もし南海電気鉄道が○○だったら

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大阪高野鉄道と合併しなかったら[編集 | ソースを編集]

東武鉄道の根津嘉一郎が経営に参加して再建し、南海鉄道に事業を譲渡したことでその一部となった大阪高野鉄道(現在の南海高野線)。ではもし、このとき事業を譲渡せずに独立会社として残ったとしたら?

終始独立会社として残る[編集 | ソースを編集]

  1. 汐見橋駅や汐見橋線は衰退せず、この辺りにも街が形成される。
    • 大阪市営地下鉄や阪神の桜川駅は「汐見橋」を名乗っていた。
  2. 芦原町が大阪環状線芦原橋駅との乗換駅として注目され、大阪環状線開業時の段階で総合駅となる。
    • 木津川(国道43号線)以北は新なにわ筋の地下に移設され、芦原町も地下駅となる。
    • 大阪環状線芦原橋駅は快速停車駅となり、高野線の芦原町駅も優等列車が停車するようになっていた。
  3. 中百舌鳥で地下鉄御堂筋線に乗り換える乗客数が更に増えた。
    • 高野鉄道泉北線として開通していれば、現実以上に乗り通し客が多い。
    • あるいは泉北高速鉄道は御堂筋線の延伸区間として開業していた。
  4. なにわ筋線の計画が進み、梅田から極楽橋まで直通列車が走る。
    • 特急こうやは梅田-極楽橋直通となるが、急行系統はなにわ筋線開通・橋本以北の車両大型化を機にすべて橋本で系統分割。
    • 新大阪駅からJRに乗り入れ、京都―極楽橋直通となっていたかも。
    • むしろ大阪市が嫌がらせとして千日前線を作ってしまい、いつになっても梅田乗り入れは実現しない。何せ史実の千日前線も近鉄・阪神の直通構想への嫌がらせの側面があった訳だから…。
  5. 高野山電気鉄道もそのまま独立会社として残り、高野下を境に運賃体系が変わる。当然、現実より高くなる。
    • 戦後に合併していた可能性もある。
    • この場合戦後南海電気鉄道は新規に立ち上げられていた。
  6. 今宮戎や萩ノ茶屋は南海本線の普通が停車していた。
    • 場合によっては難波-岸里玉出も方向別複々線になっている可能性も。
  7. 堺市の中心駅は堺東ではなく堺となる。
  8. 岸ノ里駅は南海との乗換駅として重視され、優等電車が停車。
  9. 南海ホークスの2軍本拠地は中百舌鳥ではなくなる。
    • 南海本線沿線のどこかが2軍本拠地になる。
  10. 最終的に東武系列になっていた。
    • 堺東・泉ヶ丘の駅前百貨店は高島屋ではなく、東武百貨店もしくは松屋百貨店になっていた。
    • 東武が高野鉄道を合併し「日本電鉄」に社名を変更していた可能性もある。
    • もしくは平成以降に東武系列から離れて近鉄と経営統合していたかもしれない。
  11. 利用客数や路線規模を考えると、大手私鉄ではなく準大手私鉄になっていた可能性が高い。
  12. 地下鉄堺筋線が高野線と乗り換えられるように岸ノ里、あるいは住吉東あたりまで延伸していた。
    • この場合地下鉄側の駅名がどうなっていたか気になる(四つ橋線に岸里駅があるため)。

南海と終戦後に統合[編集 | ソースを編集]

近鉄に南海と共に合併され、戦後に現実と同じ形で統合されて独立した場合。

  1. 汐見橋は戦前までは街と栄えるが、空襲の被害を受けた後に没落。
    • 意外と、近鉄の現在で言う難波線ルートとして活用されてたかもね。
    • 空襲被害も凄かったけど、とどめを刺したのは、貨物事業がなくなったことなんだがなぁ。

近鉄に残存[編集 | ソースを編集]

