ざんねんな野球選手事典/外国人/か行

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  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
  • 登録名(基本的にはファミリーネーム)の五十音順で。
  • 金村義明や張本勲など、日本国籍や日本名を持つ在日外国人選手はざんねんな野球選手事典/日本人へ。

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ダン・カールソン[編集 | ソースを編集]

  1. 2000年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスから中日ドラゴンズへテスト入団。
    • 当時鳴り物入りで入団していたディンゴの推薦を受けての入団だった。
  2. 開幕戦でいきなり初登板を果たしたが、その後はメルビン・バンチやエディ・ギャラードの活躍もあり外国人枠から外れ、二軍へ降格。
  3. その後「義理の父が病気で倒れた」という理由で一時帰国したが、そのまま日本には戻らずシーズン途中の8月にディンゴと同時に解雇されてしまった。

レオ・カイリー[編集 | ソースを編集]

  1. 1951年にレッドソックスで7勝7敗という成績を残したが、翌年からは兵役に就くことになり進駐軍として来日。
  2. 1953年に投手不足に悩んでいた毎日オリオンズが「休日・ナイトゲーム限定で出場」という条件を付けカイリーと契約。
    • すると8月だけで6試合に登板し6連勝・打撃でも19打席10安打という驚異的な成績を残したが、9月3日に除隊命令が出たこともあり帰国・退団となった。
  3. あまりにもカイリーが活躍しすぎたため、翌1954年からコミッショナーは「進駐軍に所属している選手のアルバイト登板禁止」という通達を出すことになった。

ペドロ・カステヤーノ[編集 | ソースを編集]

  1. 1997年シーズン途中の5月に巨人へ入団。不振だったルイスに代わる三塁手として期待された。
    • しかし打率.197、4本塁打、23打点と期待外れの成績に終わり、同年限りで退団。
      • 因みに当時の日本タイとなる「代打9打席連続出塁」という記録を残している。
  2. その後はメキシカンリーグでプレーし、2002年に韓国のSKワイバーンズと契約。
    • しかし開幕前の春季キャンプで大怪我でシーズン絶望となり、1試合も出場せずに解雇となってしまった。

タイ・カッブ[編集 | ソースを編集]

  1. ピート・ローズ以前のメジャーリーグ通算最多安打記録保持者で首位打者を12回獲得するなどの記録を保持しているが、ヤジに腹を立て観客に暴力を奮い出場停止になったり人種差別でベーブ・ルースと同室を拒否するなどのエピソードで悪評も有名。
    • 某所では「キャッチャーにライダーキックかます」写真で有名。
    • 野次を飛ばした観客に暴力を奮い出場停止になった際には彼をかばったチームメイト全員もストライキを起こし、素人による助っ人で試合をしたほどの大騒動だった。
  2. あまりにも悪評がすごすぎて、葬式の時に球界関係者が4人しか参列しなかったとか。
    • ただしこれは遺族が野球関係者の参列をあらかじめ断っていたという話がある。
  3. ベーブ・ルースがヒーローとして扱われていたのとは対照的に、暴力行為などのせいでヒール役としての印象が強くついてしまったのがざんねんな所と言えよう。

フェリックス・カラスコ[編集 | ソースを編集]

  1. 2011年に中日へ入団。「オレは4割打者」と豪語しての入団だったが…。
  2. 一軍では7月に3試合出場・4打数4三振という散々な成績。
    • 結局約1週間後に二軍に降格となり、そのまま9月28日限りで自由契約となり中日を退団。
    • 因みに二軍でも打率.145、本塁打と打点は0、打数の半分近くが三振(55打数25三振、三振率.455)というすさまじい成績を残している。

フレッディ・ガルシア[編集 | ソースを編集]

  1. 2001年、前年に退団したフィル・クラークに代わる右のスラッガーとして近鉄に入団。
  2. 同年の開幕戦ではレフトへの特大ホームランを放ったが、その後は大振りばかりで不振に陥り5月初旬にはスタメン落ち。
  3. 結局ショーン・ギルバートの獲得に伴い、シーズン途中の5月29日に解雇されてしまった。
  4. あまり日本野球に馴染めなかったらしく、先輩助っ人であるタフィ・ローズの助言を無視したり、ローズの朝の挨拶に対して「嫌いだから話しかけないでくれ」と言っていたという。

