ざんねんな野球事典/シーズン展開/1980~90年代

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1980年代前半[編集 | ソースを編集]

1981年の横浜大洋ホエールズ
  1. 開幕から低迷が続き、シーズン終盤の9月24日の試合を最後に土井淳監督は休養。残りの試合は山根俊英投手コーチが指揮を執った。
  2. 最終成績は42勝80敗4分で最下位。優勝した巨人からは31.5ゲーム差・5位の中日からも15.5ゲーム差を付けられてしまった。
  3. 唯一の明るい話題は山下大輔がベストナインとダイヤモンドグラブ賞のタイトルを獲得したことぐらい。
1981年の近鉄バファローズ
  1. 1979年・1980年のリーグ2連覇に貢献したチャーリー・マニエルが前年オフの契約更改で球団側と決裂しヤクルトへ復帰。
  2. 主砲を失ったチームは前期最下位・後期も4位に終わり、年間成績は1973年以来8年ぶりの最下位。
    • 9年間指揮を執った西本幸雄監督は勇退を表明し、10月4日の阪急ダブルヘッダー第2戦(日生)を最後にユニフォームを脱いだ。
  3. 投手陣は前年14勝の鈴木啓示と前年15勝の井本隆が揃って僅か5勝と成績不振だったのが大きかった。
  4. 一方の打撃陣はチーム打率がリーグ最下位。チーム首位打者の小川亨ですら.295と3割打者不在が苦しかった。
    • チーム本塁打は3年連続リーグトップの149本だったが前年から約100本近く減少。
      • マニエルの後釜として入団したハリスとハンプトンもマニエルの穴を埋めるまでには至らなかった。
1982年のヤクルトスワローズ
  1. 武上監督3年目のこのシーズンは3人の助っ人外国人がことごとく不調だった。
    • ラリー・ハーローとデビッド・デントンは揃って42試合の出場にとどまり、同年限りで退団。
    • 7月に途中入団したダン・ブリッグスも極々平凡な成績に終わったが、野球に対する真面目な姿勢を買われて残留となった。
  2. チームも5月中旬に最下位転落。7月と8月には4連勝を記録するなど若干持ち直したが、最終成績は45勝75敗10分の勝率.375で3年ぶりの最下位。
    • 優勝した中日には23.5ゲーム差を付けられてしまった。
  3. 投手陣は尾花高夫・松岡弘・梶間健一・立野政治の4人が二桁敗戦を記録してしまった。
  4. 打撃陣では若松勉が3割をマーク(.310)したが、大杉勝男や大矢明彦といった4年前の優勝を経験した選手の衰えが目立ち始め、チーム打率はリーグ最下位。
1983年のロッテオリオンズ
  1. 山本一義監督2年目のこの年、右肘を故障して前年の後半から戦線離脱中のエース・村田兆治が人気の出ない球団への不満から阪神への移籍を志願。
    • 結局交換要員が決まらず残留となったが、この年トミー・ジョン手術を受けた関係で一軍戦の登板は無かった。
  2. 前年三冠王の落合博満を中心とした打線の好調もあり、開幕から5月上旬までは西武と首位争いをしていたがその後失速。
    • 6連敗→1つ勝って8連敗→また1つ勝って6連敗であっという間に最下位に転落してしまった。
  3. その後も7連敗・7連敗・9連敗と大型連敗を繰り返し、最終成績は43勝76敗11分の勝率.361で球団史上初の最下位。
    • 山本監督は最下位の責任を取って解任。後任にはかつての西鉄の大エース・稲尾和久が就任することとなった。
  4. 村田のいない投手陣は水谷則博が10勝・深沢恵雄が12勝で二桁勝利を挙げたが、チーム防御率は5点台でリーグ最下位。
    • 新外国人のスティーブ・シャーリーは11セーブを挙げたのだが…。
  5. 打撃陣は落合が3年連続の首位打者。レロン・リーと水上善雄も3割をマークしたが、チーム打率とチーム本塁打はリーグ5位だった。

1980年代後半[編集 | ソースを編集]

1985年のヤクルトスワローズ
  1. 前年のシーズン途中から監督を代行していた土橋正幸がこの年から正式な監督に就任。
    • 5位からの巻き返しを狙ったが開幕から引き分けを挟んで5連敗、1つ勝った後にまた5連敗という有り様で早々と最下位を独走。
    • 10月16日の神宮での試合で阪神のリーグ優勝を見届けることになった。
  2. 最終成績は46勝74敗10分の勝率.383(借金28)で2年ぶりの最下位。
    • 対戦別成績では上位の4球団(阪神・広島・巨人・大洋)に負け越すも、5位の中日には11勝11敗4分と互角の成績で全球団負け越しだけは辛うじて免れた。
