もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら/は~わ行

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当ページではケガや病気について扱います。

は行[編集 | ソースを編集]

濱中治[編集 | ソースを編集]

2003年に右肩を傷めなかったら
  1. 同年のオールスター戦のファン投票選出を辞退することはなかった。
    • 阪神は日本一になれていた。
  2. 開幕当初一塁を守っていた桧山進次郎が外野に戻ることはなかった。
    • 三塁もずっとアリアスだったかアリアスと片岡篤史の併用だった。
  3. 翌年に背番号を変更することもなかった。
  4. オリックスへの移籍もなさそう。
  5. 05年からの応援歌の歌詞に「不死鳥」というフレーズが入らなかった。
  6. 林威助や桜井広大の台頭が遅れていた。

原辰徳[編集 | ソースを編集]

1986年9月の広島戦での津田恒美投手のストレートをファウルした時の左手首の骨折がなかったら
  1. 1986年はシーズン最後まで活躍し、巨人はリーグ優勝していたかもしれない(史実は広島)。
    • その場合、徳光和夫の「巨人の優勝は日本シリーズ第1戦が始まるまで諦めない。だって広島の選手が乗った飛行機が墜落するかもしれないでしょ?」発言はなかっただろう。
  2. プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。
    • この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
      • 成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。
    • 1980年代後半のどこかの年にシーズン40本塁打を達成していた。
  3. 前世紀末まで主力として活躍していた。
  4. 「チャンスに弱い4番」と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。
    • 80年代後期に発売された野球ゲームにて原氏のパラメーターが強打者とは言い難かったような扱いをされていたような感じがするが(当時のチームメイトであったクロマティや吉村よりも低かったような)、強打者にふさわしいパラメーターになっていたかもしれない。
  5. 1989年に外野へコンバートされることはなかった。
  6. 2000本安打を達成して名球会入りしていた。
  7. 津田のボールを打ったのだけではなく疲労が蓄積して骨折したので、別の打席で結局疲労骨折していた。

東出輝裕[編集 | ソースを編集]

2013年2月24日の紅白戦で前十字靭帯を断裂しなかったら。
  1. 2000本安打達成まで現役を続けていたかもしれない。
    • そうとなれば通産本塁打数20本以下での達成になってたかもしれない。
  2. 田中広輔のブレイクが遅れていた。

彦野利勝[編集 | ソースを編集]

1991年6月18日のナゴヤ球場での横浜大洋戦で盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ち一塁ベースで右膝の靭帯が断裂がなかったら
  1. 1991年はシーズン最後まで活躍し、中日はリーグ優勝していたかもしれない。
    • 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
      • シーズン途中、オリックスから南牟礼豊蔵が移籍することはなかった。
  2. 1994年もリーグ優勝を果たしていた。
    • 本塁打も2桁を放っていた。
    • うまくいけば1996年もリーグ優勝を果たしていたかも。
  3. 晩年に背番号57に戻すことはなかった。
  4. アロンゾ・パウエルが来日することはなかった。
    • 音重鎮も中日へ復帰することはなかった。

平野恵一[編集 | ソースを編集]

2006年のロッテ戦でファウルフライの捕球の際の大怪我がなかったら
  1. 阪神へのトレードはなかった。
    • 平野ではなく後藤が阪神に行っていたかも。
  2. FAで巨人に行っていた。
  3. 大引啓次のブレイクが遅れていた。
  4. 晩年のオリックスへの出戻りは現実通り。

エリック・ヒルマン[編集 | ソースを編集]

1997年に移籍後すぐに左肩を故障しなかったら
  1. この年、巨人が優勝していた。
    • ヤクルトと20ゲーム差を付けられているのでそれはない。せいぜいAクラスぐらい。その場合、広島の連続Bクラスの始まりが1年早くなっていた。
  2. 「左肩に小錦が乗っているようだ」、「ミスター違和感」というフレーズはなく「昼マン」と揶揄されていなかった。

セシル・フィルダー[編集 | ソースを編集]

