集 | ソースを編集]

ハードバージ[編集 | ソースを編集]

  1. 1977年の皐月賞馬。引退後は種牡馬となるが、成績が芳しくなかったため使役馬に転用。重い馬車の牽引や甲冑を来た役者を乗せるなどの重労働が続いた挙句、日射病で死んでしまった。
    • ハードバージの辿った末路は今まで人々の関心が薄かった名馬の余生を考えるきっかけとなり、功労馬繋養展示事業の実施にも繋がった。
  2. 全弟のマチカネイワシミズの方がダビスタの影響で有名になってしまった。

ハービンジャー[編集 | ソースを編集]

  1. 競走馬としてKGVI&QESを大差勝ち。種牡馬としてもGI馬を牡牝各2頭を輩出。
  2. しかし、後継種牡馬に恵まれない。
    • マイルCS馬ペルシアンナイト・有馬記念馬ブラストワンピースは乗馬行きに(仮にも×××という意味ではないが)。
      • 有馬記念馬が種牡馬入りできなかったのは、現役中に死亡したテンポイント以来2例目とのこと。

ハシルショウグン[編集 | ソースを編集]

  1. 南関競馬で活躍。だが芝G1ではいずれもドベでアルクショウグンと揶揄される。
  2. 最後も旧表記9歳で凡走が続いていたにも関わらず障害を走らされ・・・

ハマノパレード[編集 | ソースを編集]

  1. グランプリホースとなったが、高松宮杯競走中止後はそのまま屠畜場行きに。後にこの事実が新聞で取り上げられ批判が殺到。これを切欠に予後不良と診断された競走馬の屠殺は行われなくなった。
  2. なお、ハマノパレード事件以前は取り沙汰されていなかっただけで、予後不良となった馬を馬肉に転用することはしばしばあったとか。

ハルウララ[編集 | ソースを編集]

  1. 連戦連敗続きにより一躍大スターとなったが、引退後の扱いは・・・
    • そもそも引退前から怪しい状態になっていたともいえる。結局引退レースも引退式も行われず、繁殖の計画もあったが実現せず、最後は馬主によって千葉の牧場に委託されるもそれっきりという始末。
      • 結局は金の成る木に目を付けた人間の身勝手に翻弄されてしまったと言える。
  2. スター扱いされたのも元は廃場の危機に瀕していた高知競馬を盛り上げるためという事情もあった。
    • しかし生産者にとっては不本意だったのは言うまでもない。そして上述の顛末。今は千葉の御宿で余生を過ごしているのが救いか。

ビワハヤヒデ[編集 | ソースを編集]

  1. 上記にあるナリタブライアンの兄。2歳時・3歳時とGI(朝日杯3歳S・皐月賞・日本ダービー)では3連続2着だったが、夏場の猛調教で一気に力をつけ三冠最後の菊花賞は5馬身差の圧勝。
    • 続く有馬記念でもファン投票1位で出走し、最後にトウカイテイオーに交わされて2着。
      • 翌年のJRA賞の表彰では菊花賞の圧勝とGIでの3度の2着という成績を評価され、GIを2勝したヤマニンゼファーを抑えて年度代表馬のタイトルを獲得したが、一部にはこの結果に対して批判的な意見もあった。
  2. 4歳春は京都記念→天皇賞・春→宝塚記念を重賞を3連勝。宝塚記念の2週間前に行われた日本ダービーではナリタブライアンも圧勝しており、新聞は「秋には夢の兄弟対決実現か?」と報じられた。
    • そんな中、ビワハヤヒデの4歳秋のローテーション(オールカマー→天皇賞・秋→有馬記念の3戦、ジャパンカップには出走せず)にも批判が集まった。
      • ある作家は「JC回避は『退散』」「JCを回避するような及び腰ではそのうち良くないことが起こる」とビワハヤヒデの陣営を痛烈に批判。
    • 浜田調教師は後に「JCの回避は馬主の意向だった」「昔の人間にとってやっぱり天皇賞は大きい」と語っている。
  3. 4歳秋、ビワハヤヒデは初戦のオールカマーこそなんとか勝ったが、続く天皇賞・秋ではいいところなくネーハイシーザーの5着に終わった。
    • 更にレース後に左前脚に屈腱炎を発症していることが判明し、レース3日後の11月2日に引退を発表。ナリタブライアンとの兄弟対決は夢と消えた。
  4. 引退後は北海道で種牡馬入りしたが、目立った活躍馬を出すことは出来ず2005年に種牡馬も引退。
    • それでも功労馬としては早世した弟の分まで生き、2020年7月に30歳で大往生を遂げた。

