もしあの市町村があの地域を編入しなかったら/関東
茨城[編集 | ソースを編集]
石下町(現常総市)[編集 | ソースを編集]
- 水海道市への吸収時に常総市に改名。
- 水海道市+伊奈町+谷和原村の合併が成立。これが「常総市」を名乗る。
- もちろんつくばみらい市という市名は誕生しない。
- 石下は下妻市と合併。
- というかその合併協議の破談が水海道に編入される契機となったわけで。
総和町(現古河市)[編集 | ソースを編集]
- 順調に行けば2010年の国勢調査で市制条件を満たし、市制していた。
- 新幹線駅の誘致は・・・
- 実際に総和町でも誘致あったみたいだからあるんではないかと。
- ついでに、在来線建設の誘致も行われる。
- 東京直結鉄道の計画ルートが豊洲-押上-亀有-野田市-岩井-境-総和-古河になっている。
- 三和町も合併していない。
- 寧ろ、三和町が総和町に編入されていた可能性がある。
波崎町(現神栖市)[編集 | ソースを編集]
- 神栖町が単独で市制施行し、神栖市になっていた。
- 波崎町が千葉県銚子市との越境合併を視野に入れる可能性も高い。
- 波崎町が単独市制できるかは微妙なところ。
- 財政はアレだが千葉に付ければいいと考えるか…
柳河村(現水戸市・ひたちなか市・那珂市)[編集 | ソースを編集]
- 東日本で唯一「そん」と読む村が存在していた。
- 一部地域が勝田市(現ひたちなか市)と那珂町(現那珂市)に編入されることはなかった。
多賀町以南(現日立市)[編集 | ソースを編集]
- 多賀町は1960年代に入ってから単独で市制施行していた。
- 久慈町は周辺の2村と合併していた。
- 平成の大合併で久慈町は常陸太田市に編入されていた。
- 当然ながら大甕と常陸多賀の発車メロディはご当地化されていない。
平潟町(現北茨城市)[編集 | ソースを編集]
- 茨城県の一番北部にある小さな町として自立していた。
- いわき市に弟子入りする人が出てきたかもしれない。
- 平成の大合併で北茨城市に編入されている。
栃木[編集 | ソースを編集]
黒磯市(現那須塩原市)[編集 | ソースを編集]
- 西那須野町と塩原町で那須塩原市になっていた。
- それでも那須塩原駅の所在地は旧黒磯市だが。
- 西那須野町と大田原市が合併する可能性は低そう。
- 黒磯市と那須町が合併に繋がる場合もあった。
今市市と塩谷郡2町村(現日光市)[編集 | ソースを編集]
- 3市町村で新・今市市になっていた。
- 日光市が栃木県内で大きな自治体になることはなく今市市が県内で大きかった。
- やっぱり栃木県内で人口が少ない市が日光市である。
- 日光市役所は旧日光市にあるまま。
- 足尾は史実通り日光市になった。
北犬飼村・北押原村・南押原村(現鹿沼市)[編集 | ソースを編集]
- 壬生町と合併していた。
- もしかしたら壬生町は市制施行していた可能性が。
河内町・上河内町(現宇都宮市)[編集 | ソースを編集]
- この2町が合併して「下野河内市」が誕生していた。
- 「河内市」だと大阪府東大阪市民が納得いかないため。
- 岡本駅があるが他の市町村の人から「河内駅はないの?」と突っ込まれる。
群馬[編集 | ソースを編集]
平成の大合併で高崎市に編入された6町村[編集 | ソースを編集]
- 群馬県内最大都市は前橋市のままなので前橋市が現実ほどには貶められなかったかも。
- ただし高崎vs前橋が盛り上がっているのは変わらず。
- ご当地ナンバーは前橋ナンバーの方が高崎ナンバーより先に認可・発行された。
- 新町の飛び地は無かったはず。
- 群馬町は前橋市に編入されて、新町は藤岡市に編入されたかもしれない。
松井田町(現安中市)[編集 | ソースを編集]
- 合併反対が強まって新・安中市は誕生しなかった。
- 反対多数が多かったので松井田警察署も安中警察署に編入されなかった。
- 警察署再編はどちらにせよ行われていたと思う。
