もしあの力士が○○だったら/あ~さ行

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  • 力士の追加は(最終的な四股名の)50音順でお願いします。
  • 事件関連は発生から半年間は新設禁止とさせていただきます。

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あ行[編集 | ソースを編集]

安藝ノ海節男[編集 | ソースを編集]

双葉山の連勝を止めなかったら
  1. 「あの一番で横綱になることはなかった」と本人が言ったから、当然横綱は無理だ(良くて大関止まり?)。
  2. 常ノ花の娘婿になることはないから、その後離婚して相撲協会を去ることはなかった。
    • 停年(1979年5月)直前まで出羽海部屋付きの年寄として相撲協会に残る(死去したのは1979年3月)。
    • 自身が経営していたちゃんこ店の地下にキャバレーを入居させてしまった件もあるのでそれはなさそう。
  3. 常ノ花死去後その後継者に名乗りを上げる。

曙太郎[編集 | ソースを編集]

四股名が「大海」のままだったら
  1. 千代大海は別の四股名になっていた。
  2. 「まけぼの」と呼ばれることはなかった。
    • そのかわり大敗と呼ばれる。
  3. 「1年ぶりの春は曙」の名実況は生まれなかった。
  4. 曙貴時代ではなく大貴時代か海貴時代と呼ばれていた。
  5. 弟が入門することはなかった。
  6. 勢が大正時代以来となる一文字四股名の関取として現実以上に注目される。
    • それは幕内力士としての話。十両なら1997〜1998年に嵐がいた。
  7. 一文字四股名の外国人関取第一号は魁だった。
1992年春場所で負け越していたら

1992年初場所から夏場所まで13勝2敗(西小結)→8勝7敗(東関脇)→13勝2敗 (西関脇・初優勝)の成績で翌名古屋場所に大関昇進したが、春場所は千秋楽の貴花田戦でようやく勝ち越し。もし貴花田戦に負けて負け越していたら?

  1. 夏場所は小結か前頭1に落とされていた。
    • 夏場所で優勝しても名古屋場所は関脇に返り咲くだけ。大関昇進は少し遅れていた。
      • 名古屋場所が史実通り全休だったら、翌秋場所は平幕まで落とされていた。
    • 安芸ノ島が小結として千秋楽結びの一番に出場することはなかった。
  2. その後の大関・横綱昇進が遅れた。
    • 具体的検証 1992年夏13-2優勝(小結)→名古屋全休(関脇)→秋11-4(前8、史実では9勝だが幕内中位まで落ちることを考慮)→九州14-1優勝(前1)→1993年初13-2優勝(関脇)→春10-5(大関)→夏13-2(大関)→名古屋13-2優勝(大関)→秋14-1優勝(大関)→九州13-2優勝(横綱)
      • 1993年名古屋場所後の横綱昇進の可能性もあり。その場合には直前2場所大関で14-1優勝→13-2優勝同点の貴ノ花との整合性から同時昇進となるだろう。
      • いくらなんでも2・3場所前が平幕での大関昇進は無理があるのでは。
        • 1991年の琴錦で話題に上った「関脇以下での連続優勝なら大関昇進」が適用されると思う。
1999年1月に引退していたら

休場していた初場所中に引退届を密かに提出したが時津風理事長に慰留された。もしそのまま引退していたら?

  1. 稀勢の里が横綱に昇進した際、1991年以来26年ぶりの4横綱時代到来と報道される。
  2. 秋場所後に引退相撲を行なった場合、若貴兄弟が休場のため横綱土俵入りは露払いを千代大海、太刀持ちを武蔵丸が務める。
  3. 2000年名古屋場所は魁皇、九州場所は琴光喜が優勝していた。
    • 春場所の貴闘力が千秋楽を待たずに優勝を決めていた可能性がある。
      • 少なくとも横綱同士の割が崩される事態は起きない。
  4. 同部屋の弟弟子を横綱土俵入りで従えることは一度もなかった。
    • 高見盛の十両・幕内昇進も遅れていたかも。
  5. 史実通り5年間の期限つきで曙親方として協会に残るが、どのみち特権が切れる2004年までに退職していた。
相撲界に残ったら
  1. 師匠の高見山から東関部屋を継いだ。
    • 潮丸は部屋付き親方にとどまるが現役は長くなる。
      • 潮丸の死後に高見盛が部屋を継ぐことはなかった。
  2. K-1やプロレスには関わっておらず例のAAも誕生しない。
    • この場合も「まけぼの」と呼ばれることはなかった。

