ざんねんな野球事典/シーズン展開/1970年代以前

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1リーグ制時代[編集 | ソースを編集]

1936年の大東京軍
  1. シーズン開幕前のオープン戦(vs東京瓦斯)で9回にエラーが重なり9点を取られて逆転負け。監督の永井武雄はその場で解任されてしまった。
  2. 後任の伊藤勝三が選手兼任監督として指揮を執った(11月に小西得郎に監督交代)が春季・夏季シーズンは1勝も出来ず、秋季シーズンも5勝しか出来なかった。
1944年の日本プロ野球
  1. 太平洋戦争の戦局悪化に伴い、日本野球連盟は名前を「日本野球報国会」に改称。
    • 選手達は平日は軍需工場で働き、試合は週末を中心に行われた。
    • 徴兵による出兵などで選手数も激減。4月の開幕時点で6球団合わせて僅かに74人という事態に…。
    • 「個を主張してはならない」との理由で、背番号も廃止されてしまった。
  2. 春季リーグ・夏季リーグはなんとか開催されたが、夏季リーグの終了時点で徴兵される選手が続出。
    • この時点で9人揃っているのは阪神だけとなり、秋季リーグは中止。
      • 2球団混成で3チームを作り「日本野球総進軍優勝大会」を秋季リーグの代替として開催した。
  3. 11月13日に日本野球報国会は活動の休止を表明。
    • 但しこの中に「在京球団の選手で希望するものは関西球団に委託」という文章があり、この時点で関西での試合はまだ可能と判断されていた。
      • 事実、関西の4球団(阪神・阪急・朝日・近畿日本)は甲子園や西宮で12月まで試合を行っていた模様。参考資料
    • 翌1945年も「正月大会」として元日から1月5日まで数試合が開催されたが、1月3日の第一試合は5回裏の地点で空襲警報が発令され中止。
      • 全試合の終了後に「サヨナラ大会」を3月に行うと選手たちに通達されたが、直前の大阪大空襲で試合は中止となってしまった。
    • この時、かのスタルヒンも白人ということで軽井沢に軟禁される(本当はソ連の対日宣戦前な上に白系ロシア人のスタルヒンは敵国人ではない)
1946年の東京巨人軍
  1. 選手の所属をめぐって訴えたために、優勝を逃してしまった。
    • 一部選手が「原則として活動停止時に所属していたチームが存続していれば、そのチームに戻らなければならない」というルールを無視してパシフィックに移籍したため、同じ境遇の阪神共々パシフィックを提訴した。
    • しかし提訴が受け入れられたことで近畿グレートリングに1勝をプレゼントすることになり、その結果1ゲーム差で優勝を逃した。

1950年代[編集 | ソースを編集]

1950年の松竹ロビンス
  1. 「水爆打線」と呼ばれた豪快な打線でセントラル・リーグの初代王者に輝いたが…。
  2. 日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開幕から終了後の時期に、39勝を挙げたエースの真田重男と51本塁打を記録した主砲の小鶴誠の間で対立が発生。
  3. 内紛を抱えたまま挑んだ日本シリーズでは毎日オリオンズに2勝4敗で敗れてしまった。
    • シリーズ終了後に監督の小西得郎は「こんなチームの監督はやってられない」と監督を辞任。
1952年の松竹ロビンス
  1. 勝率低迷の切り取り決により大洋と合併する羽目になった。
1952年の近鉄パールス
  1. 藤田省三監督3年目のこの年こそ最下位脱出が期待されたが、開幕4連敗とスタートダッシュに失敗。
    • 5月以降は最下位を独走し、最終成績は30勝78敗の勝率.278・借金48で3年連続の最下位。
  2. 投手陣は二桁勝利がゼロで田中文雄の9勝がチーム最多。逆に二桁敗戦は4人の投手(田中18敗、沢藤光郎22敗、関根潤三16敗、五井孝蔵11敗)が記録。
