ざんねんな野球選手事典/外国人/ま~わ行
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- 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
- 登録名(基本的にはファミリーネーム)の五十音順で。
- 金村義明や張本勲など、日本国籍や日本名を持つ在日外国人選手はざんねんな野球選手事典/日本人へ。
ま行[編集 | ソースを編集]
ボブ・マクドナルド[編集 | ソースを編集]
- 1997年のシーズン途中に阪神が獲得した投手。
- 中継ぎ左腕として期待されていたが、135キロ未満の球速でノーコン、更に変化球もショボいという散々なもの。
- 当然役割なぞ果たせるわけもなく、防御率7点台で二軍でも活躍できずこの年の9月に解雇された。
- 左のワンポイントとして松井秀喜を三振に抑えたことがあったが、降板させずに続投させた結果次の清原和博にホームランを打たれたことも。
- その名前と格安の年俸のお陰で「バリュー価格」と揶揄されていた。
ビル・マドロック[編集 | ソースを編集]
- MLBで首位打者を4回獲得した名打者。1988年にロッテに入団したが…。
- 入団時に37歳だったこともあり、打率.263・本塁打19・打点61という低調な成績に。
- 川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」という落書きがされていた。
- しかも既に解雇が決まっていたにも関わらずあの「10・19」の試合に出場し先制アーチを放つ、という…
- 入団時に37歳だったこともあり、打率.263・本塁打19・打点61という低調な成績に。
- 愛甲猛によると「あいつはテレビゲームばかりやっていたよ。」とのこと。
- 引退後は「ホーナーは地球の裏側にもう一つの違う野球があったというが、日本の野球だって十分立派にやっている。」と、自らの不甲斐なさを認めた上で日本野球を評した。
- 応援歌が「サザエさん」だったのも印象的。
マニー[編集 | ソースを編集]
- 来日前年まで兵役についていたためブランクがあり、1勝も挙げられずに退団。
- 成績もだが、名前も残念。「マニー」は登録名であり、本名は「Frank Edward Mankovitch」。本人に落ち度はないとはいえ、このファミリーネームをカタカナにすると、日本語ではアウトである。
ドン・マネー[編集 | ソースを編集]
- 1983年に引退を決意していたが、近鉄たっての頼みで1984年入団。
- しかし開幕からわずか1か月後に退団。当時は「ゴキブリが出た」という所ばかりがピックアップされ非難を浴びていたのだが…。
- 実際には近鉄の詐欺同然な契約内容のせい。以下その実態。
- 近鉄側はマネーがリクエストした「緑で囲まれた落ち着けるマンション」のパンフレットを事前に用意し、マネー本人もそれを見て納得したのだが、実際に用意されたのはアメリカ人はおろか英語が話せる人間も殆どおらず、タクシー使っても球場まで1時間以上かかる程の劣悪な住宅環境であった。(一説には前年助っ人のテリー・リーが散らかしに散らかした住居をそのままあてがったそうな…。)
- 更に当時近鉄の本拠地であった藤井寺球場もシャワールームやロッカールームがボロボロで、ゴキブリも大量に出ていた程の汚さ。(当時チームメイトであった梨田昌孝は「和式便所がダメだったというのもあるだろう」と後に自著で述べている。)
- 藤井寺球場のみならず、実質的本拠地だった日生球場のボロさも相当なものだったため、それがより拍車をかけたのは言うまでもない。
- 実際には近鉄の詐欺同然な契約内容のせい。以下その実態。
- これらのせいで妻子もホームシックになってしまったにも関わらず、契約金全額返金を申し出たばかりか「球団は悪くない。環境に慣れなかった自分が悪い」と殊勝な対応をした。
- この一件はマネーを慕って入団した外国人選手リチャード・デュラン(かなり活躍していた)も不快感を覚えて退団という事態に陥るわ、最初はマネーを我儘だと非難した近鉄ファンのみならず日本のプロ野球ファンすら近鉄球団を非難するレベルだった。
- しかしマネーとデュランの一件はその穴を埋める優良助っ人のリチャード・デービスが入団して活躍したので、近鉄の待遇改善に至ったかは不明である(最も、デービスはデービスで…)。
ホセ・マラベ[編集 | ソースを編集]
- 1998年に横浜ベイスターズへ入団。
- ライトのポジションを中根仁や佐伯貴弘と争い、キャンプ・オープン戦でもそれなりに結果を出し、開幕スタメンを勝ち取った。
- 阪神との開幕戦で5番・ライトで出場すると、いきなり3安打の猛打賞・ホームラン1本。翌日も3安打の猛打賞と首脳陣を驚かせたが…。
- 投手にクセを覚えられたのか、はたまた開幕戦の猛打は偶然だったのか、その後はパッタリと当たりが止まってしまった。