朝潮太郎(四代目)[編集 | ソースを編集]

1988年名古屋場所千秋楽で負けていたら

1988年夏場所は足の怪我で途中休場。次の名古屋場所は角番で千秋楽を7勝7敗で迎え大関陥落のピンチでしたが勝って大関陥落を免れました。もし千秋楽で負けていたら

  1. 師匠から引退を勧告されてこの場所限りで引退した。
  2. 現役を続けた場合、次の秋場所で大関復帰を目指すが9勝に終わり、大関復帰は成らなくなる。
    • この場所で引退した場合、10月に師匠の高砂親方が死去したため、地位と実績で朝潮が高砂を襲名できた。
  3. 対戦相手の北天佑が「勝ちを譲った」と思われることはなかった。
1981年春場所で北の湖と対戦していたら

この場所は前頭筆頭だったにも関わらず横綱北の湖との対戦がなかった。もし順当に割が組まれていたら。

  1. 春日野理事長の謝罪内容は休場・引退した横綱・大関陣への言及にとどまった。
  2. 勝っていれば北の湖は同場所以降3連続で千代の富士との千秋楽相星決戦に出たことになる。
  3. 翌場所の対戦は序盤に組まれた。
    • 北の湖が夏〜名古屋場所に記録した連勝は20を上回った。

朝青龍明徳[編集 | ソースを編集]

サッカー騒動を起こしていなかったら
  1. 2007年9月場所と11月場所は当然出場していた。
    • 2場所の内、最低1場所は優勝していた。
    • 場合によっては2007年の年間最多勝は朝青龍になっていた。
    • 「1差で追いかける力士が千秋楽に不戦敗しての優勝決定」はなかった。
    • 新入幕の豪栄道が白鵬と対戦しなかったかもしれない。
  2. 本田医師が有名になることはなかった。
    • 王理恵との婚約で名が知られることになる。
  3. 内舘牧子はもう少し大人しかった。
  4. 中田英寿は忘れられたままだった。
  5. 意外と琴光喜戦の連勝ストップが早まったりして。
  6. 9月場所初日の賜杯返還式で高砂親方が「ツルツル親方!」と呼ばれることはなかった。
2010年初場所中に通行人を殴らなかったら
  1. 横綱審議委員会から引退勧告が出て、それを受ける形で引退することはなかった。
  2. あと2~3年は現役を続けた。
    • それ以上続けていたら晩年は全休続きだったであろう。
  3. 優勝回数も増えて、千代の富士と大鵬の記録を超えたかもしれない。
    • それでも白鵬には抜かれているはず。
  4. 白鵬の63連勝はなかった。
  5. 朝青龍に勝てなかった把瑠都、鶴竜、栃煌山は白星を得ていた。
  6. 大相撲八百長問題で週刊誌に「黒幕」だの「元凶」だのと嘘八百の記事を書かれた。
    • そうならなかったとしても東日本大震災以降の排外主義の拡大により激しいバッシングの標的にされた。
      • 史実の白鵬のように殺害予告をされるくらいの事態はほぼ間違いなく起きている。
      • 下手をすると国技館の前で排外デモが起きていた。
  7. 不祥事以外の理由で引退していても年寄になることはなかった。
    • 本人の性格からしてモンゴル国籍放棄は想像しにくい。
2001年春場所千秋楽に大関出島に勝っていたら
  1. 前場所千秋楽に負けて獲り損ねた敢闘賞を2度目の正直で受賞した。
  2. 出島が関脇に陥落し三役の空き家が減るため小結昇進が遅れる。
    • 勝って三役昇進を逃す珍しいケースになっていた。
    • 逆に初金星獲得は2場所早まった。
  3. 横綱在位時(対魁皇・千代大海)も含め「7勝7敗の大関に強い」と言われていた。