    • チーム打率・防御率もリーグ最下位。チーム盗塁数はリーグ盗塁王の高橋慶彦(広島)の73個の半分にも満たない29個と機動力不足だった。
  3. 投手陣は尾花高夫・梶間健一が揃って11勝を挙げるも、梶間が17敗(リーグ最多敗)・高野光が11敗・宮本賢治が10敗を記録。
  4. 打撃陣は杉浦享がキャリアハイの34本塁打・八重樫幸雄がキャッチャーとして球団初の3割に到達し、両者ともベストナインに選出。
    • ドラフト1位ルーキーの広沢克己も18本塁打を記録し土橋監督の期待に応えた。
  5. シーズン終了後には1978年の初優勝時のバッテリーだった松岡弘と大矢明彦、ボビー・マルカーノらが現役を引退。
1985年の西武ライオンズ
  1. 広岡達朗監督3年目のこの年、前年のシーズン途中から起用された工藤公康・渡辺久信・秋山幸二・辻発彦・伊東勤といった後の黄金時代の主力選手が台頭。
    • 5月以降は首位を独走。最後は2位のロッテに15ゲーム差をつけて2年ぶりのリーグ優勝を果たした。
    • しかし優勝が決まった試合で広岡監督は持病の痛風が悪化したこともあり不在だった(一軍総合コーチの黒江透修が監督を代行)。
  2. 日本シリーズは21年ぶりのリーグ優勝を果たしたセ・リーグ王者の阪神との対決になり、下馬評では西武有利の声が多かった。
    • ところがシリーズではチームリーダーの石毛宏典や郭泰源の戦線離脱、采配ミスもあり2勝4敗で敗れ日本一を逃した。
    • 阪神監督の吉田義男は後に「西武は独走優勝だったが、このシーズンに限っては雑な野球だった」と振り返っている。
    • 西武側からの証言でも上記の黒江が「広岡監督がシーズン中から『俺は辞めるぞ』というオーラを出していた」、森繁和が「広岡さんに勝つ気がないのが分かって、ベンチも明らかにやる気を無くしていました」とそれぞれ述懐している。
  3. シーズン終了後、広岡は監督権限の強化をフロントに要望したが却下され、夕刊紙にフロントの批判を繰り返したことが問題視されると5年契約を1年残す形で監督を辞任。
1986年のヤクルトスワローズ
  1. 土橋正幸監督3年目のシーズンだったが、巨人との開幕3連戦で3タテを喰らうと4月・5月と大きく負け越し最下位を独走。
    • オールスター明けに7連勝を記録し5位の大洋に並んだが、8月末の大洋3連戦で再び3タテを喰らい最下位に逆戻り…。
  2. 最終成績は49勝77敗4分けの勝率.389(借金28)で2年連続の最下位。
    • 対戦別成績では1位広島・5位大洋に健闘したが、無念の全球団負け越しとなってしまった。
  3. 打撃陣は大洋を自由契約になりヤクルトに拾われたレオン・リーがチーム三冠王。若手の広沢克己や栗山英樹の活躍も光っていたが…。
    • 肝心の若松勉は自己ワーストの打率.275、杉浦享は怪我の影響で42試合しか出場できずとベテラン勢の不振が痛く、チーム打率とチーム本塁打はリーグ5位。
  4. 投手陣は3年目の高野光の12勝がチーム唯一の二桁勝利。防御率でもリーグ8位の3.10と意地を見せた。
    • しかし二桁敗戦4人(尾花高夫が17敗で最多敗、荒木大輔が13敗、伊東昭光と高野が11敗)、チーム防御率リーグ最下位ではどうしようもなかった。
  5. 結局土橋監督は連続最下位の責任を取って辞任。後任には前大洋監督の関根潤三が就任することとなった。
1987年の阪神タイガース
  1. 掛布とバースが相次いで交通違反で検挙、更に仲田幸司への指導を巡って新山コーチと野村コーチが対立するなど開幕前から悪いニュースが続いた。
  2. チームも4月の後半に最下位転落。西武から獲得した田尾安志も5月に入るとスタメンから外れるようになり最下位を独走していく。
  3. 投手陣はキーオが11勝、打撃陣はバースが37本塁打を記録し孤軍奮闘したが、それ以外の選手が軒並み不振だった。
  4. 最終成績は41勝83敗6分、勝率は球団ワーストの.331で9年ぶりの最下位に転落。吉田義男監督は日本一から僅か2年で監督を解任された。
1987年の近鉄バファローズ
  1. 前年、あと一歩のところで優勝を逃したチームは、更なる打線強化のため現役メジャーリーガーで本塁打王の経験もあるベン・オグリビーを獲得。
    • オグリビーは入団時点で既に38歳と高齢による衰えが不安視されたが、結果的には打率.300(リーグ6位)、24本塁打の好成績を残した。
