もしあの人が健在だったら/日本プロ野球

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日本人は行ごとに、外国人選手は「外国人」の節へ。

あ・か行[編集 | ソースを編集]

もしあの人が健在だったら/日本プロ野球/あ・か行

さ行[編集 | ソースを編集]

島野育夫[編集 | ソースを編集]

  1. 星野仙一が楽天の監督就任した同時ヘッドコーチに就任していただろう。
    • 田淵が就任することは無かった。打撃コーチに就任していた。
      • その場合、楽天は史実よりも早くリーグ優勝していた。
    • 星野監督が退場した場合、代行をしていた。
    • その前の2008年に北京五輪の日本代表でもヘッドコーチに就任していた。
  2. 2009年に真弓ではなく、阪神監督に就任していた。
    • もしくは、2軍監督とヘッドコーチを務めていた。
  3. 神戸市・三宮に創作洋食の店をオープン、現在でもオーナーとして務めている。
  4. 2018年星野仙一の死を悼んでいた。
  5. 下柳剛の楽天時代の背番号は91にならなかった(島野氏の阪神コーチ最終年の背番号にちなんで選んだため)。

島野修[編集 | ソースを編集]

  1. ネッピーとリプシーからバファローブルとバファローべルへの交代が史実より遅れた。
    • バファローズポンタと同時だったか、あるいは未だにネッピーとリプシーのままだったかも。

杉浦忠[編集 | ソースを編集]

  1. 現在も野球解説者として活躍している
  2. 毎日放送がTBSの株主の関係でサンデーモーニングにもゲストで度々出演できた可能性も。
    • 大沢親分と同じ立教大学出身だからありえる。
  3. 04年のプロ野球再編騒動では合併に走らなかったダイエーに対していくらか評価していた
  4. ホークスの監督に就任し、王貞治はジャイアンツのコーチか監督に復帰、又はホークスのヘッドコーチに就任したかも。
    • 巨人の長嶋茂雄終身名誉監督に対抗して、ホークスの終身名誉監督に就任。
  5. ホークスの南海復刻試合のときにセレモニーに登場した。
  6. 2019年の日本シリーズでホークスが60年ぶりに巨人を撃破した際に何かしらのコメントを出していた。

鈴木貴久[編集 | ソースを編集]

  1. 近鉄の合併消滅を目の当たりにして嘆いていただろう。
    • 合併知らずに亡くなったのはある意味幸せかもしれない。
    • 仰木監督の死去に関しても同じく。
  2. 梨田監督の下、日本ハムのコーチに就任していた。
    • 北海道出身ということもあり、2005年から就任していたかも。
    • 楽天のコーチとしては…?と言う感じか。
  3. 2007年のシーズンオフに大西宏明がトレードには出されない。
    • 当然、古木克明のオリックス移籍もない。
    • もしかしたらオリックスのコーチになって再び大西を指導していたかも。
    • 大西のオリックス時代の応援歌に「誇り高き師を胸に」という歌詞はなかった。
      • もしかしたら貴久の現役時代の応援歌が流用されていたかも。
  4. TVOTVhの野球解説者になってたかも。
    • 後者の場合、2009年度は札幌テレビ・STVラジオの解説者に鞍替えしていた。
  5. 道新スポーツに連載コラム執筆もありえた。
  6. オリックスでの近鉄バファローズ復刻試合にレジェンドOBとしてトークショーや始球式を務めた。
    • 大阪ドームの公式戦第1号ホームランを放ったことももちろん話題にされている。

た行[編集 | ソースを編集]

大豊泰昭[編集 | ソースを編集]

  1. 自分の料理店を閉店させることはなかった。
  2. 今でも中日のスカウトをやっていた。
  3. WBSCプレミア12野球チャイニーズタイペイ代表の打撃コーチに就任。
    • 陽岱鋼などを指導していた。
  4. 指導者として成功していれば、近年の台湾球界のレベル低下にも歯止めがかかっていた。
    • 台湾から来日する野球選手を現実より増加させているかも。