- 安中市自体が高崎市との合併に踏み切っていた可能性も。
- 安中市に北陸新幹線の安中榛名駅があるのでそんなことはない。
黒保根村・新里村(現桐生市)[編集 | ソースを編集]
- この2村はみどり市になっていた。
- 桐生市には飛び地はできなかった。
群馬郡東村(現前橋市)[編集 | ソースを編集]
- 「東」が付く村が消えることはない。
- 利根郡の東村が改名していなかったら群馬県に東村が5つある状態が平成の大合併まで続いていた。
利根村・白沢村(現沼田市)[編集 | ソースを編集]
- 沼田市は松本市みたいないびつな形にならなかった。
- 沼田市は代わりに川場村を編入した。
- それでも川場村は世田谷区に編入されないだろう。
埼玉[編集 | ソースを編集]
川越市のまわりの9村[編集 | ソースを編集]
- 川越市が中核市になることはなかった。
- 人口はざっと10万人。入間地域の中枢は所沢になっていた。
- 南部は狭山に編入されていた。
- 人口はざっと10万人。入間地域の中枢は所沢になっていた。
- 平成大合併時、狭山・坂戸などを巻き込んだ「かわごえ市」が誕生する。
- さいたまみたいとかわごえしみんがはんたいするかも。
- 反対どころか、小江戸のイメージが崩れるのでさすがにそのままじゃね?
- 当然、川越の名誉挽回などもってのほか。
- いつの間にか狭山に編入されていた。
- 古谷村は南古谷村と合併していた。
- で、南古谷駅は古谷駅に改称。
指扇村(現さいたま市西区(旧・大宮市))[編集 | ソースを編集]
- 指扇村は植水村、馬宮村と合併し、指扇は町制化。
- さいたま市成立時にストレートに指扇区が誕生する。
- 平方町も上尾ではなく指扇と合併していた。
美園村(現さいたま市緑区(旧浦和市)・川口市)[編集 | ソースを編集]
- さいたま市成立時に浦和・大宮・与野と合併、単独で美園区となる。
- 東川口駅は美園駅として開業。現浦和美園駅は新美園or美園中央駅となる。
- 東川口駅は戸塚駅であり、浦和美園駅は大門駅になっていたと思われる。(旧美園村は旧戸塚村、旧大門村、旧野田村の三村が合併して成立した)
- その方がいいけど、このあたりでは自治体名ではない地名は駅名に採用してもらえない。武蔵野線の駅名からも明らか。
- 戸塚安行駅が(戸塚駅だと東海道線とかぶるため)武蔵戸塚駅になっていたかも。
- 美園の名前は残して美園戸塚の可能性もある。
- 戸塚安行駅が(戸塚駅だと東海道線とかぶるため)武蔵戸塚駅になっていたかも。
- その方がいいけど、このあたりでは自治体名ではない地名は駅名に採用してもらえない。武蔵野線の駅名からも明らか。
- 東川口駅は戸塚駅であり、浦和美園駅は大門駅になっていたと思われる。(旧美園村は旧戸塚村、旧大門村、旧野田村の三村が合併して成立した)
- 東北道浦和ICは美園ICになっていた。
- 浦和レッズは今でも駒場をホームスタジアムにしている。
岩槻市(現さいたま市岩槻区)[編集 | ソースを編集]
- 岩槻市は春日部市・庄和町の2市1町で合併、新・春日部市(?)は越谷市を人口で抜く上に面積の条件もクリアし、県東部初の中核市に。
- さいたま市は広島市より人口が少ないままで、人口順位10位以内(東京23区含む)になれなかった。
安行村(現川口市、草加市)[編集 | ソースを編集]
- 東京近郊の緑豊かなオアシスやリゾート地として密かに人気が集まる。
- 安行村政としてはあえて都市化せずに自然と緑を残存させ、かつ、和風の旅館やお土産に植木を売る商店を併設た安行村営温泉などを開発し独自の発展を遂げる。
鳩ヶ谷市(現川口市)[編集 | ソースを編集]
- 武南市は未だに一部実現する事は無かった。
- 今でも、日本で2番目に小さい市は鳩ヶ谷市だ。
- 何故か東京都が鳩ヶ谷市編入構想をする。
北平柳村(現川口市)[編集 | ソースを編集]
- 史実通り鳩ヶ谷市が市制したら日本で1番目に小さい市になっている。
- この狭い面積で持てるのだろうが…?