1989年、指を骨折しなかったら
  1. 翌年も阪神で活躍していた。
  2. 89年は本塁打王を獲得していた。
  3. 92年まで在籍していたら92年に阪神が優勝していた。
  4. 阪神暗黒期の成績は少しはマシになっていた。
  5. 90年にパリッシュが阪神に移籍してこなかった。

藤浪晋太郎[編集 | ソースを編集]

2015年10月に右肩の炎症を発症しなかったら。
  1. 高卒以来続いた二桁勝利が途絶えることはなかった。
  2. 2018年の阪神の最下位はなかったかもしれない。
  3. 中継ぎ転向もなかった。
  4. メジャー移籍後の批判もなかった。
    • メジャー初勝利も早まってた。

古田敦也[編集 | ソースを編集]

1994年の4月14日に前田智徳のファウルチップを受けての右手人差し指骨折がなかったら
  1. ヤクルトは4連覇を果たしていた。
    • 巨人、中日の10.8自体は存在しなかった。
  2. グラッデンと中西親志の乱闘騒ぎも起こることはなかった。
    • 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
      • 中西親志はこの年で現役を引退していた。
  3. 2000本安打は2004年の内に達成できた。

ま行[編集 | ソースを編集]

前田健太[編集 | ソースを編集]

2021年8月21日に右前腕の張りに悩まされることがなかったら。
  1. トミー・ジョン手術を受けることはなかった。
  2. 2021年は二桁勝利できてた。
  3. 2022年はメジャー登板無しになることはなかったはず。

前田智徳[編集 | ソースを編集]

1995年にアキレス腱を断裂しなかったら
  1. 少なくとも慢性的な足の故障に悩まされることも無く、1996年以降もフル出場したシーズンは更にあった(史実では故障以降、2005年のみ)。
  2. 松中よりも先に三冠王を獲っていたか、トリプルスリーを達成していた可能性も。
    • 2000本安打どころか、3000本安打も狙える位置にいたかも。
  3. 松井秀喜、福留孝介の最大のライバルとして君臨していた。
  4. 代打、またはDHに専念するのはもう少し遅くなっていた。
  5. 広島も優勝までとは行かなくても数回はAクラスに入ったシーズンが増えていたはず。
  6. FA宣言でメジャーリーグに移籍していたかも。
  7. それでも2013年に受けた死球の怪我で引退するのは現実通りか?
2013年、江村将也から死球を受けなかったら
  1. もうすこし現役を続けられていた。
    • とはいえ、往時の精彩はさすがに欠いていただろう。
  2. 2016年のリーグ優勝を見届けて引退していたら、前回の優勝(1991年)から現役だった唯一の選手として話題となっていた。

松井秀喜[編集 | ソースを編集]

2006年にスライディングキャッチの際に左手首を骨折していなかったら
  1. 当然、それ以降も連続出場記録は継続されていたはず。
    • カル・リプケンの記録はさすがに抜けないまでも、衣笠の記録は越えていたかもしれない。
      • その場合「平成の鉄人」といえば金本知憲よりも松井秀喜になっていた。
  2. その後も変わらず活躍していたと仮定した場合、2009年にヤンキースを退団することも無かった。
    • もしかしたらイチローと共にプレーすることもあったかもしれない。
    • 現役生活そのものも、うまくいけば2012年以降も続いたかもしれない(史実では2012年にレイズ退団後、オフに引退)。
      • 国民栄誉賞の受賞もなかったか数年遅れていた。
      • メジャー通算200本塁打を達成した可能性も十分あった。

松岡健一[編集 | ソースを編集]

2012年序盤の4月13日に右足内もも痛にならなかったら。
  1. 連続二桁ホールドが2011年でストップすることはなかったはず。
    • ヤクルト初の200ホールドも達成できた。

松坂大輔[編集 | ソースを編集]

2009年に右肩の疲労に悩まされなかったら
  1. 現在は日米通産200勝を達成できてるはず。
  2. 巨人が「松坂を取らなくて正解だった」ということもなかった。
  3. 日本復帰は史実より遅れていたかもしれない。
    • ソフトバンクが獲得していたかどうかは微妙。
      • 直接西武に復帰していたかも。
    • 帰国後も現実以上に活躍できている。
      • 帰国初勝利ももちろん早まっていた。

松中信彦[編集 | ソースを編集]