高野光[編集 | ソースを編集]

  1. 2001年からマスターズリーグに入団していた。
  2. 楽天のコーチになっていた。
    • 大学の先輩である原辰徳に請われて巨人のコーチ…ってこともあったかも。
  3. ヤクルトの背番号34番は日本人が背負い続けている。
    • 史実では2001年以降、09-11年の八木亮祐を除き外国人が背負っている(13年現在)。
  4. サンケイスポーツの評論家になっていただろう。

高畠導宏[編集 | ソースを編集]

  1. 60歳で教師を定年退職後、筑紫台高校野球部の監督に就任していた。
    • 非常勤講師として教壇にも立っていた。
      • 筑紫台高校参与の肩書きもあったから、そちらの仕事も忙しくこなしてた。
        • 高畠門下生の元プロ選手がコーチ就任するかも…って監督もコーチも元プロだったら凄まじい野球部になるじゃねーかw 監督からして元プロのコーチだしw
  2. NHKのドラマ『フルスイング』は製作されず、代わりにNHKスペシャルで何度もドキュメントとして取り上げられていた。
  3. 肩書きは参与だけど、生徒達には以前の先生扱いのまま。勿論大人気。卒業生からも大人気。
    • 「肩書きは参与ですがね。実際の半分は生徒たちの相談相手ですよ」なんて苦笑してるかも。

津田恒実[編集 | ソースを編集]

  1. 40代前半頃まで広島東洋カープの抑えとして現役を続けていた。
    • FA権公使で他球団に移籍することはなかっただろう。
      • 移籍の可能性があるとすれば当時・森脇浩司が在籍していたダイエーであろう。
    • ただ、カープの黄金時代の終わりと共に酷使されて引退は意外と早かったかもしれない。
      • しかし酷使される前に先発に再転向し、150勝150セーブを達成する可能性はあった。
    • 佐々木の前にメジャーいってるかも。
    • 大野豊と佐々岡真司は先発専門。よって二人とも100勝100セーブは達成していない。ただし二人揃って200勝を達成している可能性はある。
  2. 引退後は直ちにカープのピッチングコーチに就任。
    • またはNHKの野球解説者になり、大野などとともに解説を行っている。
      • 津田が先に引退なら、津田がNHK解説者に、大野が在広民放局(多分RCCかHTV)の解説者になっていた。逆に大野が先に引退なら、大野が(現状の)NHK解説者に、津田が在広民放局の解説者になっていた。
      • tssの解説者になっていたら、「プロ野球ニュース」にも週1回ペースで登場した。
  3. 2007年現在では監督に就任していたかもしれない。
    • コーチに森脇浩司を招聘し、ホークスの本塁憤死が減っていた。
      • 史実通り森脇がオリックスの監督に就任していたら、投手コーチにはなっていた。
        • 2017年からは森脇と共に中日の投手コーチに就任していたかも。
    • 達川光男もバッテリーコーチとして復帰していたかもしれない。
    • カープのクライマックスシリーズ初出場が実史の2013年より早まったかもしれない。
      • もしかしたら、この年の日本シリーズに進出した可能性も…。(実史は巨人に1勝もできずに敗退した。)
  4. カープの暗黒時代突入が数年遅れていた。
  5. ドラマ「最後のストライク」は存在しなかった。
  6. 広島市民球場で始球式をやっていたかも…。
    • 実現してたら、ピッチャー:津田・キャッチャー:達川・バッター:ブラウン(現監督)かな?
    • もしかしたら、親子に始球式のバッテリーをやったかも…。
  7. WBCの投手コーチをやったかも。
  8. 2011年以降評論家生活なら福島原発事故で埼玉県加須市へ避難した双葉町の子どもたちとイベントでキャッチボールをしていたかもしれない(加須市が「鯉幟」の名産地という縁でカープとのつながりがある)。
  9. 2009年春の選抜高校野球で、自身の高校時代以来のベスト8進出を果たした南陽工業高校にお祝いのメッセージを送っていた。
  10. 2016年シーズンの広島のセ・リーグ優勝について喜びのコメントを寄せた。
    • 一時期、広島の背番号15を背負っていた同志として黒田氏の永久欠番についても納得していたはず。
  11. 森脇浩司の結婚式にも無事出席していた。
  12. うまくいけば1995年・1996年もリーグ優勝できていたかも。
    • その場合、96年のメークドラマはなかった可能性がある。