河内長野 K69
かわちながの
Kawachi-Nagano
K68 千代田 三日市町 K70
Chiyoda Mikkaichicho

南海と共に近鉄に合併されるも、南海と違い大鉄(南大阪線)みたいに近鉄に残った場合。

  1. やはり汐見橋、芦原町の重要度は高いまま。
    • 阪神と近鉄の境界駅は汐見橋になっていて、阪神なんば線は「西大阪線」のままになっている可能性も。
      • 阪神との直通時には汐見橋駅が「大阪汐見橋(桜川)」に改名していた。
      • 改軌の上で南海難波駅が移設され阪神や近鉄と同じホームに停まっていたかも。
    • ターミナルを阿部野橋に統一する為にも、大阪万博に間に合わせる事を目標に阪和線に並行or上町線を買収・高規格化する形で連絡線の建設が検討される。
  2. 大阪阿部野橋(天王寺)に直通してるだけ長野線の価値が高まり、大阪阿部野橋~極楽橋の直通列車も走る。
    • 極楽橋行き特急は大阪阿部野橋発となり、車両は吉野特急と共通運用で運転される。後には現実のさくらライナーと同じ車両で「こうやライナー」が運転される。
      • 停車駅は当初橋本のみであったが、平成に入ってからは富田林・河内長野・林間田園都市にも停車するようになる。
    • 長野線は全線複線化されていた。
    • 現実の「こうや」とは異なり、毎時1本運転されていた。
    • 特急料金も2000年以降は全区間均一料金に変更され、阿部野橋-極楽橋間の特急料金が値下げされていた。
  3. 南海本線の特急「サザン」は全車両自由席となっていた。
    • 車内はオール転換クロスシートを採用。現実には近鉄5200系が初めて採用した20m3扉オール転換クロスシートのレイアウトは南海電鉄が初採用していた。
    • これに対抗するため、阪和線にも新快速が運転されている。
  4. 堺東駅・泉ヶ丘駅にある百貨店は高島屋ではなく近鉄百貨店となっていた。
  5. 泉北高速鉄道は近鉄の子会社として設立され、開業直前に近鉄に合併されて「近鉄泉北線」として開業した。運行形態は近鉄けいはんな線と同じような形態で、御堂筋線と直通する1435mm軌間の第三軌条路線となっていた。
  6. 三国ヶ丘で高野線から阪和線に乗り換えて大阪市内に向かう利用者が史実以上に多かった。三国ヶ丘には全列車が停車していた。
  7. つまり、ここに記載されることが多かれ少なかれ実現している。

高野線の起点が堺駅だったら[編集 | ソースを編集]

南海高野線は現在正式には汐見橋~極楽橋間(実際の運行は難波発着)の路線となっていますが、当初は南海本線の堺駅を起点とする計画があったそうです。もし南海高野線の起点が堺駅となっていたら…。

さかい

SAKAI
七道 堺東
SHICHIDO SAKAI-HIGASHI
  1. 高野線の電車は堺から南海本線に乗り入れ、当初から難波発着となっていた。
  2. 岸里玉出~汐見橋間は建設されなかった。
    • 建設はされてたと思う。製鉄業や造船業の運送需要はあったから。人貨問わず。
  3. 難波~堺間は複々線化されていた。
    • 湊くらいで分離する。次は仁徳御陵前かな。
    • 粉浜~七道間で、南海本線側にホームがあるのは住吉大社駅だけになる。岸里玉出も高野線の列車しか停まらない。
  4. 堺東駅の位置が若干南西にずれていた。
    • 堺市の中心駅は堺東駅ではなく堺駅だったかも。
      • この場合高野線の優等列車は堺東駅に停まらなかったことから高野線・泉北高速線沿線から大阪市内への所要時間が現実よりも短縮されていた(天下茶屋~堺間は天下茶屋~堺東間よりも所要時間が短いため)。
  5. 高野線が堺市中心部を東西に貫くため、堺市のLRT計画は最初からなかった。
    • 旧市内に汽車は通せん…大浜から松原まで路面電車が通っていたかも。
  6. 地下鉄谷町線は天王寺から堺東に向かっていた。
    • 南海平野線は阪堺電気軌道の1路線として存続。
    • 喜連瓜破から八尾南にかけては地下鉄千日前線が延長されている。

野上電気鉄道と合併していたら[編集 | ソースを編集]

かいなん
海南
KAINAN
黒江 春日前
KUROE KASUGAMAE
  1. 1971年までに合併が行われていた場合、南海和歌山軌道線は廃止されずに済んだ。
    • 和歌山港線が海南まで延伸されていたかもしれない。この場合1985年まで運行されていた南紀直通列車は海南駅から紀勢本線に乗り入れていた。
      • その場合和歌浦地区は衰退せず、むしろ関西の近郊観光地として発展していた。
    • あるいは和歌山港線海南延伸と引き換えに和歌山軌道線が廃止されていた。
  2. 車両は貴志川線と同じく1970年代に本線から移籍した1201系に置き換えられ、1990年代には高野線の2000系投入により余剰となった21000系または22000系を投入していた。
    • 野鉄の軌道は1201系が入線できないほど軟弱だっだので軌道強化も行われていた。
  3. 路線名は「南海野上線」となっていた。
  4. 乗務員の態度は間違いなく良くなっていた。
    • 乗客数も現実よりは多くなっていた。
    • その結果、現在に至るまで路線が存続している。(現実には1994年廃止)
  5. 野鉄観光も南海グループ入りしていた。
  6. 大十は路線バス事業に参入しなかった。
  7. 現在は和歌山電鐡に移管されている。
  8. 連絡口~日方間は廃止され、連絡口駅のあった場所に海南駅が新設されていた。
    • 南海和歌山軌道線とつながっていたら路面電車が直通、日方が海南の駅裏に移動して日方車庫になっているのでは。
  9. 貴志川線と接続させていた。
  10. 海南市が現実よりも発展している。
    • 紀州路快速の終点も海南駅となっていた。

阪堺電気軌道が○○だったら[編集 | ソースを編集]