2009年以降、肘や膝の怪我に悩まされなかったら
  1. 1999年以降続いた二桁本塁打も2011年にストップすることはなかった。
    • 2013年以降は本塁打0で終わることもなかった。
  2. 2000本安打や400本塁打も達成できたかもしれない。
  3. 引退試合はヤフードームで行われた。

松永浩美[編集 | ソースを編集]

1993年開幕直後に肉離れを起こさなかったら
  1. 93年以降の阪神の成績がもっとマシになっていた。
    • 93年も含めAクラス入りするシーズンも何度かあり、20世紀中に優勝出来ていた。
  2. 「甲子園は子供の砂場」発言もない。
  3. FA移籍第1号は彼ではなく落合博満だった。
  4. 入れ違いにオリックスへ移籍した野田浩司と悪い意味で比較されることもなかった。
    • 同じく「パリーグから阪神へ移籍し背番号2を付けたスイッチヒッター」である高橋慶彦と良い意味で比較されていた。
  5. シーズン途中に背番号を変更することもなかった。
  6. 同じく元オリックスの石嶺和彦の移籍もなさそう。
    • むしろ松永の移籍がないので、石嶺と再びチームメイトになっていたかも。

馬原孝浩[編集 | ソースを編集]

2011年7月18日に右肩関節の大円筋付着部の筋挫傷にならなかったら。
  1. 寺原隼人の人的補償でオリックスへ移籍することはなかった。
  2. 250セーブ達成できたかもしれない。
    • デニス・サファテの獲得はなかったかもしれない。
      • 他の球団の守護神になっていた。
      • もし獲得しても中継ぎ要因だった。
  3. 第3回WBCにも出場していたかもしれない。

水谷実雄[編集 | ソースを編集]

1984年の開幕戦で死球を受けなかったら
  1. 1986年or1988年までプレーしていた。
  2. 1984年には打点王か本塁打王を獲得していたかもしれない。
    • 1984年のオールスターゲームに出場していた可能性もある。
  3. 1984年の日本シリーズに出場し、阪急が日本一になっていた。
  4. 阪急でコーチをしなかったかコーチをやるのが遅れていたかもしれない。
    • コーチとして、広島に復帰していたかもしれない。

簑田浩二[編集 | ソースを編集]

1985年に頭部に死球を受けなかったら
  1. その後巨人にトレードされることもなかった。
    • フランチャイズ・プレイヤーになっている。
  2. プロゴルファー転身はなかった。
  3. オリックスの監督に就任している。
    • もしくは、上田利治監督の招聘により、日本ハムでコーチを務めていたか。

三宅秀史[編集 | ソースを編集]

小山正明の送球を左眼に受けなかったら
  1. 吉田義男とともに60年代後半まで活躍していた。
    • 巨人がONに代表される打撃のチームなら、阪神は巧打と守備でつなぐチームといわれていたかも。
    • 60年代後半以降も何度か優勝争いはしていたかもしれない。それでもフロントがアレなら最後の最後まで粘って×××になるかも。
  2. 連続試合フルイニング出場記録もさらに伸ばしていた。
    • 1960年代後半まで出場記録を作っていたら、1500試合以上に伸ばしていたかも。
      • フルイニングが途絶えた後は守備固めとして連続試合記録を伸ばしていた。
    • 後年、金本知憲や鳥谷敬が記録を伸ばした際、史実以上に守備に関するヤジが飛んでいたかも。
  3. 監督にも就任していたかもしれない。

カルロス・ミラバル[編集 | ソースを編集]

2005年に故障しなかったら
  1. 上手くいけば日本ハム初の外国人100勝を達成できたかもしれない。
  2. 0及び00を永久欠番にすることもなかった。
  3. コリー・リーやブライアン・スウィーニー、ライアン・グリンを獲得しなかったかもしれない。
  4. 金村曉の移籍が早まってたかもしれない。

武藤孝司[編集 | ソースを編集]

2000年に右肩を痛めていなかったら
  1. 翌年はもう少し早く優勝を決めていた。
    • 北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランもなかったかもしれない。
    • ショーン・ギルバートの途中補強もなかっただろう。
    • ただ日本一を達成していたかは分からない。
  2. オリックスとの球団合併ぐらいまでは活躍していた。