ホセ・アドリス・ガルシア[編集 | ソースを編集]

  1. キューバ代表での実力を見込まれ2016年途中に巨人が獲得。
  2. 同年6月に一軍デビューしたものの、4打数0安打と不振に終わり、再び二軍落ち。すると、同年8月には僅か4ヶ月で突然の契約解除が発表された。
    • 噂によると素行不良や日本式の野球に順応できなかったことが原因とされているが…。
  3. その後、日本からキューバに帰国する際に経由地のフランスで行方不明になり、その後MLB移籍のためドミニカ共和国に亡命したことが判明。
    • そもそも来日したのも最初から亡命目的だったとも言われている。
    • ちなみに兄のアドニスも2011年に亡命している(こちらはベネズエラ)。
    • 巨人はこの年のオフに育成選手だったエクトル・メンドーサも同じように退団直後に亡命されており、立て続けに起きたことからキューバ政府の心象を悪くしたとか。
  4. そして2018年メジャーリーグのカージナルスに所属。そこでは芽が出なかったが2020年レンジャーズに移籍すると翌年以降の3年間で97本の本塁打を放つなど大ブレイク。2021年はいきなりオールスター出場・新人王候補2023年は大谷翔平に次ぐ本塁打数2位の39本と暴れ回り、巨人としては大魚を逸した結果となってしまった。

クラウディオ・ガルバ[編集 | ソースを編集]

  1. 2006年の春季キャンプ中に入団テストを受け中日へ入団。
  2. 開幕一軍はならなかったが、ドミンゴ・グスマンが不調だったこともあり入れ替わりで一軍に昇格。
    • しかし3試合目の登板となった4月30日の巨人戦で二岡智宏から満塁ホームランを打たれてしまい二軍へ降格。
  3. そのまま同年8月にドミンゴ、育成選手のエルネスト・ペレイラとともに戦力外通告を受け中日を退団。

バルビーノ・ガルベス[編集 | ソースを編集]

  1. 1996年に来日し巨人に入団。初年度から16勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得。また、打者としても10本のホームラン(うち2本は満塁ホームラン)を放つなど90年代後半の巨人を支えた外人投手。
  2. しかし非常に気性が激しく、また相手チームから機動力で揺さぶられると途端に焦って自滅するという欠点があった。
    • 特に気性の荒さが裏目に出たのは1998年7月の阪神戦。この時は自身の不調と判定への不服からいらだちが高まっており、ピッチャー交代を宣言されて下がる途中に審判のいたところでボールを投げつけるという行為に及んでしまう。
      • その結果乱闘に発展してしまい、ガルベスは1998年の残りシーズンすべての出場停止という処分になってしまった。
  3. 巨人時代に、牛乳のCMに出演していたことがある。
    • しかし、上記のことから「カルシウムが足りていないのは、ガルベス本人」ということが露見する羽目に。
      • そもそもCM出演自体96年に中日戦で乱闘事件を起こしたのがきっかけとも。
  4. その後メジャー復帰を目指すも、練習中に突然行方不明となり、解雇。
  5. 更にその後韓国野球でプレー。前半戦は助っ人らしい活躍を見せるも、優勝目前に母親の病気を理由に突然の帰国。球団の6度の復帰要請に対しても何かと理由をつけて拒否。

ジョン・ガント[編集 | ソースを編集]

  1. マイナーリーグを渡り歩いて2022年に日本ハムに入団したが…。
  2. 入団後に即右肘を故障してしまい、キャンプの練習試合やオープン戦でも投げることなく開幕を迎え、既に暗雲が立ち込め始める。
  3. 結局、右肘の故障は改善することなく一軍どころか二軍戦でも登板0という有様で1年目のシーズンを終えてしまった。
    • この年の日本ハムは新庄剛志新監督の元全ての支配下登録選手を1試合以上は一軍公式戦に出場させるという方針を取っていたが、このような有様なので唯一出場できずに終わった。
    • 結局シーズン最終盤に差し掛かる時期にようやく投げれるようになり、フェニックスリーグで「対外試合初登板」となった。
    • しかも5月には治療のため一時帰国。ファンからはこのまま帰ってこないのではと不安視されたが、なんとか翌月には再来日した。
  4. にも関わらず何故か翌年も残留となった。キャンプでは回復ぶりを見せ、オープン戦も数試合先発していよいよベールを脱ぐかとの期待がされたが…。
    • 開幕は二軍で迎え、ファームで調整を続けていたが4月に右肘痛が再発しまた帰国。結局1年半で一軍登板は0のまま6月に自由契約となり退団となった。
      • 一緒に自由契約となり退団となったコナー・メネズは前年途中入団ながら27試合に登板し1勝6ホールドを挙げているため、一軍登板0だったガントのざんねんさが目立つ結果に…。
  5. 「ドラゴンボール」やポケモンなどの日本のアニメの大ファンであり、結局クローズアップされたのは一軍登板0とアニメ好きというところばかりであった。

