もしあの鉄道路線が○○だったら/JR西日本
東海道本線[編集 | ソースを編集]
大阪 - 米原の愛称が違っていたら[編集 | ソースを編集]
湖東線だったら[編集 | ソースを編集]
愛称公募で1位だった
- 湖西線直通が増えると紛らわしいという意見が出ていたかもしれない。
- 滋賀県庁が草津線を「湖南線」、敦賀まで延伸した北陸線の直流区間を「湖北線」と呼ぼうとするが定着しない。
- 地元民は湖西線を「西線」、湖東線を「東線」と略していた。
(全区間が)JR京都線だったら[編集 | ソースを編集]
当初は米原駅 - 京都駅間含めて「JR京都線」の予定でした
- ますます滋賀は京都の属国と揶揄される。
- 北陸線の米原駅 - 長浜駅までこう呼ばれたかは微妙。
- 各駅停車の京都以東発着が増えていた。
- さすがに電車特定区間の延伸はない。
(全区間が)琵琶湖線だったら[編集 | ソースを編集]
JR京都線決定に滋賀県や県議会が反発して京都以東は琵琶湖線になりますが、この時京都 - 大阪も含めていたら
- 姫路市サイドが「姫路まで行くのにJR神戸線なのはおかしい。播磨線あたりに改名しろ」と要求したかも。
- 何かにつけて栃木県の要望でつけられた宇都宮線と比較されていた。
- 大阪で琵琶湖・JR神戸線になるので案内がわかりやすくなった。
- 高槻市あたりが「うちは琵琶湖沿いじゃないのに」と反発される。
大阪環状線[編集 | ソースを編集]
東側にも退避駅があったら[編集 | ソースを編集]
- 関空快速なども快速運転していたかもしれない
- 昔は天満と桜ノ宮を通過してました。
- 停車駅は京橋・鶴橋のみとなっていた。
全線が複々線だったら[編集 | ソースを編集]
- 新今宮~天王寺間は史実通り関西本線の一部となっている。
- 場合によっては新今宮~湊町(→JR難波)間が支線に格下げされ、大阪~西九条~天王寺が関西本線となっていたかもしれない。
- 環状線と各種快速列車の運行系統は完全に分離されていた。
- 環状線には4ドア車両しか走らないはずなので、323系も4ドアとなっていた。
- 早い話が山手線と山手貨物線・東北本線・東海道本線のような関係になっていた。
- 東側は各駅の利用者が満遍なく多いため、朝夕は全列車各駅停車、快速運転は日中のみの山手線東側と京浜東北線のような運行形態になるかもしれない。
- 大阪快速線(仮称)の停車駅は現状以上に絞られていたはず。
- なにわ筋線は計画されなかったか、南海のみの乗り入れとなっていた。
JR東西線[編集 | ソースを編集]
国鉄時代に開業していたら[編集 | ソースを編集]
もともとJR東西線は片福連絡線として国鉄時代に計画され、1981年に運輸省から認可されたもの。国鉄の財政難で着工・開業がJR化後にずれ込んだが、もし国鉄時代に開業を果たしていたら?
- おそらく大阪駅経由になっていた。
- JR東西線という路線名にはならなかった。
- 片町駅は現実の大阪城北詰駅の場所で地下化されて存続。
- 片町線・福知山線に203系が投入されていた。
- あるいは常磐緩行線から103系1000番台が転入していた。
- もしかしたら207系900番台がこっちに投入されたかも。
- カナリアとオレンジの帯を巻く。
- 片町線の快速運転は史実より早く開始されていた。
- 大阪城北詰は片町、大阪天満宮は南森町、北新地は桜橋、新福島は福島、海老江は野田阪神駅、御幣島は歌島橋、加島は竹島となっていた。
- 某所で竹島駅がネタにされる。
- JR西日本ですら野田阪神の仮称を捨てたのに国鉄が(地名化しているとはいえ)他社名を含む駅名を採用するなど尚更ありえない。
- というわけで海老江駅は史実通り海老江駅として開業していた。
- 北新地は桜橋の仮称ではなく片町線大阪駅となっていたかもしれない。京葉線東京駅みたいに。
待避線が設けられていたら[編集 | ソースを編集]
- おそらく待避線設置駅は御幣島・大阪天満宮
- 東西線新快速は予定通り運転される。
- おおさか東線直通快速も増発
ホームドアが3ドア対応だったら[編集 | ソースを編集]
北新地駅・大阪天満宮駅などに設置されているホームドアは4ドア対応です
- 2011年以降も223系による直通快速が運行されていた。
- 逆に207系・321系は追い出されていた。