旭富士正也[編集 | ソースを編集]

「旭國」に改名していたら
  1. 大島部屋を継承していた可能性が高い。
  2. 史実通り伊勢ケ浜なら、伊勢ケ浜部屋の所属力士は「〇〇富士」ではなく「〇〇國」と名乗っていた。

板井圭介[編集 | ソースを編集]

年寄として相撲協会に残っていたら
  1. 師匠高鉄山の廃業に伴い大鳴戸部屋を継承。
    • それ以前に「春日山」を襲名したので、陣岳が株を借りられずそのまま廃業していた。
  2. 外国人特派員協会での講演で八百長問題を暴露することはなかった。
  3. 2011年の八百長事件で過去の八百長を暴露する。その発信源が板井であることが分かり相撲協会を追われる。
幕下付出で初土俵を踏んでいたら

実業団時代に国体青年の部で優勝しましたが、付出申請を行わなかったため前相撲から取りました。では付出でのデビューが認められていたら?

  1. 前相撲からのスピード昇進や連勝記録はなかった。
  2. 入幕直後に低迷せず「高鐵山」の四股名が定着した可能性もある。
  3. 三役には20代のうちに昇進できた。
  4. 1度くらいは千代の富士に勝っていた。

大乃国康[編集 | ソースを編集]

1991年春場所千秋楽、大関霧島に勝っていたら
  1. 結局優勝は北勝海。後年の貴乃花バリの「感動優勝」。
    • 北勝海、不屈の精神力で結びの旭富士もしくは決定戦の大乃国戦を制す。
      • そして膝の怪我が更に悪化し1年以上休場。穴埋めで小錦が横綱昇進...か?
  2. もしも大乃国が逆転優勝していれば引退した91年名古屋場所も休場して再起を図るという道も許されたはず。翌年くらいまでは延命できたかもしれない。
  3. 霧島は11敗目を喫し、大関が優勝翌場所に残した最多敗記録(北の冨士の10敗)を更新していた。
ガチンコ横綱でなかったら
  1. 少なくとも横綱としての負け越しはない。
  2. 横綱にはもっと早く昇進していた。
  3. 千代の富士戦で相手を負傷させたり、自身が怪我することもなかった。
  4. 八百長問題の際に再評価されることもなかった。
    • 弱い横綱という印象しか残らない。
  5. 千代の富士の連勝を止めることはなかった。
  6. 板井を苦手にすることもなかった。

かさ行[編集 | ソースを編集]

鶴竜力三郎[編集 | ソースを編集]

2014年初場所の千秋楽の本割で白鵬に敗れていたら
  1. 春場所で史実通り優勝していても、横綱昇進が見送られたかもしれない。
    • 2018年春・夏場所に連覇してようやく昇進か?その前に連続休場で大関を陥落した恐れもあるが。
  2. 白鵬は全6場所全勝優勝を達成していた。
  3. 同じ星取を記録した1986年春場所の保志が引き合いに出され「オセロなら全敗」と話題になった。
2014年初場所の優勝決定戦で白鵬に勝っていたら
  1. 鶴竜も連続優勝で横綱に昇進していたため、「横綱昇進は連続優勝が絶対条件」という不文律が解かれることは無かった。
    • それでも2016年初場所後の稀勢の里の昇進(12勝3敗で優勝次点でもない→14勝1敗初優勝)には何の影響もなかった。

柏戸剛[編集 | ソースを編集]