クリストファー・カンバーランド[編集 | ソースを編集]

  1. アメリカのマイナーチームを渡り歩き、2000年に広島へ入団。
  2. 左の先発候補として期待され、開幕3戦目の巨人戦に先発したが1イニング持たずの3失点でKOされ、即二軍落ち。
  3. 二軍でも1試合4ボークの最多タイ記録を残してしまい、シーズン途中の5月7日に解雇されてしまった。一軍通算防御率は81.00である。
  4. 当時の達川監督曰く「カンバーランドががんばーらんと困る」

フランク・カンポス[編集 | ソースを編集]

  1. ホワイトソックス傘下の3Aチームを経て1993年の秋季キャンプテストを経て日本ハムへ入団。
  2. 速球とスライダーを武器としていたがコントロールに難があり、オープン戦で打ち込まれ開幕二軍スタートとなってしまう。
  3. 更に運悪く右肘を痛めてしまい、二軍での登板もないまま5月18日に解雇となった。
    • 大沢啓二監督曰く「カンポスじゃなくてポンカスだった」。

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エディ・ギャラード[編集 | ソースを編集]

  1. 宣銅烈に代わる守護神として2000年開幕直後に中日に入団するといきなり頭角を現し途中入団ながらセーブ王に輝くなど活躍した。
    • その後も通算100セーブを達成している。
  2. しかし2003年6月、甲子園での試合前のウォーミングアップ中に打球を素手で取って両手を負傷してしまい、治療のために二軍降格となったが…。
    • 一歩間違えたら骨折も有り得る行為だっただけに小松辰雄氏などから「有り得ない。プロの選手の行動ではない。自分がチームの柱だという自覚が完全に欠落している。」と痛烈に批判され、当然ながら当時の山田久志監督も大激怒させてしまう。
  3. 怪我自体は軽傷で済んだものの、「今すぐ一軍で投げられる」と二軍での調整を拒否。ここから球団や首脳陣との関係が悪化し始めた。
    • 結局折れる形で二軍戦に数試合調整登板し直ぐに再昇格したものの、その頃には近鉄からトレード移籍した大塚晶文が既に代役守護神として定着しており、山田監督はギャラードを中継ぎとして起用しようとしたが本人は「自分は抑え以外は絶対にやらない。大塚を中継ぎにしろ」と駄々をこねたため完全に首脳陣を大激怒させてしまい、最終的には喧嘩別れの形で途中退団。
  4. その後はトレード期限の6月30日(当時)から大幅に経過しながらもウエーバー公示され横浜に移籍。横浜でも守護神として活躍していたが…。
  5. しかし翌年横浜には大魔神・佐々木主浩が復帰。すると佐々木を守護神、ギャラードは中継ぎとして起用しようとしたところまたしても拒否。横浜の首脳陣とも対立してしまう。
    • 結局シーズン途中に右肘の手術を受けるためアメリカに帰国するも、その結果残りシーズンの復帰が絶望的となりまたしても喧嘩別れの形で横浜を契約解除になってしまった。

マーク・キャリオン[編集 | ソースを編集]

  1. 珍しい左投右打の選手として1997年にロッテに入団。
    • 1年目はまずまず活躍(.279 14 77)したが…。
  2. 体調不良で練習を早退したにも関わらずチームバスの中で本を読んだり、試合を無断欠場して自宅で卓球に興じるなど、下のホール程ではないが素行が良くなかった。
  3. 1998年のスポーツ報知の選手名鑑では「チーム一のやる気のなさ」とまで書かれてしまった。
    • その1998年はフリオ・フランコの入団に刺激されたか、序盤から結果を残すも腰痛のため結局60試合の出場に終わり、同年オフに任意引退。