- もしかしたら323系がこちらにも投入されていたかも。
- 2030年代にJR西日本から4ドア車が消える公算が高まる。
- 関連項目
片町線[編集 | ソースを編集]
天満橋乗り入れが実現していたら[編集 | ソースを編集]
1960年代、片町線を片町から天満橋に延長する計画がありましたが結局実現しませんでした。もしこの時片町線が天満橋に延長していたら…
- 片町線沿線は現実より早く発展していた。
- 木津までの全線電化も国鉄時代に実現していたかも。
- 天満橋駅は地上駅となっていた。
- その後JR東西線開業時に片町駅ともども地下化。
- 京阪の地上ホームを間借りする形になっていたかもしれない。
- JR東西線の起点は天満橋駅となり、そこから現実の京阪中之島線のルートで中之島に向かっていた。
- 中之島からは海老江を経て尼崎に向かう。
- JR東西線は淀屋橋経由かもしれない。
- 中之島からは海老江を経て尼崎に向かう。
- 京阪中之島線は建設されず、代わって京橋からJR東西線のルートで北新地を経て福島に向かう新線ができていた。
- 福島からは阪神本線に直通。
- 現実の北新地駅が「京阪梅田」という名前にになっていた。
- 京都市中心部と堂島・桜橋の間の移動は京阪が主流になっていた。
- 片町駅が廃止されることは無かったため、学研都市線の愛称よりもまだ片町線の正式名称で親しまれていた可能性も。
- 車両は天満橋延長と同時に、武蔵野線同様に防火対策改造を施した101系1000番台が投入され、旧型国電は史実より早く姿を消していた。
- もし天満橋延長が大阪万博と同時期なら、自動改札機も天満橋駅に国鉄で最も早く設置されていた。
全線複線化されていたら[編集 | ソースを編集]
- 全線に渡り快速運転する列車が設定されていた。
- 塚口~奈良間に「学研快速」が設定され、停車駅は京橋までの各駅と放出・住道・四条畷・星田・河内磐船・長尾・松井山手・京田辺・同志社前・祝園・木津となっていた。
- 四条畷以東にも待避可能駅が設置されていた。
全線で7両編成での運転が史実より早く実現していたら[編集 | ソースを編集]
史実では、2010年3月に実現しました。
- 1989年3月の場合
- 木津 - 同志社前間の電化の完成とともに実施された。
- 京阪東ローズタウンの開発が史実より進んでいた。
- 207系電車は全て7両固定編成になっていた可能性が高い。
- 2002年3月の場合
- 321系電車は登場時から全線で運用されていた。
- 精華町・京田辺市の人口が若干増えていた。
- 松井山手 - 京田辺間の複線化が実現した可能性もある。
湖西線[編集 | ソースを編集]
大阪直通ルートが片町線経由だったら[編集 | ソースを編集]
1974年に関西と北陸の短絡ルートとして開業した湖西線ですが、東海道本線の線路容量が限界に達することが懸念されたため、計画段階では東海道本線山科~片町線長尾間に新線を建設(桃山~新田間は奈良線を共用)し、片町線経由で大阪に乗り入れる構想もありました。結局この計画は中止になりましたが、もしこれが本当に実現していたら…
- JR東西線は湖西線開業と同時に開業していた。
- この場合「JR東西線」という路線名は付かず、別の路線名になっていたと思われる。
- 北新地は大阪に統合されており、大阪以東が片町線・以西が福知山線を名乗っていた。
- 当然環状線・東海道線とは改札内で乗換可能。
- 現実の総武快速線・横須賀線のような形態になっている。
- 北新地は大阪に統合されており、大阪以東が片町線・以西が福知山線を名乗っていた。
- この場合「JR東西線」という路線名は付かず、別の路線名になっていたと思われる。
- 「サンダーバード」「雷鳥」などの大阪発着北陸線特急は北新地駅発着となっていた。
- 北新地駅は近鉄と阪神の大阪難波駅と同様の構造となり、1線を特急列車が使用していた。
- 北陸線の特急は京都駅を経由しないため、代わりに山科駅に停車していた。
- 片町線と奈良線は湖西線開業と同時に全線が複線電化されていた。
- 山科から来た新線と奈良線との合流地点は桃山ではなく六地蔵付近となっていた。
- 六地蔵駅(JR)も史実より早く開業していた。
- 路線名は六地蔵~近江塩津間が「湖西線」となっていた。