1963年秋場所千秋楽で大鵬に負けていたら
  1. 勝った大鵬は「血も涙もない」「情け知らず」「鬼」と叩かれていた。
  2. 石原慎太郎がスポーツ紙にあの一番を「八百長」と寄稿して、相撲協会から名誉毀損で訴えられることもなかった。
  3. 翌年春場所の2度目の柏鵬全勝対決で柏戸が大鵬に勝ち、雪辱を果たした。
1961年秋場所終了後に横綱に昇進していなかったら
  1. 「最も低い成績での昇進」「大鵬との抱き合わせ昇進」と言われることはなかった。
  2. 休場を繰り返した1963〜1965年に番付を大幅に下げていた。
    • 下手したら照ノ富士のような番付推移を記録していた。
  3. 横綱になることはできないが、名大関として名を残していた。
  4. 東北新幹線開業まで塩原温泉の知名度は低かった。

北の湖敏満[編集 | ソースを編集]

1973年九州場所を途中休場していたら

この場所新関脇だった北の湖は12日目に足首を骨折しますが、千秋楽まで出場して10勝を挙げます。もしこの時休場していたら?

  1. 少なくとも翌場所後の大関昇進はない。
    • 大鵬の最年少横綱昇進記録も更新できなかった。
  2. 四つ主体の取り口に切り替えるのが遅れた。
  3. 連続勝ち越しも短くなる。
栃錦の養子になっていたら

実子がいなかった元横綱栃錦の春日野親方(当時)は同じ一門の北の湖をかわいがり、養子に迎える意向も持っていたそうです。もし2人の養子縁組が実現していたら?

  1. 本名は「中田敏満」に変更。
  2. 師匠・三保ヶ関(増位山大志郎)との関係がやや微妙に。
  3. 北の湖が栃錦の後継者になり、栃錦死去後の春日野部屋が北の湖部屋になっていた。

旭道山和泰[編集 | ソースを編集]

衆議院議員にならなかったら
  1. 「廃業」という言葉は今でも普通に使われていた。
    • 舞の海も「廃業」扱いになっていた。
    • 今でも普通に使うだろ、廃業。
      • 旭道山の国会議員転向がきっかけで「廃業」はイメージが悪いということで、全て「引退」扱いになりました。
        • それ以前に「廃業」というののイメージの悪さや、実際は相撲にかかわる仕事に再就職しているという例もあるので、公式では言葉をなくすチャンスのひとつだったのかもしれない。
    • 現在でも協会を去った力士は国技館で引退相撲を行えない。
    • 朝青龍が現役を退いた際、双羽黒廃業事件がよりクローズアップされる。
  2. 相撲協会に残っていたら師匠(元・旭國)の停年後に大島部屋を継いでいた。
    • 旭天鵬の帰化はないか、実際より遅れる。
      • 旭秀鵬を入門させるため普通にやっていたかも、
  3. 千代大海と血みどろの張り手合戦を展開する。
1990年春場所2日目の千代の富士戦に勝っていたら
  1. 千代の富士は9日目の琴錦戦で通算1000勝を達成した。

清國勝雄[編集 | ソースを編集]

日航123便に妻子が乗っていなかったら

こちらも参照。

  1. 伊勢ヶ浜部屋の衰退はなく、桐山部屋に吸収されることはなかった。
  2. 旭富士は自分の部屋を安治川部屋から伊勢ヶ浜部屋へ変更することもなかった。
  3. 恐らく甥の玉ノ国、玉乃島兄弟は伊勢ケ浜部屋に入門していた。
    • 玉乃島が清国を襲名し、伊勢ケ浜部屋を継承した可能性も。
  4. 再婚も次男の誕生もない。
  5. 長男が角界入りし清國の名を継いでいた。
1964年初場所で15戦全勝していたら
  1. 大鵬との優勝決定戦で負ければ、千代ノ山以来「全勝しながら優勝できなかった力士」になる。
  2. 大勝ちしている幕内下位の力士と横綱、大関の取組が史実(1971年以降)より早く実施される。
  3. 優勝決定戦で勝っていたら、入幕2場所目での優勝となり、入幕3場所で優勝した佐田の山より1場所早く、昭和以降の最短記録を更新することになる(大正時代には新入幕で優勝した両國がいた)。
    • 敗れた大鵬にとって最大の屈辱になり、あちこちから叩かれ、気落ちして史実より早く引退した。
      • 32回の優勝や45連勝など大記録はなかった。
      • 一代年寄を許されることもないため年寄「大嶽」を襲名し、大嶽部屋を創設した。
  4. 史実より早く大関に昇進し、横綱に上がったかもしれない。