村田兆治[編集 | ソースを編集]

1982年に肘を故障して無かったら
  1. ロッテが1983年に最下位に沈むことは無く1984年に優勝してたかもしれない
  2. 200勝も1988年までに達成してた
  3. ロッテがマリーンズに改名した1992年以降もプレーしてた可能性すらある
    • 場合によってはダイエーでのコーチ就任は無く古巣ロッテの監督やコーチに就任してたかも?
  4. フランク・ジョーブ博士の日本での知名度が上がるのが遅れた。
    • NPBにおけるトミー・ジョン手術の第2号は荒木大輔になっていた。(第1号は史実通り三井雅晴)

森慎二[編集 | ソースを編集]

2006年のオープン戦で右肩を脱臼しなかったら
  1. MLBで活躍できていた場合、ここの通りになっていた。
  2. MLBで活躍できなかった場合でも、日本球界に復帰して2012年頃までは現役を続けられていた。
    • 2010年までに古巣西武に復帰していた場合、2010年の西武は土壇場で優勝を逃すことはなかったかもしれない。
    • 古巣西武でもあまり期待通りに活躍できなかった場合、間違いなく「俺達」メンバーの一員になっていた。

盛田幸妃[編集 | ソースを編集]

髄膜腫になっていなかったら
  1. もっと長生きしていた。
  2. 三澤興一が移籍することはなかった。
  3. 香田勲男の引退が早まっていた。
  4. 地元、北海道ということもあり北海道日本ハムファイターズへ移籍していた。
  5. 合併する年まで近鉄に在籍し、オリックスバファローズか楽天で現役を終えていた。
    • そしてオリックスか楽天で投手コーチを務めた。

森本稀哲[編集 | ソースを編集]

汎発性円形脱毛症になっていなかったら
  1. サッカー選手になっていた。
    • 『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で先生として出演はなかった。
    • 帽子をかぶる野球に傾倒しなかったか。
  2. 2000年代は北海道日本ハムファイターズがリーグ優勝できていたか微妙。
  3. 横浜移籍時にやったラーメンマンのコスプレが似合ってなかった。
    • オールスターゲームでのザビエルのコスプレも似合ってなかった。
  4. そもそもスキンヘッドにしなかった。

やらわ行[編集 | ソースを編集]

矢野輝弘[編集 | ソースを編集]

2009年以降に右肘を故障しなかったら
  1. 狩野恵輔や城島健司と併用でマスクを被り続けた。
    • あと2年ほど現役を続けていた。
    • 年齢的に彼らにマスクを譲ることになるかもしれないが、その後も桧山進次郎と共に代打の切り札になっていたかも。
    • 藤井彰人の獲得もなかったか。
  2. 引退試合で出番がないということにはならなかった。
  3. 真弓監督時代の阪神の成績ももう少しまともだった。
    • 2009年と11年にAクラス入りできており、10年も優勝できていた。

山口高志[編集 | ソースを編集]

1978年にゴルフで腰を痛めてなかったら…
  • 1978年に日本シリーズの前に開かれた祝勝会のゴルフコンペで腰を痛めたことにより、1978年の日本シリーズに登板することはできませんでした。
  1. 1978年の日本シリーズでは確実に優勝していた。
    • ヤクルトは1993年まで日本一を果たすことができなかった。
    • 第7戦の1時間19分の抗議も無いので、上田利治監督は辞任せず史実通り1990年まで監督を続けていた。
  2. 1979年もリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
    • 最低でも同年のパ・リーグプレーオフで近鉄がストレート勝ちをすることはなかった。
  3. 3年程長くプレーをしていたかもしれない。
  4. 1979年に最優秀救援投手のタイトルを獲得していた。
    • 1979年のオールスターゲームに出場していたかもしれない。
  5. 1984年の日本シリーズでも前回(1975年)同様広島打線を抑え、阪急を日本一に導いていた。
  6. 佐藤義則がクローザーを務めることはなかった。
  7. 張本勲に3000本安打を打たれることもなかっただろう。

吉田正尚[編集 | ソースを編集]