- 代わりに1940年に川口市が編入していた。
名栗村(現飯能市)[編集 | ソースを編集]
- 名栗村は鉄道が通っていないため、鉄道建設を求めていたんだろうが。
- 変わりに秩父市が編入していた可能性があり得る。
- 秩父-名栗には道路がない。それなら山伏峠を挟んで隣接する横瀬町と合併するかも。
大井町(現ふじみ野市)[編集 | ソースを編集]
- 遅くとも2015年には単独で市制施行していた。
- 市境がごちゃごちゃであるのは変わらず。
- JTBの時刻表にある市の代表駅をふじみ野駅にしようとして揉める。
宗岡村(現志木市)[編集 | ソースを編集]
- (志木町が合併せず市制していた場合)志木市は最小の市となる。
- 市制は2000年代入ってから。それまでは東京に最も近い町となる。
- 計算ミスをしていたようで、現在確認したところ47000人だったからまだ市制できていない。
- 史実以上にマンションが林立し、市制できていたかもしれない。ただそれでも人口は5万人ギリギリくらい。
- 計算ミスをしていたようで、現在確認したところ47000人だったからまだ市制できていない。
- 「日本で最も繁栄している町村」の常連になってただろうね。
- 市制は2000年代入ってから。それまでは東京に最も近い町となる。
- 恐らく人口密度も最大。
- 現在(2016年)人口密度最大の志免町の3倍はある。
- 一方宗岡村→宗岡町は富士見市あたりに編入された。
- 意外とこれでも面積最小になるのは結構後みたい。
- というか、もしかしたら現在(2016年)も町村含めたら最小じゃないのかも…?
南河原村(現行田市)[編集 | ソースを編集]
- 北埼玉郡は今でも存続している。
- 熊谷と行田の間の微妙なバランスをとりながら生き残っている。
- 今でも交通死亡事故ゼロを継続している。
- 矢祭町と同様に「合併しない宣言」をしていた。
北河原村(現行田市)[編集 | ソースを編集]
- 中学校閉校は史実通りになり、南河原中学校と組合立になる。
- 結局、平成の大合併で南河原村とともに行田市に編入される
大滝村(現秩父市)[編集 | ソースを編集]
- 埼玉県の一番西にある自治体が大滝村ということがイメージ通りになる。
- 秩父市は山梨県や長野県と隣接していない。
原市町(現上尾市)[編集 | ソースを編集]
- ニューシャトル、東北・上越新幹線、東北本線は上尾市を通らない。
- 原市町に東北本線の駅を設置しようという声が出る。
- 駅名は新原市駅?