ファインモーション[編集 | ソースを編集]

  1. デビューから5連勝でGI秋華賞を制覇、続くエリザベス女王杯で古馬牝馬にも勝って史上初めて無敗で古馬GIを制覇した。年末の有馬記念では1番人気に支持されたが5着に敗れた。
    • 因みに「無敗の古馬GI制覇」はシンボリルドルフもディープインパクトも達成していない。
  2. 古馬になってからはGIには手が届かなかったが重賞2勝をあげ、5歳の年末に引退。繁殖牝馬としてキングカメハメハと交配されたが・・・。
  3. 結果は不受胎。その後も何回か交配されたが、一度も受胎できなかった。その後調査によって染色体異常により受胎ができない体と分かり、繁殖牝馬として終ぞ産駒を出すことはできなかった。
  4. 現在は功労馬として余生を過ごしている。

ブラストワンピース[編集 | ソースを編集]

  1. 父はハービンジャー、母はツルマルワンピース(母の父キングカメハメハ)
  2. デビュー3連勝でGIII毎日杯を制覇。その後東京優駿は5着に敗れるも、GIII新潟記念では古馬相手に快勝、菊花賞では1番人気に支持されるも4着に敗れる。
    • その後出走した有馬記念では唯一の3歳馬として出走、天皇賞秋を制した1番人気のレイデオロの追撃を押さえ、初GI勝利が有馬記念となった。
  3. 4歳(2019年)になってから大阪杯・目黒記念と精彩を欠いたが、夏の札幌記念を制し、パリロンシャン競馬場での凱旋門賞へと遠征。しかし重馬場で力を発揮できず11着と大敗。
    • 休養後の5歳(2020年)初戦で出走したアメリカジョッキーズクラブカップで重賞5勝目を挙げたが、その後は大阪杯・宝塚記念・天皇賞秋と惨敗、有馬記念は競走中止と結果を出せず。
  4. 6歳(2021年)でも現役を続行、復帰初戦の鳴尾記念で3着に入り、札幌記念でも5着になるなど調子を戻しつつあったが、その後右前球節に痛みを生じ休養。
    • 治療するも経過は良くならず、2022年1月に現役引退が発表。その際有馬記念を制覇したにも関わらず「種牡馬入り」ではなく「乗馬」になることが物議をかもした。
      • 血統面は問題はなかったものの、GIでの実績がアーモンドアイ不在の3歳の有馬記念1勝のみで他のGIでは大敗続きだったため実績が足りなかったのではないかとされている。

プレクラスニー[編集 | ソースを編集]

  1. 1991年の天皇賞(秋)馬。
    • しかし1着入線ではなく1着のメジロマックイーンに6馬身差をつけられての2着で、メジロマックイーンの降着による繰り上がりでの勝ち馬だった。
      • プレクラスニーの生産者の嶋田克昭は後に雑誌で「正直言って表彰台に立っているのが辛かった」と語っている。
  2. 打倒メジロマックイーンを誓って挑んだ暮れの有馬記念では4着(マックイーンは2着)。
  3. 引退後種牡馬入りするもほとんど種付けが無く、中央での産駒の総勝ち数は3勝だけ。
    • 後継どころか繁殖牝馬すら残せずに1998年に種牡馬を引退、その年の内に事故で安楽死となってしまった。

ヘヴィータンク[編集 | ソースを編集]

  1. 2015年生まれ。父はクロフネ、母はアイアムジュエルで母の父はアグネスタキオン。栗東の森秀行厩舎に入厩した。
  2. 2018年の弥生賞に未出走の状態で出走登録。同時期にはまだ新馬戦も組まれていたのだが、ぶっつけ本番で重賞をデビュー戦にした。
    • 日本国内でデビュー戦でグレード制の重賞に挑むのは史上初であり、海外でも極めてまれなケースだった。
  3. このレースには後に日本ダービーを制したワグネリアン、無敗で朝日杯を制したダノンプレミアムが出走しており、調教も良くなかった同馬は10頭立ての9番人気。
  4. いざスタートするも、同馬は早々に馬群から脱落。勝ち馬のダノンプレミアムから遅れること22秒9。それどころか9着のアサクサスポットからも20秒7突き放された圧倒的な最下位だった。
    • 同馬がゴールしたときには場内からは温かい拍手が送られた。まるでマラソン大会で最下位ゴールするかのように。
  5. なぜ新馬戦や未勝利ではなく、明らかに勝ち目のないレースに敢えて出走したのか、それは重賞競走で10着までに入着すると得られる出走奨励金と特別出走手当である。
    • 10頭という少頭数ならどれだけ大差負けしようが1着賞金の2%は確実にもらえ、特別出走手当は重賞に限り1着馬からのタイム差に応じて減額される仕様がない。
      • そのため同馬は弥生賞の1着賞金5400万円の2%ぶん108万円と、特別出走手当43万1000円を獲得できたのである。
  6. その後同馬は弥生賞出走から3日後の3月7日に引退した。キャリア1戦のみでの引退は珍しくないが、その1戦が重賞レースというのは前代未聞であった。
    • また、上記の出走奨励金と特別出走手当に関しては翌年以降未勝利・未出走馬が重賞に出走し、タイム差を付けられて敗戦した場合でも減額・不交付されるよう制度が変更された。間違いなく同馬の影響であろう。