マイク・キャンベル[編集 | ソースを編集]

  1. メジャー通算12勝の実績を引っ提げて1997年に横浜へ入団。
  2. しかし春季キャンプで右肩を故障。この影響で一軍登板なし・二軍でも僅か3試合のみの登板に終わり、シーズン途中に治療のためアメリカへ帰国しそのまま自由契約となった。

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ジェフ・クベンカ[編集 | ソースを編集]

  1. 2001年のシーズン開幕直後、左の投手が不足していたロッテへ入団。
  2. 4月29日の西武戦で初登板初先発を果たしたが、こちらも1イニング持たずの3失点でKO。
    • 因みにチームがその後一度逆転したため、勝敗は付いていない。
  3. その後中継ぎで2試合に登板したが、いずれも1イニング持たずに二軍落ち。
    • 降格後はネイサン・ミンチーやブライアン・シコースキーの陰に隠れてしまい、一軍昇格のないままシーズン終盤の9月に解雇された。

ジェイソン・グラボースキー[編集 | ソースを編集]

  1. ドジャース時代の2004年に113試合に出場した実績やドジャース傘下の3Aチームで中村紀洋とチームメイトだったことを買われ、2006年にオリックスへ入団。
  2. しかしオープン戦では結果を残せず開幕は二軍スタート。
    • 6月14日の巨人戦でようやく来日初安打(2階席まで届く特大のホームラン)を放ったが、その後は結果を残せず打率.146・本塁打4という成績に終わる。
  3. このまま退団かと思われたが、ドジャース時代からグラボースキーの事を知っているテリー・コリンズがオリックスの新監督に就任したことなどを理由に保留選手名簿に残り、同年末にオリックスと契約したチャド・アレンの保険として来季の残留が決まっていた。
    • しかし同年12月21日に元巨人のゲーリー・グローバーとともにデビルレイズとのマイナー契約を結んだこともあり、オリックスを退団。
      • 因みに翌年のデビルレイズの春季キャンプでグローバーはメジャー契約を勝ち取りシーズンでも67試合に登板したが、グラボースキーはロースター枠に入れずそのまま現役を引退している。

ユリエスキ・グリエル[編集 | ソースを編集]

  1. キューバ政府が国外移籍を解禁した2014年途中にDeNAに入団。WBCや五輪でキューバ代表の主軸としても活躍しただけに大きな驚きに包まれた。
  2. DeNA入団が決まった際、当時の中畑監督とキューバ代表のメサ監督が似たタイプだと知って頭を抱えたという事が。
  3. 1年目は途中入団ながらも主軸として活躍。2年目は弟のルルデス・ジュニアを連れてチームに合流、しようとしたが腰痛で兄弟揃って来日延期を繰り返し、またDeNA球団とキューバ政府の対応もゴタついたため契約解除されてしまった。
  4. 巨人戦で笠原将生から死球を受けて詰め寄ったが、笠原も応戦しようとした場面が有名。
    • ちなみに翌日和解したものの、笠原がYouTuberに転向した現在も乱闘寸前になった場面のカットをOP映像に使ったりとネタにしている模様。
  5. 飛行機嫌いだったらしく、飛行機移動が必須の沖縄遠征には帯同しなかった。
    • ただ当時は沖縄に台風が接近しているという状況もあった。
  6. その後2016年に弟のルルデス・ジュニアとともに遠征先からそのままハイチに向かい亡命。突然の亡命劇にキューバ在住の兄・ユニエスキも驚きのコメントを出している。
  7. 亡命後はついに大リーグに挑戦し、アストロズと契約を勝ち取る。
    • だが、2017年のワールドシリーズで対戦相手のダルビッシュ有(当時ドジャース所属)に対して人種差別のジェスチャーを行い、問題になってしまった。
      • 結局、翌年のシーズン数試合を出場停止とする処分が下る。
    • その後2021年にはア・リーグ首位打者のタイトルに輝いている。

マイク・グリーンウェル[編集 | ソースを編集]