- 原市町に東北本線の駅を設置しようという声が出る。
- ハライチの出身地はこの町である。
- 伊奈町とともにさいたま市になっていた。
菖蒲町(現久喜市)[編集 | ソースを編集]
- 騎西町は加須市ではなく菖蒲町と合併していた。
- 確実に市制施行していた。
- 合併直前の人口は約2万人。ここから市制施行ということは西武新宿線桶川経由久喜延伸と新幹線菖浦駅のウルトラCくらいないときついぞ。
- 特例法適用であれば人口3万人で市になれるので騎西+菖蒲でも市制施行可能。
- 圏央道の白岡菖蒲ICは単なる菖蒲ICになっていた。菖蒲PAは史実通り。
- 白岡との関係は変わらないので史実通りの可能性が高い。
平方町(現上尾市)[編集 | ソースを編集]
- 平方のどろいんきょが当町の自己PRになっていた。
- 大谷と大石が平方町に編入されていた可能性がある。
- 上尾市は上平村と原市町のみ合併していた。
- 上尾道路ではなく桶川道路になっていた。
- 大谷・大石とともに川田谷もこっちに来ていれば平方道路になっていた。
- 大石・大谷より指扇との合併の可能性の方が高いだろう。
- 編入無しで単独で残るとなると2001年にさいたま市と合併されていた可能性があった。
- そして西区に配属へ。
- 人口が減少傾向にならなければ少しはあり得たかも。
日比田村(現所沢市)[編集 | ソースを編集]
かつて所沢市日比田地区は役所の手違いで東京都所属になってしまったことがあるそうです
- 間違えるきっかけとなった大岱村(現在の東村山市恩多町)は埼玉のまま。
- 東京と埼玉にでかい飛び地が出現する。
- 作者が所沢に住んでいたため翔んで埼玉でもネタにされていた。
- 北山村みたいに自治体そのものが飛び地なっていたかも。
- いまだに飛び地なのは日比田・大岱で交換する予定が地元住民が同意しないとされていた。
千葉[編集 | ソースを編集]
沼南町(現柏市)[編集 | ソースを編集]
- 市制していたか怪しすぎる。
- 我孫子市に編入されている方が現実的かも。
小金町(現松戸市)[編集 | ソースを編集]
1954年9月に柏町・土村・田中村と合併して東葛市となったが同年10月に分離して松戸市に編入された小金町(11月に東葛市は柏市に改称)。もし現在この地域が松戸市に含まれていなかったら。
- 新松戸駅は別の駅名になっていた。
- 恐らく「南小金」を名乗る。
- 国鉄が「北馬橋」という仮称を用いることもなかった。
- 流鉄との連絡運輸が正式に認められる。
- 単独で残った場合
- 1960年代に市制施行し小金市となる。
- しかし小金井市と度々間違えられる。
- 上野駅からここに行こうとして東北本線の小金井行きに誤乗するケースも発生。
- それでも北小金に快速は停まらない。
- 東葛市に編入されたままだった場合
- 少なくとも中核市移行は史実より早かった。
- 富勢村の全域が我孫子市になる。
関宿町(現野田市)[編集 | ソースを編集]
- 野田市が合併しないとなると県越合併しか方法が無い。
- 五霞町と合併計画をするものの結局は断れる。
- 幸手市にも断られる。
幕張町(現千葉市)[編集 | ソースを編集]
- 幕張が史実通り大発展していれば、大宮と浦和のような関係になっていただろう。
- 津田沼町と八千代町を編入していた可能性がある。
- 後に千葉市が合併されたとしても単独で「幕張区」が誕生する。
行徳町・南行徳町(現市川市)[編集 | ソースを編集]
- 浦安町と合併して「行徳市」になっていた。
- 市役所は間を取って旧南行徳町役場に置かれていただろう。
- 人口は30万人を超えている。
- 「浦安」はあくまで行徳市の一地域であり、「浦安鉄筋家族」が史実通り描かれていればようやく少しだけ知られていた。
