もしあの年の高校野球で○○だったら

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分割済み[編集 | ソースを編集]

戦前・戦中[編集 | ソースを編集]

  • 1915~41年

1915年[編集 | ソースを編集]

優勝校が異なっていたら
  • 秋田中
  1. 「白河の関」という言葉は高校球界に存在しなかった。
  2. その後一度も優勝がなかった場合は「もう一度・・・」と呼ばれるようになっていた。
    • 「甲子園での」優勝が目標となる。
  3. 高野連から特例で「鳥羽高校は京都二中の後身校扱い」はされなかった。
  4. 秋田県が最も甲子園優勝から遠ざかっているといわれる。
    • それだけに、2018年の金農旋風は史実以上だった。
    • 金足農業が優勝していたら県としては103年ぶりと1世紀以上のブランク優勝になっていた。
  • 早稲田実
  1. 2006年の優勝は「91年ぶり2回目」と史上最長ブランク優勝だった。
  2. 松山商とともに「大正」「昭和」「平成」の3元号優勝を達成していた(ただし昭和は選抜)。

1917年[編集 | ソースを編集]

関西学院中が優勝していたら
  1. 兵庫県勢優勝が早まった。
    • 逆に愛知県勢は1931年まで待たなければならなかった。
  2. 敗者復活戦に対する批判は史実より弱かった。
    • それでもどこかの時点で問題視され消されていたと思う。
      • 少なくとも1942年の「幻の甲子園」では採用されていない。

1918年[編集 | ソースを編集]

予定通り開催されていたら

米騒動で中止された本大会。もし予定通り開催されていたら?

  1. 中学明善→明善高は数回は甲子園に出ていたかもしれない。
  2. 愛知一中の連覇もあったかも?

1926年夏[編集 | ソースを編集]

大連商が優勝していたら
  1. 未だに静岡県勢は夏優勝はなかった。
  2. 優勝旗が大陸に渡ったことになる。
    • 中国での野球人気が史実よりも高かった。
      • 漢民族には特に影響はなかったのでは(大連商のメンバーはおそらくほとんどが日本人)。
    • 鄧小平~天安門数年後あたりから人気が上がっていた。

1931年夏[編集 | ソースを編集]

嘉義農林が優勝していたら
  1. 中京商3連覇は無かった。
  2. 「KANO 1931海の向こうの甲子園」のストーリーが変わっていた。
  3. 嘉義駅前のような目に付く場所に優勝記念碑が建てられていた。
    • 終戦後も関係者の尽力により残されている。

1941年夏[編集 | ソースを編集]

予定通り開催されていたら

予選途中で中止された本大会。もし予定通り開催されていたら?

  1. 1942年の大会も朝日新聞社が関与し、回数にカウントされていたかもしれない。
    • 史実でも朝日が優勝旗の継続使用と回数の連続化を要求して断られたという経緯があるのでそれは厳しい。
  2. 青森工、帝京商、畝傍はこの大会に初出場を果たし、帝京商と畝傍はその後も何度か甲子園に出場していたかもしれない。
    • 畝傍の場合和歌山県勢との試合がまだある(史実では和歌山県で予選は行われず)。
  3. 外地勢の最後の出場がこの大会になっていた。
    • このうち朝鮮からは史実で甲子園に行けずに消滅した学校が出ていた可能性がある。

戦前に沖縄の学校が出場していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 多分出場は記念大会が中心になるだろう。
    • 首里(県立1中)は無論、沖縄水産は史実より早い戦前に初出場
    • 開南中学が出場していたら、沖縄戦で廃校にならず共学の開南高校として現存だったかもしれない。
      • その場合は、今日興南か沖縄尚学が存在しない。
      • 某氏は開南高校出身
    • また、戦後の高校野球復帰が早まったかもしれない。
  2. 証拠となる品はその後の沖縄戦により焼失している。
    • 写真すらも残ったかどうか怪しい。

外地チームが一度でも優勝していたら[編集 | ソースを編集]

  • 戦前は日本領だった朝鮮・満州・台湾からも参加していました。
  1. 優勝旗は「海を渡る」という表現で示されていた。
    • 津軽海峡越え(2004年)や関門海峡越え(1947年)よりも早く実現していたことになる。
  2. 戦前最後の大会で外地チームが優勝していた場合、戦後最初の大会で優勝したチームへの優勝旗授与が大幅に遅れた可能性がある。
    • 実際に戦前最後の大会で全京城(朝鮮)が優勝した都市対抗野球の場合、戦後最初の大会で優勝した大日本土木(岐阜)への優勝旗(黒獅子旗)授与が、当時の全京城の主力選手によって命がけで持ち帰り、丸亀に優勝旗があることがわかるまでなされなかったというエピソードがある。