- 「振った所にボールが来ない」という意味不明な発言も残し、この年限りで戦力外通告を受けた。
- 横浜退団後の2000年、韓国のヘテ・タイガースに入団したが…。
- 入国の際に「身辺保護」を理由に拳銃を所持していたため、金浦空港で逮捕されてしまった。
- 一応キャンプには参加したが、怪我もあって1試合も出場することなく、レギュラーシーズンの開幕前に解雇された。
- 彼のせいではないが、この頃から横浜の外国人スカウトの目利きが怪しくなり、これが後に最下位のチームで活躍できなかった「ダメ外人」を横浜が連発するようになってしまう。
ロジャー・マリス[編集 | ソースを編集]
- ベーブ・ルースの年間最多本塁打記録を破った選手として有名だがその際には全米から猛烈な嫌がらせを受けていた。
- フェンスぎりぎりの低いホームランが多くまた打率もルースより明らかに悪かったため。
- ヤンキースで二人合わせて「MM砲」と呼ばれたもう一人の強打者ミッキー・マントルよりも愛想が悪かったことも災いした。
- 大記録を達成しヤンキースで背番号が永久欠番になるほどの選手だったがとうとう野球殿堂入りは果たせなかった。
ジェフ・マント[編集 | ソースを編集]
- 1996年に読売ジャイアンツへ入団。
- 右の長距離砲として期待され、武上打撃コーチは「(本塁打を)70発は打つだろう」と評価したが、オープン戦で放った安打は僅か1安打…。
- ペナントレースが開幕してもヒット3本・打率1割台と成績は低迷。
- 二軍への降格も検討されたが、長嶋茂雄監督が「彼はテンプル大学出身だから、大丈夫でしょう」と擁護し起用を続ける。
- しかし成績は向上せず、当時の一軍の外国人選手枠との兼ね合いもあり4月23日に解雇。
- 帰国の際にナベツネが「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と発言したのは有名。
ダン・ミセリ[編集 | ソースを編集]
- 1995年にピッツバーグ・パイレーツで21セーブを記録、1998年にはサンディエゴ・パドレスでは67試合に登板・10勝5敗とパドレスのワールドシリーズ進出に貢献。
- 2004年もリリーフ陣の一角として74試合に登板し、その年のオフに読売ジャイアンツに入団したが…。
- ↓以下、全4試合の投球内容。
- 4月1日の広島との開幕戦、1点リードの9回表に登板。
- 先頭のラロッカに同点ホームランを、続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田の代走・福地寿樹には初球から盗塁をされ、緒方孝市に勝ち越しホームランを打たれ降板・敗戦投手に。
- 続く4月5日の横浜戦、同点の12回裏に登板。
- 先頭の金城龍彦に二塁打を打たれ、佐伯貴弘敬遠後の代打・ウィットはなんとか三振に仕留めるが、続く多村仁にフェンス直撃のサヨナラタイムリーを打たれ、敗戦投手に。
- 因みにこの時のウィットとの対戦は、とてもプロ同士の対戦とは思えない低レベルな内容だった。
- 4月7日の横浜戦、5点ビハインドの6回裏に登板。
- 先頭の種田仁にフォアボールを許し、更に決して足の速くない種田に盗塁され、次の金城はファーストゴロに打ち取ったが、佐伯にはタイムリーヒット、続く多村には2ランホームランを打たれ降板。
- 4月10日の中日戦、10点ビハインドの9回表に敗戦処理で登板。
- ここでは2安打を打たれるが、なんとか無失点で切り抜ける。
- この敗戦処理での登板にミセリは不満を顕わにし、更に右肩痛を訴え始める。
- 7日後の4月17日にミセリ本人・山本ヘッドコーチ・阿波野投手コーチとの3人で40分話し合ったが結局決裂。2日後の4月19日に球団史上最速で解雇された。
- 最終成績は4試合に登板して0勝2敗0セーブ、防御率は23.63という散々な成績に…。
- 解雇当日、ミセリは東京ドームに姿を見せ、荷物を纏めた後に井原国際部長と別れの握手を交わし、妻子と共に浅草観光に出かけた。
- 浅草での報道陣のインタビューに対しては「俺はミセリじゃないから質問は受け付けない」と返り討ちにしたが、雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。
- そのことはチームメイトから苦言を呈され、特に「他人の悪口を言うことを聞いたことが無い」ほどの人格者だったブライアン・シコースキーからも「クビになって観光なんてとんでもない。外国人の恥だ。」と断じられた。
- また、やくみつるには「日本への観光旅行のオプショナルツアーに巨人への体験入団があった」と皮肉られた。
- そのことはチームメイトから苦言を呈され、特に「他人の悪口を言うことを聞いたことが無い」ほどの人格者だったブライアン・シコースキーからも「クビになって観光なんてとんでもない。外国人の恥だ。」と断じられた。
- 浅草での報道陣のインタビューに対しては「俺はミセリじゃないから質問は受け付けない」と返り討ちにしたが、雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。