- 新田~長尾間は「山城線」とかいう路線名が付けられた可能性がある。
- 京都市営地下鉄東西線の三条京阪~六地蔵間は建設されなかった。
- 京阪京津線は現在も京津三条駅発着。
- 長尾~吹田操車場間に貨物新線が建設されていた。
- 当初は貨物専用だったが、民営化後に旅客化され、京阪電鉄のライバルとなる。
- 京阪特急に対抗して奈良線経由で「京阪路快速」が運行されている。
- 結局北陸線特急はこれを経由して大阪駅発着に戻っていたかも。
- 当初は貨物専用だったが、民営化後に旅客化され、京阪電鉄のライバルとなる。
- 湖西線と大阪方面を結ぶ直通列車が増発されていた。
- 宇治市から大阪市内まで乗り換えなしで結ばれていた。
- 京阪宇治線の利用客は現実以上に減少していた。
- 琵琶湖線のダイヤは現実より良かった。
- 特急列車は結局、所要時間増しで京都・新大阪を通らないのを理由に計画段階で断念される。代わりに米原方面の貨物列車がこっちを経由するようになり、殆どが貨物列車となる。
- 実際には片町線に入った後、星田より先は新大阪までは、新幹線の鳥飼基地などを通る新線(現在のおおさか東線とは別)を経由する予定だったらしい。
- 北陸新幹線京都-大阪間の建設ルートは北ルートになっていた。もしくは京都市内を経由せずに小浜-亀岡ルートのままだったかもしれない。
北陸本線[編集 | ソースを編集]
敦賀駅以南が直流電化時に京都支社に編入されていたら[編集 | ソースを編集]
敦賀が直流になり、金沢支社のままでは色々な弊害が出てきました。京都支社になれば改善出来ると思います。
- 今のように新快速が近江今津で10分も止まる上に増解結があり、さらには乗務員交代だけでなく列車番号まで変わる・・・ということがなくなる。
- 時間帯によっては近江舞子以北で快速運転する速達タイプの新快速ができていた。
- 停車駅は安曇川・近江今津・近江塩津の3駅となっていた。
- 一部列車は敦賀まで8連で運行する。
- 小浜線が飛び地になるので、一緒に京都支社化または福知山支社化。
- 車両の表記は、「京ツル」「福ハマ」
- 敦賀~小浜が京都支社、小浜~東舞鶴が福知山支社
- 小浜線は京都支社じゃなくて福知山支社に入れ替えだろ。
- 小浜で支社を区切った奴が悪い。
- ICOCAは敦賀まで導入。新疋田は簡易改札。敦賀はICカード対応の自動改札機導入。
- 待合室のCHAOやホームの売店でもICOCAが使えるようになる。
- CHAOは金沢のものなので、CHAO閉店 → 跡地にDaily in 開店。
- 当然ICOCA使用可能。
- いやいや、キオスクだろ、キオスク
- CHAOは金沢のものなので、CHAO閉店 → 跡地にDaily in 開店。
- 新疋田に券売機は付くんですか?
- 近江塩津や余呉を見てる限り付かないのでは?
- 待合室のCHAOやホームの売店でもICOCAが使えるようになる。
- 敦賀港線で旅客営業するときは、どこが担当?
- 普通に考えたら京都でしょう。
- 永原折り返しはなくなる。
- 大阪近郊区間が敦賀駅まで拡大されていた。
- 場合によっては小浜線、舞鶴線、山陰線園部~和田山、福知山線谷川以北、播但線も大阪近郊区間に入っていた。
- 名実共にアーバンネットワーク入りするだろうから、駅名標のラインカラーが変わる・・・ってことはないか。湖西線も特にラインカラーの設定はなかったはずだし。
- 列車接近音が、京都駅のテケテケか新大阪みたいなベル音になる
- 敦賀の放送の声も村山明とよしいけいこのままだった。
- 敦賀地域鉄道部は、当然京都支社管内に移管され、自動的に南今庄までが、京都支社の管轄となる。
津幡-石動間と魚津-糸魚川間のみ経営分離されていたら[編集 | ソースを編集]
並行在来線の経営分離の議論でこうなる案もあったそうです
- 現在のえちごトキめき鉄道・あいの風とやま鉄道・IRいしかわ鉄道は誕生せず、津幡ー石動間と魚津ー糸魚川間でそれぞれ並行在来線会社が設立されていた。
- 経営分離区間が項目と同じ、かつ現実の会社駅で分割したら下記のようになって効率が悪くなると思われるため。
- 金沢ー(JR)ー津幡ー(IR)ー倶利伽羅ー(あいの風)ー石動ー(JR)ー富山ー(JR)ー魚津ー(あいの風)ー市振ー(トキめき)ー糸魚川ー(JR)ー直江津。
- あるいはえちごトキめき鉄道は妙高はねうまラインのみの保有になっていた。