1946~1979年[編集 | ソースを編集]

1948年春[編集 | ソースを編集]

京都二商が優勝していたら
  1. 同年10月に廃校になっているのでこのページで議論になっていた。
    • 「選抜の場合は大会終了直後に廃校」というのがルールになっていた。

1958年夏[編集 | ソースを編集]

徳島商業が魚津に負けていたら
  1. 板東英二はプロになっていなかった。
    • 逆に村椿輝雄の方がプロ入りしていた。
    • この試合がなくてもプロ入りは規定路線だと思うが・・・
    • でも板東の現役生活が有意に延びることはなさそう。
  2. 延長自体なかったら「延長は18回までで打ち切り、翌日再試合」のルールはなかった。
  3. もしかしたら富山勢の決勝進出が見られたかもしれない。
「甲子園の砂」事件がなかったら
  • 沖縄の首里高校は、敦賀高校に敗れた後、甲子園の砂を持ち帰りましたが、防疫法により那覇港で捨てられました。もしこの事件がなかったら・・・?
  1. 優勝していればそもそもこの事件は起こらなかったかも。
  2. 沖縄のその後の独立運動の勢いが少しだけ減っていた。
  3. 首里高校に「甲子園の石」が飾られることはなかった。
  4. 事前に検疫を想定してこっそり持ち帰っていた場合は大したエピソードにならなかった。
    • 史実でも申告せず没収を免れた人がいたらしい。

1965年夏[編集 | ソースを編集]

三池工が優勝していなかったら
  1. 三池工は「1度だけ甲子園に出場した学校」程度の知名度だった。
  2. 甲子園勝率10割の学校は海南のみだった。
  3. 工業高校は未だに夏の甲子園優勝なしだった。
    • 春の大宮工だけだった。
    • これが知られておらず、度々「熊本工(など)が初の工業高校優勝なるか」なんて言われてる。
  4. 原貢監督が東海大相模の監督にならず、東海大系列の野球部の歴史も変わっていたかも・・・

1968年夏[編集 | ソースを編集]

興南が優勝していたら
  1. アメリカ施政権下での優勝となり、復帰後の「甲子園が先か大臣が先か」の論争はそもそもない。
  2. その後の沖縄勢の成績にいくらか好影響があり、沖縄水産や浦添商業、八重山商工だって優勝を果たしていた可能性すらある。
    • よって深紅の大優勝旗の意義が薄らいでいた。
    • 沖縄でも私学優位になり、公立勢が現実よりも弱かった。

1969年夏[編集 | ソースを編集]

三沢が優勝していたら

1969年夏の甲子園大会は松山商が優勝しましたが、三沢との決勝は壮絶なものでした。中でも延長15回には三沢が1アウト満塁でカウント0-3まで行きましたが、松山商がしのいで0点に抑えるなど、まさに決勝まで勝ち上がったチーム同士の意地のぶつかりあいが見られました。
もしこの大会で三沢が優勝していたら?

  1. 東北勢初優勝となっていた。
  2. 青森県勢の低迷もなかった。
    • 逆に愛媛県勢が低迷していたかも。
  3. 太田幸司氏(高校卒業後、近鉄バファローズに入団)は史実以上に人気が出ていたかも。
  4. 1969年の時点で深紅の大優勝旗が白河の関を越えていたので、以後大優勝旗の行方は「津軽海峡越え」と言われるようになっていた。
    • それも2004年で終焉。その後は?
  5. 三沢出身の寺山修司(当時33歳)が何らかの形でネタにしていた。

1971年夏[編集 | ソースを編集]

磐城が優勝していたら
  1. 磐城の田村隆寿投手は、プロ入りしていた可能性もある。
  2. 東北地方の初優勝となり、かねてから言われていた白河の関超え…ではなく、陸前浜街道経由で勿来の関超えと言われる。
    • 「まだ白河の関は越えてない」と主張する人が多く、これ以降は白河の関超えは宮城・岩手・青森代表の目標になる。
      • だが2004年の駒大苫小牧優勝以降は言われなくなるだろう。
  3. 当時人気が沸騰していた常磐ハワイアンセンターとともに磐城高校もいわき市の新しいシンボルになっていた。

1977年夏[編集 | ソースを編集]