  3. 打撃陣では日系二世の甲斐友治がリーグ2位の.327、西鉄から移籍の鬼頭政一がリーグ4位の.320の打率を残したが…。
    • 二桁本塁打と二桁盗塁ゼロではどうしようもなく、チーム打率は7球団中6位・チーム本塁打はリーグ最下位。
  4. 藤田監督は最終戦の前に監督を解任され、朝日放送の野球解説者だった芥田武夫が新しい監督に就任した。
1955年の大洋ホエールズ
  1. 前年のシーズン終了後に松竹が球団の経営から撤退し、この年から球団名が3シーズンぶりに「大洋ホエールズ」に戻った。
    • 更に本拠地も大阪球場から川崎球場に移転。監督も永沢武夫から藤井勇に交代となったが…。
  2. 開幕後、4月は7勝10敗の借金3とまずまずだったが、5月以降は負けが込み6月に9連敗で最下位に転落。
    • その後も7月に14連敗(球団ワーストタイ記録)、8月に11連敗、9月に8連敗と大型連敗を繰り返し、最終成績は31勝99敗・勝率.238で2年連続の最下位。
      • この年の99敗はセ・リーグのシーズン最多敗戦記録となっている。
  3. チーム防御率・失点・打率・得点はリーグ最下位。優勝した巨人には61.5ゲーム差、5位の国鉄にすら27ゲーム差を付けられた。
    • 対戦別の成績では巨人に4勝22敗、2位の中日に3勝23敗(同一カード19連敗を含む)と完全にカモにされてしまった。
1955年のトンボユニオンズ
  1. トンボ鉛筆と業務提携し、チーム名も高橋ユニオンズからトンボユニオンズに改称したが、開幕からいきなり12連敗
    • その後も連敗は続き最下位を独走。シーズン終盤には浜崎真二監督が休養し、残りのシーズンは笠原和夫が選手兼任監督として指揮を執った。
  2. 最終成績は42勝98敗1分・勝率.300で初の最下位。優勝の南海には57ゲーム差、7位の東映にも9ゲーム差を付けられる散々な成績となってしまった。
  3. シーズン終了後にはこの年史上初の300勝を達成したヴィクトル・スタルヒンが現役を引退。
  4. 結局トンボ鉛筆との業務提携もこの年限りで終了し、翌年からはチーム名も元の高橋ユニオンズに戻った。
1959年の読売ジャイアンツ
  1. ペナントレースではリーグ5連覇を達成するも、日本シリーズでは杉浦忠を擁する南海ホークスに4連敗した。
    • 日本シリーズで引き分けを挟まず4連敗したのはこの時の巨人が最初。

1960年代[編集 | ソースを編集]

1960年の大毎オリオンズ
  1. 「ミサイル打線」と渾名された強力打線を擁してリーグ優勝したが、日本シリーズでは魔術師:三原脩監督率いる大洋ホエールズに4連敗した。
    • シーズン中に大毎は引き分けを挟んでの18連勝を記録するなど絶好調だったたが終盤に失速、結局優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。
  2. この年の大毎オリオンズを率いたのは後に阪急や近鉄で黄金時代を築く西本幸雄だったが、日本シリーズで敗戦した際にオーナーからの電話で口論になりシリーズ終了後に1年で解任されてしまった。
1961年の大洋ホエールズ
  1. 前年日本シリーズ4連勝で日本一に輝いたが、この年はタイトルホルダーこそ出したものの最下位に沈んだ。
    • 日本プロ野球史上初めての「日本一のチームが翌年最下位」という事態に陥った。
    • さらに翌年と3年後の1962、64年はあと一歩のところで阪神に優勝をさらわれた。そして結局、1960年は「大洋ホエールズ」としての最初で最後の日本一(リーグ優勝)ということになってしまった。
1961年の近鉄バファローズ
  1. 開幕直後に4連敗、4月中旬に8連敗、5月中旬に6連敗、その後も6月から8月にかけて10連敗を3度も記録するなど大型連敗を繰り返した。
    • 最終的な成績は36勝103敗1分、勝率は.261。
      • 優勝した南海には51.5ゲーム差、5位の阪急にも18ゲーム差と大きく引き離されて4年連続の最下位となり、千葉監督は責任を取って辞任。