- ディズニーランドも行徳市内にあるというだけで特に問題もなかった。ただ京葉線開通までは東西線浦安駅が最寄だったため、その点では知名度が少しは望めるかもしれない。
- 市川塩浜駅は「行徳塩浜駅」を名乗っていた。
- 新浦安駅はそのままだったかもしれない。
- 単独で生き残っても2000年頃までに市制施行する。
- 浦安と同じ(1981年)頃には市制施行可能だと思う。
印旛村・本埜村(現印西市)[編集 | ソースを編集]
- 印旛村はのちのち町制していた。
- 栄町と合併して市制施行していたかも。
香取町(現香取市)[編集 | ソースを編集]
- 合併するまで香取郡の中心地となっていた。
- 平成の大合併で佐原市を入れずに小見川町、山田町、栗源町と合併して香取市になっていた。
- 合併に参加しなかった佐原市は神崎町を編入しようとしていた。
川上村(現八街市)[編集 | ソースを編集]
- 八街市はかなりいびつな形になっていた。
- これで川上村が佐倉市との合併を選んだ日には…
- 千葉東金道路が史実より北に建設され、八街川上インターができていた。
天津小湊町(現鴨川市)[編集 | ソースを編集]
- 千葉県の合成地名が大網白里市、横芝光町、天津小湊町で3つ揃うことになる。
- 鴨川市は代わりに和田町を編入していたかも。
南総町・加茂村(現市原市)[編集 | ソースを編集]
- 加茂村は南総町へ編入される。
- 南総町が市制施行できるかどうかは微妙なところ。
東京[編集 | ソースを編集]
東京市周辺の郡(現東京23区)[編集 | ソースを編集]
- 渋谷・新宿・池袋の今の発展はない。代わりに丸の内や神田が発展。
- 東急・小田急百貨店は有楽町に、京王百貨店は神保町に、西武・東武百貨店は飯田橋に。
- 実際は新宿(淀橋町)・渋谷(渋谷町)は郡部時代から一大ターミナル駅だったから東京市に編入されてなくてもあまり変わらないかも。
- 郊外私鉄と地下鉄の相互直通は本格化。
- 東急・小田急・京王・西武は既存のターミナルを見捨てる。
- それにより、ターミナルが機能するのは京急のみとなる。
- 東武も既存のターミナルを重んじる。
- 西板線(西新井~大師前~上板橋)を実現させ、ターミナルを浅草に集約していた。
- 山手線は環状運転されず、品川~田端(または板橋経由で赤羽)間を結ぶ路線に。
- 山手線の環状運転開始は1925年、「大東京」の成立は1933年なのでそれはない。
- その後合併で「南東京市」「西東京市」「北東京市」「東東京市」がすべて誕生。
- 西東京市に対して、新宿市・中野市・杉並市・井荻市あたりが猛抗議。
- 実はこの「西東京市」は保谷と田無ではなく世田谷近辺。
- その前に「城東市」「城南市」ができていたのでなおさら大混乱。
- 北区の赤羽岩淵駅付近は埼玉県となっていたかもしれない。
- 旧岩淵町は旧浦和県であったという過去があるため。
- それを言ったら、同様に浦和県だった板橋区、練馬区の大半や豊島区、新宿区の一部(要町・長崎・西池袋・高田馬場など)も埼玉県になるが。
- 旧岩淵町は旧浦和県であったという過去があるため。
- 東京特別区はなく、今も東京市15区のまま。東京市の人口は関東大震災後の1925年から長らく大阪市の後塵を拝していたが、首都圏一極集中が顕在化した1980年代後半になって、大阪市を再び逆転するようになった。
- ちなみに現在の東京市15区を含んでいた区(千代田、中央、港、新宿、文京、台東、墨田、江東)の人口を足すと約190万人しかいない。
- 都制への移行は戦時政策によるものなので史実通りかと。
- そうなれば1990年代にドーナツ化現象で大阪市に逆転されていた。
- 東京周辺は軒並み市制ラッシュ。
- 平気で10万超える町村がかなり多かった。(合併以前)