  2. 更に移籍2年目の新井宏昌は自己最高の打率.366を残し初の首位打者・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。
  3. 野手陣では他にも大石大二郎が41盗塁で3度目の盗塁王、金村義明・鈴木貴久・村上隆行といった若手選手が揃って二桁本塁打を記録(金村14本・鈴木21本・村上13本)。
    • チーム打率はリーグ2位、チーム本塁打とチーム打点はリーグ3位と打線は活発だった。
  4. 投手陣でも新人の阿波野秀幸が15勝・201奪三振の好成績で西崎幸広(日本ハム)を抑えて新人王を獲得したが…。
    • それ以外の先発陣は小野和義の11勝を除くと3勝か4勝が精一杯(谷宏明と村田辰美が4勝、佐々木修と小山昌男が3勝)とコマ不足に泣いた。
    • 救援陣でも前年32セーブの石本貴昭が僅か7セーブと成績を落とし、チーム防御率とチーム被本塁打はリーグ最下位。
  5. チームは開幕4連勝スタートもその後は成績を落とし、6月には最下位に転落。
    • その後はやや立て直した時期もあったが、8月に8連敗を含む5勝17敗2分で再び最下位に転落。
      • 最後は1ゲーム差の5位ロッテとの直接対決に敗れ6年ぶりの最下位が確定。最終成績は52勝69敗9分けの勝率.430。
  6. チームごとの対戦別成績では優勝した西武に5勝19敗2分と大きく負け越し。
    • 2位阪急・3位日本ハム・4位南海・5位ロッテにはほぼトントンの成績だっただけに、この19敗が大きく響いてしまった。
  7. シーズン終了後に最下位の責任を取って岡本伊三美監督は辞任し、後任にはヘッドコーチだった仰木彬が就任することとなった。
1988年の中日ドラゴンズ
  1. 4月終了時点で首位の広島に8ゲーム差の最下位、その後巻き返したが7月頭に巨人との北海道シリーズで3タテを喫してしまう。この時点での成績は29勝31敗2分で2つの借金。
  2. ここから怒涛の巻き返しを見せ、50勝15敗3分・勝率.769という驚異の成績で、10月7日のヤクルト戦を大勝し6年ぶり4度目の優勝。
    • しかし昭和天皇の体調悪化もあり、祝勝会(ビールかけ)は自粛となってしまう。
  3. 西武との日本シリーズではシーズンで18勝を挙げた小野和幸が第1戦・第5戦と打たれ、更に主砲の落合博満も本塁打・打点ともに0と西武に封じ込まれ、1勝4敗で無念の敗退。
1988年の近鉄バファローズ
  1. 終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となるも、伝説の10.19・VSロッテ戦(川崎球場)で第2試合で時間切れ引き分けとなり、西武の4連覇を許す羽目に。
    • 1986年からだから3連覇じゃないの?
1988年の南海ホークス
  1. 1年目最下位、2年目4位と順位を上げていた杉浦忠監督にとっては勝負の3年目となったが、西武との開幕戦は工藤公康に5安打完封負け。
    • この敗戦を引きずってしまい、チームは史上初の開幕7連敗で最下位に転落。
  2. 更に身売りに否定的な立場を取っていた川勝傳オーナーが4月23日に86歳で死去。
    • 川勝オーナーのためにもAクラスを狙うチームは5月を13勝9敗1分で勝ち越して最下位を脱出し、その後は日本ハム・阪急・ロッテと激しいAクラス争いを展開。
      • 8月終了時点では3位日本ハムと僅か1ゲーム差の4位に付けていた。
  3. しかしダイエーへの球団売却が9月に発表され、それが尾を引いたのか9月・10月と連続で負け越し最終成績は5位。
    • 南海ホークス最終年をAクラスで飾ることはできなかった。
  4. 打撃陣は40歳の門田博光が44本塁打・125打点で本塁打と打点の二冠王に輝きMVPを獲得。
    • トニー・バナザード、山本和範、佐々木誠、湯上谷宏らの活躍もありチーム打率・本塁打・得点は優勝した西武に次ぐ2位。
  5. 一方の投手陣は山内孝徳、藤本修二、山内和宏、西川佳明、加藤伸一の先発5投手が全て二桁敗戦を記録。
    • チーム防御率はリーグ4位。また失策数もリーグ最下位の113個を記録してしまった。
  6. シーズン終了後には主砲の門田が家族の事情や平和台球場の人工芝による足腰の負担などを理由にオリックスへ1対3の交換トレードで移籍。
1988年のロッテオリオンズ
  1. 有藤通世監督2年目のこの年、前年限りで退団したレロン・リーの代わりとしてMLB通算2008安打・首位打者4回を誇るビル・マドロックが入団。
