ざんねんな野球チーム事典/パ・リーグ

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オリックス・バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 最近でこそファンクラブ会員は増加傾向にあるが、未だにメディアでは阪神タイガースの需要が高い。
    • 京セラドーム大阪などでの交流戦では、阪神ファンにホームジャックされる。
    • 関西ローカルのスポーツニュースではオリックスが勝利しても阪神の扱いが大きい。
      • 阪神が敗北しても尚更。
      • スポーツ新聞の1面もまた然り。
  2. クライマックスシリーズができてから、2021年まで勝ち抜けられなかった。
    • 優勝までに2回進出しているが、いずれもレギュラーシーズン2位で1stステージがホーム開催にもかかわらず敗退。
      • いずれも対戦相手は日本ハムである。
    • 進出が最も遅かったDeNAですら初出場の年にいきなりファイナルステージに進んだのに…。
    • 2021年に勝ち抜けたのもリーグ優勝→いきなりファイナルステージ進出→突破であり、ファーストステージ突破はまだ1度もない。
      • 2022年もリーグ連覇に成功……はいいがそれはすなわちファーストステージ突破経験は未だにないと言う事でもある。
  3. 最近はセ・パ交流戦で好成績を残すことがあっても、その強さがパ・リーグ公式戦に生かせていない。
  4. 2016年に公式戦・オープン戦・交流戦・2軍すべて最下位という、悪夢のようなシーズンを経験した。
  5. バファローベルといいバファローズポンタといい、某ツバメや某コアラに負けず劣らずマスコットが選手よりも目立ちやすい。
    • それにつけても、バファローブルの影の薄さよ···。
  6. とにかく、ヤクルトに弱い。2021年悲願のリーグ優勝・日本シリーズ進出を果たすも2勝4敗で敗北。阪急(1978年)・ブルーウェーブ(1995年)・近鉄(2001年)に続き、ヤクルトスワローズの軍門に下った。
    • 阪急時代から日本シリーズはあまり強くなく、日本シリーズ内での勝率.445は合併した近鉄を除くとパ・リーグで最低。敗退数9回もソフトバンク(南海、ダイエー込み)と同じくパ・リーグ最多。ただしソフトバンクの日本一が11回なのに対し、こっちは4回。
      • 2022年、5度目の挑戦でついにヤクルトを破り5度目の日本一となった。だが勝率は.462と、まだパ・リーグ最下位(日本ハムが.475)は脱出できていない。
      • それ以前にもV9時代の巨人にことごとく敗北していたのも大きいだろう。
      • 2023年の敗北により10回目の敗退となり、パ・リーグ単独トップとなってしまった。

大阪近鉄バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 球団創設以来一度も日本一になれないまま、2004年にオリックス・ブルーウェーブに球団合併された。
    • リーグ優勝した1979~1980年・1989年・2001年は日本シリーズに出場したものの、いずれもセ・リーグ球団(1979・1980年→広島(前者はあの『江夏の21球』)、1989年→巨人、2001年→ヤクルト)に日本一を献上している。
    • 2リーグ分立時に誕生した球団では最も初優勝が遅い。
  2. あまりに「貧乏球団」だったことは後年、関西を中心によくテレビのネタにされることが多い。
    • 近鉄の球団体質などに嫌気がさして出ていった選手も多い(例:ドン・マネー、デュラン、野茂英雄、吉井理人など)
      • 1989年のシーズン終了後の優勝記念旅行では球団の対応の悪さもあり、参加した選手達が帰国後に「今度優勝したら球団主催の旅行は辞退して、選手と家族だけで有馬温泉に泊まろう」と申し合わせるという有様だった。
    • 広島の項にもあるが、当時の12球団で一番マスコットキャラクターの登場が遅かった。しかも合併と共にそのバフィリードとファルルリーナもオリックスのネッピーとリプシーに取って代わられて消えてしまった。
  3. 長い目で見れば、本拠地を大阪ドームに移転したことでかえって球団の寿命を縮めてしまったとも言われる。
  4. 1958年には2リーグ制以降最低となる勝率.238(29勝97敗4分)、1961年には日本記録となるシーズン103敗(36勝1分 勝率.261)という記録を出している。

阪急ブレーブス[編集 | ソースを編集]