2016,17年に腰痛にならなかったら
  1. 2016年のオリックスは最下位を免れていて、2017年もCSに進出出来ていた。
  2. 正尚自身も2016年に新人王のタイトルを獲得していたかも。

吉見一起[編集 | ソースを編集]

2012年、左脚大腿二頭筋挫傷や右肘の肘頭骨棘骨折をしなかったら
  1. 第3回WBCの日本代表入りを辞退することはなかった。
  2. 2012年で二桁勝利が途絶えることもなかった。
    • 2014年も未勝利で終わることはなかった。
  3. 2013年以降の中日は暗黒時代に突入することもなかったはず。

吉村禎章[編集 | ソースを編集]

栄村忠広との衝突事故がなかったら
  1. プロ通算200号本塁打を達成していた。
  2. 事故前の吉村の実力を考えれば200号どころではない。90年代を通して巨人の中軸打者として活躍し、350本塁打ぐらいは打っていたと思う。巨人の優勝回数も増えていたか。
    • 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
      • 1992年のヤクルトのリーグ優勝時の甲子園での阪神ファンからの「帰れ」コールもなかった。
        • 野村ヤクルトの初優勝も1992年ではなくもっと遅かった。
  3. 90年代末の巨人の外野は「吉村・松井・高橋」と左の強打者が揃っていた。
    • それくらいまで、現役続けられたら二岡の背番号は「7」以外の空き番号だった。
    • 清水のレギュラー獲得は遅れていた。あるいはくすぶり続けたまま他球団にトレードされ開花していた
  4. 巨人不動の3番打者となっていた。
    • 松井入団までの「不動の生え抜き4番」になっていた。
  5. 中日に移籍した落合の最大のライバルになっていた可能性も。
  6. 広沢がヤクルトからFAで移籍してくることはなかったかも。
    • その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
      • あるいはヤクルトを自由契約になった後野村監督の誘いで阪神へ移籍していた。
  7. 逆にFAを活用せず引き続き生え抜き路線だったか。
  8. 故障した1988年のシーズンに関して言えば、吉村と同じ主力選手であったクロマティも6月にデッドボールによる故障で戦線離脱した影響もあって、結果的にはリーグ優勝した中日に12ゲーム差をつけられて2位に終わったが、シーズン終盤まで巨人と中日の優勝争いになったかもしれない。
    • この年の巨人は前半戦終了までは首位を維持していたが、後半戦は開始早々に中日に首位を奪われると大きくゲーム差をつけられて取り返す事無くシーズンが終わってしまった。
栄村は
  1. 代走、守備要員として巨人で数年過ごしたろう。
    • その後、守備走塁コーチもしくはトレーニングコーチくらいにはなれたかも。
  2. やくみつるの漫画で、頭に角が生えた形で「悪魔」か「バイ菌」として悪意に満ちた描き方をされることはなかった。
  3. 巨人に何らかの形で残っていた可能性あり。
    • 少なくとも審判の栄村孝康と勘違いされることはなかった。

若林楽人[編集 | ソースを編集]

2021年5月30日の阪神戦で左膝前十字靭帯損傷の重傷を負わなかったら
  1. 間違いなく、シーズン50盗塁ぐらいでぶっちぎりの盗塁王になっていただろう。
    • この年は阪神・中野拓夢と合わせて両リーグで新人が盗塁王を獲得していた。
  2. この年のパ・リーグの盗塁王が4人になる珍事は起こらなかった。
    • ちなみにこの年のリーグトップの盗塁数は24、若林は20盗塁・8盗塁死だったため、故障離脱が史実通りでも失敗のうち半分が成功だったら盗塁王が5人になっていた。
  3. 西武がこの年最下位になることもなかった。

涌井秀章[編集 | ソースを編集]

2022年5月28日に右手中指を骨折しなかったら。
  1. 2022年に二桁勝利を達成できてたかもしれない。
    • 同年の楽天の成績ももっとよかったはず。
  2. 中日へのトレードはなかったかも。
    • 史実通りなら2023年前半の中日の成績ももっとよかったはず。

関連項目[編集 | ソースを編集]

もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら
あ~こ/さ~の/は~わ