もしあの年の将棋のタイトル戦で○○だったら
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全般[編集 | ソースを編集]
永世称号の条件が全タイトル同じだったら[編集 | ソースを編集]
- 囲碁と同じ「5連覇もしくは通算10期」だったら
- 将棋で囲碁と同じ条件としているのは王位戦と王座戦のみです。
- 羽生善治は2023年現在も永世七冠を達成できていない。
- 名人と竜王が条件を満たさないため。
- 中原誠が永世王将になるので、永世称号最多は中原になる。
- 永世名人は中原十六世名人を最後に40年以上誕生していない。
- 「通算5期」だったら
- 名人戦・棋聖戦・叡王戦、女流タイトル(マイナビ女子オープンを除く)の条件です。
- 米長邦雄(棋王5期)、谷川浩司(王位6期)はそれぞれ永世二冠になっていた。
- 藤井猛は谷川浩司、羽生善治(1回目)の永世竜王挑戦を退け、「永世竜王キラー」としても有名になっていた。
- そして、第14期竜王戦で前年のリベンジを果たした羽生善治が初代永世竜王になった。
- その分第21期竜王戦の注目度は下がっていた。
名人戦[編集 | ソースを編集]
- 1960年に加藤一二三が名人を奪取していたら
- 史実では大山康晴名人に1勝4敗で敗北。
- 「神武以来の天才」の名前は史実以上になっている。
- 永世名人になっていたかもしれない。
- 史上最年少名人の記録は未だに破られていない。
- 一度失冠して史実通り1982年に名人を奪取した場合、史上最長間隔での名人となる可能性が高い。
- 1969年に有吉道夫が名人を奪取していたら
- 史実では師匠の大山康晴名人に3勝2敗まで持って行ったが敗れた。
- 弟子が師匠から名人の座を奪ったことになる。
- これにより大山康晴の引退……はなかったか。
- また翌年名人戦に出場して名人を奪還していたかもしれない。
- 1970年に升田幸三が名人位を奪還していたら
- 史実では大山康晴名人に3勝2敗まで迫ったが敗れた。
- 翌年の名人戦が升田vs中原になっていたかどうか不明。
- 升田vs大山になり、大山が奪還したかもしれない。
- 1973年の順位戦が全員5勝5敗になっていたら
史実では挑戦者となった加藤一二三が7勝3敗、大山康晴と米長邦雄が6勝4敗、3勝7敗の原田康介と大内延夫が降級となりましたが、あと6人が5勝5敗で並んでいました。
- 名人挑戦は一体誰になったのやら。前名人の大山康晴か、それとも現在と同じパラマス方式トーナメントか?
- おそらく降級者はゼロになる。そうなった場合、昇級者を含め15人と言う大所帯になった。
- あるいは史実11位の大内、史実張出の灘蓮照が降級していた?
- 1975年に大内延介が名人になっていたら
- 史実では中原誠名人に3勝3敗とするも必勝だった第7戦を持将棋にされ敗北。
- 穴熊は史実よりかなり早く普及した。
- 1976年に米長邦雄が名人になっていたら
- 史実では3勝3敗まで行ったが獲得ならず。
- 結果的に名人挑戦回数(史実では7回挑戦、最多記録)は減っていた。
- 谷川浩司(2022年現在挑戦は6回)が史上最多挑戦者になっていた?
- 永世名人になったかどうかは不明。
- 史実通り次期森けい二が挑戦しかついきなり坊主頭にして来た場合、史実以上の大騒ぎになっていた。
- それでも中原誠はいずれ永世名人(史実ではこれが5期目だった)になっていただろう。
- 1977年に名人戦が行われていたら
- 名人戦の主催者を朝日新聞から毎日新聞に移行すると言う問題が発生し、名人戦・順位戦が開催されませんでした。
- でも結局史実の1978年度の順位戦及び名人戦とあまり変わらない気がする。中原誠の名人獲得数が増えただけかも。
- 1978年に森けい二が名人になっていたら
- 史実では2勝1敗から千日手を含む3連敗。
- 「名人になったら土佐に帰る、指して欲しかったら土佐に来ればいい」と言っていたが本当に土佐に帰った場合、将棋界はどうなっていたやら。
- それでも1年で中原か米長によって名人を奪われていた気がするが。
- 元よりキャラが濃いので史実より人気はさらに上がっていた。
- 1982年の小池重明との三番勝負は史実以上の大騒ぎになっていた。
- 甥の玉海力はもっと注目されていた。成績の上下は不明。
- 里見香奈以外にも弟子はもっといた?
