もしあの競走馬が○○だったら
独立済み[編集 | ソースを編集]
- もしあの競走馬が故障していなかったら
- もしあの競走馬が長生きしていたら
- もしあの競走馬があのレースで勝っていたら
- もしあの種牡馬が○○だったら(種牡馬入りしていたらも含む)
- もしあの競走馬があのレースに出走していたら(できていたら、抽選に通っていたらを含む)
- もしあの競走馬があのレースに出走していなかったら(できなかったら、抽選に外れていたらを含む)
あのレースでの降着がなかったら[編集 | ソースを編集]
カワカミプリンセス[編集 | ソースを編集]
- 2006年エリザベス女王杯での降着がなかったら
- サンデーサイレンス最終世代のGⅠ勝ち馬は翌年のマツリダゴッホまで出なかった事になる。
- 晩年になって活力が落ちたと言われるかもしれない。
- フサイチパンドラは5歳以降も現役を続けただろうか。その場合、アーモンドアイの生年がずれていた可能性も。
- カワカミプリンセスのその後の成績はあまり変わらない。
ブエナビスタ[編集 | ソースを編集]
- 2010年ジャパンカップでの降着がなかったら
- ウオッカと並びGⅠ7勝を挙げていた事になる。
- ローズキングダムは「やっぱり薔薇一族だな」と言われるだけであまり変わらなさそう。種牡馬にはなるだろうが結局は史実通りか……。
メジロマックイーン[編集 | ソースを編集]
- 天皇賞秋での1着降着がなかったら
- 史実より獲得賞金は増えていた。その分だけ、テイエムオペラオーがそれを更新した時の驚きは大きかった。
- 逆にスペシャルウィークはあまり騒がれない。
- 当時の天皇賞秋の賞金額(1億2000万)を考えると、他が史実通りであればテイエムまで更新されなかった。
- ナリタブライアンがマックイーン越えを果たすため、宝塚記念に挑戦して有終の美を飾った可能性も。
- ジャパンカップでゴールデンフェザントに一蹴された時のショックは大きくなったかも。
- 有馬記念でのダイユウサクの単勝倍率は史実以上になっていたか。
- いずれどこかで降着問題が取り沙汰されただろうが、誰が対象になる?(エリザベス女王杯のヒシアマゾンが有力か)
- プレクラスニーはたぶんあまり変わらない。
- 江田照男騎手はダイタクヤマトまでGⅠを勝てなかった事になる。
- 「父子3代天皇賞秋制覇」「天皇賞春秋春連覇」になっていた。
あのレースで出遅れなかったら[編集 | ソースを編集]
ゴールドシップ[編集 | ソースを編集]
- 2015年の宝塚記念での大出遅れがなかったら
- 2015年の宝塚記念に「同一平地GI3連覇」という快挙を目指して出走したゴールドシップでしたが、発馬直前にゲート内で急に立ち上がり大きく出遅れ、3コーナーで馬群に取りつきましたが直線全く伸びず、15着という惨敗に終わりました。
もしこの時普通にゲートを出ていたら…。
- ラブリーデイの評価はやや下がっていた。
- ゴールドシップが勝っていたら尚更。
- 秋シーズンも史実より良い成績を残せていた。有馬記念はもしかしたら勝っていたかも…。
サイレントハンター[編集 | ソースを編集]
- 2001年の天皇賞(秋)で出遅れなかったら
- ラストランとなった天皇賞(秋)で出遅れてしまい、本来の力を出せないまま13頭立ての13着と敗れたサイレントハンター。もし出遅れなかったら…?
- 流石に1着はないだろうが、着順が少しは良くなっていたか。
- 同レースの展開にも影響を与えていた。
- もしかしたらテイエムオペラオーの国内GI8勝目があったかもしれない。
- この場合アグネスデジタル陣営は史実以上の批判に晒されていた。
- もしかしたらテイエムオペラオーの国内GI8勝目があったかもしれない。
スティンガー[編集 | ソースを編集]
- 1999年の桜花賞で出遅れなかったら
- 前年の阪神3歳牝馬S勝利後、トライアル競走を使わずぶっつけで桜花賞に出走しましたが、スタートで出遅れプリモディーネの12着に敗れてしまいました。もし出遅れなかったら…?