  1. 1936年のプロ野球開幕当時からある球団だったが、戦前は優勝争いすらできない球団だった。
  2. 球団創設から1967年に初優勝するまで32年かかっている。
  3. 1970年代に黄金時代を迎えるも、人気は低迷し続けていた。
    • 競輪の開催のほうが1日あたりの入場者は多く、お盆の時はブレーブスより競輪の開催が優先されるようになった。
      • これが後年、ブレーブス(ブルーウェーブ)の神戸への本拠地移転の理由の一つにもなった。
  4. 1980年ごろにマスコットキャラクターのブレービーが登場、日本におけるマスコットキャラクターの先駆けになった……のはいいが息子の勇太が登場したのが1988年。つまりわずか1年で消滅。
  5. 優勝時における阪急百貨店の優勝セールは大盛況であり、「阪急バーゲンズ」と揶揄されたこともあるらしい。
  6. 戦後すぐの1946年、各チーム名の愛称義務化に伴い「ベアーズ」を名乗っていたが、オープン戦での成績不振などもあり開幕前までに「ブレーブス」に改称することになった。

北海道日本ハムファイターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 2003~2020年の間、パ・リーグで日本シリーズに進出して負けたのはここだけである。
    • 2006、2016年は日本一になりましたが…。
    • 2021年ようやくオリックスって言うかヤクルトが止めた。
  2. 本拠地球場の札幌ドームにいいように扱われている。
    • あまりにもあまりなので出ていくことになりました。
  3. 選手の扱いが非常にドライ。
    • フリーエージェント宣言したら引き留めないし、衰えが見えてきたら容赦なく切り捨てる。
    • 将来メジャーリーグ行きを志望する選手にはおすすめかも。ポスティングを確実に認めてくれるので。
    • それで若手を積極起用するのはよいことだが、そのサイクルがうまくいかなくなってきた。

東映フライヤーズ[編集 | ソースを編集]

  1. 張本勲・白仁天・大杉勝男といった、血の気の多い選手が多く、親会社・東映のヤクザ映画もびっくりのエピソードは今も伝説。
  2. 1962年に阪神を下して日本一に輝いたが、その後は大川博オーナーが球団に金を出さなかったこともあり、日本一はこの1回だけ。
    • その後は映画産業の斜陽化・大川オーナーの急逝もあり、1972年のオフに日拓ホームに球団を売却することになった。

日拓ホームフライヤーズ[編集 | ソースを編集]

  1. 東映撤退後に日拓が参入したが、わずか1年(1973年)で日本ハムへ球団を売却。
  2. 7色のユニフォームが特徴的であった。
    • 但し選手・監督からは「ダブルヘッダーの第1試合で勝利したのでゲンを担いで着続けようとしたら『別のを着てくれ』と言われてしまった」(土橋正幸)「7種類のうち1種類は着た覚えがない」(新美敏)と、評判はあまり良くなかった模様。

日本ハムファイターズ(東京時代)[編集 | ソースを編集]

  1. 参入初年で前後期ともに最下位、総合最下位に終わった。
  2. 一度も日本一になれないまま(しかも東京ドーム時代に至ってはリーグ優勝すらできず)、2004年に本拠地を北海道へ移動した。
    • 唯一リーグ優勝した1981年は日本シリーズに出場したものの、同じく当時後楽園を本拠地とした巨人に日本一を献上している(北海道移動後の2009年・2012年にも巨人と対戦したが、いずれの年も巨人に日本一を献上している)。
    • 東京時代(前身含め)で唯一の日本一は東映フライヤーズ時代の1962年。
    • 東京ドーム時代には1996年・1998年にどちらも前半戦を首位で折り返したが、後半戦で失速し優勝を逃した。
  3. 後楽園→東京ドームでの試合日程は巨人中心で、日本ハムは8月を中心に他球場で試合を余儀なくされたり、ダブルヘッダーの場合はデーゲームが巨人であるのに対して日本ハムはナイトゲームでの開催を余儀なくされたりしていた。
  4. レジェユニデーでこの頃のユニフォームのレプリカを着ることがあるが、選手たちに「弱いイメージしか無いのであまり着たくない」とまで言われてしまう。

