もしあの戦国大名が○○だったら
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独立項目[編集 | ソースを編集]
浅井長政[編集 | ソースを編集]
- 織田信長を裏切らなかったら
- 史実では柴田勝家が担当した北陸の平定は、浅井長政が行う。
- 姉川の戦いや小谷城攻防戦が無いので、織田信長の天下統一は早まる。
- 武田信玄の元亀遠征も無かった(浅井朝倉軍をかなり当てにしていた感じなので)。
- 羽柴秀吉はどこに城を建てていたのだろうか?
- 京都所司くらいの地位で終わっていた気もする。
- お市は長政の妻として一生を終える。
- お茶々(淀殿)は秀吉のものにはならない。従って秀頼も生まれない。
- つまり、秀次は切腹されることもなく、秀吉の後を継ぐことが出来た。
- お江が秀忠の嫁になることは……あったかも。
- お茶々(淀殿)は秀吉のものにはならない。従って秀頼も生まれない。
- 本能寺の変が起こった場合、長政が史実での家康ポジションになる。
- 信長共々討たれていた可能性もある。
- 勝家側について秀吉と対決するルートも考えられる。勝家側につけば滅亡、秀吉側なら史実の前田家の加賀・能登・越中100万石に封ぜられるだろう。
- 信長共々討たれていた可能性もある。
- 最終的に九州か東北辺りの10万石クラスの大名で落ち着く。
- それだと史実で領していた北近江より石高が半分以上少ないんだけど…。西国の要地に50万石以上じゃないか?
- 史実通り秀吉が平定し、長政と和睦を結んだ場合、筑前博多150万石くらいになっていると思う(長政及びその子供(万福丸→?)の器量にもよるが)。
- 多分万福丸(長政の嫡男)は信政になっていると思う。
- 元服年(1579年)を考えると信忠から偏諱されて「忠政」になっていた。
- 本能寺直前で越前・越中・加賀・能登の4国持ち。混乱に乗じて近江に侵攻。
- 史実通り秀吉が平定し、長政と和睦を結んだ場合、筑前博多150万石くらいになっていると思う(長政及びその子供(万福丸→?)の器量にもよるが)。
- それだと史実で領していた北近江より石高が半分以上少ないんだけど…。西国の要地に50万石以上じゃないか?
尼子氏[編集 | ソースを編集]
- 新宮党を粛清していなかったら
- 尼子氏の滅亡が遅れる。
- 厳島の戦いの際、背後から安芸・備後を攻めていたというシナリオもありえる。
- 逆に新宮党が反乱を起こしていた可能性も。
- 現在では毛利の謀略ではなく晴久自ら粛清したという説が有力だったり。
上杉氏[編集 | ソースを編集]
- 反信長同盟に参加しなかったら
- 御館の乱は、織田信長の支援を受けた方が勝利する。
- それでも武田を挟殺することはなさそう。
- 御館の乱が景勝の勝利でなかったら
上杉謙信の死後、二人の養子、上杉景虎と上杉景勝が家督を争った御館の乱。もし、景勝の勝利でなかったら・・・。
- 景虎が勝利したら
- 直江兼続は家老にならなく、直江状も存在しない。2009年の大河ドラマは天地人でなかった。
- 事実上、関東一円から北陸にかけて北条の領土に。だが信長としても看過できないほどの大勢力になるのでどちらにせよ北条は滅亡していた…?