  2. 6月3日、西宮球場での阪急ブレーブス戦でジャック・ブルームが「ヤンキー・ゴー・ホーム!」とヤジを飛ばした観客に激怒し、スタンドに乗り込んでその観客を蹴り飛ばし、制裁金5万円・出場停止7日間という処分を受けてしまった。
  3. この年、後に近鉄の主力打者となる土井正博が入団したが、この年の一軍出場は無かった。
1969年の南海ホークス
  1. 前年のオフに23年間指揮を執った鶴岡一人監督が勇退。新監督には飯田徳治が就任したが…。
  2. 投手陣・打撃陣に怪我人が続出し、シーズン中盤には球団史上ワーストの15連敗を記録。
    • 8月以降は持ち直して西鉄と5位争いを繰り広げたが、最終的には戦後初の最下位でシーズンを終えることに。
  3. 結局、飯田監督は最下位の責任を取って僅か1年で辞任。後任には正捕手の野村克也が選手兼任監督として就任。
  4. この年ホーム用のユニフォームもリニューアルされたが、こちらも僅か1年で封印されてしまった。

1970年代[編集 | ソースを編集]

1970年の西鉄ライオンズ
  1. 前年から続いた黒い霧事件に巻き込まれ、池永正明・与田順欣・益田昭雄の3選手が永久追放処分。
    • 船田和英・村上元康の2選手はシーズン終了まで出場停止処分、金銭を受け取らなかった基満男選手は厳重警告を受けた。
  2. 投打の主力選手を失った西鉄は低迷、最終成績は球団史上初の最下位となってしまった。
  3. 若手の東尾修・河原明、新人の三輪悟・柳田豊らの活躍が唯一の明るい話題だった。
  4. この年、後に大洋で高木豊・屋敷要と「スーパーカートリオ」を結成する加藤博一が多久工業高校からドラフト外で入団したが、一軍公式戦の出場は無かった。
1970年のヤクルトアトムズ
  1. この年からヤクルト本社が単独で経営権を持ち、球団名も「アトムズ」から「ヤクルトアトムズ」に改称されたが…。
  2. 4月は5勝7敗1分とまずまずのスタートも5月に4勝13敗1分で最下位に転落。6月こそ7勝11敗と健闘するも7月は11連敗を含む4勝12敗と低迷。
  3. 更に8月には球団史上最長タイの16連敗を記録。20日の巨人戦を最後に別所毅彦監督は解任となり、残りのシーズンは2軍監督の小川善治が代理監督を務めた。
  4. 最終成績は33勝92敗5分・勝率.264で5位の中日からも22ゲーム差を付けられる最下位。
    • 投手陣は石岡康三と浅野啓司の6勝が最多、二桁敗戦6人という投壊状態。
    • 唯一の明るい話題は全130試合に出場し28盗塁で盗塁王を獲得した東条文博ぐらい。
  5. 所属選手にも不祥事が相次いだ。
    • 捕手の加藤俊夫が自動車の無免許運転で逮捕され無期限出場停止(シーズンオフに解雇)。
    • 加藤と同期入団の奥柿幸雄はシーズン中に失踪しそのまま引退。
    • 黒い霧事件に巻き込まれた桑田武が3ヶ月の出場停止処分を受け、そのまま現役を引退。
1972年の西鉄ライオンズ
  1. 黒い霧事件の影響によるチーム成績の低迷(2年連続最下位)もあり、シーズンの初頭にオーナーの木本元敬が「今後、球団をやっていけそうにない」と発言。
  2. 混乱の中で始まったシーズンはルーキー加藤初の新人王獲得があったものの低迷は変わらず、最終成績は47勝80敗3分(勝率.370)で3年連続の最下位。
  3. 投手陣は上記の加藤が17勝16敗・防御率3.95、リーグ最多の309.2イニングを投げた東尾修は18勝25敗でリーグ最多敗。
  4. 打撃陣はチーム打率・本塁打・得点がリーグ最下位。ロッテオリオンズから移籍の榎本喜八も不振に喘いだ。
    • 基満男が打率.301・20本塁打を記録しベストナインを獲得したのが唯一の明るい話題か。
  5. シーズンの終盤から西鉄はロッテの中村長芳オーナーに売却先の仲介を依頼し、ペプシコーラに決まりかけたが土壇場で破談。
    • 同時期に東映フライヤーズの売却話が出てきており、パ・リーグの現状を危ぶんだペプシ側が譲渡を見送ってしまった。