  1. 当時不振にあえぐ阪神タイガースが状況打破のために電鉄本社の金庫から取り出したと言われている3億円で契約したレッドソックスの超大物メジャーリーガー。
    • 当初はこの年西武からFA宣言した清原選手を取るための資金だったとか。
  2. 契約後は破格の待遇で迎えた。例えば1部屋150万円の高級マンションの壁を取り払って2部屋分に拡張したり(300万円+工事費)、甲子園の電光掲示板をグリーンウェルと表示できるよう改良した。
  3. 1997年2月から始まったキャンプには同行したもののわずか10日で牧場と遊園地の経営のために離脱してしまう。さらにキャンプ中に痛めた腰の治療に入りオープン戦どころかシーズン開始まで戻ってこなかった。
  4. ようやく4月30日に戻り、その後5月の広島3連戦では5安打5打点の活躍を見せ、多くの阪神ファンが「バースの再来だ!」と大いに期待した。しかし・・・。
  5. その後の2試合では精彩を欠き、日本での6試合目になった巨人戦の第4打席にて自打球を足に直撃させてしまう。その後どうにか1試合出場するも自打球を受けたことで骨折が発覚。
  6. 結局日本では7試合しか出場できず引退。その際の「野球を辞めろという神のお告げ」という迷言は有名である。
    • その後年俸の4割を返上し、また、契約金の全額返還を申し出たが当時のオーナーに「正直ないい人だ」と言われ返還はなくなったと後に語っている。
  7. なお外野手を担当していたが肩が弱く当時在籍していた久慈選手からは「外野からの送球がチェンジアップだ」と言われていた。
  8. 一度中日と契約寸前までいっていたが、大リーグの事情に詳しい人から「あいつは日本に来てゴルフがしたいだけだからやめとけ」と言われ見送ったというエピソードがある。
    • 結局、グリーンウェルを断念した中日はレオ・ゴメスを獲得。ゴメスは広いナゴヤドームで30本塁打以上を2回記録しリーグ優勝にも貢献、グリーンウェルとは対照的に優良助っ人として活躍した。

クレイグ(クレイグ・ワーシントン)[編集 | ソースを編集]

  1. 1988年にメジャーデビュー。翌1989年にはオリオールズの正三塁手の座を勝ち取り、同年の新人王投票ではケン・グリフィー・ジュニアに次ぐ4位に入った。
    • その後は成績の悪化や上記のグリーンウェルの記事にもあるゴメスの入団もあり、オリオールズ退団後はメジャーの各球団を転々と渡り歩いた。
  2. 1996年のシーズン途中の6月に阪神へケヴィン・マースと共に入団。
    • 直前に解雇されたグレン・デービスとスコット・クールボーの後釜として期待され、メディアからは登録名に引っ掛けて「打ってクレイグ、頼んマース」とも呼ばれた。
  3. 入団後は3番・三塁として7月まではまずまずの成績を残したが、8月になると右ふくらはぎの肉離れを起こしてしまい二軍落ち。
    • シーズン最終戦の中日戦でようやく復帰したが、打率.267・3本塁打・12打点と平凡な成績に終わり同年限りで解雇・退団となった。

マーク・クルーン[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年に横浜に入団、いきなり阪神戦で当時NPB最速の球速161km/hを記録し、話題となる。
    • 2008年に巨人に移籍後は更に162km/hと自己記録を更新している。
  2. 主にストッパーとして活躍していたが、安定感があったとは言い難く何度もセーブ失敗している。
    • 2008年4月の阪神戦(甲子園)では押し出しでサヨナラ負け。微妙な判定だったため激昂しながら抗議した結果、試合終了後にも関わらず退場処分となった。
    • 2010年7月の横浜戦では3点リードの場面で登板も、打ち込まれた挙句ブレント・ハーパーに逆転サヨナラ満塁ホームランを浴び、まさかの敗戦投手となっている。
  3. マクドナルドのハンバーガーが大好物で、マクドナルドのハンバーガーを食べないと力が出ないと豪語する程の偏食家。故にマクドナルド絡みのざんねんなエピソードもある。
    • 札幌ドーム遠征では「なんで札幌ドームにはマクドナルドが無いんだ」とチームスタッフに大激怒した事がある。
    • 甲子園遠征では甲子園駅前のマクドナルドに買いに行った結果、甲子園だけあって阪神ファンに取り囲まれ、野次られるなんて事もあった。

フェリペ・クレスポ[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人が2002年にダンカン以来の自前外国人として獲得。
  2. 開幕直後の3試合だけ輝いたがあとはさっぱり。二軍でもさっぱりだった。
    • 挙句の果てに巨人の優勝記念特番ではなわに「そしてクレスポの二軍落ちの早さ」と歌われてしまった。