- 経営分離区間が項目と同じ、かつ現実の会社駅で分割したら下記のようになって効率が悪くなると思われるため。
- 北陸線の新潟県区間あたりが気動車になることはなかった。521系が直江津に乗り入れていた。
- あいの風ライナーは誕生しなかったかも。
- 富山ー金沢間は通しで運行される列車が多かった。逆に富山ー直江津間は魚津、糸魚川で系統が分断されていたかも。
- 北陸地区のICOCAの当初の導入駅が変わっていた。
- 七尾線に乗り入れるサンダーバードが多かった。
- 糸魚川ー直江津間と分岐している大糸線の南小谷ー糸魚川間をJR東日本に移管すべきという声が出ていた。
- 糸魚川ー新潟の快速が特急になっていたかもしれない。
新快速の敦賀駅乗り入れが史実よりも早く実現していたら[編集 | ソースを編集]
- 史実では、2006年10月に長浜~敦賀間が直流電流に切り替えたことにより、新快速が敦賀駅までの乗り入れが実現しました。もし、1990年代、2000年代前半に早まっていたら…
- 当然、湖西線(永原~近江塩津間)も直流電流に切り替えるのが史実よりも早まっていた。
- 1999年6月までに切り替えていたら、当年に開催されたつるが・きらめき・みなと博21に訪れる観光客が史実よりも多くなっていた。
- 多客時に臨時の新快速が運行されていた。
- 新快速が日中に赤穂線へ乗り入れるのが史実よりも早まっていたかもしれない。
- 田村~長浜間が直流電流に切り替えるのが史実よりも早まっていたかもしれない。(史実では、1991年9月に実施)。
- 新快速が12両編成で運行されるのが史実よりも早まっていた。
- 2003年9月までに実現していたら、若狭路博2003の際に運行されていた小浜線の臨時臨時快速「若狭路快速」との接続に考慮したダイヤになっていた。
- 1990年代に実現していたら、113系電車と221系電車も敦賀駅までに乗り入れてたかもしれない。
紀勢本線[編集 | ソースを編集]
単線区間が全て複線化されていたら[編集 | ソースを編集]
- 特急がその分増発できる。
- 多少の動物の衝突事故があっても、さほど関係なくなる。
- 紀伊田辺以南は線形が特に悪いので、複線化に合わせて新線建設などの改良工事が行われていた。
- 羽越本線の村上~鶴岡みたいに基本的には並行して線形の悪いところだけ並行せずにトンネルを掘る形になりそう。
- そのせいで上下線で所要時間が異なる(特に特急)
- 羽越本線の村上~鶴岡みたいに基本的には並行して線形の悪いところだけ並行せずにトンネルを掘る形になりそう。
- 和歌山県の過疎化速度が、悪くても鈍化していた。
- 少なくとも御坊あたりまでは紀州路快速が走っていたかもしれない。
和歌山-和歌山市間が南海の路線だったら[編集 | ソースを編集]
- 貴志川線は南海のままだった。
- 貴志川線の一部になっていたと思われるが、この区間だけの運行も多かった。
- 車両は加太線と共通運用。
- 貴志川線は本線と同時に600→1500Vへの昇圧が行われていた。
- 1201形は本線が昇圧した1973年に全廃されていた。
- 本数は間違いなく増えていた。
- PiTaPa・ICOCAも史実より早く利用可能になっていたと思われる。
- 紀ノ川-紀和に新線を建設し、ターミナルを和歌山駅に集約することが検討される。
- 電化も史実より早かっただろう。
可部線[編集 | ソースを編集]
2003年に可部~三段峡間が廃止された可部線。もしこの可部線が別の道を辿ってたとしたらどうなっていたでしょう。
河戸まで電化していたら[編集 | ソースを編集]
- 河戸が可部駅に、今の可部駅は南可部駅になっていた。
- 河戸駅があったのは「亀山1丁目」なのでそれはない。
- ここに関しては史実通りだとは思うけど、駅名と地名が一致しないなんてよくある事でしょ。
- 河戸駅があったのは「亀山1丁目」なのでそれはない。
- 廃止は河戸以北になっていた。
- おそらく「可部~河戸間電化と同時に河戸以遠廃止」という形になっていた。
可部駅 - あき亀山駅間の復活が史実よりも早まっていたら[編集 | ソースを編集]
- 2003年12月に河戸~三段峡間が廃止されてからすぐに着工していた。
- 103系電車が当路線に乗り入れていたかもしれない。