東邦が優勝していたら
  1. 翌年、翌々年も東邦は出場していた可能性もある。
    • その場合、坂本佳一投手はほぼ間違いなくプロ入りしていた。
      • そして結局一軍には上がれず終わっていた。
  2. 東邦の阪口慶三監督は2011年現在、大垣日大で監督をやっていなかった可能性もある。

1979年夏[編集 | ソースを編集]

箕島が星稜に負けていたら
  1. 箕島の春夏連覇はなかった(2010年時点で春夏連覇は5校)。
  2. 星稜は北陸勢初優勝を達成していたかもしれない。
    • 以後星稜は高校野球の強豪と呼ばれるようになっていたかもしれない。
    • 決勝で池田に負けて準優勝だったんじゃないかな。その場合池田の初優勝が3年早くなり、石川県勢初の決勝進出が16年早くなっていた。
  3. この試合は名勝負の1つではあるが史上最高の試合になることはなかった。
    • 松山商-三沢か、横浜-PL学園が史上最高の試合だった。
    • また教育テレビの最高視聴率をとることもなかった。
  4. 和歌山といえば智弁和歌山か桐蔭で、箕島は古豪の1つに成り下がっていた。
    • 箕島という地名の知名度が現実よりも下がっていたかもしれない。
    • JR箕島駅が「有田市」駅に改称されていたかもしれない。
  5. 14回裏の隠し球がもっとピックアップされていた
  6. 16回裏の伝説の大落球がなかったため当事者の加藤直樹氏は後にトップセールスになれなかった。
    • 史実では「星稜-箕島戦の16回裏に落球した加藤です」という最強のつかみを生かして優秀なセールスマンとして活躍したという。

1980年代[編集 | ソースを編集]

1980年夏[編集 | ソースを編集]

早稲田実業が優勝していたら
  1. 準優勝であれほどのフィーバーなのだから、もっと「大輔」という名前の男の子が増えていた。
  2. 早稲田実業は荒木大輔の在学中にもう1回は優勝していたかも。
  3. 愛甲猛は・・・これもあまり変わらないか。

1981年夏[編集 | ソースを編集]

名古屋電気が優勝していたら
  1. その年のドラフト会議で、工藤公康の強行指名に踏み切る球団が複数出た可能性がある。
    • その結果、西武以外の球団が交渉権を獲得していた場合、入団交渉が難航していた可能性がある。
  2. その後の成績も、史実より良かったかもしれない。

1982年夏[編集 | ソースを編集]

佐賀商業の新谷博が完全試合を達成していたら

木造(青森)との1回戦で9回ツーアウトまで1人のランナーも出さずに抑えていましたが、27人目の代打・世永幸仁選手に死球を与え完全試合は逃してしまいました。もし世永選手を抑えていたら…?

  1. 新谷はこの時点でプロ入りしていたかもしれない。
  2. 木造は本校・分校とも悪い意味で有名になってしまっていた(本校…完全試合を許した高校、分校…歴史的大敗を喫した高校)。

1983年夏[編集 | ソースを編集]

池田が優勝していたら
  1. 史上初の夏春夏3連覇を達成していた。
  2. KKコンビは1年の時点ではただのドラフト候補程度の評価だった。
    • 翌年のPL学園の評価も少し下がっていた。
    • むしろあまりプレッシャーがかからず、翌年春はPL学園が優勝していたかもしれない。
  3. その年のドラフトは、水野雄仁に一位指名が集中する。
  4. 江上も早大進学ではなくプロだったかも。

1984年春[編集 | ソースを編集]

歴代優勝校プレートが撤去されなかったら

1932年から続いてきた歴代優勝校プレートですが、1984年の大会でワンバウンドでラッキーゾーン入りした打球がホームランと間違って判定された際、歴代優勝校プレートがミスジャッジのやり玉に挙げられたため、その日の全試合終了後に全て撤去されてしまいました。

もし、優勝校プレートが撤去されずに残っていたら?

  1. 1984年以降も選抜名物として残っていた。
    • ただ、プレートが1984年当時で55枚もあったことから、ラッキーゾーンが撤去された1992年以降はどっちみち廃止されていた可能性も。
  2. 今でも残っていた場合、ネット上で公開されているかも。
    • 実物は甲子園歴史館に展示されている。

1984年夏[編集 | ソースを編集]