- 逆に、跡継ぎが景虎になったら内紛は却って酷くなり、数年(下手すると1年持たず)して景虎(及び道満丸)は自害(もしくは戦死)。景勝や兼続も御館の乱で死亡しているので、上杉家・直江家は滅亡。
- 上杉鷹山が出て来ないので、米沢は寂れた街になっていた。
- 上杉鷹山候は、日向高鍋藩からの養子なので、史実通り米沢藩に養子に来て改革を行い名君と称される可能性も。
- その混乱に北条家が介入し、さらに佐竹・伊達・最上・織田も乱入して……
- また、憲政の実子である上杉憲重を関東管領にしようとする派閥もできそう。
- 新発田重家の反乱は起きず、蘆名盛氏・盛隆や伊達輝宗と直接対峙する形になる。
- 上杉鷹山が出て来ないので、米沢は寂れた街になっていた。
- 謙信が家督を決めていて、御館の乱が起こらなかったら
- 加賀、能登、越中は織田に攻められなかった。
- 武田も滅びなかった。あるいは、勝頼の最後は史実とはまた別の形になっていた。
- 関ヶ原の戦い後に家臣を削減していたら
上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されたものの、家臣の召し放ちを行いませんでした。もしこの時に家臣の大幅な削減を断行していたら…。
- 米沢藩の財政はそれほど悪化しなかった。
- しかし15万石への削減は史実通り。
- 直江兼続の評判が落ちていた。
- 浪人となった旧臣の多くが大坂の陣で豊臣方として参戦した。
宇都宮氏[編集 | ソースを編集]
- 芳賀氏との対立がなかったら
- 興綱・尚綱・広綱と当主が次々と亡くなることもなかった。
- おそらく小田原攻めまで下野の有力大名として存続していた。
- その後の行動にもよるが、大名として存続できていたかもしれない。
大内氏[編集 | ソースを編集]
大寧寺の変が起こらなかったら[編集 | ソースを編集]
1551年、西国一円に版図を築き隆盛した大内義隆が、家臣陶隆房(晴賢)の謀反にあって自害、大内氏は滅亡した。大内氏の滅亡によって西国の勢力図は一気に塗り変わったが、もしこのクーデターが起こらなかったら、果たしてどうなっていたのか。
- 義隆が亡んでいなかったら
- 貿易で蓄積した潤沢な資金と莫大な軍事力を活用し大内家はまだまだ栄達した。
- 周防は西の京都として大いに繁栄し、京都以上に栄えていた。
- その後の毛利家の台頭もなかった。
- その後の大内家にもよるが毛利家が尼子方に進出して二大勢力になっていたことは考えられる。
- 相良武任がいなかったら
- 義隆と隆房の間に軋轢を生じさせた元凶の武任がいなかったら、隆房も謀反を起こさず、大内家は安泰だった。
- …が、隆房は気性が荒い人物だったらしいので、武任がいなくても何らかの原因で亀裂が生じていたかも。
- 大内晴持が死んでいなかったら
- 義隆が鋭気を喪失し、文芸に耽溺するようになった原因の一つ。聡明な人物だったようで、もし彼が生きていればやはり大内家は安泰だった…?
- とにかく大内家は家臣・毛利などを使って中国・北九州に勢力を誇り続けたであろう。
- 大内義房に改名していただろう。
- 義隆が隆房を誅殺していたら
- 冷泉隆豊は隆房に謀反の気があるとして義隆に隆房の成敗を促していたが、義隆は放置した。もし隆豊の諫言を聞き入れ隆房を始末していれば、「隆房の謀反は」起こらなかったかも。
- ただ、隆房以外にも義隆に不満を抱く家臣は多かったようで、いずれにしろ大内氏は瓦解していたかも。
大谷吉継[編集 | ソースを編集]
- 関ヶ原の戦いで東軍についていたら
- 戦後は因幡、出雲、豊後あたりの大名になっていた。
- 病を理由に家督を嫡男吉治に譲っていた。
- 本多忠勝と共に姻族の真田昌幸、信繁父子の助命に奔走。
- 大坂の陣まで存命中であれば婿にあたる真田信繁の配下に加わっていた。
- 嫡男の吉治は徳川方に。
- 小早川秀秋は長寿だったかも。
佐竹家[編集 | ソースを編集]
- 東軍に付いていたら
- 本領安堵されていたかも。
- それでも、あれだけの石高(与力を含めると100万石ともいわれる)の大名が江戸すぐ近くにいるというのは脅威なので、加増転封になっていたかもしれない。
- 青森・秋田・岩手で表高60万石(実高120万石?)とか。で、南部とか津軽とかが茨城・磐城に移されていた。
- 西軍に付いていたら
- 改易…するにしても大きすぎるのと平安以来の名家なので存続は許されそう。
- 史実通り秋田(出羽北部)に転封され、徳川末子の頼房が史実通り水戸に入城していた。
島津氏[編集 | ソースを編集]
- 九州を統一出来ていたら
- いずれにせよ秀吉との衝突は避けられない。
- 豊臣に始末されていたかも…?