土井正三[編集 | ソースを編集]

  1. 度々巨人軍OB関連行事に出席していた。
  2. イチローの3000安打、4000安打更新の際にコメントを出していた。
    • 「イチローを育てられなかったダメ監督」の風評を撤回していた。
    • 2019年の引退の際にもコメントを出していた。

土橋修[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神のローテーション投手として活躍していた。
  2. 1968年、70年、73年とリーグ制覇をしていたことだろう。
  3. 阪神の背番号40が不吉な背番号として阪神ファンの間から広まることは無かった。
  4. 上田次朗は入団していなかったか入っても大成しなかった。
  5. トレードで南海か阪急に移籍していた可能性もある。
    • ロッテ、日本ハム、西武に移籍していた可能性もある。

土橋正幸[編集 | ソースを編集]

  1. 現在もフジテレビONE『プロ野球ニュース』に出演。
    • 今なお土橋節は健在。
  2. 今でも沢村賞の選考委員も務めていた。
    • 意外にも2013年前年からの連勝を28、開幕からの連勝を24と日本プロ野球新記録を達成した楽天の田中将大では無く、全項目を満たしたオリックスの金子千尋に選出させていたのかもしれない。
      • ↑の通りなら、スポーツ新聞等で議論が巻き起こるか?または、『沢村賞は田中マー君だろう』という、世間からの反発を食らったかも…。

な行[編集 | ソースを編集]

中村勝広[編集 | ソースを編集]

  1. 和田監督退任時に一緒に阪神GMを辞任していたか?
    • もし2015年に阪神が優勝していたらor日本一になれていたら、和田監督とともに退任が遅れていたかも。
    • 退任後は毎日放送の解説に戻っていた。
  2. 阪神のOBとして、トークショーや始球式に登場していた可能性が高い。
  3. 2015年のドラフト会議で真中満が交渉権間違いをした際には、現実以上に2005年の高校生ドラフトでの中村氏が引き合いに出されていた。

並木輝男[編集 | ソースを編集]

  1. コーチとして、低迷期の阪神を支えていた。
    • 退任後はサンテレビの解説者に復帰していた。
    • 第3次吉田義男政権で打撃コーチになっていた。

西沢道夫[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代の背番号だった15は、ドラゴンズの永久欠番にならなかった。
    • 1959年に決定しているのでそれはない。
    • 現在は山井大介(現実では29)あたりがつけてたかも。
  2. 1968年も中日監督を務めていた。
    • 辞任後は、TBSの解説者を務めていた。

西本幸雄[編集 | ソースを編集]

  1. 川上哲治氏と共に球界の重鎮として、重宝されていた。
  2. 「LEGEND OF Bs 2011 〜蘇る黄金の70'S〜」とOSAKAクラシックでゲストとして登場していた。

中尾碩志[編集 | ソースを編集]

  1. スカウト部長、寮長、2軍監督を歴任していた。
  2. ラジオ日本で解説者を務めていた可能性が高い。

中谷準志[編集 | ソースを編集]

  1. 引き続き阪急でコーチを務めていた。
  2. 西本幸雄氏に請われて、近鉄でコーチ、2軍監督を務めていた可能性が高い。
    • それとも、阪急に残り、スカウトを務めていたかもしれない。
    • その場合、寮長、球団職員、編成部長を務めていたかもしれない。

根本陸夫[編集 | ソースを編集]

  1. 1999年、2003年のダイエーの日本一を見届けていた。
  2. 2007年も健在だった場合、西武の裏金問題でバッシングを受けていた。

野村克也[編集 | ソースを編集]