ケビン・ミッチェル[編集 | ソースを編集]
- トラックスラーに代わってダイエーに加入したメジャー選手。メジャー在籍時は220本塁打を記録しており、低迷を続けていたダイエーの救世主になるかと期待されていた。
- 実際開幕戦では満塁ホームランを放ち鮮烈なデビューを果たすなど、能力の高さはあった。
- 日本での成績は37試合で.300、8本塁打、28打点。当時のプロ野球は130試合制なので×3分の10するとおよそ30本塁打、93打点と言う事になり、これは1995年のパ・リーグ本塁打王・打点王二冠の数字である(小久保→28本、イチロー・初芝・田中幸雄→80打点)。
- しかし、とにかくトラブルを起こす困ったちゃんだった。開幕戦後に彼は無断帰国。「サンディエゴで経営しているアパートと美容院が心配になった」という理由だった。
- 帰国後も「チームがこんな状態になっていたなんて知らなかった」と発言する始末。
- ホークスファンである博多華丸によると、ごく普通のマンションに住んでいたにも関わらずベランダでバーベキューをして住人が消防へ通報。注意されたものの「日本では週末にバーベキューも出来ないのか」と逆ギレしてしまい、これが帰国の原因になったとか…。
- それらを含めて素行の悪さで球団と揉め事ばかり起こした結果8月に解雇されることに。しかし解雇後も年俸の全額支払いを求めて裁判を起こし、ペピトーン同様日本を貶す発言を残すなど最後の最後まで困ったちゃんぶりをみせた。
- 月刊ホークスに掲載されていた「FDH助っ人列伝」というコーナーにはダイエーの助っ人を鳴り物入り度・貢献度・その選手独自の評価があり、最後は必ず5点満点になっていた。
- ミッチェルは鳴り物入り度が5、貢献度は3、そして最後の独自評価は「困ったちゃん度」であり、その点数は5点満点の枠を大きくはみ出す7点になっていた。
- 実はメジャー時代から素行の悪さをみせており、「カップケーキで口を負傷」「まぶたが攣った」「くしゃみで肋骨にひびが入った」「冷凍チョコレートドーナツで歯根を痛める」などの意味不明な理由で試合をサボったり、たびたび監督と乱闘になるなど問題行動の多い人物だった。
- 元阪神のランディ・バース氏は「実力があるのに、どこも取らなかったのは、本人に無視できない問題があるから。彼がトラブルメーカーだったのはわかりきっていたはずだ」とのちに語っている。
- 現役引退後にも1999年と2010年に二度暴行事件を起こして逮捕されるなど引退後も問題行為を起こしていた。
- 従兄弟のトニー・ミッチェルもダイエーに入団したが、こっちもこっちで乱闘の常連だった上に打率2割未満本塁打10本と成績も伴わず、1年で解雇された。
トニー・ミッチェル[編集 | ソースを編集]
- 上記のケビン・ミッチェルの従兄弟。素行こそケビンより良かったが気は荒く、2001年4月26日の日本ハム戦では高橋憲幸の死球に激怒。
- 死球を与えた高橋を追いかけ回し、わざわざ止めに入った日本ハムの選手にも暴行を働く大乱闘を巻き起こし、退場処分となってしまった。
- パワーこそあったが打率は残せず、シーズン後半は二軍生活が中心となり、シーズン終了後に解雇・退団となった。
- 因みに二軍でも審判への判定の不満に端を発した乱闘騒ぎを起こしている。
カート・ミラー[編集 | ソースを編集]
- 1999年6月末に阪神へ入団。最速153km/hを記録したストレートを武器に速球派の先発として期待された。
- しかしこれといった決め球が無かったことや、立ち上がりの悪さなどもあり1年目は2勝4敗という平凡な成績。
- 防御率も5.98と決して良くなく来季の契約は流動的だったが、27歳という年齢や年俸の安さが考慮され残留。
- しかしこれといった決め球が無かったことや、立ち上がりの悪さなどもあり1年目は2勝4敗という平凡な成績。
- 翌2000年はチーム事情から抑えに配置転換されたが、リリーフ失敗の連発で5月下旬には二軍落ち。
- 結局シーズン終盤の9月に帰国し、そのまま解雇・退団となってしまった。
ケビン・ミラー[編集 | ソースを編集]
- 選手としてはMLBで主軸として活躍するなど、決してざんねんではない。
- 2003年、前年限りで引退したレオ・ゴメスの後釜として中日に入団…するはずだった。
- ところがマーリンズがウエーバー公示した際、「NPB球団への譲渡を目的としたウエーバー公示は獲得しない」という紳士協定を破る形でレッドソックスが獲得を表明。
- 当初は「中日がミラーに支払った契約金は全てレッドソックスが肩代わりする」「レッドソックスから中日に代替選手を用意する」というトレード案を提案したが、ミラー本人と中日は拒否した。
- その後、メジャー志向やイラク戦争もあってミラーは来日する気を完全に失い、あろうことか選手会も東京ドームで予定されていた開幕戦(マリナーズvsアスレチックス)をボイコットすると宣言したため中日は獲得を断念しレッドソックスに移籍。契約金は中日に返還しマーリンズが中日へ金銭補償を行う形となった。