琴錦功宗[編集 | ソースを編集]

女性問題を起こさなかったら
  1. 騒動を起こした直後の場所は大関取りの場所だったので、場所後に大関に昇進できた。
    • ただし展開次第では兄弟子の琴富士の優勝が幻と消えていた恐れもある。
  2. 平幕で2回も優勝することはなかった。
  3. とっくに年寄名跡を取得している。

琴光喜啓司[編集 | ソースを編集]

2002年初場所後に大関に昇進していたら
  1. 後に31歳3ヶ月の最年長大関昇進記録を更新することはなかった。
  2. 野球賭博に手を出してそれが原因で解雇されることもなかった。
  3. もしかしたらその勢いで横綱昇進を果たし、朝青龍の好敵手になった可能性も。
  4. 大関に昇進した日に起きた朝青龍のサッカー騒動で自身の大関昇進のニュースが小さく扱われることはなかった。
野球賭博問題がなければ
  1. 少なくともあと数年は大関を張っていた。
    • 大関陥落後も現役を続けた場合、40歳くらいまでできたと思う。
  2. 魁皇引退から琴奨菊昇進までの1場所だけあった日本人大関不在場所もなかった。
  3. 佐渡ヶ嶽部屋から大関が3人いる状況が実現していた。
  4. 引退後は恐らく独立して部屋を興していた。
  5. まだ余力を残していたのであと1回くらいは優勝できた可能性も。
    • とりあえず、「栃東以来10年云々」と言う言葉はなかった。
四股名を「琴光喜」ではなく「琴圭傑」か「琴吉勝」に選択していれば
  1. 恐らく本人が経営する焼肉屋の名前は「やみつき」ではなかった。
  2. 「琴汚怒」という用語も生まれることはなかった。
  3. 「琴吉勝」の場合、同部屋の呼出と混同される。
  4. 「琴圭傑」だったら消極的な相撲を取ると「琴汚傑」と揶揄される。
    • 琴ノ若が現役最終戦で変化された際、「弟弟子の報い」と言われたかも。

小錦八十吉(六代目)[編集 | ソースを編集]

1984年秋場所千秋楽の琴風戦に勝っていたら
  1. この後の相撲で朝潮に敗れた多賀竜と13勝2敗同士での優勝決定戦に出場。
    • 勝った場合は史上最速となる入幕2場所目での優勝を達成。
      • 朝潮の援護射撃が後々まで語り継がれる。
    • 本割り(6日目)同様に多賀竜が勝てば、琴風でなく多賀竜が「止め男」と称される。
    • 平幕同士の決定戦が史実よりずっと早く行われる。
東関部屋へ移籍したら

高見山が高砂部屋から独立して東関部屋を創設する際、ハワイでスカウトした小錦も移籍するのではないかと噂されましたが、高砂部屋に残ったままでした。もし移籍したら?

  1. 高砂部屋の兄弟子だった朝潮や水戸泉との取組が組まれる。
  2. 幕内での外国人同士の初の取組は1992年初場所3日目の小錦-武蔵丸戦となった。
    • 1988年夏場所に南海龍戦が組まれるのでは?
  3. 小錦の大関陥落が決定した一番の相手が曙でなかった。
  4. 1993年初場所で大関同士の取組がなかった。
  5. 佐ノ山親方として協会に残り続け2009年に東関部屋を継承した。
    • 千代大海は別の年寄名跡を取得していた。

逆鉾與治郎[編集 | ソースを編集]

失踪事件を起こさなかったら
  1. 幕内上位から三役で活躍できた。
  2. 三賞も複数回受賞した。
    • 相撲ぶりから見て技能賞も受賞した。
  3. 1972年の井筒部屋のお家騒動では兄弟子の関脇鶴ヶ嶺に従い、君ヶ濱部屋所属になっただろう。
  4. 京都でちゃんこ屋を開くことはなかった。

関連項目[編集 | ソースを編集]