- 1982年に加藤一二三が名人になれなかったら
- 中原誠名人を相手に千日手・持将棋を含め10局に及ぶ死闘を制した。
- 史実ほど人気は出なかった?
- 翌年、史実より2年早く中原vs谷川になっていたかも。
- 「1年間名人位を預からせていただきます」「並の名人になれたと思います」の名ゼリフはなかった?
- 1992年に高橋道雄が名人になっていたら
- 史実では3勝1敗から3連敗で中原誠名人に敗れた。
- もう少しタイトルを取っていたかも。
- 加藤一二三と並んでバラエティー番組に出る回数も増えていた?
- 「けいおん!」の注目度は史実以上になる(ただし、史実通りハマるとは限らないが)。
- 翌年史実通り米長が挑戦した場合の結果は不明。史実の1986年王位戦(高橋の4連勝)のようになるかもしれない?
- 高橋利幸との「高橋名人対談」が行われていたかもしれない。
- 2007年に郷田真隆が名人になっていたら
- 史実では3勝3敗まで行ったが森内俊之に敗れた。
- それでも森内俊之は永世名人になっていた(史実ではこれが5期目で、羽生は翌年森内から名人位を奪い永世名人となった)だろうが、羽生と順番が入れ替わっていたかも。
九段戦・十段戦・竜王戦[編集 | ソースを編集]
- 名称が十段戦のままだったら
1988年に十段戦から竜王戦になりました。
- 現在ほどの権威はなかった?
- 獲得者が史実通りだった場合、島朗などはやや知名度が低下していた。
- って言うか予選から本戦リーグ参加者二名と言う超狭き門を突破せねばならないと言う方式のままだった場合、羽生善治が1989年に十段になっていたか?
- 獲得者が史実通りだった場合、島朗などはやや知名度が低下していた。
- 永世十段はもう何人かいた。
- とりあえず渡辺明は確定?
- 1989年に羽生善治がタイトルを取れなかったら
- 史実では3勝3敗まで行っていた。
- タイトル獲得は史実通り翌年の棋王戦までかかるか。
- あるいは翌年谷川浩司に変わって挑戦しそこで獲得していたかもしれない。
- 2002年に阿部隆がタイトルを取っていたら
- 史実では2連続千日手→羽生2連勝→阿部3連勝→羽生2連勝。
- 阿部隆のキャラがもう少し一般化し、人気も史実より上がったかもしれない。
- バラエティ要員化した可能性もあった。
- 兄弟子の福崎文吾とのコンビが有名になっていた。
- 勝ち星だけで九段へ昇段することはなかった。
- バラエティ要員化した可能性もあった。
- 2003年に森内俊之が挑戦していたか?
- 羽生が挑戦して奪還、史実より4年早く羽生vs渡辺明となっていたかも。
- 2004年に渡辺明がタイトルを取れなかったら
- 史実では第7戦まで戦った。
- その後も竜王になれたかどうか不明。
- いずれにせよどこかでタイトルを取っていたのは間違いないが、史実ほどは活躍しなかったと思われる。
- 「将棋の渡辺くん」もなかった?
- いずれにせよどこかでタイトルを取っていたのは間違いないが、史実ほどは活躍しなかったと思われる。
- 森内俊之や佐藤康光は史実よりもう少しタイトルを取れている?