- 少なくとも二桁着順ということは無いだろう。
- もしこれで勝っていたら、鞍上の岡部幸雄は32年目で初の桜花賞勝利と言うことになっていた。
- 福永祐一(プリモディーネ鞍上)のGI初勝利は同年12月の朝日杯3歳Sまで待つことになる。
あのレースで落馬しなかったら[編集 | ソースを編集]
ノーリーズン[編集 | ソースを編集]
- 2002年の菊花賞で落馬しなかったら
- それでも勝てたかと言うと……。
- もし勝った場合、エアシャカール並の成績になりそう。
- ヒシミラクルは翌年の春の天皇賞と宝塚記念を勝てただろうか?
- もし勝った場合、エアシャカール並の成績になりそう。
- メリーナイスがネタとして掘り返される事もなかった。
ポルトフィーノ[編集 | ソースを編集]
- エリザベス女王杯で落馬しなかったら
- 秋華賞を除外となり、条件戦の清水ステークスを勝ってエリザベス女王杯に出走したポルトフィーノでしたが、スタート直後に落馬し競走中止となってしまいました。もし落馬しなかったら…。
- 3番人気だったので勝つ可能性は十分にあった。
- リトルアマポーラ(史実1着馬)はGIを勝てないまま引退していた。
- 「カラ馬の1着入線」と言えば1985年の札幌日経賞のギャロップダイナを思い出す人が大多数となっていた。
あのレースで負けていたら[編集 | ソースを編集]
ステイゴールド[編集 | ソースを編集]
- ラストランの香港ヴァーズで負けていたら
- 通算50戦目・ラストランとなった香港ヴァーズで遂にGI初勝利を果たしたステイゴールド。もし負けていたら…?
- 翌2002年に京都競馬場で引退式が行われることはなかった。
- 種牡馬としてあれほど活躍馬を出していたかどうか…。
テイエムプリキュア[編集 | ソースを編集]
- 2009年の日経新春杯で負けていたら
- 同レースが引退レースとなる予定でしたが、逃げ切って約3年ぶりの勝利を挙げたこともあり引退を撤回しました。もし負けていたら…?
- あそこまで人気が出たかどうか…。
- 「3連勝で阪神JFを勝っただけの一発屋」と見なされていた。
- ナムラマース(史実2着馬)が金沢へ移籍することも無かった。
- 鞍上の荻野琢真は重賞未勝利のまま。
- 同年のエリザベス女王杯が大荒れの結果になることも無かった。
もっと早く引退していたら[編集 | ソースを編集]
オグリキャップ[編集 | ソースを編集]
- 1990年のジャパンカップを最後に引退していたら
- 5歳秋のジャパンカップ11着後、競馬ファンやマスコミからは「このまま引退すべき」との声が多く上がり、馬主の近藤俊典や日本中央競馬会に対して脅迫状が届く事態まで発展しました。
- あそこまで語り継がれる馬にはならなかったかもしれない。
- 第2次競馬ブームも史実よりかなり早く衰退していた。
- オグリキャップのいない有馬記念はメジロライアン(史実2着)かホワイトストーン(史実3着)が勝っていた。
- 大川慶次郎氏の「ライアン!ライアン!」は史実通り?
- 引退式が京都競馬場・笠松競馬場・東京競馬場の3場で行われることもなく、笠松だけでひっそりと行われていた。
オフサイドトラップ[編集 | ソースを編集]
- 1997年のエプソムカップを最後に引退していたら
- 6歳秋のエプソムカップ6着後に3度目の屈腱炎を発症し、引退も検討されましたが管理調教師の加藤修甫が本馬の高い素質を信じ現役続行を選択しました。
- その後7歳春に復帰し七夕賞・新潟記念・秋の天皇賞と重賞を3連勝しGI馬になりましたが、もしエプソムカップを最後に引退していたら?