    • しかし37歳という年齢もあり打率.263・19本塁打という平凡な成績に終わった。
  2. チームは序盤こそ好調で5月には一時2位に立ったが、後半戦以降は失速し最終成績は54勝74敗2分で5年ぶりの最下位。
  3. 投手陣は荘勝雄・小川博・園川一美・村田兆治の先発4人が二桁勝利を挙げ、小川はリーグ最多奪三振(当時連盟表彰なし)を記録。
    • しかし園川はリーグ最多敗の15敗、荘もリーグワースト2位の14敗を記録してしまった。
    • また最多セーブのタイトルを獲得した牛島和彦も1勝6敗で防御率は4.47。
  4. 打撃陣は高沢秀昭は打率.327で首位打者を獲得。打者転向5年目の愛甲猛も初めて規定打席に達し17本塁打を記録。
    • 但し高沢に首位打者を獲得させるため、2位で追っていた阪急の松永浩美に対して11打席連続四球を与えたことは問題視された。
      • 松永本人は後に「シーズン最後の3連戦を打率2位で迎えた時点で『高沢さんに負けた』と自覚していたので、3連戦の敬遠攻めに対してロッテ(の関係者)を恨んだことは一度もない」と振り返っている。
  5. 皮肉なことに、この年のロッテが最も注目されたのは10月19日の近鉄とのダブルヘッダー(いわゆる10.19)だった。
    • この第2試合でロッテは時間切れの引き分けに持ち込んで近鉄の優勝を阻止したが、その試合の9回裏に「古川慎一の牽制死に対しての9分間の無駄な抗議で近鉄の優勝の可能性を潰した」と有藤監督はバッシングを受ける事態に…。
      • 有藤は後に「第2試合の初回に佐藤健一(第1試合で4安打と当たっていた)が死球を喰らった際に仰木監督が『痛かったら代われば?』『もう休めよ』と言ったことで仰木監督の人間性を疑い、それが9回裏の抗議の伏線になった」と語っている。
    • 因みにこの第2試合、先制ホームランを放ったのは最初に出てきたビル・マドロックだった…。
1989年の横浜大洋ホエールズ
  1. 古葉竹識監督3年目、勝負のシーズンだったが序盤で躓きそのまま最下位を独走。
    • 10月4日からの対巨人3連戦では3試合連続完封負けを喫し、目の前で巨人の胴上げを許す屈辱を味わうことに…。
  2. 投手陣は二桁勝利ゼロで欠端光則の9勝がチーム最多勝。新浦壽夫と大門和彦がリーグ最多敗の13敗。失点もリーグ最下位だった。
    • 新浦と大門以外にも欠端が10敗、野村弘が11敗、抑えの中山裕章が10敗で二桁敗戦投手は5人もいた。
  3. 打撃陣は前年本塁打と打撃の二冠王を獲得したカルロス・ポンセが打率2割台前半と不振(それでも本塁打と打点はチームトップ)。
    • ジム・パチョレックは2年連続の打率2位、ポンセに代わって4番に入った山崎賢一が打率.309と活躍したのだが…。
    • チーム打率はリーグ3位だったが得点と本塁打はリーグ最下位。
  4. 対戦別成績では優勝の巨人に5勝21敗と大きく負け越し。
    • 2位広島・3位中日・5位阪神にも負け越したが、4位ヤクルトには13勝12敗1分と1点だけ勝ち越して全球団負け越しは何とか阻止した。
  5. 古葉監督は5年ぶりの最下位の責任を取って契約を2年残して無念の辞任。
    • 後任には土井淳、山下大輔、高田繁らの名前が挙がっていたが、最終的にはこの年まで巨人の二軍監督を務めていた須藤豊が就任。
    • また同年オフのドラフトでは佐々木主浩の1位指名に成功している。
1989年の近鉄バファローズ
  1. 宿敵西武、オリックスを打ち破りリーグ優勝。日本シリーズでも巨人に序盤3連勝し、日本一まであと一歩だったのにその後4連敗。巨人に逆転優勝を許してしまった。

1990年代前半[編集 | ソースを編集]

1990年の読売ジャイアンツ
  1. ペナントレースでは88勝、2位と22ゲーム差という大独走で優勝するも、日本シリーズでは西武ライオンズに4連敗した。
1990年の福岡ダイエーホークス
  1. 田淵幸一監督1年目のこの年、前年に上位3チームを苦しめた勢いは何処へ行ってしまったのか、開幕から4連敗。
    • 4月28日には早くも最下位に転落し、以降は二度と浮上することなくシーズンを終えてしまった。
  2. 最終成績は41勝85敗2分の勝率.325という惨憺たる成績になってしまった。
    • この年の勝利数・敗戦数・勝率は2022年現在球団ワースト記録となっている。
    • 対戦別成績も全5球団に負け越し。特に2位のオリックスに対しては3勝1分22敗と全く歯が立たなかった。