ロベルト・クレメンテ[編集 | ソースを編集]

  1. パイレーツで長く活躍し3000本安打を記録した名選手だが1972年の大晦日に航空事故で命を落とした。
    • 故郷ニカラグアで大地震が発生したため救援物資を届けようとし自らも救援機で向かう途中の悲劇だった。
      • 安いレシプロ機(DC-7)に目一杯物資を詰め込んだのも災いしたのだろうか…。
      • もちろん救援物資がニカラグアの被災者に届くこともなかった。

ウォーレン・クロマティ[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人軍の80年代を支えた最強の助っ人にして人気者。
  2. ポテンヒットや内野安打を放った際、自分の頭を人差し指でツンツンと指すジェスチャーをして、相手の怒りを買う。
    • 逆にそのジェスチャーを横浜大洋の遠藤一彦・若菜嘉晴バッテリーはクロマティを三振に打ち取った際にやっていた。中日の鹿島忠もクロマティにビーンボールを投げて退場になった際そのジェスチャーでクロマティを挑発。
  3. 巨人退団直後に「さらばサムライ野球」という本を出版したが、巨人の裏側を赤裸々に書いたいわゆる「暴露本」だった。
  4. 引退後、アメリカの独立リーグの球団の監督になるも、度重なる退場でたった一年でクビ。
  5. 映画『魁!!クロマティ高校』の公開を知ることとなり、パブリシティ権の侵害を主張して提訴。公開中止を求めたがクロマティ本人とは無関係である旨の字幕を表示するという条件で仮処分申請を取り下げた。
    • それでも名前の使用許可を出していないとしてランディ・バースやオレステス・デストラーデに声をかけて再度提訴しようとしたが、バースからは「子供じゃないんだからw」と一笑に付され、デストラーデからは「日本にまだ俺達を覚えてくれているファンがいてくれるだけいいじゃないか」と相手にしてもらえなかった。
    • アメリカ本国で健全な青少年育成のために活動しているのに不良高校の名前なのはおかしいということらしい。
  6. 巨人在籍中にロックバンド「RUSH」のゲディー・リーらと共に「CLIMB」というバンドを結成してドラムを担当していたが、このバンド活動のおかげで危うく巨人を解雇されかけた。

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高佑錫[編集 | ソースを編集]

  1. 2020年東京オリンピックの野球韓国代表として選ばれる、
  2. 試合の際にファーストゴロ処理の際、一塁ベースカバー時にベースから足が離れるというミスを犯した後、敬遠と四球で満塁にして決勝打を打たれ敗戦投手となる。
  3. その日の韓国語版ウィキペディアの彼の記事が「武漢出身」「日本帝国籍」など荒らされてしまった。

スティーブ・コックス[編集 | ソースを編集]

  1. 2002年のオフ、この年貧打に悩まされて最下位に終わった横浜ベイスターズの山下大輔新監督は、左の強打者の獲得を希望。
    • 当初はヤクルトを退団したペタジーニの獲得に動いていたが失敗したため、代わりにこのコックスを獲得した。
      • 年俸は約3億円の3年契約(但し3年目は横浜側が選択権を持つオプション契約)だったが…。
  2. キャンプの中盤で故障離脱。5月中旬に漸く一軍に昇格したがすぐに故障が再発。
  3. その間に年俸5000万円で入団したタイロン・ウッズの活躍もあり、「中途半端な状態で置くと現場が起用法に困る」と判断され、シーズン終了後に解雇。
  4. 横浜は全く戦力にならなかったコックスに対し、2年目の年俸・オプション破棄の違約金も合わせて、総額で7億円以上を支払う羽目になってしまった。
    • 当時横浜の球団社長だった峰岸進はコックスの退団時に「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。
    • この7億円の損失は後に佐々木主浩の横浜復帰も相まって、タイロン・ウッズの放出→中日移籍を許す元凶となってしまった。

オスカー・コラス[編集 | ソースを編集]