- 1998年の秋の天皇賞はステイゴールドが勝っていた。
- 種牡馬入りは厳しかったかもしれない。
- 仮に種牡馬入りできたとしても、あまり史実と変わらない成績になっていたか。
トウカイテイオー[編集 | ソースを編集]
- 1992年の有馬記念を最後に引退していたら
- トウカイテイオーは1992年の有馬記念で11着と大敗した後、左中臀筋を痛めていたことが判明したため長期間の休養に入ります。この時種牡馬入りも検討されていましたが、資金面の折り合いから現役を続行することになりました。
- その後、宝塚記念での復帰を目論みながらも剥離骨折し、丸一年後の有馬記念で奇跡の復活を遂げるわけですが、もし1992年の有馬記念で引退していたら?
- この場合もあれだけ後年に語り継がれることはなかったかもしれない。
- それでもなんだかんだで種牡馬としては好成績を残していたか。
- でも後が続かず、クラウドファンディングで辛うじて後継馬ができるのも案外変わらないかも。
- 1993年の有馬記念はビワハヤヒデが取っていた。
- 2着だが…レガシーワールドが入り込んでいたか?なんだかんだナイスネイチャは3着、マチカネタンホイザは4着にいそう。
ライスシャワー[編集 | ソースを編集]
- 5歳春の時点で引退していたら
- 1994年春、栗東での調教中に故障を発生したライスシャワーはこの時点で引退・種牡馬入りが検討されていましたが、長距離レース以外の成績の乏しさ・小柄な馬体が馬産地から敬遠され、結局現役続行となりました。もしこの時点で引退していたら…?
- 長生きしていたらの項目と同じく、種牡馬としては不振な成績となっていた。
- 勿論、あそこまで人気が出ることもない。
- 春の天皇賞(1995年)はステージチャンプが勝っていた。
- ステージチャンプはおそらくその年限りで引退して種牡馬入りしていただろう。親族に重賞勝ち馬が多かったため一頭ぐらいは有力馬を出していたかも。
- もしかしたら同年の有馬記念でナイスネイチャは4年連続3着の大偉業を達成していたかもしれない。
- 因みに史実では3着のライスシャワーから半馬身+クビ差離れた5着。
あの騎手が乗り続けていたら[編集 | ソースを編集]
エルコンドルパサー[編集 | ソースを編集]
- 的場均が乗り続けていたら
- グラスワンダーの鞍上は管理していた尾形調教師の明言通り関西の騎手に乗り替わっていた。
- 候補としては河内洋か四位洋文あたり。
- 凱旋門賞に挑戦していたかは疑問。
- 国内路線の場合はタイキシャトル引退後のマイル路線に参戦していた。
ネオユニヴァース[編集 | ソースを編集]
- 福永祐一が乗り続けていたら
- 3歳2月のきさらぎ賞まで福永祐一が4戦中3戦で騎乗していましたが、福永がネオユニヴァースと同じ瀬戸口厩舎のエイシンチャンプを選択しため、スプリングSからはミルコ・デムーロが騎乗することになりました。
- ネオユニヴァースとエイシンチャンプは揃って弥生賞に出走。
- デムーロは日本ダービーまでエイシンチャンプに乗り続けていた。
- それでも同馬の成績はあまり変わらなかった気がする。
- 春のクラシック二冠は達成できなかったかもしれない。
- 皐月賞はサクラプレジデント、日本ダービーはゼンノロブロイが勝っていた。
- 田中勝春(サクラプレジデント鞍上)のGI連続未勝利記録はこの時点で止まっていた。
- 横山典弘(ゼンノロブロイ鞍上)は史実より6年早く日本ダービーを勝っていた。
- 外国人騎手の日本ダービー勝利は2010年代まで待つことになる。
- 二冠を達成していないのでダービー後の宝塚記念参戦も無かっただろう。
- 皐月賞はサクラプレジデント、日本ダービーはゼンノロブロイが勝っていた。
その他[編集 | ソースを編集]
イーグルカフェ[編集 | ソースを編集]
- 山元トレーニングセンターの火事に巻き込まれていたら
- 2000年2月11日に宮城県の山元トレーニングセンターで火事が発生、重賞2勝のエガオヲミセテを含む22頭が焼死する痛ましい事態となってしまいました。
実はこの時、直前の共同通信杯を勝ったイーグルカフェも山元トレセンに滞在していましたが、違う棟にいたこともあり難を逃れることができました。
- NHKマイルカップはトーヨーデヘアが、ジャパンカップダートはリージェントブラフかアドマイヤドンが勝っていた。
- トーヨーデヘアはその後盛岡→荒尾に移籍することもなく、種牡馬になれていたかも?