  3. 投手陣はチーム防御率5.56と完全な投壊状態。二桁勝利は不在でチーム最多勝の村田勝喜は7勝15敗でリーグ最多敗も記録してしまった。
    • 急遽獲得したMLB通算307セーブのリッチ・ゴセージも39歳という年齢が響き、僅か8セーブしか残せなかった(因みにこれでもチーム最多)。
  4. 打撃陣もチーム打率・得点・本塁打・打点・盗塁がリーグ最下位。
    • 助っ人のウィリー・アップショーとトニー・バナザードは田淵監督と対立した結果、両者とも退団してしまった。
1992年の中日ドラゴンズ
  1. 高木守道監督1年目のこの年、開幕戦から投打の主力選手の郭源治と立浪和義が怪我で離脱。
    • さらに開幕3連勝と好調だった今中慎二も4月19日の巨人戦で打球が左手首を直撃、長期離脱を余儀なくされる。
  2. それでも6月上旬までは勝率5割前後と健闘していたが、6月中旬に4連敗を喫するとこの月を9勝13敗で負け越し。
    • 7月に入ると落合博満の腰痛による登録抹消が響き、遂に最下位に転落。
  3. 8月も9連敗・6連敗と負けが込み7勝17敗で5位の大洋にも引き離された。
    • 8月末にようやく今中が復帰、9月は6連勝を含む15勝7敗の好成績も時すでに遅く、10月6日に12年ぶりの最下位が確定してしまった。
  4. 投手陣は山本昌広が13勝10敗・前年不振だった与田剛が2勝5敗23セーブと復調したが、郭源治は故障の影響で4勝3敗、20勝経験者の西本聖が1勝11敗と今一つの成績に終わり、チーム防御率はリーグ最下位の3.91。
  5. 打撃陣は故障者続出で満足にオーダーが組めず、規定打席到達者は2名(立浪と落合)のみ。
  6. オフには長年チームを支えた人気選手の宇野勝が2対2の交換トレードでロッテに移籍。
1993年の西武ライオンズ
  1. 確かに、4年連続のリーグ制覇には成功した。
  2. だが5月から首位だったが8月からはグダグダ状態で、日本ハムに一時逆転された。
    • 最終的に再逆転して優勝したが、マジック1から4連敗で足踏み続きだった。
  3. 日本シリーズでは前年破った野村監督率いるヤクルトに3勝4敗で敗北。森祇晶は選手・監督を含め初めての日本シリーズ敗北となった。
    • 1993~2002年の10年間でパ・リーグは日本シリーズで2勝8敗と苦戦したが、その内5敗が西武だった。
  4. またこの年秋山幸二がトレードでチームを去るなど黄金時代のメンツがチームを離れ出し、やがてそれらのメンツが集まったダイエーホークスに覇権を明け渡す事になってしまう。
1994年の中日ドラゴンズ
  1. シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月に8連敗を喫し広島に逆転を許す。
  2. しかし、9月に入ると持ち直し、9月20日からの9連勝などで、10月7日時点で巨人と69勝60敗で同率首位となる。
  3. 巨人をあと一歩まで追い詰めたものの、例の10.8決戦で3-6で敗戦し、優勝を逃した。
1994年の日本ハムファイターズ
  1. 前年は西武と熾烈な優勝争いを展開したが、この年は5球団全てに負け越し最下位。
    • 打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位。
  2. 本拠地最終戦終了後のセレモニーで大沢啓二監督は土下座。この年限りで監督を辞任している。
  3. 投手陣は二桁勝利なし。規定投球回数に達した西崎幸広、キップ・グロス、河野博文の3人はいずれも二桁敗戦(西崎14敗、グロス12敗、河野10敗)を記録してしまった。
  4. 打撃陣は前年活躍したマット・ウインタースとリック・シューの外国人コンビが不振。
    • ショートの広瀬哲朗は2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を獲得したのだが…。
  5. シーズン終了後には大島康徳、柴田保光、高木豊(横浜から移籍)といったベテラン選手達が現役を引退。
    • 大沢は後に「高木はもっとやれると思っていたけど、やっぱり力が衰えてたんだなぁ。打線のブレーキになっちまった」と著書で振り返っている。

1990年代後半[編集 | ソースを編集]

1995年の中日ドラゴンズ
  1. 前年は巨人と熾烈な優勝争いを展開したが、打撃陣の怪我続出・投手陣の崩壊で前半は最下位。