- 確かに10万人を超す町村はあったが、平気で、は無い。平気で3万人を超す町村はあったが。
- その一つ西巣鴨町は本家の巣鴨町よりも先に市制施行し「巣鴨市」としたため巣鴨町と関係悪化。ならばと当時のターミナルから取って「大塚市」に変えると今度は小石川区猛抗議。そのうち池袋が栄えてきたので結局「池袋市」に改称。
- 平気で10万超える町村がかなり多かった。(合併以前)
- 1943年の正史での都制時に三多摩が切り離され、八王子を県庁に置く多摩県が発足していた。
- 成田新幹線を新宿駅に延ばす構想はなかった。従って東京駅の京葉線ホームが他線と離れすぎるということはない。
- 従来の東京駅付近から西進すると急カーブで皇居を迂回する必要があり、それを避けるため離れた位置に成田新幹線の駅が計画された。その用地を転用したのが現在の京葉線ホーム。
- 戦中合併か昭和の大合併で山手線沿線までは東京市は拡大する。
- 少なくとも淀橋町・千駄ヶ谷町あたりは四谷区に編入されているだろう。
- 品川市や新宿市や渋谷市や淀橋市や巣鴨市や板橋市や練馬市や中野市や王子市や日暮里市や亀戸市や千住市や目黒市などが出来ていた。
- 新宿市と淀橋市併存しているということは代々幡あたりが新宿市で淀橋町が淀橋市ということになりおそらく内藤新宿町は四谷区に編入していたら新宿駅の一部しかかかっていないのに新宿市かよといわれそう。
- 碑衾町は正式に朝日町に改名していた。
- そして市制施行時には「自由が丘市」に。
- JRの特定都区市内制度の「東京山手線内」は「需要の多い山手線内各駅を東京市内と同等に扱う」という目的で設定された。
- 特別区も成立しなかった場合、市営地下鉄(史実の都営地下鉄)の路線はかなり縮小していた。
- 東京市の資本が入る帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)も同じく。
- 路線の大半は山手線内のみだった。
- 長くても環七以内であり、「環七以遠には不発弾があるから地下鉄を延伸できない」という迷信が広まっていた。
- 戦後の統合により15区→8区になっていた。
- 本所区と深川区は1つの区になっていた可能性がある。
- 埋め立て地に関しては港区お台場のほか江東区に入っている青海・海の森などもそのまま芝区の領域になっていた。
砧村・千歳村(現世田谷区)[編集 | ソースを編集]
- 東名高速の東京ICなんて存在しない。
- 砧ICと名乗っていたかも。
- あるいは三軒茶屋あたりに東京ICができていた。
- 砧ICと名乗っていたかも。
- 世田谷区の人口は少し少ない。
- 多分100万人まで増えるという人口予測もなかった。
- 昭和の大合併まで残っていた場合、砧は狛江と、千歳は神代と合併していた。
- その場合、調布市は三鷹市より人口が少ないままだった。
- 単独で残っていたとしても市制施行していたかもしれない。
- 「東千歳市」と「砧市」になっていた。
荏原区(現品川区)[編集 | ソースを編集]
- 東京24区になっていた!?
- 東洗足駅は「旗の台駅」に改称されることはなかった。
- 旗ヶ岡駅は今でも存在する。
- そもそも旗の台という地名も生まれなかったかもしれない。
由木村(現八王子市)[編集 | ソースを編集]
- 京王堀之内駅は由木駅になっていた。
- 京王電鉄は当初、南大沢を由木平、京王堀之内を別所という駅名にする予定だった。
- まあ、市制化していた可能性あっただろう。
- ただ、多摩市や稲城市よりは遅れるため南多摩郡はもう少し長く存続していた。
- 史実通りの発展具合であれば平成初期に間違いなく市になっている。2010年代には10万人超え。
- 編入されていても町田市か日野市が編入していた。
- 多摩市ではないのか?