イソノルーブル[編集 | ソースを編集]
- 桜花賞のレース直前に落鉄していなかったら
- 1991年の桜花賞で単勝1番人気に推されていたイソノルーブルでしたが、レースの直前になって蹄鉄の落鉄が判明し右前脚が裸足のまま出走することになってしまいました(結果はシスタートウショウの5着)。もし落鉄していなかったら…?
- 落鉄がなく、本来の力を出していたらと仮定すると、もしかしたら桜花賞は逃げ切りで勝てていたかもしれない。
- この場合オークスはシスタートウショウに敗れていたかもしれないが…。
エアグルーヴ[編集 | ソースを編集]
- 牡馬だったら
- エアグルーヴが生まれた次の日に、この馬を管理した伊藤雄二調教師が「男だったらダービー馬やけどな」と社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)場長の吉田勝己に言ったというエピソードがあります。
- 1996年の牡馬クラシック路線はエアグルーヴが中心となっていた。
- 得意な東京の日本ダービーは勝っていた。
- 菊花賞も勝敗になっていた。
- やや苦手だった中山の皐月賞は苦戦していた。
- 菊花賞も勝敗になっていた。
- イシノサンデー・フサイチコンコルド・ダンスインザダークの影は薄くなっていた。
- 得意な東京の日本ダービーは勝っていた。
- 1996年の牝馬クラシック路線は桜花賞と秋華賞は史実通り、さあオークスはどうなっていたか…。
- リトルオードリーが勝っていた場合、鞍上の佐藤哲三は約半年早くGI初勝利を決めていた。
- ロゼカラーが勝っていた場合、薔薇一族は史実(2009年・朝日杯FS)よりかなり早くGIを制覇していた。
- 史実2着のファイトガリバーが勝った場合、ダイナガリバーはもう少し活躍馬を出していたかも。
- 種牡馬としても多くの活躍馬を出していた。
- ただアドマイヤグルーヴ、ルーラーシップ、ドゥラメンテなどが出ないためかなり勢力図は変わっていた。
- アドマイヤグルーヴがいないので、スティルインラブは牝馬三冠どころか牝馬四冠を達成していた。
- オースミハルカはGIを勝てていたかもしれない。
- 2015年の皐月賞はリアルスティールが、日本ダービーはサトノラーゼンかサトノクラウンが勝っていた。
- 福永祐一も史実より5年早く皐月賞を勝っていた。
- アドマイヤグルーヴがいないので、スティルインラブは牝馬三冠どころか牝馬四冠を達成していた。
- ジャングルポケットと並んでトニービン系の有力後継種牡馬になっていた。
- 種牡馬の父としても、ジャングルポケット以上の活躍をしていた。
- ただアドマイヤグルーヴ、ルーラーシップ、ドゥラメンテなどが出ないためかなり勢力図は変わっていた。
エーピーインディ[編集 | ソースを編集]
- 日本に輸入されていたら
- アメリカのセリにて日本人の鶴巻智徳氏が落札しましたが、米国のオーナーと折半での保有となり、米国で出走することになりました。もし日本で出走していたら?