- 横川駅構内における複線化も史実よりも早まっていた。
阪和線[編集 | ソースを編集]
最初から国鉄路線として開業していたら[編集 | ソースを編集]
- 駅間距離は現実よりも長くなっていた。
- 紀州路快速が日根野以南各駅停車になっても、駅数が少ないのでそれほど所要時間は延びなかった。
- 日根野以南はそこまで変わらないような気がする。
- 区間快速かB快速のどちらかが存在しない。
- 紀州路快速が日根野以南各駅停車になっても、駅数が少ないのでそれほど所要時間は延びなかった。
- 天王寺駅は当初から関西本線・大阪環状線と直通可能なようになっていた。
- 特急「くろしお」は国鉄時代から新大阪・京都発着となっていたほか、阪和線から大阪駅に直通する電車も国鉄時代から存在した。
- 「あすか」も阪和貨物線を経由せず天王寺に停車した。
- もしかすると大阪環状線の西側はこの路線の一部だったかも。
- 櫛形ホームは存在せず、「はやたま」が推進運転で入線することもない。
- 東和歌山駅は阪和線が開業した時点で「和歌山」駅に改称されていた。
- 和歌山線の紀伊中ノ島経由の支線は早期に廃止される。
- そして阪和線側の紀伊中ノ島駅もおそらく開業していない。
- 和歌山線の紀伊中ノ島経由の支線は早期に廃止される。
- 一時的にせよ南海の路線になることはなかったため、三国ヶ丘駅は開業しなかった。
- 遅くともJR化後に「地元からの要望」として開業したんじゃない?
- 阪和線じゃなくて、紀勢本線の一部かもしれない。
- 鳳までは戦前に複線電化されていたものの、鳳以南は長らく非電化、さらに日根野以南は単線であった。鳳-和歌山の複線電化はヨンサントオ改正時で、同時に雄ノ山峠越えの区間はトンネル新線に付け替えられて勾配が緩和された。
- 山中渓-紀伊が名撮影地にならなかった。
- 鳳までは戦前に複線電化されていたものの、鳳以南は長らく非電化、さらに日根野以南は単線であった。鳳-和歌山の複線電化はヨンサントオ改正時で、同時に雄ノ山峠越えの区間はトンネル新線に付け替えられて勾配が緩和された。
- 堺市駅は堺駅として開業していた。
- 2面3線の駅が現実より多かった。
- 待避駅が上下で異なり緩急接続がしにくくなる。
- 料金不要の電車特急は設定されず最初から「快速」を名乗っていた。
- 羽衣支線は開業せず、代わりに南海バスが鳳-羽衣間の路線を運行している。
複々線化されていたら[編集 | ソースを編集]
- 急行線ホームは堺市、三国ケ丘、鳳、和泉府中、東岸和田、熊取、日根野に設置。
- 阪和線のダイヤに余裕ができていた。
- 新快速か特別快速が設定されていた。
- 歴史的経緯を考えると新快速と思われる。
- おくれ出てもある程度緩和できた
- 日根野以南はさすがに複々線ではない。
- せいぜいできたとしても、杉本町辺りまでではないか。
大阪起点だったら[編集 | ソースを編集]
- 大阪駅のホームが増えていた
- 大阪環状線の大阪〜今宮間は複々線、今宮〜天王寺間は3複線となっていた
- 線路別複々線なので、福島・野田・芦原橋・大正には阪和線の駅は設けられなかった
- よって関空・紀州路快速は上記4駅を通過
- あるいはなにわ筋線のルートで地下線になっていた。今宮~JR難波は関西本線から阪和線に変更。
- ちょうど東京駅における総武快速線のような感じになる。
- 線路別複々線なので、福島・野田・芦原橋・大正には阪和線の駅は設けられなかった
- 天王寺駅の阪和線ホームはなかった
- おそらく阪和線は複々線化されていた
- 阪和短絡線も複々線化
- 関空・紀州路快速は天王寺始発の環状線経由、普通の快速は大阪始発となっていた
- 各駅停車ももちろん大阪始発。しかし上記4駅は通過
- 和歌山県民は難波より梅田に行くようになっていた
天王寺駅構内の渡り線が国鉄時代に開通していたら[編集 | ソースを編集]
- 特急「くろしお」は史実より早く新大阪・京都に乗り入れていた。
- 1986年11月のダイヤ改正を機に京都までに乗り入れていた。
- 紀勢本線(和歌山~新宮間)の電化と同時の場合、485系電車も「くろしお」に運用されていた。
- 「くろしお」のほか急行「きのくに」にも新大阪発着が設定されていた。
- 大阪環状線をキハ58系気動車が走っていた。