福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 2019年9月6日に千賀滉大が達成するまで、実に76年間もノーヒットノーランが達成されなかった (ダイエー時代には1度もなし) 。
  2. 今でこそ常勝球団と言われているが、そのリーグ優勝・日本一までの道のりが長かった。
    • 2010年に初のリーグ優勝を達成するもCSでロッテに敗北、日本シリーズ出場&日本一に至っては2011年まで待たなければならなかった。
    • (ダイエー時代の)2003年の日本一の後、ことごとくプレーオフ(→クライマックスシリーズ)で1位になりながら日本シリーズに進めないことが「秋の風物詩」とまで呼ばれた始末。
  3. 2016年に11.5ゲーム差と大量リードしていた日本ハムに逆転されてレギュラーシーズンの優勝を逃し、その後のCSでも日本ハムに敗れたという悪夢のようなシーズンを経験した。
    • 2022年もマジック1から2連敗し、最終成績でオリックスに並ばれて直接対決の差で優勝を逃した。
  4. 同じく2016年から練習場、二軍・三軍使用球場が変わったが福岡ドームから遠くなったなど不満を訴える選手が多い。
  5. 育成選手などを大量に抱えているため、選手を持て余していることも。
    • 外国人選手の亡命の踏み台にされたこともある。
    • 育成選手がブレイクする一方で、ドラフト1位指名の選手があまり活躍できていない。
      • 特にソフトバンク以降くじで引き当てた1位選手でブレイクしたのは東浜巨ぐらい。
  6. 巨人の陰に隠れているが、こちらも寅年に弱い。現行のパ・リーグ6球団の中で寅年に一度も日本シリーズに出た事がないのは寅年を2回しか経験していない楽天を除くとここだけ。
    • 2010年はリーグ優勝もロッテに下剋上を食らい、2022年は最後の1試合でオリックスに逆転されCSも敗退。
    • 申年も弱く、こちらも一度も日本シリーズに出た事がない。2004年(ダイエー最後の年)は西武に下剋上を食らい、2016年は先述の通り日本ハムに逆転されて、レギュラーシーズン優勝を逃した。2004年当時のNPB12球団の中で唯一西暦が6の倍数の年にリーグ優勝経験がない。
  7. ポスティングによるメジャーリーグ移籍を認めてくれない。

南海ホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 日本シリーズにおいて、巨人にめっぽう弱かった(通算1勝8敗)。勝ったのは杉浦忠が4連投4連勝した1959年のみ。ダイエーに売却された後の2000年にもON対決で敗戦。
    • 逆にソフトバンクに売却された後の2019・2020年には二年連続で巨人に4連勝して日本一になっている。しかし、裏を返せば未だに「巨人に一敗でもすれば日本一を逃す」というジンクスが継続しているということになる。
  2. 野村克也監督の辞任後がとにかく悲惨な成績だった。
    • (広瀬叔功)6位→5位→6位(ドン・ブレイザー)5位→6位(穴吹義雄)5位→5位→6位(杉浦忠)6位→4位→5位(福岡移転)。
      • それでも、当時の南海ホークスオーナー・川勝傳は「ワシの目の黒い内は絶対に(ホークスを)売らん!!」と言い続けていたが、1988年に川勝が亡くなるとダイエーへの球団譲渡へ。

福岡ダイエーホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 1989年、南海ホークスをダイエーが買収したが、その後ダイエー本社の経営不振により球団を手放さざるを得なかった。
    • ただ、弱かった南海ホークスを強くしたのはダイエーの力というのもまた事実。
      • ダイエーというか、根本陸夫のお陰というか。一時期は巨人並みかそれ以上にヤバいドラフトを繰り広げてた。
  2. 南海時代から引き続いて20年連続Bクラスという不名誉すぎる日本プロ野球記録を持っている。
    • 王監督の2年目には日生球場で生卵を投げられた。
    • ただ王監督後期(ソフトバンク譲渡後)は現在の常勝軍団になっては来たが。
  3. 末期はダイエー本体の経営危機とともに人間関係がギスギスしはじめ、工藤公康や小久保裕紀といった有力選手の流出を招いている。
    • 工藤に関しては当時の球団代表が「君が登板する火曜日は一番客の入りが悪い」と言い放ったという噂もある。