    • また、東映の買収を検討していたパイオニアに球団を売却する案も浮上したが実現には至らず。
  6. 最終的には西鉄球団の売却を提案した中村オーナーがロッテのオーナーを辞職して設立された「福岡野球」へ買収される形で球団譲渡が成立。
    • 資金面強化のためレジャー会社の太平洋クラブと提携し、翌年からは「太平洋クラブライオンズ」にチーム名を改称。
      • 1951年から22年間続いた「西鉄ライオンズ」の歴史はここで幕を閉じることになった。
1973年の阪神タイガース
  1. 巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日戦で敗戦、甲子園での巨人との最終戦に至っては1勝もできず(0対9)、巨人のV9を許した。
  2. 最終戦終了後、阪神のあまりの惨敗っぷりに怒ったファンがグラウンドに乱入し、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こしたのは有名な話。
  3. シーズン終了後にはこの年に実働20年の連盟表彰を受けていた権藤正利が金田正泰監督を殴る事件が発生した。
1975年の読売ジャイアンツ
  1. 長嶋茂雄が監督に就任して1年目の巨人だったが、チーム創設以来初めてリーグ最下位に終わった。
    • なお、巨人が最下位に終わったのはこの年が唯一である。
1977年の南海ホークス
  1. この年の南海の成績は2位とさほど悪い成績ではなかったが、残り2試合を残した9月28日に野村克也監督の電撃解任を発表。
    • 当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至った。
  2. 野村と打撃コーチの高畠康真はロッテに、柏原純一は日本ハムに、江夏豊は広島にそれぞれ移籍。
  3. この年を最後に南海はAクラスに入ることなく、1988年にダイエーに身売りされた。
1978年の阪神タイガース
  1. 前年Bクラス(4位)の責任を取って吉田義男監督が辞任し、1969年に1年だけ監督を務めた後藤次男が2度目の監督就任。
    • またファンサービスの一環として、日本球界初のチアリーディングチームが結成された。
  2. しかし主力外国人のマイク・ラインバックとハル・ブリーデンを故障で欠き、開幕直後の7戦を1勝6敗とスタートダッシュに失敗してしまう。
    • その後4月末にラインバックが復帰し反攻が期待されたが、5月に入ると掛布雅之・田淵幸一・佐野仙好・榊原良行といった主力選手が死球の影響で次々と離脱。
      • 5月25日に単独最下位に転落すると、その後は2度と上がることはなく最下位を独走。
    • 夏場には某週刊誌に「阪神の主力選手に八百長疑惑」というスクープ記事が載る事態に…。
  3. 最終成績は41勝80敗9分の勝率.339(当時のチームワースト記録)・借金39で球団史上初の最下位となってしまった。
  4. 投手陣は主にリリーフとして起用されていた江本孟紀が11勝13敗11セーブ・防御率3.10(リーグ2位)、8年目の池内豊が9勝6敗の成績を挙げたが…。
    • 先発転向の山本和行が5勝10敗、前年11勝を挙げた古沢憲司が4勝16敗、益山性旭と上田次郎が揃って10敗(益山1勝・上田3勝)を記録し、チーム防御率はリーグ最下位。
  5. 打撃陣では5年目の掛布が打率.318・32本塁打・102打点、唯一全試合に出場した藤田平が当時の日本記録となる208打席連続無三振を記録。
    • しかしラインバックとブリーデンの欠けた打線は迫力を欠き、チーム打率・チーム得点はリーグ5位。チーム本塁打数は前年から50本近く減らしてしまった。
  6. シーズン終了後、後藤監督は最下位の責任を取り僅か1年で辞任。長年チームの顔として活躍した田淵も古沢と共に2対4の交換トレードで西武に移籍。
    • チアリーディングチームも「縁起が悪い」という理由で解散となり、その後は2014年まで復活しなかった。