- むしろ、「きのくに」は電車化されて、165系電車が運用されていた。
- 南海難波駅発着は現実よりも早く廃止されていた。
- 「くろしお」のほか急行「きのくに」にも新大阪発着が設定されていた。
- 1986年10月末までに開通していたら、福知山線・山陰本線(宝塚~城崎温泉間)の電化完成の際に、特急「北近畿」にも381系電車が投入されていた。
- 福知山電車区ではなく、京都総合運転所に配備されていたかもしれない。
- 福知山線・山陰本線(宝塚~城崎温泉間)の電化完成が1985年1月or2月に早まっていた可能性もある。
- 283系電車の登場は史実通り。
- 関西国際空港の開港を機に、短絡線は複線化されていた。
- 阪和貨物線は史実より早く廃止されていた。
- 特急「やくも」の基本編成が6両編成に短縮することはなかったか史実よりも遅れていた。
- 史実では、特急「やくも」の短縮化により、その余剰分が特急「くろしお」のために日根野電車区に転属した。
- もしくは、特急「やくも」の短縮化は史実通りで、特急「北近畿」のために福知山電車区に転属した。
- 奈良線・関西本線経由の臨時特急「しらはま」は運行されることはなかった。
- 急行「紀ノ川」は運行されなかったかもしれない。
- 奈良線の電化が史実よりも早まっていた可能性もあった。
- 京都~白浜間の「ふれあい紀州路」は天王寺経由で運行されていた。
- 1988年に開催されたなら・シルクロード博覧会では奈良~新大阪間の臨時特急が運行されていた。
- 1990後半までに全てのくろしおが新大阪・京都発着になっていたかもしれない。
標準軌で開業していたら[編集 | ソースを編集]
阪和電気鉄道の建設の際、高速運転の観点から標準軌での建設が検討されていたものの、省線との直通運転を重視したため狭軌での建設となった。
- 必然的に南海の国有化もしくは阪和間の省線の路線の建設が不可避であった。
- おそらく南海本線が国有化されていた(阪和間に3路線も必要とは思えないので)。
- その場合、南海和歌山軌道線や貴志川線(現和歌山電鐵)も阪和電鉄の路線となっていた。
- おそらく南海本線が国有化されていた(阪和間に3路線も必要とは思えないので)。
- 開業時に資本提携の存在にあった京阪色がかなり強い路線となっている。
- 開業時の車両も新京阪線と酷似した車両が多かった。
- 室戸台風からの復興期や夏季には京阪・新京阪線の車両を借り受けて何とかしのいでいた。
- 開業時の車両も新京阪線と酷似した車両が多かった。
- 省線との連絡を考えなくていいため起点が天王寺だったかどうかかなり怪しい。
- 城東線の外側をたどる形で京橋が起点になっていたかもしれない。
- 戦時統合の際には南海ではなく近鉄あるいは京阪→阪急と合併していた。
- 三国ヶ丘駅の設置は昭和末期、下手すりゃ平成はじめごろまで遅れていた。
- もし南海本線が国有化され、高野線がされなかったら戦時中に近鉄に合併され、戦後高野山電気鉄道が阪和線と高野線を運営する形になっていただろう。この場合社名は「阪和電鉄」あるいは「阪和電気鉄道」となっていた。三国ヶ丘駅の設置は近鉄合併時に行われていた。
- 統合先が京阪か阪急だった場合、最終的に高野線も両社いずれかの路線になっていたかも。
- それでも軌間は統一されなかった可能性が高い。
- 地下鉄堺筋線がこの路線のどこかに延伸してきて、相互直通運転していた。
- 関西国際空港が開港すると阪急河原町~関西空港直通列車が運転されていた。
- 堺筋線の動物園前以南のルートはおそらく飛田ロータリーで東に向きを変え、阿倍野斎場交差点から阿倍野筋を南に進み、千躰あたりから杉本町に向かい、杉本町でこの路線に合流していたと思われる。途中には阿倍野・松虫・北畠・千躰の4駅が設置される。
- 泉北高速鉄道はこの路線に接続する形になっていたかも。
- その場合、堺筋線との直通も泉北高速鉄道開通と同時に行われていた。
- 起点は中百舌鳥ではなく津久野になっていた。
- 和歌山県に標準軌の鉄道が存在していた。
- 関西国際空港連絡橋の鉄道部分は成田空港連絡鉄道と同じく標準軌と狭軌の単線並列となっていた。
大阪市内の高架化が○○だったら[編集 | ソースを編集]
- 史実では、美章園~杉本町間の高架化は2006年5月に完成しました。
40年早かったら[編集 | ソースを編集]
