もしあの年の高校野球で○○だったら/1990年代
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1990年[編集 | ソースを編集]
1990年夏[編集 | ソースを編集]
- 優勝校が違っていたら
- 沖縄水産
※1991年夏に優勝した場合も同じ。
- 沖縄はひと夏中お祭り騒ぎ。
- あまり騒ぎすぎてクレームあったり。
- 「甲子園が先か大臣が先か」論争が逆の結果で決着。
- 沖縄県出身の「大臣」は興南の春夏連覇時点でも一人もいないそうですが…(参考)
- ここでいう「大臣」は「国務大臣」という意味なら1991年11月の宮沢内閣で誕生している。
- 沖縄県出身の「大臣」は興南の春夏連覇時点でも一人もいないそうですが…(参考)
- 1999年の沖縄尚学の春制覇は、「春も制覇!」であまり騒がれず。
- その代わり春・夏両方制覇県として北海道よりは威張れそう。
- 2010年に春・夏両方制覇県になりましたが…
- 決勝終了後のウェーブも見られなかったかもしれない。
- その代わり春・夏両方制覇県として北海道よりは威張れそう。
- 裁監督は全国制覇後に沖縄水産を退任していたかも。
- 新任高で史実の沖縄尚学より早く春制覇。
- 1991年夏に優勝した場合、スポーツ紙などでは「去年のリベンジ」の見出し(対戦相手は違うが)。
- 2010年の興南春夏連覇は現実よりもあまり騒がれず。
- 大野投手の酷使に対する栽監督への批判もそこまでなかった(1991年の場合)。
- 愛工大名電
- イチローは現実以上に高校時代から注目されていたかも。
- ひょっとしたらオリックス以外の球団に入団していたかもしれない。
- その場合、日米の球史は大きく変わっていた可能性がある。
- ひょっとしたらオリックス以外の球団に入団していたかもしれない。
- 翌1991年夏も甲子園に出場できていたかも(史実では東邦が出場)。
- 愛工大名電、ひいては愛知県勢のその後の低迷もなかったかもしれない。
- 同じく激戦区である大阪府・神奈川県と並ぶ強豪県になっていた。
1991年[編集 | ソースを編集]
1991年夏[編集 | ソースを編集]
- 優勝校が違っていたら
- 沖縄水産は上記項目を参照。
- 萩原誠の注目度が史実より低かった。
- 阪神がドラフト1位で指名することはなかったかも。
- 阪神に限らずドラフト2位以下で指名され、むしろ現実よりも活躍したかも。
- 阪神がドラフト1位で指名することはなかったかも。
- 大阪桐蔭の強豪化はなかったかもしれない。
- その場合、PLの弱体化とともに大阪、いや近畿勢の成績低迷が目立つようになっていた。
- 東北勢は遅くとも2012年には優勝を経験していた(史実では春夏とも青森県の光星学院(現八戸学院光星)が大阪桐蔭に負けて準優勝)。
- 星稜
- 石川県勢はもちろん、北陸勢としても春夏通じて初の優勝を果たしていた。
- 松井秀喜の注目度が上がっていた。
- 秋田
- 東北勢初の優勝に?
- 一番苦しめたのは秋田だし・・・・・・。
- サイクルヒットをした沢村の方が、萩原(初代)よりも注目される。
1992年[編集 | ソースを編集]
1992年夏[編集 | ソースを編集]
- 松井秀喜が5打席連続敬遠されなかったら
- 明徳義塾に対するブーイングはなかった。
- 星稜が順当に勝っていた可能性がある。場合によっては優勝!?
- 逆に実史通り明徳義塾が勝っていた場合、明徳の3回戦での大敗はなかった。こちらも場合によっては優勝!?
- 明徳の名が「あの時の明徳」ではなく、「ただの新興私立校」程度の認知度だった。
- しかし、その後の不祥事で結局明徳義塾のイメージは下がった
- 明徳と言えば朝青龍、あるいは三都主。
- 横峯さくらも。
- 松井は元西武の鈴木健程度の評価で終わった。
- どっちにしても同日の試合にさり気なく村田善則(佐世保実業)が出場していた。
- 明徳義塾の河野和洋投手は、プロ入りしていた可能性もある(ちなみに、現在メジャーリーグで活躍中の黒田博樹投手とは、大学で同期)。
- 新潟の長岡向陵は松井の星稜と対戦して11-0で大敗しただけの学校だった(松井と勝負したことは評価されず)。
- 明徳義塾が松井秀喜を全打席敬遠しながら敗れていたら
- 明徳義塾は非難というより「腰抜け野球」などと笑いものにされたかもしれない。特に松井の次打者の月岩信成に打たれて負けたのならなおさら。
- 月岩はおそらく大学でも野球を続けていた。場合によってはプロ入りの可能性もあったかも?