千葉ロッテマリーンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 現存するパ・リーグ6球団で唯一、平成30年間で1度も完全制覇(リーグ優勝→日本一)を成し遂げられなかった。
    • 2004年に消滅した近鉄を含む全13球団でも唯一、平成30年間で1度もレギュラーシーズン1位の状態でリーグ優勝をしなかった。
    • ただし、2005年では第2位の状態でプレーオフを制してリーグ優勝し、そのまま日本一となっている。
    • リーグ勝率1位になったのは1974年が最後である。
    • また2010年に3位から日本一になったようにクライマックスシリーズでの下剋上がお家芸のイメージがあるが、2015年のファイナルステージ~2020年のクライマックスシリーズまで8連敗を記録しており2022・3年もファーストステージを勝ち上がるもファイナルステージのオリックスに敗れた。
  2. 私設応援団がたびたびトラブルを起こし、問題となっていた。
    • ファンが何かと内紛を起こしがち。
  3. 選手とコラボした弁当を発売すると高い確率でその選手や球団にとって良くないことが起こる「弁当の呪い」を生み出した。
  4. 2020年現在、「日本シリーズで4連敗」(大毎オリオンズ時代の1960年)、「日本一達成の翌年最下位転落」(ロッテオリオンズ時代の1975年前期・2011年)を両方やった唯一のチームである。
  5. 1998年にはプロ野球記録である18連敗を喫している。(ただし引き分けを挟んでおり、引き分けを挟まない連敗の記録は1970年と2019年にヤクルトが記録した16)
  6. ホエールズ・ベイスターズやホークスと同じく平成時代にはノーヒットノーラン達成者が現れなかった。
    • 最後の達成者は1973年10月10日の八木沢荘六(完全試合)。ちなみに成田文男(1969年8月16日達成、こちらはノーヒットノーランのみ)と計2人しか達成者がいない。合併球団の一つである大映ユニオンズでも1952年4月27日に林義一がノーヒットノーランを達成しているが・・・。
      • 令和4年に佐々木朗希(完全試合)が出て3人となったが。
  7. 1986年三冠王の落合博満以降、本塁打王が出ていない。
    • 阪神も同年三冠王のバース以来出ていないが、阪神が打点王は複数出ているのに対し、ロッテの打点王は1995年の初芝清のみ。
      • しかもその打点王も80とパ・リーグ史上最少の数字であり(ちなみにイチロー、田中幸雄と同点)、セ・リーグでも80未満の打点王は1960年以前の4度しかない。
    • 2023年にポランコが球団37年ぶりの本塁打王になったが、26本と平成以降最少かつ3名同数(他二人は浅村栄斗と近藤健介)。
  8. 12球団で唯一、2020年東京オリンピック日本代表に選出された選手がいなかった。チームは2位なのに。
  9. 日本シリーズ出場回数6回は、パ・リーグでは楽天(および近鉄)に次いで少ない。現況では2番目に日本シリーズから遠いチームである。
  10. 12球団で唯一、沢村賞を受賞した投手がいない。元々受賞資格がセ・リーグのみだった時代が長かったとはいえ…。
  11. 2011年、本塁打数で中村剛也一人に負けた。

毎日オリオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. パシフィック・リーグの初代優勝チーム。初代日本シリーズ優勝チームとなるも、1952年7月16日の対西鉄戦において露骨な遅延工作でノーゲームを狙った結果西鉄ファンの怒りを買ったあげく暴動が発生(平和台事件)。
    • これで毎日新聞は球団経営に嫌気がさしたのか1958年毎日オリオンズは大映ユニオンズと合併し「大映毎日オリオンズ」となり、1960年には毎日新聞が球団経営から手を引くこととなる。
      • しかし大映側の永田雅一の意向により系譜自体は毎日が引き継いでいる。

ロッテオリオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. かつて、本拠地が安定しなかった時期がある。
    • いわゆる「ジプシー・ロッテ」。
  2. 金田正一監督時代は、乱闘や金田監督のパフォーマンスなどで、オフの珍プレー番組の常連となってしまう。
  3. ドラフトで指名した選手に指名を断られたことも多かった。
    • ロッテの指名を断った選手の中には川口和久、石毛宏典、森繁和などがいた。

高橋ユニオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 1950年代中頃にパリーグの数合わせのため急造した球団。
    • 当初は急造球団のため、パリーグの各チームから若手を供出するよう申し合わせがされたが、実際に集められたのは扱いに手を焼く選手や、戦力外の選手が大半だった…。
  2. 一度もAクラスにすらなれず、たった3年で解散してしまった。
    • その弱さはネーミングライツをしていたトンボ鉛筆が1年で撤退してしまうほど。
  3. チーム内の雰囲気は暖かく、サヨナラエラーを犯した佐々木信也を誰も責めず、抱えあげてベンチに連れて行った選手もいたとか。
    • 佐々木は当時「なんていいチームなんだ」と思っていたが、後年「そんな高橋だから弱かったんだろう」と振り返っている。