- 2000年頃までに複々線化が実現していた。
- 1980年代前半までに阪和貨物線の旅客化が実現していた。
- 阪和線への103・113系導入数が増えていた。
- 阪和線の新快速運行開始が黒潮国体に合わせる形で1年早まっていた。
- 関西空港が最初の万博開催年の1970年に開港していたらそれと同時に普通・快速系の大幅な増便が実施された。
20年早かったら[編集 | ソースを編集]
- 関西空港が開港する1994年までには天王寺駅付近にある関西本線との連絡線が複線化された。
- 天王寺駅付近にある関西本線との連絡線が国鉄時代に完成したかもしれない。
10年早かったら[編集 | ソースを編集]
- 関西空港線の建設とほぼ同時に行われた。
- 美章園~杉本町間における開かずの踏切による慢性的な渋滞が20世紀中に解消されていた。
- 2000年3月のダイヤ改正を機に天王寺駅付近にある関西本線との連絡線が複線化された。
- 2000年3月のダイヤ改正までには全ての関空快速と紀州路快速は4両編成+4両編成となり、関空快速のJR難波への乗り入れが廃止されていた。
- 2000年3月のダイヤ改正で京橋~天王寺間も運行され、天満駅と桜ノ宮駅も停車していた。
- 223系電車2500番台の投入が史実よりも早まっていた。
- あれだけ空き地が目立つことはなかった。
- 東岸和田駅の高架化が2000年代に実現していたかもしれない。
5年早かったら[編集 | ソースを編集]
- 2001年3月末までに完成していた。
- 2000年代前半のダイヤ改正で天王寺駅付近にある関西本線との連絡線が複線化されていたかもしれない。
- それでも、阪神高速道路大阪泉北線が開業することはなかった。
- 1999年に完成した場合、ダイヤ改正と同時であった。
大和路線[編集 | ソースを編集]
複々線化されていたら[編集 | ソースを編集]
- 複々線区間はJR難波~奈良
- 奈良折り返しの大和路快速が増えていた
- 大和路快速が飛ばしまくってた
- むしろ新快速になっていた
- ラッシュ時にはJR難波始発の大和路快速も設定され、増発されていた
- ラッシュ時は大阪方面からの五条行きも増えていた
- 近鉄に勝っていた
奈良線[編集 | ソースを編集]
一部複線化されていたら[編集 | ソースを編集]
JR藤森 - 宇治間、新田 - 城陽間、山城多賀 - 玉水間の複線化が行われる予定です。これらが複線化したら…
- みやこ路快速の所要時間が早まっていた。
- 京都~城陽間の普通が増発していた。
- 宇治~黄檗間にJR三室戸駅が開業していたかもしれない。
- JR藤森~桃山にJR丹波橋駅も開業し、京阪・近鉄との乗換駅としてみやこ路快速も停車している。
- 北半分が全線複線、南半分が複線と単線が混在ということで西鉄天神大牟田線と何かと比較されていた。
- 快速の運行が23時台までに拡大していた。
- 区間快速も平日の22時台までに運行されていた。
全線複線化されていたら[編集 | ソースを編集]
- 桜井線、和歌山線の直通列車が運行されていた。
- 近鉄京都線に対抗上、快速急行が運行されていた。
- 京都~奈良間の特急列車が運行されていたかもしれない。
京都~城陽間、山城多賀~玉水間の複線化が平成期に実現していたら[編集 | ソースを編集]
JR藤森 - 宇治間、新田 - 城陽間、山城多賀 - 玉水間の複線化が2023年度に実現する予定ですが、もっと早く実現していたら…
- 「一部複線化されていたら」の項目においていずれも実現していた。
- これに対抗するために、近鉄は急行を含む地下鉄烏丸線直通列車の増発に力を入れていた。
- 第1期工事区間である京都~JR藤森間、宇治~新田間の複線化が1997年3月までに完成していたかもしれない。また、JR藤森駅とJR小倉駅の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 平城遷都1300年祭が開催された2010年までにJR藤森 - 宇治間、新田 - 城陽間、山城多賀 - 玉水間の複線化が完成していた。
- これらの区間の複線化が1990年代前半に完成した場合、221系電車が史実よりも多く製造されていた。
- 六地蔵駅とJR藤森駅の開業が史実よりも早まっていた。