- 「作戦上の全打席敬遠」は戦術としても有効でないという認識が確立したかも。
- 星稜の優勝もあったかもしれない。
- 松井の知名度・評価は史実とさほど変わらないだろう。
- もし明徳義塾が大差で負けていながら全打席敬遠した場合は、監督は徹底的に批判され選手は同情されただろう。
- おそらく馬淵監督はこの時点で監督を退いていた。
- 明徳義塾が大差で勝っていながら全打席敬遠していたら。
- 監督は鬼畜と史実以上に批判された。
- 逆に選手に対する批判は小さかった。
- 16年後、メジャー第4シリーズ放送でこのことを思い出す人がいた(大差で勝っていながら4番打者を敬遠するというシーンがあった)。
- 優勝校が違ったら
- 全般
- 福岡県は1965年の三池工以来優勝なしということになり、「人口の割に優勝できない県」と言われていた。
- 星稜
- ≒松井秀喜が5打席連続敬遠されなかったら、である。
- もし松井が5打席連続敬遠されながら優勝していたら、「松井だけの学校ではない」と言われていた。
- 松井以外にもプロ入りして活躍する人が出ていたかも。
- この年松井の後の打者だった月岩選手の人生も大きく変わっていたかもしれない。
- 松井以外にもプロ入りして活躍する人が出ていたかも。
- もし松井が5打席連続敬遠されながら優勝していたら、「松井だけの学校ではない」と言われていた。
- 言うまでもなく石川県勢・ひいては北陸勢初めての甲子園優勝だった。
- 2015年選抜の敦賀気比優勝は「北陸勢では初めての春優勝」と言われていた。
- 明徳義塾
- 「松井の5打席連続敬遠が全てだった」と言われていた。
- 本当の優勝校は星稜だった、とも言われていた。
- その後も有力選手が打席に入ったら全打席敬遠する学校が出てきたかも。
- 明徳義塾が史実より悲惨な目に遭ったのは確実なのでそれはなさそう。
- 決勝終了直後に73年のプロ野球シーズン最終戦の後(阪神-巨人)と同じような事態が発生していた。
- 乱入したファンの一部が明徳の選手や監督に暴行を働いていたかもしれない。
- 最悪の場合死者が出ていた恐れすら否定できない。
- 現在では「高校野球史上最悪の決勝戦」として語り継がれている。
- そもそもそんな事態になるのなら決勝自体が中止になっていたかもしれない。
- それか学校関係者のみ入れての開催になっていたか。
- そもそもそんな事態になるのなら決勝自体が中止になっていたかもしれない。
- 対戦相手の西日本短大付への同情論もそれなりに出てきそうな気もする。
- 乱入したファンの一部が明徳の選手や監督に暴行を働いていたかもしれない。
- 拓大紅陵
- 千葉県勢は平成時代にも甲子園優勝を経験していた。
- 但し夏だけで、春は2019年現在も優勝経験なし。
- その後の千葉県勢の低迷はなかったかもしれない。
1993年[編集 | ソースを編集]
1993年夏[編集 | ソースを編集]
- 優勝校が違っていたら
- 春日部共栄
- 優勝投手の土肥義弘(元西武、横浜)は早稲田に合格し、プロ入りが1年遅れた。
- 高校野球(春夏)、社会人(都市対抗)、プロ野球(日本シリーズ)で埼玉県勢は最後に残りながらすべて敗れた記録を達成せずに済んだ。
- クレヨンしんちゃんを使って優勝パレードが行われていた。
- 14年後、らき☆すたで「うちの学校の野球部はかつて甲子園で優勝したことがある」というネタができていた。
- 春日部共栄がその後の埼玉の盟主になり、浦和学院は強豪にならなかったかもしれない。
- この時点で浦和学院は既に強豪の一角なのでそれはない。共栄と浦学の位置づけが逆になるぐらいかと。
- 2017年夏の花咲徳栄の優勝は現実ほどの感動はなかった。
- 現実以上に広陵を応援する人が多かった。
- 常総学院
- リードされてノーゲーム、再試合で勝利した学校が優勝が実現していたことになる。
- 鹿児島商工が影の優勝校だと主張する人がいた。
- 鹿児島商工自身も降雨コールド勝ちがあったから一概には言えないが。
- 堀越が影の優勝校だと主張する人もいたりして…
- 鹿児島商工自身も降雨コールド勝ちがあったから一概には言えないが。
- 稚内大谷が出場していたら
稚内大谷は名寄支部予選で圧倒的な強さを見せ、北北海道大会でも3度の決勝進出を果たしていますが未だに甲子園出場がありません。特に1993年の夏は1-0でリードし甲子園初出場間近の9回2アウトからエラーで同点に追いつかれ、その後延長10回にサヨナラ負けを喫しました。もし、この年に稚内大谷が出場していたら…?