- なお、結局東京ドームでのMLB開幕戦はイラク情勢の悪化を受けて中止となっている。
- これを受けて中日は代わりにアレックス・オチョアを獲得した。
- ちなみにレッドソックス側が用意した代替選手は、翌年ロッテに入団し6年間に渡り活躍することになるベニー・アグバヤニだったらしい。
- その後、メジャー志向やイラク戦争もあってミラーは来日する気を完全に失い、あろうことか選手会も東京ドームで予定されていた開幕戦(マリナーズvsアスレチックス)をボイコットすると宣言したため中日は獲得を断念しレッドソックスに移籍。契約金は中日に返還しマーリンズが中日へ金銭補償を行う形となった。
- 当時の山田久志監督はこの顛末に激怒し、後年に名古屋ローカルのドラゴンズ応援番組に出演した際もミラーの名前を出さずにこの件に触れたぐらい。
- ちなみにこの件に関して本人は「メッツと契約合意しながら翻意した中村紀洋(当時近鉄)と同じこと」と語っている。
- 中日との騒動で選手会を味方につけているが、実は1994年〜1995年のMLB選手会による大規模ストライキの際にオーナーの命令で代替選手としてキャンプに参加していたためスト破りと非難され数年に渡って選手会に加入を拒否されるという報復措置も受けている。
ボブ・ミラッキ[編集 | ソースを編集]
- メジャー通算39勝・2度の二桁勝利という実績を引っ提げ1997年に近鉄へ入団。
- 前年11勝を挙げたアキーノに代わる先発として期待されたが、明らかなオーバーウェイトが響きオープン戦では結果を残せず開幕は二軍スタート。
- ようやく6月に一軍昇格を果たしたが、27日の西武戦では初回に10失点を喫しKO。
- その後も数試合に先発したが結果は残せず、再び二軍に降格しシーズン終了後に自由契約となってしまった。
ダレル・メイ[編集 | ソースを編集]
- 1998年に阪神に入団した選手。
- 先発ローテーションに定着し安定したピッチングを見せたが、打線の援護が乏しく、2年間で僅か10勝に終わる。
- 気性も荒く、1999年5月29日の巨人戦(東京ドーム)で松井秀喜にデッドボールを与え、普段死球を受けても感情を露わにしない松井を激怒させた。
- 後に松井とは巨人でチームメイトとなり和解、さらにヤンキースでもチームメイトとなった。
- 1999年7月18日の巨人戦(甲子園)では、判定に抗議して塁審の胸を突き、暴力行為で退場となってしまった。
- この暴力行為で2週間の謹慎処分が下されたが、その謹慎期間中に恋人と歯の治療を兼ねたグアム旅行に行っていたことが発覚。当時の阪神監督・野村克也と対立してしまった。
- 帰国後、メイは報道陣に対して「野村監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任にする」と野村を痛烈に批判したコメントを配布。
- 結局球団から罰金1200万円と無期限謹慎処分を言い渡され、失意のまま帰国。
- ところが、この年3年連続で優勝を逃し、左ピッチャーの補強を進めていた巨人からオファーを受け、12月17日に巨人へ移籍。
- メイは入団に際して、「野村監督との事はもう終わった事。あとはマウンドで答えを出すだけ」とコメントしたが…。
- 翌2000年6月7日の阪神戦(東京ドーム)で、元チームメイトの和田豊が3回続けて打席を外した際、和田に危険球を投げて問題になった。
- 退場処分にはならなかったが、10日間の出場停止と罰金が科せられた。
- その日のインタビューでメイは、インタビュアーの「あの危険球は元同僚の和田を狙ったものか」という質問に対し「To Him(彼を狙った)」と答えた。
- 退場処分にはならなかったが、10日間の出場停止と罰金が科せられた。
ケビン・メンチ[編集 | ソースを編集]
- 2009年に阪神に入団した選手。俊足・強肩・強打の揃った外野手であり、レンジャーズ時代は7試合連続で本塁打を放つなど実績を見せ、また奉仕活動に参加するなど人格者であった。
- キャンプに合流してからも評判は上々、サンケイスポーツは毎週のように活躍を取り上げたことで、ファンからは「バースの再来」と期待させた。
- しかしオープン戦に入った途端に化けの皮がはがれた。元々故障があって劣化していたのもあり、140キロの球に手が出ず、変化球にも全く対応できず。
- シーズンに入ってもその弱点は解消されず打率.148・0本塁打・2打点という散々な成績だった。
- お陰でファンからは「レオナルド・ダ・メンチ」やミドルネームにフォードが付いていたことから「廃車」と呼ばれる始末。
- シーズンに入ってもその弱点は解消されず打率.148・0本塁打・2打点という散々な成績だった。
- 結局二軍に落ちてしまい、結局途中加入したブラゼルが活躍したことも手伝い1年でチームを去ることに。
