もしあの人が健在だったら/プロ野球団関係者
川勝傳(南海ホークスオーナー)[編集 | ソースを編集]
南海ホークスのオーナーとして、赤字で苦しむ中も頑なに球団を保有し続けた川勝氏ですが(「儂(わし)の目の黒い内は絶対に売らん!!」と言ったとか)、彼の死去後すぐにダイエーに身売りされる事となりました。 同じ年に阪急ブレーブスもオリックス(当時オリエント・リース)に売却していますが、もし、川勝氏が亡くなるのがあと何年か遅かったらどうなっていたのでしょう?
- 阪急の売却先がダイエーになっていて、普通に本店所在地である神戸の球団になっていたかも?そして、やがて南海を買収したオリックス・ホークスが福岡に行っていた?
- むしろブレーブスが福岡に行き、ホークスが神戸の球団になっていた。
- あるいはダイエーはロッテを買収していた。
- あるいはホークスは身売り後も大阪に残っていた。
- 四国の大企業に売却していたかも。来島どっくとか。
中埜肇(阪神タイガース球団社長)[編集 | ソースを編集]
日航ジャンボジェット機墜落事故で亡くなった中埜肇・阪神球団社長。仮に飛行機に間に合わず(実際に乗り遅れて難を逃れた人も居た)健在だったら
- 阪神の暗黒時代突入は数年遅れていた。
- 逆に星野仙一の監督就任もなく(仰木彬が就任していた可能性もあるが)、2003,2005年の優勝もなかったかも。
- もしくは回避されていた。
- 1992年のシーズンは阪神が優勝していた可能性がある。
- 逆に85年の優勝がなかったという可能性もある。
- 前半はともかく、事故以降は弔い合戦のような意味合いも持っていた為。
- 仮に引退していた場合、90年代の阪神暗黒時代はオリックスが活躍する側らチームやフロントの無能ぶりばかりが目立ち情けなく思っていたかも。
- あまりのフロントの情けなさに怒り、社長職に復帰してくるかも。
- フロント、選手、ファンからも評判が良く阪神の名物社長になっていた。
- 久万氏の後にオーナーに就任していたかも。
- その場合は阪神本社に復帰して社長→会長になってるだろうから、阪神本社のアキレス腱だった含み資産の問題に手を着けていただろう。従って村上ファンドは阪神本社を標的にすることはなかったはず。
- 含み資産問題では資料・情報を全公開して株主等の批判の矢面に立ち、「重加算税など払うモンは払います。どないなご批判も甘んじて受けます」と言うだろう。株主や阪神ファンから「含み資産は問題やが、でも逃げも隠れもせぇへん。漢やのぉ…」と評価上がったかも。
- 日本ハムの大社義規オーナーと共に野球好きな名物オーナーとして人気出たかも。
- 90年代の時は何とかファンを食い止めようと孤軍奮闘していた。
- 自ら陣頭指揮とって各種キャンペーン張ってただろうなぁ。もちろん甲子園球場に連日顔出しして。
- 久万氏の後にオーナーに就任していたかも。
- 2004年の球界再編問題時にもテレビに出演して自身の意見を述べていた。
- 古谷真吾球団代表も自殺せずに済んだ。
- もちろん例の33-4には激しく怒鳴っていた。
- 2008年のVやねん!も。
- 明石家さんまや逸見政孝などとともに日航機事故を回避した人になっていた可能性も。
- しかしさんまのように国内での航空機移動を避けるようにはならなかっただろう。
- 特に大阪~福岡ではJR西日本と阪神の関係上、新幹線での移動を避けてそう。
- のぞみ運転開始以降は東京~大阪は新幹線で移動するようになっていた。
- しかしさんまのように国内での航空機移動を避けるようにはならなかっただろう。
- 他のプロ野球球団も日本航空との契約を絶つこともなかった。