- 世代的にはミホノブルボンらと同期だが、マル外のため表舞台には出走できず。
- 同期かつ父セクレタリアトのヒシマサル(二代目)とはなんだかんだで比較されていた。
- おそらくエーピーインディのほうが強かったと思われるが。
- 朝日杯でミホノブルボンに勝てたかどうかで今後の状況が変わっていただろう。
- 同期かつ父セクレタリアトのヒシマサル(二代目)とはなんだかんだで比較されていた。
- 芝で走れればグランプリやジャパンカップも狙えたかもしれないが、ダート専門馬なら下手したら「主な勝鞍:フェブラリーハンデ(G3)」とかで終わってた可能性も(早熟系統で何年も走れるような馬ではなさそうだし、史実でも3歳で引退している)。
- 実力的にも芝G3くらいなら勝てた可能性も高いが…
- 「あともう少し遅く生まれていたら地方交流を荒らし回れていたのに」と嘆かれるポジションにいそう(実際には1つ下にホクトベガもいたので厳しそうだが)。
- 「日本調教馬のまま海外挑戦していた」シナリオも考えられなくはないが、「それなら普通に米国でデビューすればよかったのでは?」となりそう。
- 活躍できずに終わった場合、バブル崩壊と鶴巻氏の失脚もあって最悪×××されていた可能性も。
- 血統が買われ種牡馬入りできていたとしても、サンデーら新鋭種牡馬に押され重賞馬を単発的に出すだけで終わりそう。
- 交流重賞が拡大した2000年代まで生き延びていれば、後年の産駒から強力な馬を何頭か出していたかも。
- 血統が買われ種牡馬入りできていたとしても、サンデーら新鋭種牡馬に押され重賞馬を単発的に出すだけで終わりそう。
- 結果的にシアトルスルー系の衰退が早まり、2020年代にはナスルーラ系が「過去の血統」扱いされ、ネアルコの支流系統扱いされていたかも。
- ロイヤルチャージャーとナスルーラの立ち位置がファロスとフェアウェイのようになっていた。
エルコンドルパサー[編集 | ソースを編集]
- 持込馬だったら
- 渡邊オーナーは当初エルコンドルパサーの母サドラーズギャルの血統に魅力を感じ、キングマンボが種付けされた直後日本へ輸入し、産駒を持込馬(内国産馬扱い)とする構想があったそうです。
- 1998年のクラシック戦線筆頭に挙げられていた。
- 皐月賞、ダービーは確実に取れていた。
- その場合鞍上が的場均、蛯名正義いずれの場合もダービー初制覇。
- 武豊のダービー初制覇は次の年のアドマイヤベガまでお預け。
- ダービー後に菊花賞を回避して毎日王冠→天皇賞秋に行っていた可能性もありそう。
- 皐月賞、ダービーは確実に取れていた。
- 古馬戦線でも国内に専念していた。
- あるいは史実通り凱旋門賞に挑戦。
- スペシャルウィークの戦績が下がっていたので、サンデーサイレンスの種牡馬価値も史実より上がらなかった。
- エルコンドルパサーが海外に挑戦すれば、その間の天皇賞春あたりは勝てていたかもしれない。
- アニメ「ウマ娘プリティーダービー」の内容も大幅に変わっていた。
- このあたりをやるとすれば、サイレンススズカを軸に、98世代との闘いを描くIFシナリオになっていたか。
- NHKマイルカップは走らず、シンコウエドワード(史実2着)が取っていたと思われる。ただだとしてもシンコウエドワードは史実とあまり変わらない成績で終わっていた(種牡馬にはなっただろうが)か。
- 海外遠征時に武豊に乗り替わっていたら
- 凱旋門賞を勝った場合、99年の年度代表馬論争は過激化しなかった。
- エルコンドルパサーは早い内から顕彰馬に。
- スペシャルウィークの鞍上は藤田伸二か福永祐一あたりが騎乗。
- 両馬の出走が同週とかにならない限り武豊はスペシャルウィークに乗り続けたのでは?
コタシャーン[編集 | ソースを編集]
- ゴール板誤認事件がなかったら
- 1993年のジャパンカップでデザーモ騎手が残り100mのポールとゴール板を誤認し途中で追うのをやめたと言う事件がありました。
- それでも勝っていたかどうかは不明。
- 勝っていた場合、レガシーワールドは騙馬初のGⅠ馬にはなれなかった。
- 翌年史実通りだった場合、マーベラスクラウンは史実以上にもてはやされる。
- 勝っていた場合、レガシーワールドは騙馬初のGⅠ馬にはなれなかった。
- 日本で種牡馬入りしたのは変わらない。そして多分種牡馬成績も……。
サクラローレル[編集 | ソースを編集]
- 1995年の金杯(東)勝利後に海外遠征を行っていたら
- サクラローレルを管理していた境勝太郎調教師は、1995年の金杯(東)をサクラローレルが勝利した直後に海外遠征を考えていたものの、「GⅢを勝ったばかりのサクラローレルで海外に行くといったら笑われる気がして言い出せなかった」として断念したという話があります。
もしこの時、サクラローレルが海外遠征を行っていたら…。
- 海外のGIを一つは勝っていたかも?