浅川町(現八王子市)[編集 | ソースを編集]
- 単に今でも残っていた場合は高尾市と名乗っていたかもしれない。
- 八王子JCTは浅川JCTに。
- 圏央道の建設は当町が大反対していた。
小宮町(現八王子市)[編集 | ソースを編集]
- 1950年代に加住村と川口村を編入していた。
- 市制施行は確実に。
- 北八王子駅は南小宮駅になっていた。
堺村(現町田市)[編集 | ソースを編集]
- 町田市から突き出ていることはなかった。
- 1960年代に町制施行し、堺町になった。
- 市制時には大阪府堺市とかぶるため「多摩堺市」になり、多摩境駅と紛らわしくなる。
- 多摩境駅も多摩堺駅(あるいは京王堺駅)になっていたかも。
- 「武蔵堺市」を主張して武蔵境住民に抗議されたりして…
- 市制時には大阪府堺市とかぶるため「多摩堺市」になり、多摩境駅と紛らわしくなる。
- そのため地名に「○○町」が付くことはない。
- 八王子市との合併を目指していた。
砂川町(現立川市)[編集 | ソースを編集]
- 1970年代以降に市制施行は確実。
- 北海道砂川市との重複を避けるため、市名は「東砂川市」か「武蔵砂川市」になっていた。
- もし「東砂川市」と名乗っていたら武蔵砂川駅は東砂川駅になっていた。
- 北海道砂川市との重複を避けるため、市名は「東砂川市」か「武蔵砂川市」になっていた。
宇津木村(現八丈町)[編集 | ソースを編集]
八丈小島(現在無人島)の南東にあった村。地方自治法制定まで名主制があり、八丈町合併まで村議会が置かれず村民総会が実施された。
- 大口団体が牛耳って、「○○が支配する村」になったかもしれない。
- おそらく、今でも有人村。
- 村民集会が開かれる時だけの「にわか村民」が多い村になる。
- 鳥打村も八丈町と合併しない場合、両村だけで合併して「八丈小島村」になったかもしれない。
- 公民の教科書で直接民主制を説明する際、スイスではなくここの町村総会が紹介されていた。
榑橋村(現練馬区)[編集 | ソースを編集]
練馬区大泉地区のうち、東大泉以外は1891年まで埼玉県新座郡榑橋村でしたが
- 新座市の一部となっていた。
- 西大泉町の飛び地はなかった。
- 箱根土地がここに学園都市を開発しようしないし、東京都が都民農園を開設しようとしない。結果ここは畑が多い田舎。
神奈川[編集 | ソースを編集]
横浜市周辺の郡(現横浜市)[編集 | ソースを編集]
- 横浜市の人口は200万人ほどになる。これでも東京・大阪・名古屋に次ぐ日本第4の都市に。
- 横浜市の昼夜間人口比率も1.00を超えている。ベッドタウン色は薄く、独立した港湾・工業都市としての色彩が強くなっている。
- 単独で「横浜都市圏」を形成していた可能性もあり得る。大都市圏として考えるなら「東京-横浜」のままだろうけど。
- 横浜市はそれでも旧浦和・旧大宮・千葉市民に馬鹿にされる。
- 地下鉄グリーンラインは存在しない。
- その代わりに本牧方面に行く地下鉄路線が実現していた。
- 史実以上に神奈川に政令指定都市が偏っていた。
- 都筑郡
- 都筑郡:現実の横浜市都筑区・青葉区・緑区・旭区と港北区の一部、川崎市麻生区の一部にあたる。
- 昭和の大合併により「都筑市」「田奈市」「二俣川市」などができる。
- 港北ニュータウンの開発により人口増。
- 東急溝の口以南の延伸は都筑経由となり、新横浜から横浜市営地下鉄に乗り入れる。
- 途中、大倉山で東横線に接続する。
- 横浜市営地下鉄への乗り入れを断られた場合は、新横浜から二俣川まで延伸して相鉄に乗り入れする。
- その後鷺沼から長津田を経て中央林間にいたる現実の田園都市線とほぼ同じルートも開業する。
- 史実以上に「東京都都筑市」「東京都田奈市」などと呼ばれていた。
- 鎌倉郡
- 鎌倉郡:現実の鎌倉市及び横浜市戸塚区・栄区・泉区・瀬谷区にあたる。
- 全ての町村が合併して「戸塚市」となる。
- 瀬谷は独立して「瀬谷市」、豊田村と本郷村(現実の栄区)は鎌倉市に編入されていた可能性もあり。
- 豊田村+本郷村+大船町で「大船市」の可能性もあるな。
- おそらく「平塚市」と混同するバカが出てくる。
- 市を挙げて「戸塚ヨットスクール」に抗議する。「名前を変えろ!」
- CW重鎮の一人(一匹?)(名古屋産)は「戸塚市在住」となる。
- 瀬谷は独立して「瀬谷市」、豊田村と本郷村(現実の栄区)は鎌倉市に編入されていた可能性もあり。
- 鎌倉市に編入されて、鎌倉が政令都市に…。
- 日吉村
- 旧日吉村が中原郵便局管内だった為、川崎市に編入され現在は中原区の一部となっていた。
- 1990年まで地区の市外局番が「044-6x」で、その後「045-56x」となったが、川崎市に編入ならこれより前に「044-6xx」に変更されていた。
- そうなれば、実史の川崎市内から日吉地区へ電話をかける場合の市外局番が必要無かった。
- 関連項目
1933年8月以降に川崎市に編入された10町村[編集 | ソースを編集]
川崎市の市域はおおよそ川崎区と幸区のみになりますが、この場合は?