  1. 高津臣吾監督が率いるヤクルトに激励の言葉を送っていた。
    • 2020年シーズンは同じく教え子だった三木肇監督率いる楽天との対決に注目していた。
      • 矢野燿大監督率いる阪神も。
  2. なんばパークスにある南海ホークスメモリアルギャラリーに同氏に関する展示場所が設けられることはなかったかもしれない。
  3. サンデーモーニングでゲストとして出演していた。
  4. ホークスの後輩甲斐拓也がノムさん以来となる捕手として背番号19を着けるところを見ることができた。
  5. 2020年にホークスが2年連続で巨人相手に4連勝で日本一になった際に何かしらのコメントをしていた。
  6. 2021年にヤクルトが2年連続最下位からのリーグ優勝・20年ぶりに日本一になった際にもコメントをしていた。
    • オリックスとの日本シリーズでゲスト解説を務めたかも。

は行[編集 | ソースを編集]

パンチョ伊東[編集 | ソースを編集]

  1. 現在もフジテレビ「すぽると!」で解説者を務めている。
    • いや、こっちじゃねぇか?「すぽると!」に収まりきれる格の人じゃねぇもん。
  2. WBC優勝に、涙してたに違いない。
    • 2009年に連覇果たす瞬間は、渡米してナマで見てただろうなぁ。
  3. 「ドラフト会議」の司会を今でも務めていた。
  4. ガキの使いの笑ってはいけないシリーズにゲスト出演していたのかもしれない。

藤井将雄[編集 | ソースを編集]

  1. 息の長い中継ぎ投手として現在もソフトバンクで活躍している。
  2. 若田部健一がFAでベイスターズに移籍せずにホークスで現役を終えていた。
    • 先発とリリーフで違うでしょうが。
      • 若田部が藤井と仲が良かったのは有名な話。むしろ若田部の引き留め役に藤井が駆り出されていたか。
    • もしかしたら2015年のソフトバンクの監督は工藤ではなく若田部になっていたかも。
  3. 藤井将雄野球大会は開催されなかった。
    • あったとすれば引退後になった。
  4. 徳光和夫の失言語録が一項目減っていた。
    • 「藤井が死んで巨人の日本一が一歩近づいた!」
    • 2000年の日本シリーズで藤井が登板するたびに「もうだめだ…」とガックリきていた。
  5. 2003年オフに小久保裕紀と一緒に巨人に放出されていた……かもしれない。
    • 理由の一つは1997年の出来事。ただ、本間満みたいにそのまま残っていたとは思うが。
    • 2004年から中日の岡本真也との間で最優秀中継ぎ投手争いが勃発。
      • 勃発して欲しかったよ…。相当見応えある激しい争いになっただろうし…。
  6. 引退後背番号15は普通に後輩に受け継がれていた。
    • 引退時期にもよるが、ドラフト1位入団の投手が背負っていた。
  7. KBCTNCの解説者になっていただろう.
    • 解説者になってなかったとしたらソフトバンクの投手コーチ(ブルペン担当)になってただろう。そしてソフトバンクリリーバー陣は堅固なものになってただろう。
  8. 工藤の2010年西武での背番号は55にならなかったかもしれない(55は自らの誕生日と、藤井の15を意識して選んだとコメントしている)。
  9. 2003年のダイエーのリーグ優勝・日本一にも貢献していただろう。

藤田元司[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年オフの堀内監督解任の後、3度目の巨人軍監督を務めた。
    • 70歳過ぎてるからもう無理かも。
    • 人心掌握と育成に優れ、守りを重視する戦術をとるから、今の原巨人より余程手強い。
      • 実際藤田巨人はしぶといし、手強かったし、アンチ巨人としては嫌なチームだったが、他チームから4番とエースあさることは無かった。
        • 佐々木信也氏「選手ってそんなにカワイイもんかい?」藤田氏(目尻下げながら)「カワイイなんてもんじゃないよ」藤田氏の人柄。
    • そもそも藤田さんの生前に原さんが再任されることがきまってたんですが…
  2. 長島茂雄監督(現:終身名誉監督)勇退後の次期監督になったかも。
    • ミスターの勇退当時は未だ藤田さんは健在でした。
  3. 監督に就かなければ、今頃NHKプロ野球の解説者か…。
    • NHKとの契約が切れていた場合、大学時代の同級生・佐々木信也氏に請われて「プロ野球ニュース」に出演する可能性があるかも。