- この時点で日本最北端の甲子園出場校となっていた。
- その後も幾度か甲子園に出場していた。
- 逆に旭川大高の出場回数が史実より少なかった。
1994年[編集 | ソースを編集]
1994年夏[編集 | ソースを編集]
- 樟南が優勝していたら
- 鹿児島県内大盛り上がり。
- 1996年の選抜で鹿児島実が優勝する前に優勝を達成していた。
- 佐賀県勢の優勝は2007年の佐賀北に持ち越し。
- 2004年の駒大苫小牧同様、前年リードしていてノーゲームなり再試合負けからのリベンジと言われた。
- 夏は2010年夏に興南が優勝するまで最南端の優勝校になっていた。
1995年[編集 | ソースを編集]
1995年春[編集 | ソースを編集]
- 開催が中止されていたら
阪神大震災の影響で開催中止も検討されましたが、バスの乗り入れ自粛と応援時の鳴り物・楽器禁止でどうにか開催されました。ではもし開催中止されていたら?
- 1995年夏の選手権も中止に追い込まれていたかもしれない。
- その場合、夏は各都道府県で独自大会が開催されていた。
- 夏にセンバツの出場校を集めた交流試合が開かれていたかもしれない。
- 夏の関西の交通状態の回復を考えるとそれはない気がする。
- 高校球児たちの心境やいかに?
- 2011年春の選抜も中止されていた可能性がある。
- 異常な酷暑に見舞われていた2018年夏も中止を求める意見が出ていた。
- 2020年のセンバツと夏の甲子園は3月に入る段階で中止が発表されていた。
- それでも交流試合は行われていただろう。
- この大会に初出場しその後甲子園出場がない清陵情報は「幻の甲子園出場」になっていた。
- 場合によってはこの大会の優勝校観音寺中央も(同年夏も出場したが選抜が中止になってたら夏の出場もなかったかも)。
- 電波ゆんゆんが話題となることもなかった。
- 香川県の甲子園優勝は1960年の高松商を最後になかった。
- 他の府県も兵庫県並みの被害を受けていたらこうなっていたかもしれない。
- 東京ドームで開催されていたら
阪神大震災で被災した甲子園に代わって代替開催できないか検討された
- 開催期間中の東京じゅうのホテルは満室になっていた。
- 応援団はしょうがないので列車の中で寝てもらう措置がとられていたかもしれない。
- 埼玉、神奈川、千葉のホテルも使えば何とかなったのでは。
- 応援団はしょうがないので列車の中で寝てもらう措置がとられていたかもしれない。
- それでも夏の大会からは甲子園に戻るだろう。
- 高校球児の気持ちはいかに…。
- 「甲子園でやりたかった」と考える球児と「開催できるだけ良かった」と考える球児に二分されそう。
- これが成功していたら、2000年代以降猛暑を機に球児の健康面を考え夏の大会の東京ドーム移転が検討されるようになっていた。
- 2年後に完成した大阪ドームは高校野球全国大会の開催も想定した球場として建設されていた。
- 経営面での苦戦もある程度は抑えられていた。
- 大会直前に起きた地下鉄サリン事件の影響をかなり受けていたかもしれない。
1995年夏[編集 | ソースを編集]
- 星稜が優勝していたら
- 石川県勢はもちろん、北陸勢としても春夏通じて初の優勝を果たしていた。
- OBである松井秀喜がお祝いのメッセージを送っていた。
- 「自分が達成できなかった優勝を後輩が成し遂げてくれた」と。
- 準決勝で帝京が負けていたら
- 決勝戦のカードは敦賀気比×星稜という、史上初の北陸対決でしかも福井と石川の隣県対決になっていた。
- どちらが勝っても北陸勢としては初優勝になるので、北陸の人々の盛り上がりは凄かった。
