もしあの人が存在しなかったら/歌手・音楽家
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男性歌手[編集 | ソースを編集]
西城秀樹[編集 | ソースを編集]
- 『ちびまる子ちゃん』のお姉ちゃんがファンである歌手は別の人物になっていた。
- 日本でも『Y.M.C.A.』といえばヴィレッジ・ピープルだった。
- あるいは本来の意味であるキリスト教青年会の略称として有名になっていたか。
- 紅白で初めてステージの演出でドライアイスを使ったのは別の歌手になっていた。
- 『走れ正直者』もないので、『あったかいんだからぁ♪』が似ていると話題になることもなかった。
- 西城秀樹の妹コンテストが存在しないため、河合奈保子はデビューしていなかったかもしれない。
坂本九[編集 | ソースを編集]
坂本九は友部への疎開中に鉄道事故(常磐線土浦駅列車衝突事故)に遭い、自身と母も脱線した車両に乗り合わせていましたが、事故発生直前に別の車両に移ったため難を逃れました。もしこの時×××していたら?
- 日本の歌手がビルボードに載るのはもっと遅かった。
- 「スキヤキ」といえば満場一致で料理のこと。
ジョン・レノン[編集 | ソースを編集]
- ここに書いてあることの大部分が実現していた。
- 史実通りビートルズが結成されていた場合は、ポール・マッカートニーが中心になっていた。
- オノ・ヨーコやダコタハウスは有名にならなかった。
- ミュージシャンが反戦や平和を語ったり、それに関する歌を作ったりすることは現実以上にタブー視されていた。
- 「専業主夫」の考え方は浸透しているか怪しい。
長渕剛[編集 | ソースを編集]
- 紅白で初めて中継で出演した歌手は別の人物になっていた。
- もちろん、「日本人はタコ」発言もなかった。
- このため、第53回(2002年)の中島みゆきまで紅白での中継出演が途絶えることはなかった。
- もちろん、「日本人はタコ」発言もなかった。
松山千春[編集 | ソースを編集]
- 北海道を代表する歌手といえば北島三郎。
- タカアンドトシのトシの父の職業は何になっていただろうか?
- スキンヘッドのミュージシャンといえば「サンプラザ中野くん」。
- サンプラザ中野くんのモノマネをする芸人も史実より多かった。
- 「キャプテン翼」の松山光も違う名前になっていた。
- 沢城千春(沢城みゆきの弟)も。
- 「恋」といえば一般的に星野源の曲を指していた。
- 足寄町の知名度が史実より低かった。
米津玄師[編集 | ソースを編集]
- 当然「lemon」はない。
- 米津がプロデュースした「パプリカ」も。
- 菅原小春がNHKに重用されることもなかった。(パプリカ振り付け・紅白のlemonでの踊り・いだてん人見絹枝役)
- 「馬と鹿」もないため、「ノーサイドゲーム」やラグビーワールドカップ2019(試合後の音楽)には別の曲が使われていた。
- 米津がプロデュースした「パプリカ」も。
- ヒロアカの主題歌は別の人が作曲していた。
- フラミンゴと言えば鳥のことを指していた。
- orionといえば星座かビールのことを指していた。
- アイネクライネといえばほとんどの人がモーツアルトの「アイネクライネナハトムジーク」を連想していた。
- 「マトリョシカ」などのハチ名義の各種ボカロ曲も存在していなかった。
- 大塚国際美術館の知名度や入場者数が大幅上昇することもなかった。
- チェンソーマンのアニメ版は大爆死しか話題がなくなっていた。
- 当然感電やKICKBACKもなかったので、ニコニコ動画で感電シリーズや車に惹かれる米津玄師は流行しなかった。
女性歌手[編集 | ソースを編集]
安室奈美恵[編集 | ソースを編集]
- 1990年代後半以後も沖縄出身の芸能人は少ないままだった。
- 仲間由紀恵・新垣結衣・国仲涼子など今第一線で活躍している沖縄出身の芸能人の何人かはデビューしていなかったかもしれない。
- MAXやSPEEDもデビューしなかった。
- 1990~2000年代における若い女性のファッションが大きく変わっていた。
- アムラー・ガングロコギャルなどは存在せず、現在に至るまで女性といえば黒髪が主流だった。
- 押切もえや香里奈はモデルとしてデビューしなかったかも。
- アムラー・ガングロコギャルなどは存在せず、現在に至るまで女性といえば黒髪が主流だった。
- 小室哲哉プロデュースは現実ほどブームになっていない。
- その場合、globeは存在せず、華原朋美も歌手として売れなかったか、別の人がプロデュースしてデビューしていた。
- ワンピースの第13作目のOP「One day( The ROOTLESS の曲)」が第516話まで続いていた。
- そのためウィーゴーが第14作目のOPになる。
- The ROOTLESSは史実より人気になっていたが、ボーカルの窃盗事件も史実より話題になっていた。
- そのためウィーゴーが第14作目のOPになる。
宇多田ヒカル[編集 | ソースを編集]
- 1990年代後半当時、和製R&BシンガーといえばUAかMISIAだった。
- 1999年〜2000年代の邦楽シーンは史実とかなり変わっていた。
- 倉木麻衣がR&B路線でデビューすることはなかった。
- ダウンタウンがあの発言をすることもなかった。
- 母親の藤圭子が活動を縮小することもなかった。
- 自殺せずに済んでいたかもしれない。
- 1999年の音楽シーンはもっぱらモーニング娘。の話題で占められていた。