ポルトフィーノ[編集 | ソースを編集]

  1. 父にクロフネ、母に名牝エアグルーヴという良血であり2007年6月にデビュー。新馬戦を5馬身差で勝利し、注目を浴びるもその後は体調不良で予定していたレースが使えず年内休養。
  2. 年明けになりOP特別を勝利し、桜花賞へ登録するも出走前日に左寛跛行が発覚し出走取消。母エアグルーヴも直前に桜花賞を断念しており母娘で桜花賞を回避することになってしまった。
  3. 幸い軽度だったため母エアグルーヴ、祖母ダイナカールの制した優駿牝馬へ出走を予定していたが、またも直前に指の骨を剥離骨折し出走断念。結局春の二冠に出ずに終わった。
  4. その後骨折も治り秋華賞に登録するも、賞金順が19番目になり除外。18番目の馬は当時ダートレースを使っていたプロヴィナージュであり、ダート馬に枠を取られる結果となってしまった。
    • 除外された同馬は同日の準OPに出走し勝利した。一方賞金順18番目で出走したプロヴィナージュは秋華賞では3着に激走し、枠潰しと陣営を批判した人たちは唖然とした。
  5. 賞金を貯めた同馬はGIのエリザベス女王杯に登録。今回は故障も除外もされずに3番人気の支持を受けレース本番を迎えた・・・が、スタート直後に鞍上の武豊騎手を振り落とし、競走中止。
    • しかし同馬はそのまま走り続け、先頭でゴールイン。GIでカラ馬が先頭でゴールするのは史上初のことであった。
  6. 同馬は古馬になって4戦したが一度も3着以内に入ることはできず、引退し繁殖牝馬となった。
  7. で、繫殖牝馬として重賞2着二度のポルトドートウィユを産みある程度名誉挽回……と思いきや妹のグルヴェイグ・ラストグルーヴは共にGⅡ勝ち馬を産んでいる。直仔に重賞連対馬のいない姉のイントゥザグルーヴも孫世代にGⅡ勝馬、ソニックグルーヴに至ってはGⅠ勝ち馬のジュンライトボルトまで送り出してしまった。

ま行[編集 | ソースを編集]

マイネルエクソン[編集 | ソースを編集]

  1. キーンランドのセリで55万ドルで競り落とされ、総帥が「朝日杯を楽勝したら欧州へ」「国内で稼げれば良いと考えるなら出資を見送るように」などと吹きまくったが、デビュー後は中央未勝利のまま地方へ・・・

マティリアル[編集 | ソースを編集]