- しかし人格者だったのは確かであり、二軍でも腐らずに練習し試合でも活躍していた。人間性では阪神の歴代助っ人のなかではトップクラスと言われている。
- なお、キャンプ時の活躍ぶりは「メンチコピペ」として今も某板を中心に改変ネタが使われている。
やらわ行[編集 | ソースを編集]
陽岱鋼[編集 | ソースを編集]
- 2006年にドラフト指名を受けて入団したためNPBの登録上は日本人扱いとなっていますが、国籍は台湾のためこちらに記載させていただきます。
- 2006年に高校生ドラフトで競合の末に日本ハムに入団。しかし場内では一旦「指名権は(競合した)ソフトバンク」とアナウンスされた上に、本人も地元(野球留学のため福岡第一高校に進学)かつ兄・陽耀勲の入団がほぼ内定していたソフトバンクへの入団を希望していたこともあって入団は危ぶまれるなど混乱のスタートに。
- 当初は「陽仲寿(ヨウ・チョンソ)」という名前で内野手だったがこの頃は4年間で伸び悩んだ。
- 2009年に外野手転向、そして翌年には現在の「陽岱鋼」に改名した途端頭角を現し大ブレイク。2012年のパ・リーグ優勝に貢献した。
- ちなみによくある「陽仲寿→陽岱鋼」の登録名変更ではなく、戸籍上の名前も陽岱鋼に改名している(ちなみに台湾では戸籍上の改名はよくある事らしい)。
- また2012年には初めて一軍でソフトバンクにいる兄・陽耀勲との対戦が実現した。
- 2016年のパ・リーグ逆転優勝にも貢献したが、その頃から西川遥輝などの台頭で出場機会が激減。オフにはGMから「卒業」を宣告され、追われる形でFA宣言し巨人に移籍した。
- 札幌市で行われた優勝パレードでは涙を流しながら背番号24時代のユニフォームにサインを書いて沿道のファンにプレゼントした。
- しかし巨人移籍後は下半身のコンディション不良もあって出場機会には恵まれず。また丸佳浩のFA加入も拍車をかけた。
- 移籍1年目である2017年の巨人は他に山口俊・森福允彦も一緒にFAで加入したが、全員思うような活躍をすることができず(山口俊は翌年以降活躍するが)この年のBクラスで終わった戦犯扱いされた。
- 結局巨人での5年間でレギュラーを取ることはできずに2021年オフで自由契約を申し出て退団。その後は渡米し独立リーグのチームに移籍した。
- 偶然にもこの年には故郷・台湾でプレーしていた兄の陽耀勲も所属していた楽天モンキーズを退団している(こちらは台湾リーグの他球団に移籍)。
ブライアン・ラービー[編集 | ソースを編集]
- 1998年に西武へ入団。3A時代に首位打者のタイトルを獲得した経験を持っていたこともあり、当初は二塁のレギュラーとして期待されていた。
- しかし日本では高木浩之との二塁争いに敗れ、目立った活躍を残せず同年限りで西武を退団。
クライド・ライト[編集 | ソースを編集]
- 1976年に巨人に入団した投手。メジャー時代はエンゼルス唯一の左腕で20勝、メジャー通算100勝の実績持ちであり、在籍時には22勝をあげており普段は好人物であった。
- しかし気性が激しく一旦キレると手が付けられないレベルで暴れるというざんねんな欠点があった。
- 例えば「通訳の首を絞める」「カメラマンのカメラを取り上げて叩き潰す」「自分のユニフォームを引きちぎる」などあまりの大暴れから「クレイジー・ライト」という渾名をつけられてしまう。
- しかし気性が激しく一旦キレると手が付けられないレベルで暴れるというざんねんな欠点があった。
- 最後は1978年のヤクルト戦で乱闘を起こし退場、そのまま職場放棄して帰宅するという行為をしてしまいそれが原因で退団することに・・・。
- 実はアルコール依存症であり、その暴れっぶりの原因になっていたようだ。その後は依存症を克服し、実業家としての人生を歩み成功している。
ジョニー・ラフィン[編集 | ソースを編集]
- 上記のミラッキの穴埋めとして1997年5月に近鉄へ入団。
- 来日後、二軍での調整登板を飛ばして13日のダイエー戦で初先発も、5回3失点7四球に終わり二軍へ降格。
- 二軍でも1試合のみの登板に終わり、8月末に右脇腹痛治療のため帰国し、そのまま解雇・退団となってしまった。
ダニエル・リオス[編集 | ソースを編集]
- マイアミ大学から1993年にヤンキースへ入団。
- 4年後の1997年にスペイン生まれとしては3人目となるメジャーリーグ出場を果たしたが、2試合に登板しただけでオフに解雇されロイヤルズへ移籍。
- しかしロイヤルズ時代も5試合に登板しただけで1999年オフに解雇。
- 4年後の1997年にスペイン生まれとしては3人目となるメジャーリーグ出場を果たしたが、2試合に登板しただけでオフに解雇されロイヤルズへ移籍。
- その後はメキシカンリーグやアメリカ独立リーグでのプレーを経て、2002年に韓国KBOリーグの起亜タイガースに入団。
- 当初は抑えとして起用されていたが、シーズン中盤以降は先発に配置転換され14勝13セーブの好成績を残した。