1978年の阪急ブレーブス
  1. 日本シリーズ第7戦でヤクルトの大杉勝男のHR判定を巡って上田利治監督が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、その後はヤクルトにボコボコにされ、シリーズ4連覇の夢は消えてしまった。
    • 上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。
1978年の南海ホークス
  1. 前年のシーズン終盤に起きた野村克也監督の電撃解任を受け、現役を引退したばかりの広瀬叔功が新監督に就任。
  2. しかし野村に続いて江夏豊、柏原純一も抜けたチームの戦力低下は明白で、4月と5月に8連敗を喫し前期は最下位。
  3. 後期も開幕早々7連敗、その後一時5位まで浮上したが日本ハムとのダブルヘッダーで連敗し、そのまま最下位でシーズンを終えた。
    • 前期と後期を合わせた通算成績は42勝77敗11分。勝率.353は2リーグ制移行の球団ワースト記録を更新してしまった。
  4. 投手陣は藤田学が2年連続の16勝を挙げ、2年目の村上之宏が救援中心に5勝8敗3セーブを記録し新人王を獲得したが…。
    • 二桁敗戦を記録した投手が3人(藤田が11敗、森口益光が10敗、山内新一がリーグ最多の16敗)。チーム防御率は前年のリーグ1位からロッテと同率の最下位に転落。
  5. 打撃陣は新外国人のカルロス・メイがリーグ6位の打率.312・80打点を挙げたが、それ以外は全体的に低調でチーム打率・本塁打・得点はリーグ最下位。
  6. 対戦成績では前後期1位の阪急には5勝19敗2分・同じく2位の近鉄には5勝17敗4分で大きく負け越し。
    • 前期3位・後期4位の日本ハムに13勝12敗1分で勝ち越して、全球団負け越しは辛うじて免れた。
1979年のヤクルトスワローズ
  1. 前年阪急との死闘の末悲願だった日本一に輝いたが、この年は最下位に沈んだ。
    • 皮肉なことに広岡達朗監督が「守れない選手はいらない」と放出したチャーリー・マニエルを獲得した近鉄バファローズがこの年球団史上初のリーグ優勝を決めている。
  2. 元々広岡監督は前年の日本一の時点で退任を決意していたが、フジサンケイグループ側から「優勝監督を『契約切れ』で放出したら商売にならない」と慰留され新たに3年契約を結んでいた。
    • しかしチーム補強のために意図したロッテ・山崎裕之とのトレードは合意まで至っていたが球団上層部からのクレームで破談に。
    • さらに同年8月には選手から不評だった森昌彦・植村義信コーチの二軍降格を球団側が一方的に発表。
      • これに反発した広岡は退任を表明し、同月29日に正式退任(森・植村も広岡と同調し同時に退任)。
1979年の西武ライオンズ
  1. 前年のオフに球団の経営母体が福岡野球から国土計画に譲渡し、本拠地も福岡から所沢に移転。
    • トレードで阪神から田淵幸一、ロッテから野村克也・山崎裕之を獲得。更にドラフトでは森繁和・松沼兄弟の獲得に成功し、チームの編成を一新。
  2. シーズンでは開幕から引き分けを挟んだ12連敗(NPBワースト記録)を喫し、前期は最下位。
    • 後期は若干盛り返して5位に入ったが、通年成績では6位と低迷。
      • しかしこの年の観客動員136万5000人はパ・リーグトップの記録だった。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球事典
チーム セ・リーグ/パ・リーグ
選手 日本人 あ~お//き~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ
外国人 あ~お/か~こ/さ~の/は~ほ/ま~わ
シーズン展開 ~1970年代/1980~90年代/2000年代/2010年代/2020年代
その他 試合・大会(NPB公式戦‎ )/球場