- 2008年に羽生善治がタイトルを取っていたら
- この時点で国民栄誉賞が検討されていたかもしれない。自民党の支持率が低下の一途をたどり、政権交代の機運が高まっていた時期でもあるし。
- ただこの時点では通算タイトルは最多ではなかったので難しいかも。
- 七番勝負のタイトル戦での「3連敗4連勝」は翌2009年の王位戦が初めてだった。
王将戦[編集 | ソースを編集]
- 三番手直りのルールが残っていたら
初期ではどちらか3つ勝ち越した(3勝0敗、4勝1敗)場合、勝っていた側が香落ちになるというルールがありました(しかも決着がついても七番勝負を指し切った)。1965年度以降では「四番手直り」として事実上空文化していますが、これがもし現在でも続いていたら。 なお該当するケースは24回あり、その内16回が3-0のパターン。
- 3連勝して香落ち→4連敗となると、最初の3戦は何だったんだと言う事になる。おそらくこれを機に廃止されるか現状のルールになっただろう。
- ありうるのは2005年(羽生善治vs佐藤康光、羽生3連勝→佐藤3連勝→羽生7戦目勝利で防衛)。
- 他に考えられるのは1995~2000年。羽生はこの時期2度の4タテを含め相手に1勝までしか許さなかった≒毎回指し込みがあった。
- 「名人に香を引いて勝つ」がさほど珍しくなくなる?
- 史実では名人保持者が4タテを食らったケースは3度ある。
- 他にも1978年の中原誠名人vs加藤一二三は4勝1敗で加藤がタイトル奪取。
- なお加藤は1966年大山名人に1勝4敗で敗れている。
- 他にも1978年の中原誠名人vs加藤一二三は4勝1敗で加藤がタイトル奪取。
- 史実では名人保持者が4タテを食らったケースは3度ある。
- 1994年に羽生善治がタイトルを取っていたら
- 史実では3勝3敗からの千日手、そして谷川王将の防衛となりましたが。
- 史実より1年早く、七冠独占が成っていた事になる。
- その後史実通り全タイトルを防衛し続けたとなると、将棋界全体がある種の絶望感に包まれていたかも。
- 史実通り三浦弘行が棋聖に挑戦していたとしても、七冠を崩すのではと言う期待は小さかった(元々前期の段階で3タテを喰らっていた)。
棋聖戦[編集 | ソースを編集]
- 威信が囲碁レベルだったら
囲碁では賞金額の多寡もあり、棋聖戦がタイトル序列の中で一番上となっています。
- 竜王戦の地位は低下していた。
- おそらく前後期2期制にはなっていなかった。
- 五番勝負ではなく七番勝負になっていた。
- 佐藤康光は史実以上に名を上げている。
- 米長邦雄も。
- 今でも前後期2期制だったら
1995年度から現在の1期制になりました。
- タイトルホルダーは当然増えていた。
- 佐藤康光は永世棋聖になれていたか?
- 史実のような7期連続交代があったかどうかは不明。
- 当初から1期制だったら
- 当然タイトルホルダーは減っていた。
- 田中寅彦などは無冠のままだった。
- 二上達也や中原誠、南芳一のブレイクも少し遅れた?
- 現在の予定からすると、年またぎとなる後期の方がなくなっていただろう。
- 1984年後期に中村修がタイトルを取っていたら
- 1984年の段階では2勝1敗だったが、1985年に入り2連敗で棋聖のタイトルを奪えなかった。
- 米長邦雄は永世棋聖(史実ではこれが5期目だった)になれたか?
- 屋敷伸之より先に若手棋聖の代名詞になっていたかも。
- 順位戦A級に昇級していたかもしれない。
- 1989年後期に屋敷伸之がタイトルを取っていたら
- この時は2勝3敗で獲得失敗。1990年前期にタイトル奪取。
- 史実より半年早くタイトルを取っていたため、藤井聡太の記録を今でも上回っていた。
- 1992年前期に郷田真隆がタイトルを奪っていたら
- 史実では1勝3敗で谷川棋聖からタイトルを奪えず。
- 同時並行で行われていた王位戦(この棋聖戦の第3局と第4局の間が王位戦の第1戦だった)も史実通りだった場合、四段・C級2組だった棋士がタイトルを2つ奪ったとして史実以上の騒ぎになる。
- タイトル挑戦で五段昇段というルールは史実より早く定められていた?