- あるいはだんご3兄弟が史実以上のヒットを飛ばしていたか。
松田聖子[編集 | ソースを編集]
- 1980年代のアイドル史は史実とかなり変わっていた。
- 同じ事務所の太川陽介の本格的な役者転向はもう少しだけ先だったかもしれない。当然、下の通りならかなり早まったかもしれんが。
- サンミュージックはアイドル養成に力を入れなかった。
- そのため早見優や酒井法子などはデビューしなかったか違うプロダクションでデビューしていた。
- 森田健作などを抱えているのでサンミュージック自体が倒産…なんてことは無かっただろうが、規模はもう少しだけ小さくなっていた。
- 「聖子ちゃんカット」が流行になることはなかった。
- 神田正輝との結婚はなかった。
- 神田沙也加もこの世に存在していなかった。
- 「ママドル」という単語が登場するのは史実より後になっていた。
- アニメ『怪盗セイント・テール』のOP「時を超えて(松雪泰子の曲)」が最終回まで続いていたかも。
- そのため第25話から映像が変更されていた。
山口百恵[編集 | ソースを編集]
- 「花の中三トリオ」という単語は存在しなかった。
- ドラマや映画での三浦友和とのコンビが有名になることはなかった。
- 三浦友和は違う人と結婚していた。
- 三浦祐太朗や三浦貴大も存在していない。
- 牧野由依は誰と結婚していたこととやら……。
- 三浦祐太朗や三浦貴大も存在していない。
- 三浦友和は違う人と結婚していた。
- 横須賀市の知名度は史実より低かった。
- ホリプロは目黒区に自社ビルを建てなかったか建てても史実より遅かった。
- マルちゃんの「赤いきつね」は「熱いきつね」になっていたかも。
- 「赤い」は彼女の「プレイバックPart2」の「真っ赤なポルシェ」という歌詞が参考になったとか。あとドラマの「赤いシリーズ」とかも。
YOASOBI[編集 | ソースを編集]
- 「祝福」がないので、機動戦士ガンダム水星の魔女12話のサブタイトルが変わっていた。
- 「アイドル」もないので、ゲッターが注目されることもなかった。
- 【推しの子】も事実ほどヒットしなかっただろう。
美空ひばり[編集 | ソースを編集]
- 地方巡業をしていた1947年、バスが崖に転落する事故に遭ったが九死に一生を得た。
- 昭和の芸能界が大きく変わっていた。
- 美空ひばりに憧れて芸能界に入った歌手や芸能人の多くが別の業界に入っていた。
小室みつ子[編集 | ソースを編集]
シンガーソングライターであり、TM NETWORKに歌詞の提供で知られる小室みつ子が存在しなかったら。
- TM NETWORKがブレイクせずに終わっていた。
音楽家[編集 | ソースを編集]
すぎやまこういち[編集 | ソースを編集]
- 当然、『ドラゴンクエスト』の作曲家は別の人になっていた。
つんく♂[編集 | ソースを編集]
- モーニング娘。がなかったためアイドル冬の時代は史実より長く続いていた。
長戸大幸[編集 | ソースを編集]
- 音楽プロデューサーという職業は世間に認知されなかった、もしくは認知が遅れていた。
- 言うまでもなくビーイングは存在しなかった。
- 蒲池幸子はZARDの坂井泉水になることなく、グラビア卒業後は女優として活動していただろう。
ビートまりお[編集 | ソースを編集]
- ナイト・オブ・ナイツはなかった。
- 某東方キャラが情けないキャラ付けをされることも無かっただろう。
- 東方Projectがニコ動で脚光を浴びるタイミングが少々遅くなっていた。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン[編集 | ソースを編集]
- 平島勉がベートーベン呼ばわりされなかった。
- つんくも「浪速のベートーベン」と呼ばれなかった。
- 学校の七不思議で音楽室はあまり目立たない。
- あるいは別のクラシック作曲家がネタにされていた。
- 年末に1万人合唱が無くなる。
- シューベルトの人生が平凡に終わり、あまり有名にならなかった。
- 小泉元総理の髪型はそこまで目立たなかった。
- 「交響曲」や「ピアノソナタ」がそれほど重厚なものにならなかった。
- ハイドンが100曲以上、モーツァルトが41曲も書いたのでわかる通り、ベートーヴェン以前の交響曲はそんなに手間のかかった「大曲」ではなく、もっと軽いサロン音楽的なものだった。ベートーヴェンはそこに思想性などを盛り込んだりしたために9曲しか書けず、同時に交響曲をすごく重厚なものにした。
- この結果、ブルックナーやマーラーも、もし出現していたとしても作風はだいぶ違った物になっていた。
- ブラームスも。
- 「師匠ベートーヴェンのピアノ曲が難しすぎて弾かれなくなる」のを憂いたツェルニーが大量の練習曲を書くこともなかった。
- 結果、「ツェルニー30番」「ツェルニー40番」といった定番的練習曲集も生まれず、クレメンティ→クラーマー系統の練習曲がピアノ教育界の主流となる。
- ツェルニーの弟子だったリストも作風が変わっている。
- 「音楽の粋」と考えられているのは一貫してオペラであり、器楽曲の地位は今より低くなっている。
- そのオペラも、ベートーヴェンの影響を大きく受けたヴァーグナーによる改革が無いため、わりと軽い物が主流になっている。
- 佐村河内守のゴーストライター騒動もなかったはず。
- 音楽を黙って聞くこともなかった
- タモリ曰く「ベートーヴェンが音楽に深刻さを持ち込んだんですよ!」音楽はもっと気楽なものだった。