- 敦賀気比が優勝した場合、2015年春の優勝時は史実ほど盛り上がらなかった。
1996年[編集 | ソースを編集]
1996年夏[編集 | ソースを編集]
- 決勝での「奇跡のバックホーム」がなかったら
1996年夏の甲子園決勝・熊本工vs松山商の延長10回裏(熊本工の攻撃)、1死満塁の場面で松山商が起こしたビッグプレーです。参考もし、この「奇跡のバックホーム」がなかったら…。
- 熊本工業は初優勝を飾っていた。
- 当然熊本県勢としても夏の甲子園初優勝を飾っていた。
- 熊本市内がお祭り騒ぎとなっていた。
- 反対に、愛媛県内は失望していたかも。
- ライトの矢野が監督や選手からものすごく批判されていた。
- よって、愛媛朝日放送に入社することなどあり得ない。
- 選手はともかく監督はOBらからボロクソに叩かれていたことは間違いないだろう(このプレーは交代直後に出たため)。
- よって、愛媛朝日放送に入社することなどあり得ない。
- 1978年夏のPL学園レベルの大逆転優勝と言われていた。
- 松山商-熊本工は激闘・延長戦ではなく世紀の逆転劇に掲載されていた。
- 2016年に熊本で決勝戦の再戦が行われることはなかったかも。
- 決勝が9回裏で決着していたら
- 矢野は注目されなかった。
- 大学には進学していただろうが、卒業後に愛媛朝日テレビに入社することは無かった。
- 熊本のスポーツバー「たっちあっぷ」も生まれていない。
- 松山商業の三塁手・星加のアピールプレー(澤村が三塁を踏んでいない)が通っていたらこうなっていた。
- 熊本工業の同点ホームランがなかったら
- 松山商が初回表の得点だけで勝ったことになる。
- この試合が名勝負として語り継がれることはなかった。
- ヒーローインタビューに投手の新田が出ていた。
- 熊本工業が逆転サヨナラ勝ちしていたら
- PL以上の大逆転優勝と言われる。
- 澤村の注目度が上がっていた。
- 奇跡のバックホームがセーフと判定されていたら
- 「史上最も後味の悪い優勝決定」と語り継がれる。
- 球審の田中美一はこの試合限りで審判を辞めていた。
- 熊本工業の選手達も素直に喜べない。
1997年[編集 | ソースを編集]
1997年春[編集 | ソースを編集]
- 中京大中京が優勝していたら
- 低迷期からの脱却、復活優勝に、愛知県内はお祭り騒ぎ。
- では2009年夏の復活優勝の際は、愛知県内はお祭り騒ぎだったのか…?
- 「春夏連覇したらその後優勝できない」ジンクスが12年早く破られてた。
- 2006年春に横浜がジンクスを破ったので12年ではなく9年。
1997年夏[編集 | ソースを編集]
- 横浜高校が甲子園に出場していたら
- 97年、98年と夏2連覇を成し遂げていた。
- 98年春も優勝しているので夏春夏3連覇になっていた。
- 松坂大輔はその分肩が消耗し、プロでは大成しなかった。
- 捕手である上地雄輔が注目されプロ入り。ヘキサゴンでのおバカ解答もなかった。
- 控えだったのでプロ入りはなかったと思う。結局芸能界に入って板東英二とセットにされていた。
- 茨城ゴールデンゴールズあたりにいたかも。
- 控えだったのでプロ入りはなかったと思う。結局芸能界に入って板東英二とセットにされていた。
- 史実で甲子園に出場していた桐蔭学園の平野恵一・浅井良は注目度が少し下がっていた。
- 阪神やオリックスが獲得に動く事もなかった。
- ただし、大学で評価を上げた場合は別。
- 秋田商・石川雅規が死球を食らっていなかったら
- 秋田県初の優勝?