埼玉西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. リーグ優勝したのに他の球団の選手にMVPを持って行かれた回数が最多。
    • 一人の突出した選手の活躍よりもチームとしての総合力で優勝したシーズンが多いせいだろうか。
  2. 2009年にユニフォームを一新したが、それ以来日本一から遠のいている。
    • 2018年・2019年にパ・リーグ連覇したが、どちらもCSファイナルステージでソフトバンクに敗退。しかも2019年は4タテ。
  3. 2009~17年の9年間で6回も優勝球団の胴上げを見届ける羽目になっている。
    • この9年間で優勝決定日に西武の勝敗が全く関係なかったのは2014年のみ。2010年・12年も優勝球団との直接対決ではないものの西武の負けで優勝が決まった。
    • このうち西武ドームで負けて決められたのが4回ある。
      • そのため「優勝見届人」と言われることも。
  4. 2018・2019年とリーグ連覇もクライマックスシリーズファイナルステージでソフトバンクにやられる。
    • そして2021年、42年ぶりの最下位転落。
      • さらにオリックスが優勝→日本シリーズに進出したため、日本一から遠のくどころか12球団一日本シリーズから遠いチームになってしまった。
        • そのオリックスが2022年日本一になったため、パ・リーグで2010年以降日本一になっていないのはここだけである。
  5. FAを宣言して移籍した選手が最多。
    • そしてMLB移籍組が日本に復帰する際も他の球団に行ってしまう。
  6. プレーオフ・クライマックスシリーズでは対戦相手が日本ハム以外の場合、突破できたのは2022年終了時点で1度のみ。

西鉄ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. なんと言っても「黒い霧事件」。
  2. 実は1950年のみ「西鉄クリッパース」だったのだが、ほとんど知られていない…。

西日本パイレーツ[編集 | ソースを編集]

  • 厳密にはセ・リーグの球団ですが、西鉄クリッパース(当時)に吸収されたためここに記述します
  1. 福岡からセ・リーグに加盟した球団だが、8球団中6位に終わりわずか1年で西鉄クリッパーズに吸収される。
  2. 吸収合併の際に巨人が「西日本の選手の保有権はセ・リーグにある」という無茶苦茶な主張をして、西日本の南村侑広と平井正明を巨人に移籍させた。

太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 西鉄の経営難からライオンズを引き取ったものの、あまりの弱さに短命に終わる。
    • 後に、西武に買われたものの、しばらくは「空白の期間」としてなかったことにされていた。
      • いわゆる「黒歴史」というやつだ。
  2. 「福岡は遠いから行かない」と、江川に断られたのはあまりに有名。
  3. 太平洋クラブ時代の、アメリカンフットボールよろしく胸番号が大きく書かれたユニフォームは、もはや伝説。

東北楽天ゴールデンイーグルス[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年、ロッテに勝利し開幕戦を白星で飾ったが、翌日、0ー26で大敗したことがある。
    • ヒットは1本(長坂健冶)・フォアボールも1つ(関川浩一)だけ。
      • そのランナーも併殺死したため残塁は0。
    • 5失点の有銘兼久・小倉恒・徳元敏は開幕2試合目にして二軍落ちを通告された。
    • 試合後田尾監督は「何ともなりませんでした。ファンの方に申し訳ない」「いろいろなことが起きると頭にあったが、想像を超えてしまった」とコメント。
      • 三木谷オーナーは5回の終了前に無言で球場を去った。
  2. 監督の移り変わりが激しいのも特徴。
    • 田尾安志(1年)→野村克也(4年)→マーティ・ブラウン(1年)→星野仙一(4年、ただし途中で病気休養)→デーブ大久保(1年と少し)→梨田昌孝(2年と少し)→平石洋介(1年と少し)→三木肇(1年)→石井一久(3年)→今江敏晃
  3. 三木谷オーナーによる現場への介入が度々噂になる。
  4. 阪神ほどではないが、序盤快進撃→後半ブレーキが多い。
    • 例として言えば2017年。4~7月まで月間二ケタ敗戦なしだったが8月に7勝18敗と失速、最終的には2位にすらなれなかった(ただしクライマックスシリーズで西武を破りファイナルステージまでは進んだ)。
    • さらに2022年球団史上最多11連勝を記録、一時期貯金18まで行きながら最終的に借金2・Bクラスまで転落。
  5. 2023年の選手会による調査で、選手の年俸に対する満足度が12球団最下位になった。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球事典
チーム セ・リーグ/パ・リーグ
選手 日本人 あ~お//き~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ
外国人 あ~お/か~こ/さ~の/は~ほ/ま~わ
シーズン展開 ~1970年代/1980~90年代/2000年代/2010年代/2020年代
その他 試合・大会(NPB公式戦‎ )/球場