- 関連項目
古谷真吾(阪神タイガース球団代表)[編集 | ソースを編集]
バースとの契約問題で自殺した古谷真吾・阪神球団代表。仮に自殺することなく健在だったら。
- 阪神の暗黒時代突入は数年遅れていた。或いは回避されていた。
- よってカーネルサンダースの呪いは話題にならない。
- 暗黒時代に久万氏からオーナーの座を譲り受けていた。
- 即ち阪神電鉄の社長→会長に就任していた。
- バースは日本球界に復帰していた。
- ただし阪神以外の球団で。
大川博(東映フライヤーズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 東映フライヤーズは身売りされることはなかった。
- 日本ハムに身売りされていた可能性はあったとしても、日拓ホームに身売りされることはなかったであろう。
- 東映OBの土橋正幸氏が監督に就任していた可能性が高い。
- 三原脩氏が就任していた可能性もある。
- 彼の地元である新潟県の3局目の民放テレビの開局が1970年代に実現していたかもしれない。
- 無論、テレビ朝日系列で開局していた。
小林米三(阪急ブレーブスオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 彼が元気だったら、新大阪線(十三~新大阪~淡路間)を開業させていた。
- 社長退任後は、会長に就任していた。
- 日本民営鉄道協会会長に就任していた。
- 1973年のドラフト会議で、江川卓氏と直接入団交渉をしていた。
- それで、交渉がうまく行けば、江川卓氏は阪急に入団していた。
- 1990年代までに生きていたら、小林公平氏が進めてきた球団の売却を批判していた。
- そもそも球団が売却されることはなく、阪急は現在も球団を所有し続けている。
- オリックスは新規参入で球界入りするか、大洋球団を買収して球界入り。
- 逆に宝塚歌劇団あたりがどこかに身売りされていたかも。
- 創業者で実父の小林一三の遺言を守るのでそれもないと思う。
- そもそも球団が売却されることはなく、阪急は現在も球団を所有し続けている。
- 阪急でも有料特急の運転が開始されていた。
- 史実の6300系は有料特急仕様になっていた。
- 神宝線にも有料特急仕様の車両が導入され、神戸線でも有料特急の運転が開始されていた。
- 形式名は10000番台を襲名していた。
- 6300系は史実に存在しない6000系の京都線仕様が襲名していた。
- 同じ運賃を頂いている乗客を差別してはならないという阪急の精神があるので、それはなかったと思う。
- 史実の6300系は有料特急仕様になっていた。
- 8200系以降、阪急電鉄の新車の導入が史実のように長期間途絶えることはなかった。
- 9000系と9300系は1998年頃に登場していた。
- 1000系(2代目)と1300系(2代目)も2008年頃までには登場していた。
- 意地でもそごう・西武から店舗を譲受しなかった。
- 神戸そごうや高槻西武は阪急百貨店に譲渡されることなく現在も存続している。
- 関西テレビ放送の会長にも就任していた。
務台光雄(読売新聞グループ本社社長)[編集 | ソースを編集]
- 長嶋茂雄は1993年シーズンに監督復帰することは無かっただろうが藤田元司監督の続投は健康問題上不可能だったか?
- 1993年シーズンから王貞治が再就任していた可能性もある。
- その場合は同年オフに駒田徳広は巨人に残留し落合博満は中日に残留してた可能性もある。…となると横浜の大量解雇事件がなかった可能性も…
- 逆に長嶋氏がダイエーの監督に就任したかも?