- ていうかどこかで海外GIを勝っていたら日本調教馬として海外GI初勝利ということになる。
- ナリタブライアンは春の天皇賞を普通に勝っていたので、次走が短距離戦の高松宮杯になることも無い。
- 鞍上が武豊に乗り替わることも無かった。
- マーベラスサンデーはもっと早くGIを制覇していた。
- マヤノトップガンは史実通りか。
- 1996年の年度代表馬は何になっていただろうか…。
- フラワーパークが本命だが、ホクトベガ・イシノサンデー・ファビラスラフィンにも票が分かれていたかも。
- 1997年のフォワ賞のレース後に薬殺されていたら
- フォワ賞のレース中に重度の故障を発生し、レース後に現地の獣医師から「薬殺していいか」とフランス語で聞かれ、意気消沈した現地のスタッフが意味も分からず同意しかけてしまい、フランス語の分かるスタッフが慌てて「ローレルを殺す気か!!」と怒鳴ったことでなんとか難を免れたサクラローレル。
もしこの時、フランス語の分かるスタッフがおらず、薬殺されてしまっていたら…。
- ローマンエンパイア・サクラセンチュリー・ケイティブレイブ(母父がサクラローレル)などは生まれなかった。
- 日本競馬界の対仏感情は最悪レベルまで落ち込んでいた。
- 場合によってはタイキシャトルやエルコンドルパサーの海外遠征にも影響があったかもしれない。
- 日本調教馬の海外GI初勝利は香港ヴァーズのステイゴールドまでずれ込んでいた。
シルヴァコクピット[編集 | ソースを編集]
- 2002年に復調していたら
- 凱旋門賞は無理でもG1には手が届いたかもしれない。
- シルヴァーホーク系種牡馬の立ち位置がもう少し向上していた。
- ロベルト系全体としてはさほど影響がなかったと思うが。
- せいぜい、タニノギムレット(ブライアンズタイム産駒)にウオッカに次ぐ代表産駒が出る程度だろう。
- ウオッカが国内で繁殖生活をしていたかもしれない。
ディープインパクト[編集 | ソースを編集]
- 2006年の凱旋門賞後に禁止薬物が検出されなかったら
- 凱旋門賞のレース後に禁止薬物(イプラトロピウム)が検出され、凱旋門賞史上初の失格処分となってしまったディープインパクト。もし禁止薬物が検出されなかったら…?
- ディープインパクトの人気失速にある程度歯止めがかかっていた。
- 2006年の年度代表馬投票も満票で選出されていた。
- 史実ではダイワメジャーと該当馬なしに1票ずつ入り満票選出ならず。
- 2006年の凱旋門賞で1着入線したがレース後に禁止薬物が検出されていたら
- ディープインパクト人気は地に落ちていた。
- 日本競馬の人気にも悪影響を与えていたかもしれない。
- 下手こいたらそのまま引退していたかも…。
- その場合ジャパンカップはドリームパスポートが、有馬記念はポップロックが勝っていた。
- おそらく両馬とも日本で種牡馬入りできていた。
- 史実ではドリームパスポートは種牡馬入りできず、ポップロックはチェコで種牡馬入りしている。
- おそらく両馬とも日本で種牡馬入りできていた。
- その場合ジャパンカップはドリームパスポートが、有馬記念はポップロックが勝っていた。
- 牝馬だったら
- 初めて入厩した時に担当厩務員の市川明彦が牝馬ではないかと思うほど小柄な馬でしたが、もし本当に牝馬だったら…?
- 2005年の牝馬クラシック戦線は史上稀に見るハイレベルな戦いになっていた。
- 史実より15年早く無敗の三冠牝馬が誕生していた可能性もある。
- 逆に同年の牡馬クラシック路線は低レベルな戦いになっていたかも?
- 三冠の2着馬がそのままスライドしたと仮定すると、皐月賞はシックスセンス、日本ダービーはインティライミ、菊花賞はアドマイヤジャパンがそれぞれ勝っていたか。
テンポイント[編集 | ソースを編集]
- 1978年の日本経済新春杯のレース直後に安楽死となっていたら
- 日本経済新春杯のレース中に左後脚を開放骨折し、獣医師は安楽死を勧めていましたが助命嘆願の電話や種牡馬入りへの希望を模索するため手術を行いました。
もしテンポイント陣営が延命処置を受け入れず、安楽死を受け入れていたら…?