- 実史よりも早く琉球侵略を進めたかもしれない。
- 鹿児島市が九州の中心となっていた。
- 島津製作所が現実以上に大きくなっていた。
- それは関係ないよ。島津製作所、大名の島津家が創ったんじゃないからね。島津家が参勤交代か何かで難渋していたときに助けたので苗字と家紋をもらったのが島津製作所の人、あそこまで製作所が大きくなったのは大名島津氏のためではなく製作所の技術力。ありがちな勘違いネタではあるけど。マジレスすんません。
- 井筒部屋が史実以上の大勢力となるのは間違いない。
- 竹姫が島津継豊に嫁がなかったら
薩摩藩5代藩主の島津継豊は当初の正室・皆姫と死別後、徳川綱吉の養女(側室の姪)にあたる竹姫(浄願院)を継室とします。しかし竹姫にはそれ以前にも様々な縁談が持ち上がっていました。もし皆姫が長生きするか竹姫が別の相手と結婚するかして継豊の再婚相手にならなかったら。
- 徳川と島津の縁戚関係がそれほど深まらなかった。
- 少なくとも茂姫は家斉の正室にならない。
- 一方財政面がマシにはなった。
- 菊姫は生まれたとしても婚家が変わっていた。
- 下手すると長溥(斉溥)の黒田家入りもない。
- 皆姫が健在だったら
- 毛利吉元の娘なので薩長関係が良くなったかもしれない.
- 幕末の流れにも影響が出る。
- 竹姫は別の外様大藩に嫁いでいた。
- もしその相手が未婚なら輿入れに手間取らずに済んだ。
- 会津藩嫡子松平正邦と結婚していたら
史実では婚約後に正邦が早世。
- 正邦は無事家督を継承。
- 正甫は嫡子にならなかった。
- 容貞の藩主就任もなくなるので「正」が通字であり続ける。
- 秀忠の男系断絶が遅れた。
- 有栖川宮正仁親王と結婚していたら
史実では結納後に親王が崩御。
- 職仁親王の継承はなく、書道の有栖川流は生まれなかった。
- 後年和宮降嫁とセットで語られる。
- 徳川吉宗と結婚していたら
吉宗が正室を失っていたため継室に望まれたが、天英院の反対で頓挫。
- 大奥での対立は避けられない。
- 当然吉宗の養女にはならなかった、
- これは上記の相手と結婚した場合でも同じ。
- 島津義弘が関ケ原の戦いで東軍側に付いていたら
当初は東軍に付き、徳川家康の命で伏見城の援軍として来たものの守っていた鳥居元忠が拒否したことにより、西軍に付いた。
- 無論、敵中突破はなかった。
- 伏見城の前哨戦で奮戦していた。
- 最悪の場合、戦死していた可能性もあった。
- 関ケ原の戦いの後は、日向一国も与えられていた。
- 幕末に討幕への道に走ることはなかったかもしれない。
- 宝暦治水工事は長州藩辺りが担当していた。
武田氏[編集 | ソースを編集]
- 反信長同盟に参加しなかったら
- 史実だと婚約破棄になっていた織田信忠と松姫は、無事に結婚する。
- 武田義信を廃嫡していなかったら
- 甲相駿三同盟は堅持。
- 上杉は織田と同盟を結んだ。
- 景勝は長尾家の後継に、関東管領上杉家は織田から養子を出していた。
- 上杉は織田と同盟を結んだ。
- 勝頼は諏訪家を後継していた。
伊達政宗[編集 | ソースを編集]
- 東北全土を征服していたら
- 豊臣家に従属せず、藤原家のような独立政権になる。
- しかし豊臣氏との全面対決は避けられなかっただろう・・・
- そして伊達家の支配地域は最終的に、北奥羽・蝦夷・樺太・千島、遠くはカムチャツカ南部まで及ぶ。
- 戊辰戦争の際に敗走してきた幕府軍を保護する。