- 2003年も10勝、2004年も17勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得したが、2005年は前半戦で6勝10敗という成績だったこともあり、7月に斗山ベアーズにトレードで移籍。
- 斗山移籍後は9勝2敗の好成績を残し最多奪三振のタイトルを獲得。
- 2006年は12勝16敗とやや調子を落としたが、2007年はKBOでは17年ぶりの22勝を挙げ、主要投手タイトルを総なめ。
- しかしこの年のオフに斗山との残留交渉が決裂し、NPBのヤクルトとオリックスの争奪戦になったが結局ヤクルトに入団した。
- ヤクルト時代は巨人に移籍したグライシンガーに代わる先発投手として期待されたが、不安定なピッチングが多く交流戦の中盤に2軍落ち。
- 更に禁止薬物の使用が発覚し6月28日にNPBから1年間の出場停止処分を受け、7月14日に自由契約となってしまった。
アダム・リグス[編集 | ソースを編集]
- 2005年にヤクルトへ入団。オープン戦は変化球攻めに遭い開幕は二軍スタートとなったが、4月中旬に一軍へ合流。
- 7月以降に鈴木健の離脱で出場機会を得ると8打席連続安打を記録するなど活躍を見せ、規定打席不足ながら打率.306・14本塁打で翌年の残留を勝ち取った。
- 翌2006年は「バントをしない2番打者」として起用され、打率.294・39本塁打(チーム最多)・94打点・11盗塁と大活躍。
- オフの契約更改では2008年までの2年契約を結んだ。
- 一方で39本塁打のうち24本塁打は月間MVPを獲得した5月と8月に集中して記録するなど、好不調の波が激しいという課題を残した。
- 岩村明憲がメジャーへ移籍した2007年は主力打者として期待されたが、ヘルニアや腰痛の影響で僅か37試合の出場に終わってしまった。
- 翌2008年は開幕4番でスタートしたが打撃不振で二軍へ降格。
- その直後に古傷の右太腿の痛みを訴えたことに高田繁監督は「(二軍に)落ちてすぐ痛いとか言っているし、やる気が感じられない」と激怒。
- 結局7月11日にウェイバー公示、同月17日に自由契約となり、シーズン途中の退団となってしまった。
- その直後に古傷の右太腿の痛みを訴えたことに高田繁監督は「(二軍に)落ちてすぐ痛いとか言っているし、やる気が感じられない」と激怒。
- ヤクルト退団後の2009年には阪神が不振だったメンチの代役として獲得候補リストに挙がっていた。
- しかし2007年のオフの薬物使用疑惑の影響もあり、日本球界復帰は実現しなかった。
トッド・リンデン[編集 | ソースを編集]
- 2009年のシーズン途中に楽天へ入団。途中入団ながら打率.292・12本塁打・サヨナラタイムリー2本とまずまずの成績を残した。
- しかしその一方で素行が非常に悪く、ロッテ戦では内角攻めに激怒したり相手選手のグラブに対して肘打ちを行い守備妨害を宣告されたりしていた。
- リンデンの素行問題が表面化したのはレギュラーシーズン最終盤・10月10日の日本ハム戦。
- この日スタメン落ちしたリンデンは6点ビハインドの9回表に代打として起用された際、野村監督に対して「6ランホームランを打てということか」と激高。
- 止めに入った橋上ヘッドコーチに対しても侮辱の言葉を連発したリンデンは登録抹消となり、CSの第1ステージ出場が不可能になってしまった。
- この3日後にリンデンは野村監督の元へ謝罪に訪れたが、Tシャツ・短パン・サンダルという服装と態度の悪さから更に怒らせる結果となってしまった。
- 結局1回目の謝罪から6日後の10月19日にスーツ姿で2度目の謝罪を行い、野村監督からの許しを経てCS第2ステージにはなんとか出場することができた。
- 因みに野村監督はリンデンからの謝罪を受け入れた翌々日、城島健司(当時阪神)を批判する際に「あいつは人間失格。ジャパニーズリンデンや」と発言している。
- 結局1回目の謝罪から6日後の10月19日にスーツ姿で2度目の謝罪を行い、野村監督からの許しを経てCS第2ステージにはなんとか出場することができた。
- この日スタメン落ちしたリンデンは6点ビハインドの9回表に代打として起用された際、野村監督に対して「6ランホームランを打てということか」と激高。
- 翌2010年も楽天に残留したが前年程の成績は残せず、更にオリックス戦で退場処分を受けた際に宥めようとしたブラウン監督に対して「なぜ×××の肩を持つんだ」と発言し、40日間の謹慎処分と罰金600万円が課せられてしまった。
- 結局同年限りで楽天を退団し、翌年はアメリカの独立リーグでプレー。
ルイス・デロスサントス[編集 | ソースを編集]
- MLBでは今一つの成績だったが、台湾の兄弟エレファンツ移籍後に打撃が向上し3年連続でタイトルを獲得。
- 1996年のシーズン終了後に入団テストを経て巨人へ入団。台湾での高打率から「台湾のイチロー」と期待されていた。