山陽本線[編集 | ソースを編集]
新長田-西明石間が方向別複々線だったら[編集 | ソースを編集]
現実では線路別複々線です。
- 須磨・垂水・舞子を通過する快速はなかった。
- 現状神戸~明石間ノンストップの新快速がこの区間のどこかで停まっていたかも。
- 下手したら東海道本線高槻~京都のように須磨~西明石間の普通電車の運転が減らされたかも。
- もちろん塩屋と朝霧に快速を停車して。
阪神大震災からの復旧が遅れていたら[編集 | ソースを編集]
- 阪急・阪神・山陽からの乗客転移は進まなかった。
- 阪急8200系のあの座席は収納式のままだった。
- 貨物の輸送シェアにも悪影響が出ていた。
おおさか東線[編集 | ソースを編集]
現在も奈良~尼崎間を結ぶ直通快速が運行されていたら[編集 | ソースを編集]
史実では、2019年3月に廃止されました。
- 321系電車がさらに増備された。
- JR河内永和駅、高井田中央駅の停車は史実通り。
関西高速鉄道の手で、建設されていたら[編集 | ソースを編集]
当初の予定では、そうする予定でした。
- 当然ながら、大阪外環状鉄道が設立されることはなかった。
- JR東西線とともに、1989年頃に着工された。
- おおさか東線は史実よりも早く開業していた。
- 久宝寺~放出間は1999年3月に、放出~新大阪間は2008年3月に、それぞれ開業していた。
- 久宝寺~放出間は1997年3月に、JR東西線とともに開業していた可能性もあった。
新大阪~放出間が先に着工していたら[編集 | ソースを編集]
- 早くても、新大阪~放出間は2006年頃に開業していた。
- 2008年に新大阪~放出~久宝寺間として、全線開業していた可能性もあった。
- 東淀川駅の橋上駅舎化が史実よりも早く実現していた。
- 新大阪~木津間の直通快速が運行されていた。
- 2008年頃に放出~久宝寺間が開業し、平城遷都1300年祭に間に合っていた。
- 新大阪~奈良間、尼崎~奈良間の直通快速が運行されていた。
- 線内列車には201系ではなく207・321系が運用されていた。
宇野線[編集 | ソースを編集]
岡山~茶屋町間が複線化されていたら[編集 | ソースを編集]
史実では、早島~久々原間で複線化されている。
- 特急列車と快速「マリンライナー」の速度が向上していた。
- 快速「マリンライナー」の停車駅が史実よりも少なくなっていた。
- 普通列車の本数が史実よりも多くなっていた。
- 大元付近は高架化後に複線化された。
- 複線化の費用を香川・高知・愛媛の四国3県の自治体が多く負担したと思われる。「四国新幹線より瀬戸大橋線の全線複線化が先」という意見で実施されたと見なされる。
- むしろ岡山県が費用負担でごねなかったらでは。
山陰本線[編集 | ソースを編集]
京都~園部間の複線化が別の時期に実現していたら[編集 | ソースを編集]
- 史実では、2010年に実現しました。
- 1990年代
- 京都~園部間の電化が1986年までに実現していた。
- 園部~綾部間の電化が実現した1996年に実現していたかもしれない。
- 京都市内の高架化と円町駅の開業が史実よりも早まっていた。
- 221系電車の当路線への投入が史実よりも早まり、製造数が史実よりも多くなっていたかもしれない。
- 2000年代
- 京都~園部間の電化が1980年代前半か1988年に実現していたかもしれない。
- 日中の嵯峨嵐山行きの普通列車が亀岡行きになって、増発されていた。
- 場合によっては、客車寝台特急の「出雲」が工事の影響で一時的に福知山線経由になっていた。
- 無論、花園~太秦~嵯峨嵐山間の高架化が史実よりも早まっていた。
赤穂線[編集 | ソースを編集]
新快速の乗り入れが史実よりも早く実現していたら[編集 | ソースを編集]
史実では、2005年3月に日中の新快速の一部が播州赤穂までに乗り入れましたが、これが1990年代に実現していたら…
- 221系電車か223系電車が史実よりも多く増備されていた。
- 2001年から開催されていた忠臣蔵300年祭では、多くの観光客が訪れた。
- 刺激されて、新快速の敦賀駅乗り入れが史実よりも早まっていたかもしれない。
- 播州赤穂駅の橋上化と駅周辺の整備も史実よりも早まっていた。
- 駅周辺にホテルも立地されていた。