  1. 父パーソロン・母の父スピードシンボリというシンボリルドルフと同じ血統構成、将来的にはフランスで走らせることを念頭に、冠名を付けず「素材」を意味する「マティリアル」と命名。
  2. 新馬戦1着、府中3歳Sは3着、寒梅賞1着を経て挑んだスプリングステークス。道中は後方に控え、3コーナーから進出を開始するも残り200㍍でまだ7番手。
    • しかし先行勢の競り合いからバナレットが抜け出した直後、外からマティリアルがこれを一気に差しきり、アタマ差先着して勝利。
  3. 迎えた皐月賞では1番人気に支持されたが、直線で2番人気のサクラスターオーがいち早く抜け出し、マティリアルはゴールドシチーと併走するように上がっていったが、ゴールドシチーにアタマ差及ばずの3着。
    • 皐月賞後、中山競馬場から直接シンボリ牧場へ短期放牧に出されていたが、これが裏目に出て美浦に戻ったときには疲弊した状態になってしまった。
  4. 日本ダービーは混戦の中、1番人気に支持されたが見せ場無しの18着。
  5. その後は秋になっても、翌1988年になってもスランプが続き、年末の有馬記念で9着に敗れたあたりからオーナーも熱意を失い、ここでようやく田中調教師が「マティリアルの調教は自分に任せてください」と発言。
    • 1989年6月に復帰すると4着→4着→2着ときて、京王杯オータムハンデキャップを迎えた。
  6. このレースで約2年ぶりに岡部騎手が鞍上に戻ったマティリアルは先行策を取り、最後の直線で先頭に立ちそのままゴールまで押し切り、スプリングS以来約2年半ぶりの勝利を挙げた。だが…。
  7. レース後、スタンドの前でマティリアルは突然歩様を乱して止まり、岡部騎手が下馬。競馬場内の診療所に運ばれ、検査の結果「右前第一指節種子骨複骨折」と診断。
    • 診療所に駆けつけた田中調教師に獣医師は「普通なら安楽死」と伝えたが、素質と血統を惜しんだ関係者が治療を決断。
    • 3時間以上掛った手術は一応成功したがその日の夜に容態が急変。術後の痛みからくるストレスから出血性大腸炎を発症してしまい、治療も及ばずその日の夕方に死亡。

ミスターシービー[編集 | ソースを編集]

  1. 母親は本馬以外子供を生むことが出来なかった。
  2. 翌年の三冠馬であるシンボリルドルフに歯が立たなかった。
  3. 種牡馬としてもクラシックを期待された大器を出したが重賞勝利直後予後不良級の骨折をしてしまい復帰できたもののG1勝利はならなかった。
    • 一方のシンボリルドルフはトウカイテイオーを出した。奇しくもトウカイテイオーが勝った皐月賞の2着馬は本馬の産駒だった。

メジロパーマー[編集 | ソースを編集]

  1. 1992年宝塚記念、有馬記念の双方を制したグランプリホースだが、同年の天皇賞秋においてダイタクヘリオスとハイペースで逃げた結果、ブービーの17着と惨敗した。
    • おかげで「宝塚記念の勝利はフロック」と言われ、春のグランプリを制しながら有馬記念では16頭立ての15番人気だった。
  2. ただしメジロ牧場における1987年生まれの同期(メジロマックイーン、メジロライアン)が果たせなかった有馬記念制覇を成し遂げている。
  3. 種牡馬としても重賞の勝ち馬は1頭しか出せなかった(障害重賞の京都ハイジャンプを勝ったメジロライデン)。

メジロマックイーン[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇賞春を連覇するなど堂々の名馬だが、1991年の天皇賞秋で斜行してしまい、1着でゴールしたものの最下位に降着させられた。
    • 降着制度はこの年から始まったため、G1、しかも1番人気馬の降着は当時論議の的となった。

メジロライアン[編集 | ソースを編集]

  1. メジロ牧場の期待を背負っていたが、なかなか勝ちきれないレースが続き、G1勝利数では同期であるマックイーンどころかパーマーより少ない(マックイーン4勝、パーマー2勝、ライアン1勝)
    • 本馬に勝たせたいとメジロマックイーンを回避させた1990年の有馬記念はオグリキャップに敗れた。
  2. ただし種牡馬としてはメジロドーベルやメジロブライトを輩出するなど成功した。

やらわ行[編集 | ソースを編集]

ヤマノシルエット[編集 | ソースを編集]

  1. 大分県の地方競馬中津競馬場にいた牝馬。1997年に生まれ、競馬場では2勝するなど将来の活躍が期待されていたが…。
  2. 2001年2月10日、新聞にある記事が掲載される。内容は「中津競馬場は赤字なので来春をめどに閉鎖する」と。
    • しかしこのことは事前に知らされておらず、中津競馬関係者も新聞で初めて知ったという。
  3. 3日後の2月13日、中津競馬組合会議で管理者である中津市長は「2001年6月3日をもって閉鎖する」と正式に表明した…が。
  4. 突然中津市が2001年3月22日の開催を最後に突然閉鎖を一方的に通告する。
    • 市の説明ではゴール判定写真を行う業者との契約更新ができなかったためといわれたが市側がわざと低い料金を吹っかけて撤退させたといううわさが広まる。
    • まだ4~6月の開催日程も発表されていため、さよならイベントもままならないまま終焉を迎えた。
  5. さらに市から6月末までに厩舎団地からも退去せよという通告を出した。
    • しかも市は補償する義務はないとして関係者は無一文で追い出す。(のちに裁判となるが低い金額で決着がつく)
    • この時厩舎内の電話回線の契約終了も行われたためこれがさらなる悲劇を生むことになる。
  6. 中津競馬所属の競走馬は当時300頭。100頭ほどは他の地方競馬場や牧場などに引き取られた。
    • しかし先述の厩舎への電話ができなくなったことで、譲渡先との交渉が破談になったり食肉にするための肥育牧場に送ることすらかなわないまま、200頭の馬はただ殺処分ののち廃棄された。その中にはヤマノシルエットもいた。
  7. 因みに検索すればヤマノシルエットの画像は出てくるが、閲覧注意の画像が多いので気を付けよう。