藤本定義[編集 | ソースを編集]

  1. 1985年に阪神タイガースが日本一を達成した際にお祝いのコメントを出していた。
  2. 江夏豊氏の引退を見届けていた。
  3. サンテレビボックス席でゲストとして、出演していたかもしれない。

星野仙一[編集 | ソースを編集]

  1. 2018年シーズンの楽天の梨田監督の途中退任はなかった。
    • 2019年も梨田監督は留任していたかも。
    • 2018年シーズン終了後に梨田監督が成績を理由に自ら辞任していたら投手コーチだった与田が監督になっていたか。
      • その場合は中日の監督は誰がなっていただろうか?
  2. 石井一久が楽天のGMになることはなかった。
    • したがって、浅村栄斗はソフトバンクに移籍していた。
      • 「楽天ライオンズ」と呼ばれるほど西武関係者が集まることもなかった。
    • その場合は三木肇の後任の楽天の監督は誰がなっていただろうか?
  3. 教え子である阪神の金本監督の退任劇に激怒していた。
    • それでも矢野監督の就任には激励コメントを出していた。
  4. サンデーモーニングに出演していたかもしれない。
  5. 2020年に野球殿堂入りした親友の田淵幸一氏を祝っていた。
  6. ノムさんが亡くなった時に追悼コメントを出していた。

ま行[編集 | ソースを編集]

牧野茂[編集 | ソースを編集]

  1. 1989年、藤田元司が監督に復帰と再びヘッドコーチに就任。
    • 原が外野にコンバートされることは無く、日本シリーズの第5戦まで無安打では無かった。
    • 松本匡史、緒方耕一以降も盗塁王を獲得する選手が多数現れた事だろう。
      • 中日の監督、ヘッドコーチに就任していた。
      • 退団後、NHKの解説者として健在。
      • もしくは、一度招聘を受けていた日本ハムの監督になっていたかもしれない。
  2. タフィ・ローズ、小久保裕紀を獲得した超重量打線となった2004年。「こんなでは優勝は絶対に無理だ!」と強く批判していた。
  3. 2006年藤田元司、宮田征典の死を悼んでいた。
  4. 三木のり平と桃屋のcmで共演していた。
    • 1999年にのり平の葬儀に参列していた。
  5. 1984年以降もヘッドコーチ、2軍監督として、王貞治監督をサポートしていた。
    • 1988年までに務めた後に、TBSの解説者に復帰していた。
    • サンデーモーニングの週刊御意見番でゲストとして出演していた。
    • もしくは、1989年から1991年までに2軍監督を務めた後に、TBSの解説者に復帰していた。
    • もしくは、1986年にヘッドコーチとして復帰し、1988年までに務めた。
  6. 場合によっては、2002年までに放送されていた『知ってるつもり?!』で取り上げられることもなかった。

三村敏之[編集 | ソースを編集]

  1. 野村克也の後に楽天監督に就任。
    • 少なくとも2010年は最下位になることはなかった。
    • あるいは広島の監督に復帰していた。それが無くとも2013年にAクラスに入った時に何かしらのコメントを出していた。
    • かつての教え子の金本を誘って加入させていた。
  2. 星野仙一は楽天の監督になっていなかったかあるいは就任が史実より遅れていた。
    • これに伴い、デーブ大久保の野球指導者復帰もなかったあるいは遅れていた。
  3. かつての教え子の金本が阪神の監督を務めることに対して、金本へ何かしらのアドバイスをしていただろう。
    • 同じ教え子でもある緒方広島vs金本阪神の対決に目を細めている。