  2. 6月3日には高木守道監督が休養(その後解任)、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任したが流れは変わらずオールスター前の7月23日に解任。
    • 残りのシーズンは二軍監督の島野育夫が指揮を執った。
  3. 最後の阪神との4連戦には勝ち最下位は免れたが、優勝したヤクルトには32ゲーム差・4位の横浜にさえ16ゲーム差を付けられてしまった。
1996年の福岡ダイエーホークス
  1. 王貞治監督を招聘、低迷脱却とはいかず王監督を中傷する横断幕、バス囲みも。
  2. 結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。
    • この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。
    • 優勝したオリックスとの対戦成績は12勝14敗と健闘していたのだが、2位日本ハムとの対戦成績は9勝17敗だったのが痛かった。
  3. 投手陣では工藤公康が最多奪三振のタイトルを獲得したが、勝敗数は8勝15敗でリーグ最多敗も記録してしまった。
1996年の日本ハムファイターズ
  1. 上田利治監督2年目のこの年、デューシーとブリトーの外国人コンビと若手選手の活躍もあり、7月終了時点では2位のオリックスと4ゲーム差を付けていた。
    • しかし8月からオリックスが猛追、8月後半の直接対決で負け越して首位陥落となってしまう。
  2. それでもオリックスを再逆転できる可能性もあったのだが、9月初旬に上田監督が「家庭の宗教入信問題」を理由に休養に入ってしまう。
    • 急遽住友平ヘッドコーチが監督代行を務めたがチームは失速。最後は9月23日のオリックス戦でサヨナラ負けを喫し、目の前での胴上げを許してしまった。
1996年の横浜ベイスターズ
  1. 大矢明彦監督1年目のこの年、開幕直後は快進撃を見せて貯金10に到達。「春の珍事」とスポーツ紙を賑わせた。
  2. しかし5月は7勝18敗と負けが込み急失速。後半戦以降は阪神との最下位争いに終始する展開となってしまった。
    • 最終成績は55勝75敗で5位。最下位の阪神とは僅か1ゲーム差で、セ・リーグ5球団に対戦成績で負け越してしまった。
  3. 投手陣は斎藤隆が最多奪三振、佐々木主浩が最優秀救援のタイトルを獲得したがチーム防御率はリーグ最下位。
  4. 打撃陣はチーム本塁打こそリーグ最下位だったが、ロバート・ローズや駒田徳広らの活躍もありチーム打率はリーグ3位だった。
1996年の阪神タイガース
  1. 藤田平監督2年目のこの年、巨人との開幕戦では0-9と大敗し6月まで最下位生活。
    • 6月2日のヤクルト戦の試合後には東京駅に停車中の新幹線のグリーン車にファンが乱入し、藤田監督に詰め寄る事態に発展。
  2. 4番の桧山進次郎・抑えの郭李建夫らの活躍もあり夏場以降は盛り返し、横浜に代わって5位に浮上したこともあったが…。
  3. シーズン終盤の9月13日に藤田監督の休養が発表されると再び最下位に転落。最後は優勝の巨人から23ゲーム差を付けられて全日程を終了。
  4. 1985年の日本一に貢献した中西清起・木戸克彦も同年限りで引退。
1997年の読売ジャイアンツ
  1. 清原獲得で話題をさらうも一塁手が飽和、Bクラスに終わる。
    • それも中盤まで最下位にいたほどだった。
1997年の中日ドラゴンズ
  1. この年から本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わったが、前年最後まで優勝争いをしたこともあり開幕前は優勝候補の一角に挙げられていた。
  2. しかし開幕後は自慢の強竜打線が沈黙。8月の大きな負け越しが響き、最終成績は5年ぶりの最下位となってしまった。
  3. 投手陣は18勝7敗で最多勝のタイトルを獲得した山本昌、38セーブを挙げた宣銅烈、2年目の門倉健が10勝12敗と二桁勝利を挙げたこと以外は全体的に不振だった。
    • 特に前年チーム最多勝の14勝を挙げた今中慎二が2勝2敗、前年7勝4敗の前田幸長が2勝13敗だったのが痛かった。
  4. 打撃陣も前年の39本塁打でホームラン王を獲得した山崎武司が半減の19本、前年38本塁打の大豊泰昭が約3分の1の12本、前年.340で首位打者のパウエルが.253と全体的に不振だった。
    • 新外国人のゴメスは3割30本(.315 31本)をクリアしたのだが…。