- 不安要素は台湾での3年間で62個の失策を記録した守備だったが、長嶋監督は「ゴールデングラブ賞を獲っていたんです。私が言うんだから間違いありません」と謎の擁護。
- なお台湾にはゴールデングラブ賞に相当する賞は存在しない。もしかしたらベストナインと勘違いしたのかもしれないが…。
- 案の定、春季キャンプでは真正面のゴロすら捕球に苦しむほどの守備難が露呈してしまう。
- チームメイトのヒルマンは「(お前が三塁だと)安心して投げることができない」とルイスの守備を批判。
- これにルイスは「お前が三振に取ればいい」と返したという話がある。
- チームメイトのヒルマンは「(お前が三塁だと)安心して投げることができない」とルイスの守備を批判。
- 1997年の開幕後しばらくは三塁で先発出場していたが、拙守・打撃不振・良くない走塁の三重苦もあり5月からは後藤孝志にスタメンを譲る試合が増えていった。
- 結局、6月5日のヤクルト戦で後藤の代打で出場したのを最後に二軍落ちとなってしまった。
- 二軍降格後、打撃面では3割を大きく超える打率を記録したが一軍再昇格は果たせず、シーズン途中に戦力外通告を受け巨人を退団。
- 因みに翌1998年は台湾の高屏雷公でプレーし、首位打者と打点王のタイトルを獲得している。
ベーブ・ルース[編集 | ソースを編集]
- もはや説明不要の伝説的な名選手だったがとにかく素行がひどかった。
- 審判や観客とトラブルを起こしヤンキースのキャプテンを辞めさせられたことがある。
- 車を運転し死亡事故寸前の事態を起こしたこともある。
- 一時期は猛烈な不摂生で上半身だけやけに肥大化していた。
- そもそも野球と出会う前はとんでもない悪ガキだった。
- 現役引退後には監督になることを熱望していたが「自分を監督できない男にチームの監督が務まるか」と言われとうとう機会が巡ってこなかった。
シクスト・レスカーノ[編集 | ソースを編集]
- メジャーリーグで1122安打・148本塁打を放った選手。
- 1987年に横浜大洋ホエールズに入団。
- 前年にそこそこ活躍していたダグ・ローマンを追い出してまで入団させたが…。
- しかし前年に夫人の病気の看病の為プレーしていなかった分のブランクの影響か、シーズン中に22打席連続無安打の不振に陥り、5月末に「140km/hの速球が怖くなった。体力の限界」と言って現役引退を表明し、退団。
- 退団に際し、他球団に所属する外国人選手から、「彼が日本でプレーできないことは最初から分かっていた」「ワールドシリーズを頭痛で欠場する奴が日本でやれるわけがない」とボコボコに言われてしまった。
タフィ・ローズ[編集 | ソースを編集]
- 引退したラルフ・ブライアントの後釜として近鉄に入団するといきなり日本野球への順応の高さを見せ、13年間もNPBで活躍した。
- 実働が1年少ないのは巨人退団からオリックス入団までの1年間(2006年)に一度引退しているため。
- 2001年には王貞治の持つ年間55本塁打を記録し、近鉄の優勝に大いに貢献した。
- しかし56本のかかった試合では当の王貞治が率いるダイエーとの試合であり、ダイエー側の王貞治への「忖度」である連続敬遠などで達成はならなかった。
- しかし王貞治本人とローズは互いに好意的であり、この試合前にローズは55本塁打を記念して王貞治からサインボールを受け取っている。
- しかし56本のかかった試合では当の王貞治が率いるダイエーとの試合であり、ダイエー側の王貞治への「忖度」である連続敬遠などで達成はならなかった。
- すぐ熱くなりやすい性格のため、よく乱闘騒ぎや審判への抗議で退場になることが多く、あの星野仙一をも超える歴代1位の退場記録(14回)を持っている程である。
- 中でも2003年の西武戦で青木勇人を突き飛ばした時は西武側から暴行での刑事告訴を検討されるほどだった。
- 審判に対しても、放送禁止用語を口走り退場になったり、中には「顔が侮辱行為」と言った理由で退場になった事もある(ただしこちらは審判側にも問題があったが)。
- 2004年に巨人に移籍すると45本塁打で「史上最強打線」の一躍を担うが、チーム方針や雰囲気には合わず幾度となく反発を繰り返していた。
- 2005年には弘田澄男コーチとの間で守備をめぐってイザコザを起こしたが、その際に「ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と発言し問題となった。
- その発言もあってか、清原和博と共にチームの雰囲気を悪くした戦犯扱いを受けてしまった。
- 近鉄が良くも悪くも豪快なチームカラーで、彼もDHで活躍することが多かったため、規律重視という巨人のチームカラーや慣れない守備には最初から合わなかったのかもしれない。
- そういう事もあって2015年にBCリーグにて現役復帰した際、マスコミから「元巨人」として紹介された事には憤慨していたという。