- 川崎市の人口は約40万人弱、面積は約50k㎡くらいの規模に。
- 現実には川崎市の区である、中原区・高津区・多摩区・宮前区・麻生区は戦後に(市名・市域は異なる可能性はあるが)市制施行していた。
- 岡上は地味~に単独町制を貫いてそう。
- 合併するなら柿生とだろうな。あるいは町田市への越境合併も考えられる。
- 岡上は地味~に単独町制を貫いてそう。
- 川崎駅周辺は現実のように商業施設は造られなかった。
- 東名川崎ICは宮前ICとして開設された。
- 代わりに、山形自動車道のICが、川崎IC(実史は「宮城川崎IC」)と名乗る。(第三京浜のICは、多分中原ICと名乗ったか…。)
- 川崎市交通局は存在しなかった。
- 管轄エリアは異なっていた可能性はあるが、川崎ナンバーは現実通り発行されていた。
- 等々力陸上競技場や川崎球場は存在しなかったかも。この場合、川崎市を拠点とするプロスポーツのチームは1度たりとも存在しなかった。
- 川崎球場はそのままで、等々力競技場は「中原市陸上競技場」になっていた。
- 「川崎市は海側に行くほど治安が悪くなる」なんて言われることはなかった。別の意味で。
津久井郡(現相模原市)[編集 | ソースを編集]
この場合だと、相模原市の市域はおおよそ南区、中央区、緑区西部になりますが…。
- 西部じゃなくて東部だね(西部が津久井郡)
- 未だに政令市移行していない。
- …と思いきや、人口増加のより史実通り政令市移行していたかもしれない。
- 座間市を再編入できれば可能性は高そうだが…
- …と思いきや、人口増加のより史実通り政令市移行していたかもしれない。
- リニア新幹線については史実通りになると思われる。
- 相模原市の人口密度は今でも多い。
- 圏央道の相模原ICは仮称の城山ICになっていた。
- 川の反対側は相模原市なので、「相模原城山I.C.」というように相模原を冠していたかもしれない。
- 政令市になれた場合、緑区は北区という名前になっていた。
- 津久井四町は互いに合併しようとはしない。
- 相模湖、藤野は八王子への越県合併を目指し続ける。
1954年11月以降に平塚市に編入された8町村[編集 | ソースを編集]
- 土沢村と旭村は大磯町に編入されたかも。
- 大野町は神田村、城島村、岡崎村、金田村、金目村を編入し、市制化していただろう。
- 市制しても、鉄道が通っていないので綾瀬市のような立場になりそうな気がする。
- 小田原厚木道路が史実通りのルートならば平塚ICは大野ICになっていた。
橘町(現小田原市)[編集 | ソースを編集]
- 二宮~国府津間に橘駅を設置する計画があったか?
- 後の湘南市構想に加わる可能性もあり得る。
浦賀町(現横須賀市)[編集 | ソースを編集]
- 1950年代に市制施行し、「浦賀市」になっていた。
- こうなると逗子市とともに1954年に市制していたかも。