宮田征典[編集 | ソースを編集]

  1. 2006年末まで『ズームインサタデー』の野球解説を担当し、2007年に野球界に復帰。
    • もし中日に復帰していたら、川上憲伸の大リーグ移籍はなかった。
      • ↑の通りになれば、日本テレビ「Theサンデー」のスポーツコーナーに引き続き「出演」していた。
  2. 2008年度より、昨年度Bクラスに終わった西武ライオンズの立て直し役として監督に就任。
  3. 中京テレビ「スポスタ」の評論家グラサン座談会に出演、史実で川又米利相手にでかい口を叩いている川藤幸三も大人しくなっていた。
  4. 一部の局が、宮田氏の登場時刻が夜8時半頃になるように番組編成を練り直していた。

三輪田勝利[編集 | ソースを編集]

新垣渚との契約交渉が難航した挙句に自ら命を絶った三輪田氏だが、もし今も健在なら…

  1. それでも新垣はオリックスの指名を拒否していた。
    • だが史実よりもバッシングされることは無かったであろう。
  2. フロントと衝突することなくスカウトを続けていたら、オリックスの暗黒期突入は回避されていた。
    • 恐らく例の「契約金ゼロ枠」は、当然ながら作られることはなかった。
    • 近鉄との合併は…まあ、変わらなかっただろうとは思う。
    • イチロー渡米後のオリックスの成績ももう少しマシになっていたかも?
  3. オリックスのキャンプ地は2021年現在も宮古島のままかも。
    • 小瀬浩之の転落死もなければ尚更可能性あり。

村山実[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人の長嶋茂雄終身名誉監督に対抗して、阪神タイガースの終身名誉監督に就任。
    • 監督時代の成績がアレだから、それは無いかと。
  2. 勿論、巨人・阪神OB戦の常連になっていた。
    • 東日本大震災復興支援にも参加していた。
    • プロ野球マスターズリーグにも参加し、大阪ロビンスの監督かコーチを務めていた。
  3. 黄桜のCMでは、江川・小林の和解の前に、長嶋・村山の和解の方が先に行われていたかも。
    • 巨人阪神OB戦が開催される年に、その記念として長嶋茂雄氏とテレビ放送の中で対談をしていたかも。
  4. 村山氏以来、大卒後200勝投手となった黒田博樹氏に対して何かしらの言及があった。
  5. 阪神球団が創立70周年を迎えた2005年にはファン感謝デーや始球式で久しぶりに甲子園でユニフォーム姿を見せていた。
    • 阪神球団が創立80周年を迎えた2015年に関しても同じく。
  6. 2003年の阪神タイガース18年ぶりリーグ優勝の際に喜びのコメントを寄せていたかも。
  7. 2012年から15年は教え子だった和田豊が監督を務めることもあり、彼の采配に注目していた。
  8. 朝日放送とサンテレビジョンで解説者を務めていた。
  9. スーパーマリオくんが節目の時期に何らかのコメントを出していたかも?

森慎二[編集 | ソースを編集]

  1. 西口文也投手コーチの一軍昇格が遅れていた。
  2. 2018年の西武投手陣の崩壊及びそれに伴う西武のCS敗退はなかったかもしれない。
    • 2019年CSでも少なくともソフトバンク相手に1勝はしていたかもしれない。
  3. 史実での彼の死因である人食いバクテリア(劇症型溶血性レンサ球菌感染症)の世間での認知度は低いままだった。

森永勝也[編集 | ソースを編集]

  1. 達川光男氏とのコンビで、テレビ新広島で解説者を務めていた。
    • 無論、プロ野球ニュースに出演していた。
  2. 2010年代でも健在であるならば、今の広島の活躍を褒め称えていた。

や・ら・わ行[編集 | ソースを編集]

湯口敏彦[編集 | ソースを編集]