- 競馬会や陣営に対して「なんで手術させなかったんだ」「なんで安楽死を受け入れたんだ」という批判の手紙や電話が殺到していた。
- 馬に対する医学の発展がかなり遅れていた。
トロットサンダー[編集 | ソースを編集]
- 馬主の名義貸し行為がなかったら
- 1996年秋に馬主の名義貸し行為に巻き込まれる形で現役引退となってしまったトロットサンダー。もし名義貸しがなかったら…?
- 1997年ぐらいまでは現役を続けていただろう。
- 但し1996年秋は前脚を痛めていたのでおそらく全休になっていた。
- それでも種牡馬成績は史実とあまり変わらない気がする。
ハルウララ[編集 | ソースを編集]
- 1勝でもしていたら
- case1 デビュー直後編
- 「当たらない」馬券はなくなる。
- 事故に当たらない とかいう迷信が崩れ、あちこちで馬券が捨てられる。
- 高知競馬はとっくにつぶれてた。
- 2000年代の中盤には閉鎖されていた。
- 「たいようのマキバオー」は存在しないか、別の競馬場が舞台になっていた。
- 高知競馬に所属していた騎手も引退していたか、他の地区に移籍していた。
- 「たいようのマキバオー」は存在しないか、別の競馬場が舞台になっていた。
- もしかしたら福山競馬は現在も存続していたかも…。
- 2000年代の中盤には閉鎖されていた。
- 1勝しかできなかった場合は、肉にされる可能性あり。
- 牝馬だし肉になることはないんじゃないかと。でもいずれは「消息不明」になりそうだが…。
- 武豊騎手が騎乗することも、ディープインパクトとの配合も一切無かった。
- ニッポーテイオーの産駒で一番有名なのはインターマイウェイ。
- case2 引退直前編
- たくさんのファンに夢と希望を与える。
- case3 引退レース編
- 八百長が囁かれる。
ヒシミラクル[編集 | ソースを編集]
- 2003年の宝塚記念の1222万円馬券の購入がなかったら
- 安田記念の当たり単勝馬券130万円を全てヒシミラクルの単勝馬券に注ぎ込んだ「ミラクルおじさん」により、一時1.7倍にまで単勝人気が暴騰しました。最終的には16.3倍にまで落ち着きましたが……
- 宝塚記念史上歴代最高単勝配当(スイープトウショウの3850円)まではともかく、30倍ぐらいまでは行っていたかも。
- 他の馬券にまで波及した場合、枠連・馬連だけでなく馬単も宝塚記念史上最高になっていたかも。
マルゼンスキー[編集 | ソースを編集]
- 外国産馬扱いされていなかったら
- 当時の規定ではいわゆる持ち込み馬は外国産馬扱いされ、クラシックレースに出る資格がありませんでした。もしそうでないとすると……。
- 持込馬全般の待遇についてはもし競馬が○○だったら#持込馬制限が○○だったらを参照。
- 皐月賞とダービーは確実に取っていた。ただ菊花賞は脚元の関係で走れなさそうで、結局三冠馬にはなれないか。
- ハードバージとラッキールーラは無冠で終わり、種牡馬になっていたかどうかわからない。プレストウコウは史実通り(最優秀4歳牡馬は取れないが)か。
- その場合、マチカネイワシミズが種牡馬入りしなかった可能性がある。
- ハードバージの末路が×××になることもなかった。ということで功労馬繋養事業の発足が少し遅れる。
- 史実での種牡馬成績を考えると、無事に菊花賞に出られたら勝てた可能性が高い。
- ハードバージとラッキールーラは無冠で終わり、種牡馬になっていたかどうかわからない。プレストウコウは史実通り(最優秀4歳牡馬は取れないが)か。
- 仮に古馬でも現役を続けられていたら、TTGの勝ち星を奪っていたかも。
- クロフネを始めとした外国産馬へのレースの開放はどうなったか?