- 2005年には弘田澄男コーチとの間で守備をめぐってイザコザを起こしたが、その際に「ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と発言し問題となった。
ピート・ローズ[編集 | ソースを編集]
- メジャーリーグの様々な記録を作った名選手だったが、監督在任中に野球賭博に手を染めたため永久追放された。
- その後、脱税で服役もした。
- イチローが日米通算で彼の通算安打数に並んで追い越す際には、張本勲のように「日米合算の記録と一緒にされたくない」という発言をしていた。
ピート・ローズJr.[編集 | ソースを編集]
- 上記のピート・ローズの息子だが、マイナーリーグでの選手生活がほとんどだった。
- 彼もまた、ドーピング関連で厄介ごとを起こしている。
ロバート・ローズ[編集 | ソースを編集]
- 横浜ベイスターズ時代は、「マシンガン打線」の中心打者として活躍し1998年のリーグ優勝・日本一に貢献。
- 2年間のブランクの後、2002年シーズンオフに鳴り物入りで千葉ロッテマリーンズに入団。
- しかし、春期キャンプでの紅白戦でノーヒットに終わり、キャンプ途中に「野球に対する情熱がなくなった」との言葉を残して退団、そのまま引退。
- 来日からわずか28日後の退団は「史上最速退団」の日本記録となってしまう。
- しかし、春期キャンプでの紅白戦でノーヒットに終わり、キャンプ途中に「野球に対する情熱がなくなった」との言葉を残して退団、そのまま引退。
- 同じ年に入団したブラッグスの陰に隠れていたが案外気が荒く、1994年ブラッグスが与田にデッドボールをぶつけられた際にセカンドから与田を抑え込みに行くなど喧嘩慣れしていた節が見られた。
ウィリン・ロサリオ[編集 | ソースを編集]
- 2018年に年俸3億4000万円+出来高払いと、鳴り物入りで阪神タイガースに入団したのにもかかわらず、75試合で8本塁打・40打点・打率.242と成績が低迷し、シーズン終了後にウエイバー公示された。
ロバート・ウィッシュネフスキー[編集 | ソースを編集]
- 台湾・兄弟エレファンツでの活躍を評価され、抑え候補として1997年に西武へ入団。
- 入団当初は同年の干支である丑に因んだ「ウッシー」「ウッシッシ」「ウシオ」のいずれかにする案もあったそうだが、結局は名前の「ロバート」で落ち着いた。
- 4月は自責点なしの3セーブとまずまず活躍したが、5月以降は全く通用せず中継ぎへ配置転換。
- その後も目立った活躍の無いまま、シーズン終了後に退団となってしまった。
ジャッキー・ロビンソン[編集 | ソースを編集]
- 近代メジャーリーグ初のアフリカ系選手として知られるがパイオニアだけあって人種差別に苦しめられた。
- ドジャースでメジャーに昇格したときには白人の選手がロビンソンと同じグラウンドに立つことを嫌って何人か他球団に逃げている。
- 引退後は糖尿病に苦しめられたり息子を交通事故で失ったりと不運が続き53歳で世を去った。
- 背番号42が全メジャー球団で永久欠番になるほどの名選手だったのに資金難のせいで記念館がなかなか建たない。
王柏融[編集 | ソースを編集]
- 台湾・Lamigoでリーグ歴代最高となる200打点を記録するなど抜群の打撃力で「台湾の大王」と呼ばれ、それ以外にも輝かしい実績を引っ提げて日本ハムに2019年入団。
- この年にオリックスから加入した金子千尋とともに補強の目玉とされ、ロッテに移籍したブランドン・レアードの後釜として期待されるも、超がつくほどの打高投低とも呼ばれる台湾から投高打低の日本野球への適応が遅れ、4年間で思うほどの成績は残せなかった。
- 唯一2021年はそこそこの成績を残すも、それでも9本塁打と48打点に留まった(尤も、この年の日本ハムはチーム全体が打撃不振に陥っていたためこれでも好成績扱い)。
- ここまで8年間で未だ無敗だった高木京介にプロ初黒星をつけさせる決勝2ラン本塁打を打つなど、何故か交流戦の巨人相手には滅法強かった。
- 2022年は更に打撃不振に陥り、15試合出場の打率.063、0本塁打、0打点という悲惨な成績に終わり流石にこの年限りで自由契約…となったが本人も諦めきれなかったのかオフに異例の育成契約を結び再契約となった。
関連項目[編集 | ソースを編集]
ざんねんな野球事典 | ||
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チーム | セ・リーグ/パ・リーグ | |
選手 | 日本人 | あ~お/か/き~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ |
外国人 | あ~お/か~こ/さ~の/は~ほ/ま~わ | |
シーズン展開 | ~1970年代/1980~90年代/2000年代/2010年代/2020年代 | |
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