  1. 一軍への初登板が見られていたのかもしれない。
  2. 川上哲治監督、中尾碩志二軍監督が球団全体へのバッシングに発展する事は無かった。
    • 昭和48年の優勝は独走し、昭和49年はV10を達成していたかもしれない。昭和50年は球団初の最下位に終わることは無かった。
      • 中日の昭和57年の優勝は28年ぶりという事になっていた。
    • 1973年のドラフト会議で1位の小林秀一、2位の黒坂幸夫、3位の中村裕二、5位の尾西和夫の4人が入団拒否をする事は無かった。
      • 勿論、1位の小林・3位の中村はプロの球界に入っていた。
        • 小林・中村はそれでも入団していないのでは?
          • 小林はアマor学生野球の指導者を目指していて、当時はプロを経験するとアマ復帰がほぼ不可能だったことが入団拒否の大きな理由になっている。
          • 中村は所属の社会人チームで監督候補と言われていた。高卒時にもプロの指名を拒否しており、アマ志向が強かったと思われる。
      • 黒坂(後にヤクルト)、尾西(後に近鉄)は、実際よりも活躍できたかもしれない。
    • ≒「もし湯口氏がうつ病にならなかったら」である。
  3. 1976年に太平洋・加藤初とトレードは関本四十四・玉井信博では無く玉井と湯口自身だった。
  4. 引退後は読売ジャイアンツ、または西武ライオンズのピッチングコーチに就任。
    • Dramatic Game 1844かNHKプロ野球の解説者として健在。

外国人[編集 | ソースを編集]

アニマル・レスリー[編集 | ソースを編集]

  1. 今も日本でタレントとして活躍。
    • 亜仁丸レスリーとして。
      • 「バンクーバー朝日」に出演していたことだろう。
        • 『ビートたけしのスポーツ大将2015〜ナインティナインも参戦SP〜』に出演していた。
  2. オリックス・バファローズのピッチング・インストラクターをしていた。
    • もしくは外国人スカウトに就任した。
  3. レジェンド・シリーズでの阪急ブレーブスOBとして始球式に参加。
    • 受ける捕手の藤田浩雅をボコボコ殴ってスキンシップを再現して派手なパフォーマンスでファンを魅了していた。
      • 息子のルーク健太郎が始球式を務めてはいなかった。

ルイス・サンチェス[編集 | ソースを編集]

  1. 今現在でも水虫が酷くて登録抹消されたと話題になりバラエティ番組ちょくちょく出てきそう。
    • ブラックバラエティや細かすぎて伝わらないモノマネで本人として登場。

ルー・ジャクソン[編集 | ソースを編集]

  1. 来日4年目もサンケイで活躍していた。
    • サンケイアトムズはもう少し続いていた。
    • 1970年はシーズン92敗になることはなかった。
  2. ボブ・チャンスが来日することはなかった。
  3. 引退後はメジャーリーグの監督に就任していたことだろう。
  4. 酒びたりな生活から足を洗っただろう。
  5. 後に広岡達朗が監督に就任したときに、健康管理の大切さを選手たちに伝える際の「反面教師としての悪い見本」が一つ減る。

ヴィクトル・スタルヒン[編集 | ソースを編集]