  5. シーズン終了後、星野監督は不振だった大豊泰昭と2番手捕手の矢野輝弘を阪神にトレードで放出し、関川浩一・久慈照嘉を獲得。
  6. コーチ陣では小松辰雄投手コーチや柏原純一打撃コーチなどが成績不振の責任を取り辞任した。
1998年の阪神タイガース
  1. 吉田義男監督2年目のこの年、前年に3年ぶりの最下位脱出を果たしたチームは、主力選手の関川浩一と久慈照嘉をトレードで中日に放出。
    • 代わりとして中日では中村武志に次ぐ2番手捕手だった矢野輝弘と、1994年に二冠王の経験がある大豊泰昭を獲得。
    • 更に1994年から1996年まで中日で3年連続首位打者を獲得していたアロンゾ・パウエルを獲得し打撃陣を強化。
    • 新外国人はダグ・クリーク、ベン・リベラ、デーブ・ハンセン、デジ・ウィルソンの4選手を獲得した。
  2. シーズン開幕前の4月1日には吉田監督が日本外国特派員協会で優勝会見を開催。
    • 勿論4月1日なのでエイプリルフールネタであるが、記者にはウケが良かったらしい。
  3. そうして迎えた横浜との開幕戦では1番の和田豊がヒットで出塁も、続く2番の桧山進次郎が併殺。
    • 後続打者は横浜の先発だった川村丈夫に25者連続で凡退し、0-8で完封負け…。
  4. 開幕2戦目・3戦目も敗れ3タテスタートとなってしまったが、その後は6連勝で成績も回復し、5月中旬まではなんとか5位近辺を維持していた。
    • しかし6月中旬に6連敗を喫して最下位に転落すると7月は7連敗、8月の死のロード中には球団ワーストの12連敗を記録。
    • シーズン最終盤(10月8日)の横浜戦に3-4で敗れ、最後は目の前で横浜の38年ぶりの優勝を見届けることになってしまった。
  5. 最終成績は52勝83敗の借金31、勝率.385で2年ぶりの最下位。
    • 対戦別成績も広島以外の4球団に負け越す苦しいシーズンとなってしまった。
  6. 投手陣はチーム防御率・失点がリーグ5位。
    • 藪恵壹が11勝、川尻哲郎が10勝、中込伸が8勝を挙げたが13敗でリーグ最多敗。
    • リベラは27セーブ・防御率2.38と及第点の成績だったが、クリークは0勝4敗・防御率5.65で一軍未勝利に終わり退団。
  7. 打撃陣はチーム打率・本塁打・打点・盗塁がリーグ最下位。
    • 大豊は打率.231・21本塁打で完全復活ならず、パウエルは膝の故障が響きシーズン途中の8月に退団。
      • ハンセンは打率.253・11本塁打・リーグ2位の17失策、ウィルソンは外国人枠の関係で16試合の出場に終わり、2人そろってシーズン終了後に退団となってしまった。
    • 明るい話題はドラフト4位ルーキーの坪井智哉がリーグ3位の打率.327を記録し、2リーグ制分立以降の新人最高打率を記録したことぐらいか。
      • 因みに同年の新人王争いは中日の川上、巨人の高橋、広島の小林と争った末、新人王を獲得した川上以外の3選手が新人特別賞を受賞している。
  8. 吉田監督・一枝修平ヘッドコーチ・三好一彦球団社長は最下位の責任を取って退任。
    • 後任監督候補には安藤統男や田淵幸一の名前が挙がっていたが、球団側の三顧の礼が実ってヤクルトの監督を務めていた野村克也の招聘に成功。
1998年の日本ハムファイターズ
  1. 上田監督4年目のこの年、「ビッグバン打線」と命名された打線の活躍もあり7月終了時点では首位に立っていた。
  2. しかしシーズン終盤にそのビッグバン打線が沈黙。前半戦の快進撃を支えた西浦克拓やジェリー・ブルックスらの大不振もあり、西武に逆転され2位でシーズンを終えた。
  3. シーズン終了後には落合博満や広瀬哲朗が現役を引退。
1998年の福岡ダイエーホークス
  1. 前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保浩紀、ヒデカズ、斉藤貢、本間満、藤井将雄の主力5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。
    • このうちは小久保は出場停止から復帰後、1ヶ月も経たずに右肩を痛め僅か17試合の出場に終わった。
  2. また、シーズン中には地元・西日本新聞のスクープで、いわゆる「スパイ疑惑」が報道される。
  3. なお、その年は3位に入り、連続Bクラスの記録が20でストップした。
1998年の千葉ロッテマリーンズ