- 現代においては仙台が日本第二の都市になる。
- 戊辰戦争の際に敗走してきた幕府軍を保護する。
- 豊臣・徳川・伊達の三国鼎立で日本の三国時代に。
- 伊達市は北海道より先に福島県にできていた。
- 「徳川市」なんか無いだろ?そういうことだ。
- 「伊達市」の名称は伊達郡が由来ですが...。
- 「徳川市」なんか無いだろ?そういうことだ。
- やませによる飢饉で江戸時代には結構ひどいことになりそう
- これはむしろ天文の乱で伊達稙宗が勝っていたらに近いと思う。
長曾我部氏[編集 | ソースを編集]
- 関連項目
もしあの戦国・安土桃山時代の戦いが○○だったら#戸次川の戦いが○○だったら
松平氏[編集 | ソースを編集]
松平長親が早期に隠居しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 清康の祖父・家康の高祖父にあたる松平長親は、伊勢盛時(後の北条早雲)と戦い、また今川の大軍をも退けたほどの名将として知られました。しかし彼は1501年(1506年、1508年説もあり)に28歳の若さで隠居し、嫡男の信忠に家督を譲りました。
- もし、家督をこの段階で譲らず、少なくとも50歳くらいまで第一線で活躍していたら?
- ちなみに、史実では長親は1544年まで生きており、この時の当主は家康の父広忠でした。
- 清康生存ルートよりも早く三河を統一していたかもしれない。
- 嫡男信忠は暗愚として知られていたが、これがその子清康と長親の次男信定ならば結構いい勝負になりそう。
- この段階で清康に家督を譲っていたら(史実の清康相続時で長親50歳、信忠死去の時点で長親58歳)、三河の混乱も起きることはなかっただろう。
- 三河の混乱もない→今川に付け入れる隙がない状態にすれば、その後の松平家があそこまで悲惨なことになることもなかっただろう。
- この段階で清康に家督を譲っていたら(史実の清康相続時で長親50歳、信忠死去の時点で長親58歳)、三河の混乱も起きることはなかっただろう。
毛利氏[編集 | ソースを編集]
- 有田中井手の戦いで敗北していたら
- 毛利の台頭はない。
- しかし、安芸武田家がその後繁栄したかどうかは微妙。大内や尼子の間でうまくやり過ごせない限り。
- 反信長同盟に参加しなかったら
- どっちにしても、足利義昭の扱いに苦労しそうだ。
- 別の大名を頼ったかも?
- 吉川・小早川家が関ヶ原で裏切り・内通しなかったら
- 毛利輝元は満を持して西軍総大将になった。
- 西軍がバラバラになることなく西軍が勝利していた可能性もある。
- んで、こうなる。
- 西軍がバラバラになることなく西軍が勝利していた可能性もある。
- 小早川秀秋が裏切り者の代表格として名指しされることもなかった。
- 裏切り者といえば松永久秀か藤堂高虎。但し後者は最終的には勝ち組なのでおそらく久秀かな。
- 秀秋が早死にすることもなかった。
- 萩以外に城を築いていたら
山内一豊[編集 | ソースを編集]
- 男子が生まれていたら
- 名前はおそらく「秀豊」か「吉豊」。
- 秀次からもらって「次豊」かもしれない。
- 康豊、忠義親子の出番はない。
- 御家騒動に発展して、康豊は切腹。
- それを幕府に咎められ、一豊一代で改易。
- 山内家の当主が徳川将軍の偏諱を受ける慣習が幕末まで続いた可能性がある。
- 徳川綱豊や島津継豊は別の名前になっていた。