  1. 現役引退から数年後、読売ジャイアンツ、または高橋ユニオンズのピッチングコーチに就任。
    • その後はロッテオリオンズあたりの監督を務めていた。
    • あるいは阪神タイガースのコーチとして1962年・1964年の優勝に関わっている。(ともに監督は藤本定義)
      • 「村山涙の退場」はなく、村山実を説得して下がらせたスタルヒンコーチが猛抗議して退場。意気に感じた村山は炎のパーフェクトピッチング。
      • トーマス・オマリーより遥か前に「ハンシンファンハ、イチバンヤー!」と叫んでスタンドを盛り上げていたかも。
    • 巨人のコーチになることは多分なかったと思う。
  2. 1960~70年代のON最盛期を解説者として盛り上げていた。
    • 1980年代以降は一転、もっぱら巨人のフロントや補強方針に辛辣な批評を寄せていた。
      • ON全盛期から巨人を批判していたのでは?
    • 巨人ファンからは嫌われていたかもしれない。
  3. 2000年頃まではご存命だったことでしょう。
    • 共に彼の師である藤本定義氏、浜崎真二氏(両氏とも1981年没)の告別式で葬儀委員長を務めていたかもしれない。
  4. 日本に帰化し、正式に「須田博」となっていた。
    • しかしソ連の崩壊後は、祖国ロシアに戻って野球を広める活動もしていたかも。
      • 総監督としてロシア代表を率いてWBCにのり込んで来た可能性も。
        • 予選は日・台・韓・露の対抗戦…。ファンが押し寄せること必至だね。
  5. 当然だが、「旭川スタルヒン球場」は別の名前になっていた。
    • 2009年4月の時点ですでに故人となっていた場合はその段階で命名されていた可能性も。
      • 命名されてた場合、こけら落としのカードは巨人vs阪神。
  6. 同じ白系ロシア人の元横綱・大鵬とも親交を深めていたであろう。

トニー・ソレイタ[編集 | ソースを編集]

  1. 1年契約で日本ハムの打撃コーチに就任していた。
  2. 2006年日本ハムが日本一でお祝いコメントを語っていた。
  3. モルツ球団で編成された「ワールドパワーズ」に参加していた。
    • クロマティやブライアントと共にクリーンナップとして出場。
  4. 2010年大沢啓二の死を悼んでいた。

趙成珉[編集 | ソースを編集]

  1. 韓国プロ野球の解説者、指導者として活躍。 2013年のWBC韓国代表のコーチとして参加。
    • 1次リーグ敗退になることはなかったかもしれない。
  2. 読売ジャイアンツの2軍のコーチとして来日。
    • 主に育成選手を指導していた。
  3. ≒「もし98オールスターで故障およびその後も続投させられなかったら」かもしれない。
    • そして≒「もしチェ・ジンシルと離婚しなかったら」でもある。

ミゲール・デルトロ[編集 | ソースを編集]

  1. 2002年に背番号「32」が1年間限定で欠番になることは無かった。
  2. 西武退団後は母国メキシカンリーグでプレーを行っていた。
    • 主にリリーフとして活躍していた。
      • 再び、日本球界に復帰ヤクルト、ロッテ辺りに入団していた。
  3. WBCの野球メキシコ代表の投手、コーチとして参加していた。
    • 勿論、2013年のカナダ戦で起こった大乱闘にも参加したことだろう。

ブライアン・トラックスラー[編集 | ソースを編集]

  1. 1年契約でソフトバンクの打撃コーチに就任。
    • 2011年に日本一の祝勝会でビールかけでは一人ビールを飲み干していた。
    • 再び、トラックスラーを模した博多人形が販売された。
  2. ドジャースの打撃コーチも務めていた。
    • メジャーへ移籍した城島や井口を指導していた。
  3. 『あらびき団』でふとっちょ☆カウボーイがモノマネを披露していた。
  4. 現役時代にそっくりさんとして話題になった藤本博史がホークスの監督に就任した時に何らかのコメントを残していた。

ボビー・マルカーノ[編集 | ソースを編集]

  1. オリックスかヤクルトどちらの春季キャンプで臨時コーチを指導していた。
  2. 1995年の日本シリーズで観客席で観戦していた。
  3. スカウトとして読売ジャイアンツに紹介したルイス・サンチェスの死を悼んだ。

マイク・ラインバック[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神でコーチやスカウトを務めていたかもしれない。
  2. ランディ・バース氏と同様にゲスト解説者として出演していた可能性が高い。
  3. ランディ・バース氏と同様にプロ野球マスターズリーグやサントリードリームマッチに参加していたかもしれない。
  4. 「探偵ナイトスクープ」の依頼VTR「ラインバックを求めて」で依頼者と彼が対面を果たせていた。

関連項目[編集 | ソースを編集]