ライスシャワー[編集 | ソースを編集]

  1. 菊花賞・天皇賞春2勝のGI3勝。そのうち菊花賞とその翌年の天皇賞春では当時のレースレコードを更新する生粋の長距離馬であり京都競馬場の馬場を得意とする馬だった。
  2. しかし菊花賞ではクラシック三冠の掛かったミホノブルボンを降し、翌年の天皇賞春では天皇賞春3連覇の掛かったメジロマックイーンを降したことでファンからは「偉業を台無しにするヒール」「淀の刺客」と呼ばれるようになってしまう。
  3. その後2年間成績は低迷するものの1995年の天皇賞春で復活を果たす。しかし種牡馬としての箔をつけるために宝塚記念(当時は京都での開催)に出走する。
    • しかし宝塚記念のレース途中に故障を発し転倒。予後不良と診断されてしまった。皮肉にもGI3勝をあげた得意の京都の地が最期の地になった。
      • 同馬の死後、所謂「にわかファン」が増えていったことに不快感を示したライターもいた(須田鷹雄とか片山良三とか…)。

リンカーン[編集 | ソースを編集]

  1. 通算23戦中13戦がGI、そのうち2戦(2004年と2005年の天皇賞・春)で1番人気に推されたが、2着3回・3着2回とGIにはあと一歩届かなかった。
    • 1回目の2着は2003年の菊花賞。最後の直線で二冠馬のネオユニヴァースを捉えるも、その先のザッツザプレンティには3/4馬身差届かず。
    • 2回目の2着は同年の有馬記念だったが、引退レースだったシンボリクリスエスから9馬身も離された2着であまり話題にならず…。
    • 3回目の2着は2006年の天皇賞・春。マヤノトップガンのレースレコードを上回る3分14秒0という走破タイムを残したが、3馬身半先のディープインパクトは捉え切れず…。
      • レース後、リンカーンに騎乗していた横山典弘は「生まれた時代が悪かった」という言葉を残した。
    • 1番人気に推された2004年と2005年の天皇賞・春はそれぞれ13着・6着と掲示板にすら入れなかった。
    • 因みにGIIは全て単勝オッズ1倍台で3勝を挙げている。

ロジユニヴァース[編集 | ソースを編集]

  1. デビュー4連勝で圧倒的人気を背負い皐月賞に出走するも14着に大敗。しかし次走のダービーでは巻き返しを見せて勝利。鞍上の横山典弘騎手に初のダービーをもたらした。
    • しかし前脚が外向してる影響で脚元に負担がかかりやすい状態にも関わらずこの年のダービーは歴史的な不良馬場。疲労や筋肉痛もあってダービー以降は年内休養してしまう。
  2. 2010年、9か月ぶりにレースに復帰するが日経賞6着、宝塚記念13着と精彩を欠くレースが続いた、しかし札幌記念では2着に入りようやく復調の気配を見せた。
    • しかしトモ(お尻から後肢までの部分)の不安のため2年近くの長期休養を余儀なくされる。
  3. 2012年、2年ぶりの復帰した同馬は札幌記念に出走。しかし最後方からスタートするも全く伸びることなく最下位14着。勝ち馬から5秒以上離される惨敗であった。
    • 鞍上の横山典弘騎手は「ある程度は覚悟していたが、別の馬みたいだった」とレース後に語った。
  4. その後なんとか復帰のために調整はしていたがついにレースに出ることなく引退した。

ワンアンドオンリー[編集 | ソースを編集]

  1. こちらはダービーの次の神戸新聞杯を勝つもそれ以降23連敗。しかも菊花賞以降3着以内に入ったのはドバイシーマクラシックの3着だけで、実質日本では神戸新聞杯以降ゼロ。
  2. 本当にどうでもいい話だが、同馬の通算成績は33戦4勝である…。
    • なんでや!阪神…関係あったわ(4勝のうち3勝は阪神競馬場で挙げている)。

関連項目[編集 | ソースを編集]