  1. ダブルストッパーの成本年秀、河本育之がそろって故障するなど投手陣が崩壊し、プロ野球新記録の18連敗を記録。エース黒木知宏は最多勝と最高勝率の2冠に輝いたが18連敗はあまりにも重くチームは最下位に低迷、責任を取って近藤昭仁監督は辞任した。
    • おまけに近藤監督は辞任会見の席上で「もっと強いチームで監督をやりたかった」と発言し、ロッテファンの非難を浴びた。
      • 但し本人は後に「『1年目から結果を求められるのならヒルマンや伊良部の抜けた再建期のチームではなくて、もっと強いチームで監督をやりたかった』というフロント批判の発言のつもりだったが、前後の発言をマスコミに切り取られて意図とは違う伝わり方をされた」と主張している。
    • 本当に「18連敗さえなければ」大分まともな成績だった。
1999年の中日ドラゴンズ
  1. 開幕11連勝もあり開幕ダッシュに成功。6月に一日だけ阪神に首位の座を譲ったが7月以降は再び独走態勢に。
  2. 終盤に巨人の猛追を喰らったが8連勝で振り切り、9月30日のヤクルト戦(神宮)で11年ぶりのリーグ優勝を決めた。
  3. しかし日本シリーズではレギュラーシーズンで活躍した山崎武司の負傷欠場や主力選手の不調が響き、ダイエーに1勝4敗で敗退。
1999年の阪神タイガース
  1. ノムさんこと野村克也の監督就任1年目の阪神。6月に中日を抜いて一時首位に立った。
  2. しかし、勢いはすぐに無くなり、それどころか球団記録タイの12連敗を喫し、2年連続の最下位に終わった。
  3. 一方二軍はウエスタンリーグを2年連続で制覇し、さらにファーム日本選手権も制し初の日本一となった。
1999年の西武ライオンズ
  1. 高卒ルーキーの松坂大輔が16勝で新人王を獲得。西口文也・石井貴・豊田清も二桁勝利を挙げるなど投手陣は良かった。
  2. しかし前年オフに退団したドミンゴ・マルティネスの穴をアーキー・シアンフロッコとグレッグ・ブロッサーが埋めきれず、両者ともシーズン途中に退団。
    • その後急遽アラン・ジンターとコーリー・ポールを補強したが、この4人の助っ人の本塁打数(4人合計25本)は前年のマルティネス1人の本塁打数(30本)に届かず。
  3. 結局チーム最多本塁打は松井稼頭央と垣内哲也の15本。この貧打の影響で一度も単独首位には立てず2位でシーズンを終えた。
    • シーズン終了後にはV逸の責任を取って須藤豊ヘッドコーチ、土井正博打撃コーチ、伊原春樹内野守備走塁コーチが退団。
1999年の大阪近鉄バファローズ
  1. この年から地域密着を目指して球団名に「大阪」が入り、ビジター用のユニフォームのロゴは「Kintetsu」から「Osaka」に変更された。
  2. 球団名の改称効果なのか、チームは4月を首位でスタートしたが5月は9勝14敗と負け越して5位に転落。
  3. 6月と7月はまずまずの成績で5位に踏みとどまっていたが、8月に入ってからの9連敗・7連敗が響き、最終成績は54勝77敗4分で4年ぶりの最下位となってしまった。
    • 特に8月29日からの7連敗中には5試合連続の二桁失点(3-10、4-20、4-11、5-10、10-10)を記録してしまった。
  4. 投手陣はチーム防御率4.54でリーグ最下位に終わり二桁勝利を挙げた投手はゼロ。辛うじてローテーションを守った岡本晃と小池秀郎は揃って二桁敗戦を喫した。
    • またリリーフ陣は大塚晶文の故障離脱もあり、香田勲男とカルロス・バルデスの8セーブがチーム最多セーブだった。
  5. 打撃陣はタフィ・ローズが40本塁打・101打点で二冠王、中村紀洋が31本塁打、フィル・クラークが29本塁打を記録。
    • チーム本塁打は151本でリーグ1位だったが、チーム打率は.2573でリーグ5位・併殺打は113個でリーグワーストとなってしまった。
  6. シーズン終了後、佐々木恭介監督は最下位の責任を取って辞任。後任には二軍監督を務めていた梨田昌孝が昇格という形で就任することとなった。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球事典
チーム セ・リーグ/パ・リーグ
選手 日本人 あ~お//き~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ
外国人 あ~お/か~こ/さ~の/は~ほ/ま~わ
シーズン展開 ~1970年代/1980~90年代/2000年代/2010年代/2020年代
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