準決勝の桑田の逆転2ランがファールと判定されていたら
  1. 金足農は第1回大会以来秋田県勢69年ぶりの決勝に進出していた。
    • そのまま東北勢初優勝していたかもしれない。
  2. またはPL学園は9回裏に逆転サヨナラ勝ちしていた。
優勝校が違っていたら
  • 全般
  1. 茨城県勢の初優勝は21世紀まで持ち越しとなり、関東で最後だった。
    • 高校野球では山梨は関東だぞ?
  2. は公立校の優勝がない地域となっていた。
  • PL学園
  1. 史実通り翌年も優勝していたら1933年の中京商以来51年ぶり、学制改革後初の3連覇達成だった。
    • 2006年の駒大苫小牧は21年ぶり3回目の快挙に挑んでいた。
      • 結果的に2006年の駒大苫小牧への注目度は少し下がっていた。
  • 金足農
  1. 東北勢初優勝はもちろんのこと、農業高校初の甲子園優勝でもあった。
    • 2014年現在でも史上唯一。
  2. 金足農に対抗して全国の農業高校が野球部に力を入れていた。
  3. 2018年の金農旋風は史実ほどではなかった(もちろん「ブランク優勝なるか」とは盛り上がるが)。

1985年春[編集 | ソースを編集]

PL学園が決勝に進出していたら
  1. 桑田真澄と清原和博は史上初の5季連続決勝進出となった。
  2. 優勝していた場合、PL学園は春夏連覇を果たしていた。
  3. 渡辺智男の高校時点での知名度はだいぶ下がっていただろう。
    • ただし、社会人からプロへの歴史は史実どうりか

1985年夏[編集 | ソースを編集]

宇部商業が優勝していたら
  1. 「ミラクル宇部商伝説」の筆頭として現在まで語り継がれていた。
  2. KKコンビおよびPL学園の評価は史実とさほど変わらない。
    • 但し、史実で決勝のサヨナラタイムリーを打った松山秀明の評価は変わっていたかもしれない。
  3. 藤井進は遅くとも大学経由でプロ入りしていた。

1987年夏[編集 | ソースを編集]

徳山・温品投手の悪送球がなかったら
  1. 山形県勢は1980年から1991年まで12年連続で初戦敗退し、青森を超える連敗記録を作っていた。
    • ただし2009年に秋田に並ばれる
    • 2010年に秋田が13連敗するまで1県1代表制になって以降最多の連敗記録になっていた。
  2. 東海大山形は29-7の汚名をさらに広げてた
  3. 温品投手はプロ入りしていたかもしれない。


1988年夏[編集 | ソースを編集]

優勝校が違っていたら
  • 福岡第一
  1. 前田幸長はロッテ単独ではなく複数球団に1位で指名されていた。
  2. 九州のバースこと山之内健一の指名順位も現実より上だった。
  • 浦和市立
  1. 埼玉県勢初の夏の甲子園優勝を果たしていた。
  2. 埼玉県勢初優勝は春夏とも初出場校が達成していた。
  3. ミラクル浦和市立伝説が現実以上に語り継がれていた。
  4. 町亞聖がチアリーダーをしていたことが現実以上に取り上げられていた。

1989年春[編集 | ソースを編集]

上宮が優勝していたら
  1. 東邦は2年連続選抜準優勝。
  2. 元木大介や種田仁の注目度がさらに上がっていた。
    • 種田のドラフト指名順位はもっと高かっただろう。
      • 元木はこの時点で巨人に指名され、浪人することなく入団できていたかも。
        • 他球団の評価も上がって抽選で結局外していたかも。
          • 外していた場合は史実通りの指名になりそうだが、元木より下の評価ということで大森が拒否して社会人の可能性はある。
        • 元木1位大森2位だと3位は投手になるだろうから、元々投手とはいえ野手としての評価が高かった吉岡の指名はなかった可能性が高い。

1989年夏[編集 | ソースを編集]

仙台育英が優勝していたら
  1. 1989年の時点で深紅の大優勝旗が白河の関を越えていたので、以後大優勝旗の行方は「津軽海峡越え」と言われるようになっていた。
    • それも2004年で終焉。
  2. 大越基は高卒後即プロ入りしていた可能性も(史実では早大進学し中退→その後アメリカに留学しダイエーが1位指名)
  3. 2015年夏の決勝戦は現実ほど盛り上がらなかった。
    • 2022年夏に優勝したときも同様。
準決勝、帝京対秋田経法大付属で中川申也が先発していなかったら
  1. ノーヒットに抑えていたため決勝が仙台育英対秋田経法大付属になっていた。
  2. どちらが勝っても勿論白河越え。
  3. 吉岡と中川の評価には影響せずプロ入り。
  4. 翌年の春の選抜の異例の東北枠3への増加もそのまま。

関連項目[編集 | ソースを編集]