- ミスターの監督復帰がなければ、一茂もヤクルトに残り活躍できないまま引退した。
- 1992年のドラフト会議で松井秀喜を指名していたか怪しい。
- 1993年シーズンから王貞治が再就任していた可能性もある。
- 務台の親族が製作に関わったアニメ版美味しんぼが1993年以降も放映されてたかもしれない…。
- しかし2019年現在も放映継続してたかどうかは疑問…。食中毒事件か2011年の東日本大震災での影響で終了してた可能性がありそう…
佐伯勇(近畿日本鉄道・近畿日本ツーリスト社長、近鉄バファローズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- しばらくの間は近鉄バファローズのオーナーを務めていた。
- 上山善紀氏の就任が史実よりも遅れていた。
- 1989年のリーグ優勝を見届けていた。
- 日本民営鉄道協会の会長に就任していたかもしれない。
- 鈴木啓示が監督に就任することはなかった。
- というのも佐伯氏の遺言で「鈴木啓示を監督に就任させたい」とあったので。
- つまりこうなっていた。
- 近鉄が黄金時代を築けたかも。
- 近鉄バファローズの大阪ドーム移転もなかった。
- 近鉄は現在も球団を所有し続けている。
- 4代目ビスタカーは確実に登場していた。
- 形式名は30200系
- 32000系かも知れない
- 22000系ベースと思われる
- 形式名は30200系
- あべのハルカスの開業が史実より早まっていた。
金森茂一郎(近畿日本鉄道社長、近鉄バファローズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 近鉄球団の消滅の会見に立ち会い、嘆いていた。
- けいはんな線の開業式に立ち会っていた。
大社義規(日本ハム創業者、北海道日本ハムファイターズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 2006年にファイターズが日本一を達成した際、約束通り「背番号100」のユニフォームを着用していた。
- 体力の続く限り、北海道日本ハムファイターズのオーナーを務めていた。
- 大社啓二氏のオーナー就任が史実よりも遅れていた。
加藤巳一郎(中日新聞社会長、中日ドラゴンズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 大島宏彦氏と白井文吾氏の就任が史実よりも遅れていた。
- 1999年のリーグ優勝に喜んでいた。
- 星野仙一氏が阪神監督に就任した際には、立ち会っていたかもしれない。
松園尚巳(ヤクルト本社会長、ヤクルトスワローズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 長嶋茂雄氏の監督招聘に尽力を尽くすが、結局、史実通りに野村克也氏に切り替えていたか。
- 桑原潤氏のオーナーの就任が史実よりも遅れていた。
- 長崎文化放送の会長を史実よりも長く務めていた。
- 1991年以降も、長崎県におけるヤクルトの主催試合が行われていたかもしれない。
小林公平(阪急電鉄社長、阪急ブレーブスオーナー)[編集 | ソースを編集]
- 未だにブレーブスを売ったことやその金で行った事業の失敗で会社を潰したことで、社員や株主、往年の阪急ファンから恨みを買っている。
- それでも公式ツイッターでこれに関して触れられることはおそらくない。
- 今も阪急の経営の第一線に立っているが、社員からはそれを不快に思われている。
- 西本幸雄の葬儀に参列し弔辞を読んでいた。
- 1988年10月19日のことは軽く触れただろう。
- 上田利治とは最後まで交流を続けた。
- 上田利治の葬儀でも弔辞を読んでいた。
- 昨今の阪急の体質を見てさぞかし嘆いていた。
- そごう神戸店と西武百貨店高槻店が阪急百貨店に譲渡されることはなかった。
- 1000系(2代目)と1300系(2代目)のデザインが史実と異なっていた。
- 北大阪急行9000形に似せた軽量ステンレス製車体になっていた…
- 阪急マルーンは遠い将来過去のものになる
- 嵐山線への直通列車が積極的に運転されることはなかった。
- 宝塚本線と箕面線の直通は現在でも多数存在。
- 北大阪急行電鉄の新箕面延伸開業は2020年までに達成。
- 箕面船場阪大前は箕面船場になっていた。
- 箕面萱野は新箕面になっていた。
- 阪急宝塚本線の石橋が駅名を石橋阪大前に改めることはなかった。
- 梅田の大阪梅田、三宮の神戸三宮、河原町の京都河原町への改称は如何に?
- 三宮と河原町の改称はないかもだが、梅田の大阪梅田への改称は不可避だろう。
- 阪神系の企業との合同事業や会社の一本化はほとんどなかった。
- 阪急不動産が阪急阪神不動産に改組することもなかった。
水野成夫(フジテレビジョン社長、サンケイアトムズオーナー)[編集 | ソースを編集]
- サンケイアトムズのヤクルト本社への売却が史実よりも遅れていたかもしれない。
- 彼の地元が静岡県なので、テレビ静岡の設立に関わっていたかもしれない。