- 高校NO1左腕は川口ではなく石川に。
- 県内でもっと注目されていた仁部(前広島)、太陽、後松(前メッツ)がドラフト指名される。
- 青学にいかずにプロ入り、古田に(全日本で)投げる機会がなくヤクルト入りはない。
- 豊田大谷が3回戦に進出していたら
- 翌1998年の成績がもう少し良かったかもしれない。
- 少なくとも宇部商業戦は延長15回まで行かずに勝利していた。
- 古木への注目度も史実より上がった。
- 平安が優勝していたら
- 準決勝で智弁和歌山が浦添商業に負けていたらこうなっていたかもしれない。
- 川口知哉のドラフトでの競合球団数がもう1球団は増えていた(史実ではオリックス・近鉄・ヤクルト・横浜の4球団)。
1998年[編集 | ソースを編集]
1998年夏[編集 | ソースを編集]
- 横浜高校が準々決勝か準決勝で敗れていたら
- 松坂大輔の評価はそれでも変わっていない。
- しかし、小池正晃、後藤武敏、小山良男の評価には影響していたかも。
- 優勝は明徳義塾になっていた(史実より4年早い初優勝)。
- 準決勝がPL-明徳でもPLが延長で疲れていて現実と同じような試合展開になっていた。
- 明徳の寺本四郎と高橋一正はもう少し上の順位でドラフト指名されていた。
- 宇部商業藤田投手のサヨナラボークがなかったら
- 既にノーアウト満塁だったのでどっちにしろ豊田大谷が勝っていた。
- 宇部商業が勝っていた場合、東愛知のレベルが低いと言われ90回大会の愛知の区分けが変わっていたかもしれない。
- この試合が横浜vsPL学園のように語り継がれることはなかった
- 宇部商業が勝った場合、「ミラクル宇部商」を代表するゲームとして語り継がれていた。
- ジャニーズJr.のコンサートが大騒動にならなかったら
この年は開会式に先立って行われましたが、コンサートだけを見て帰る客が続出して物議をかもしました
- 記念大会では芸能人のコンサートが開かれるのが恒例となっていた。
- 2018年大会では嵐が甲子園で歌っていたかも。
- それでも芸能人目当てに徹夜組などのチケット争奪が問題になった。
- 京都成章が優勝していたら
- 決勝戦で松坂から序盤に得点を取っていたらこうなっていたかも?
- 実際の話、あの日の松坂はこの大会の中で一番調子が良くなかったという話もあるので…。
- 2000年代以降も何回か甲子園出場を果たしていた。
1999年[編集 | ソースを編集]
1999年春[編集 | ソースを編集]
- 沖縄尚学が優勝していなかったら
- 2008年のセンバツも優勝していなかったかも。
- 沖縄県勢の優勝は2010年の興南まで持ち越し。
- 比嘉公也投手が母校の監督に就任していなかったかもしれない。
- 史実通り就任して2008年の春に優勝したら、「選手として果たせなかった優勝を監督になって達成した」と言われていた。
- 優勝していたのは水戸商か準決勝で死闘を演じたPL学園。
- 駒大高が優勝していたら、3月27日の試合を3時間半遅れで試合を開催したことに対して是非が問われたかもしれない。
1999年夏[編集 | ソースを編集]
- 優勝校が違っていたら
- 全般
- 群馬県勢の優勝は2013年の前橋育英まで持ち越し。
- 正田投手はプロ入り出来ていなかったかもしれない。してたとしても上位指名はされていない。
- プロ入り後の成績は史実通りだろう。
- 岡山理大付
- 岡山県勢としては夏の甲子園初優勝となっていた。
- 決勝の相手が桐生第一だった場合、2004年夏の再戦は桐生第一が勝っていた。
- 森田選手はプロ入りしてたかも。
- 智弁和歌山
- 翌年も優勝していたら連覇を達成していた。
- 翌年のセンバツも優勝してたかもしれない。そうすると史上初の3季連続優勝を達成していた。
- 樟南
- 鹿児島県勢としては夏の甲子園初優勝となっていた。
- 1994年の夏のリベンジを果たしたと言われていた。
- 優勝した後の戦績も史実よりマシだったかも。
- 少なくとも2001年から2003年の間に甲子園で1勝以上はしていた(史実ではこの間に春夏合わせて4回出場していずれも初戦敗退)。