  1. 2015年に日本で行われたU-18のW杯でキューバ代表として投手ながら4番で出場、19打席7安打6打点と記録を残した。
  2. その実績を引っさげ2017年にモイネロとともにソフトバンクに入団。投手登録ながらやはり野手としても実績を残し、二刀流として話題になった。
  3. 2019年にはとうとう支配下登録され、一軍デビューも果たす。
    • そのデビュー戦では初打席で西武・十亀から初球をホームランという衝撃のデビューを果たした。
  4. しかし活躍が期待されていた2020年、突如失踪。結局MLB移籍を目論んだ亡命に向かっていたのであった。
    • 亡命目的で所属選手が無断で失踪した事例はNPBでは初だった(2016年に巨人で起きた2名の亡命はいずれも退団後)。
    • 結局制限選手となるも、本人は契約無効を訴えてた事もありその年のオフに自由契約となってしまった。
    • 結局こうなったのもグラシアルやモイネロなどを獲得する際にじっくり行っていた内面調査を、コラスの場合はトライアウトでの獲得ということもあって不十分だった事が挙げられている。
    • その翌年には同じくソフトバンクに入団しキューバ代表に帯同していたアンディ・ロドリゲスが日本への帰国を拒否し、やはり亡命に向かっていたことが発覚。2年続けてソフトバンクで亡命のための失踪事案が起きてしまった。

ジョシュ・コラレス[編集 | ソースを編集]

  1. 2017年途中に楽天に入団。大リーグ経験が無く、日本の社会人や独立リーグからプロ入りを掴み取った苦労人。
  2. 8月の西武との2位攻防戦第2戦で多くの予想を覆し先発。満を持してのデビューだったが…。
    • 結果は3回5失点と散々に打ち込まれてしまった。また後続の中継ぎも尽く打ち込まれ、結果4人合わせて17失点と大炎上となってしまった。
      • その後4人のうち森雄大(4人目、彼は6失点)はその試合の先発とも予想されていた。
    • これだけならよくある大敗だが、その後楽天はこの試合を境に大失速。夏場まではソフトバンクと首位争いを繰り広げていたが一気に3位まで転落し、「コラレスショック」と呼ばれてしまった。
  3. その後何故か彼は残留するも、翌年は1軍登板0で戦力外となった。

ルイス・ゴンザレス(1983年生まれ)[編集 | ソースを編集]

  1. ドジャースの3Aや独立リーグでのプレーを経て、2011年5月に横浜へ入団。
  2. 同年6月28日の中日戦で初登板。5回4失点という不安定な内容ながらも打線の援護があり来日初勝利を挙げた。
  3. しかし7月3日の阪神戦では2回6失点でKOされ二軍落ち。その後二軍でも目立った成績を残せないままシーズン終了後に解雇となった。
  4. 横浜退団後は四国ILの高知に所属していたが1試合に投げただけだった。

ブルックス・コンラッド[編集 | ソースを編集]

  1. 2012年、退団したブラゼルの後枠として当時の中村GMが推薦し、入団した。
    • その際、中村GMがビデオを2分間だけ見て即決したという噂がある。後に海外スカウトに無断で獲得に走っていたという事実が発覚した。
  2. オープン戦では二本の本塁打を放つなど活躍し、どこでも守れるユーティリティープレイヤーであることからファンからは「バースの再来」として大いに期待された。
  3. 開幕3連戦(対ヤクルト)では4安打を放つなど好調な滑り出しを見せた。しかし、以降は58打席連続無打点と低迷。守備面でもエラーを多発するなど散々な成績で4月20日に登録抹消。
  4. その後交流戦のときに一軍に再登録されるも7打数5三振という惨憺たる結果になり、チームの補強も相まって再び登録抹消。その後は一軍に復帰することなく9月24日に帰国、退団した。
  5. 結果本塁打どころか打点も0という阪神助っ人外人史上最大級のハズレであった。あまりのひどさに、次の助っ人は1打点でも上げれば当たりと言われる羽目に。
    • また、併殺打の多さからコンバットのCMフレーズ「一度で二度効くコンバット」に準え「一打で二度死ぬコンラッド」と揶揄された。
    • その後任がマウロ・ゴメスと言う大当たりだったのだが。
  6. このような有様から、「クララのバカ! コンラッド!」という謎のコピペまで生まれた。(後述するミセリが入っていることもある)

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球事典
チーム セ・リーグ/パ・リーグ
選手 日本人 あ~お//き~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ
外国人 あ~お/か~こ/さ~の/は~ほ/ま~わ
シーズン展開 ~1970年代/1980~90年代/2000年代/2010年代/2020年代
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