- 1996年に三浦弘行がタイトルを奪えなかったら
- 史実では1勝2敗から2連勝でタイトルを奪った。
- 羽生善治による七冠独占の崩壊は竜王戦までかかることになる。
- その分、谷川浩司の健在ぶりはよりアピールされたかもしれない。
- 三浦弘行の知名度は低下し、電波少年に出演させられることもなかったかもしれない。
- その後7年連続で棋聖位が交代(羽生→三浦→屋敷→郷田真隆→谷川→羽生→郷田→佐藤康光)なんてことにならなかった?
棋王戦[編集 | ソースを編集]
- 1989年に大山康晴がタイトルを取っていたら
- 史実では南芳一の前に3タテで敗北。
- 言うまでもなく、最年長タイトルホルダーとなる。
- 翌年史実通り羽生善治が挑戦した場合、世紀の一戦となっていただろう。
- その後史実通り12連覇した場合、ますます神聖化されそう。
王位戦[編集 | ソースを編集]
- 1984年に加藤一二三がタイトルを取っていなかったら
- 史実では4勝3敗で奪取成功。
- 中原誠(どっちも最後に取ったタイトルが名人だった)と対比されるかも?
- 高橋道雄は永世王位(史実ではこの後2年連続4タテ)になっていたかも。
- 1990年に佐藤康光がタイトルを取っていたら
- 史実では3勝4敗で谷川浩司王位に敗れた。
- 羽生善治竜王(前年度タイトル初獲得)と並び、史実以上に世代をリードしていた。
- 翌年の対戦相手は史実通り中田宏樹か、タイトルを失った谷川浩司か、それとも小林健二か?
- 防衛に成功した上で2年後史実通り郷田真隆が挑戦していたら、それこそ世紀の一戦と呼ばれていたかも。
王座戦[編集 | ソースを編集]
- 設立当初からタイトル戦だったら
史実では1953年に創立されましたが、タイトル戦になったのは1983年からです。
- なお囲碁の王座戦は1953年の当初からタイトル扱いで、本因坊戦に次いで2番目に古い棋戦です。
- 史実より七年早く三冠から四冠(史実の四冠目の王位戦の設立は1960年)になっていた。
- 史実通りだとすると大山康晴は名誉王座にギリギリ(通算9期)届いていない。
- ただしタイトル戦=防衛戦もありという訳で、実際には10期を超えたかも。
- それでも羽生善治(24期)および中原誠(16期)には届かなかったか。
- また史実通りの場合、タイトル獲得者が5人(小堀清一・松田茂役・灘蓮照・本間爽悦・丸田祐三)増えていた計算になる。
- 本間爽悦の孫弟子の福崎文吾は史実以上にネタにされそう。
- ただしタイトル戦=防衛戦もありという訳で、実際には10期を超えたかも。
- 第二回から史実のような三番勝負だったか怪しい。当初から五番勝負か、あるいは七番勝負だったかも。
- 囲碁の方の状況を見る限り1980年代まで三番勝負のままだったと思われる。
叡王戦[編集 | ソースを編集]
- 設立当初からタイトル戦だったら
史実では2015年度に創立されましたが、タイトル戦になったのは2017年度です。
- 持ち時間変動制七番勝負は採用されず、持ち時間5時間の五番or七番勝負になっていた。
- 史実どおりなら山崎隆之はタイトルを獲得していることになっていた。
- 自虐ネタが一つ減っていた。
- 主催変更後も持ち時間変動制が採用されていたら
ドワンゴ主催時代は持ち時間変動制(詳細)を採用していましたが、主催変更後も同じ制度が採用されていたら?
- 第5期の反省を受け、持将棋や千日手に関する対局規定が綿密なものになっていた。
- 藤井聡太が第1局・第2局で持ち時間1時間を選択した可能性がある。
- 2021年に藤井聡太がタイトルを取れなかったら
現時点で藤井聡太がタイトル戦でフルセットまで持ち込まれたのはこの時だけです。
- 豊島将之叡王は「藤井キラー」として相当に持てはやされる。
- その流れで佐藤紳哉も有名に…ならねえか。
- 叡王戦と並行して行われていた王位戦や竜王戦の結果はどうなっていたか不明。
- それでもいずれは藤井聡太がタイトルを奪っていたか。