南海から分離しなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 堺市のLRT建設計画に伴い三セクへの運営移譲が検討されるも、市長交代により頓挫していた。
    • 「堺トラム」が導入されていたかどうかも怪しい。
  2. 名鉄が軌道線を廃止した際に、こちらも廃止されるのではという噂が出ていたかもしれない。
  3. スルッとKANSAI参入に関しては現実よりも早かった。
    • 現実には導入されなかった磁気カードシステムが導入されていた。ICカード導入についても現実より早かった。
  4. 住吉~住吉公園の廃止はなかったかも。
    • 廃止の理由は住吉交差点のダイアモンドクロスのレールの交換費用が捻出できなかったためだが、大手なので何とか費用が捻出できたと考えられるため。

普通鉄道として建設されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. おそらく史実よりも早く南海に統合されていた。
    • 戦時中は南海・阪堺・高野・山手の4線が阪堺間で並行する事になるので、阪堺線は惜しげもなく廃止になっていたかもしれない。
    • 上町線が本線と乗り入れ可能になるとすれば、天王寺線は存在しなかったかもしれない。
      • 住吉大社駅には特急や急行が常時停車していたほか、上町線神ノ木電停と高野線住吉東駅が統合されていた。
    • 阪堺線が標準軌のまま存続していたら、地下鉄堺筋線との相互直通運転が行われていた。
      • この場合泉北高速鉄道はこちらに繋がっていたかも。
        • 恐らく御陵前か東湊で阪堺線と分岐し、泉北方面が本線となり、浜寺駅前方面は支線となっていた。
      • 地下鉄と阪堺の境界駅は動物園前(南霞町・今池は廃止のうえ地下鉄動物園前に統合)となっていた。
  2. 平野線も存続していた可能性が高い。
    • 八尾方面への延伸も実現していた。
    • 平野区南部(瓜破・長吉地区)の鉄道網整備は阪和貨物線の旅客化か地下鉄千日前線の延伸で対応していた。
  3. 南海から経営分離されることはなかった。

戦後南海が近鉄から分離する際近鉄側に残ったら[編集 | ソースを編集]

  1. 阪堺間では南海とライバル関係になっていた。
    • 近鉄は対抗のため急行運転などテコ入れをしていたかも。
    • 天王寺駅前~浜寺駅前の直通運転は現実よりも早く行われていた。
    • 近鉄の初詣広告に住吉大社が載っていた。
  2. 戦後製造された車両は全て近畿車輛製となっていた。
  3. 「あべのハルカス」建設に合わせて天王寺駅前駅がハルカスの中に取り込まれていた。
    • あるいは上町線を天王寺駅前から大阪上本町まで延伸し、奈良・大阪線と南大阪線の連絡線とする計画が浮上していた。
  4. 近鉄本体からの分社化は伊賀鉄道・養老鉄道と同時期の21世紀になってから行われる。
    • 社名はやはり「阪堺電気軌道」。
  5. 戦前生まれの車両は比較的早くに置き換えられていた。
  6. 近鉄は堺市内にも路線を有していた時代もあった。
  7. 平野線は廃止されなかった。
    • 近鉄は南海よりも政治力が強いらしいので。
    • 平野線の八尾延伸も実現し、路面電車から高速鉄道に転換していた。車両は大阪線と共用。
    • 南大阪線との交点に乗換え駅ができていた。
    • 谷町線の天王寺以南はどうなっていたのだろうか?
      • 阿倍野筋をそのまま南下して住吉区遠里小野まで延伸されていた。
      • 瓜破・長吉などの平野区南部へは千日前線が南巽から延伸されていた。
  8. この場合もここに記載されていることの一部が実現している。

上町線天王寺駅前~松虫間の地下化が実現していたら[編集 | ソースを編集]

上町線の天王寺駅前~松虫間は高度成長期に地下化する計画があったそうですが実現しませんでした。もしこの区間の地下化が実現していたら…。

  1. 地上の阿倍野筋の渋滞が緩和されていた。
    • 阿倍野筋の近鉄前-阿倍野斎場間の拡幅も大阪万博に伴う交通整備と併せて昭和40年代に実施されていた。同時に天王寺駅と阿倍野駅を結ぶ地下街も建設されていた。
  2. 天王寺駅前駅は大阪市高速電気軌道谷町線天王寺駅と一体構造となっていた。
    • この場合谷町線の天王寺駅は史実とは異なりJR天王寺駅の南側に建設されていた。
      • 駅間距離の関係で谷町線の阿倍野駅は開業しなかった可能性が高い。
    • それでも谷町線との直通は規格の違いから実現していなかっただろう。
    • 上町線が地下1階、谷町線が地下3階にホームがある構造になっていた。
  3. 日本でも路面電車が地下線を走る事例が生まれていた。
    • ここ以外の路面電車でも地下化される場所が出ていた。
    • 上手くいけば「富山よりも40年以上早くLRT化を進めた」と宣伝する事が出来たかもしれない。
  4. 大阪軌道線が阪堺電気軌道として分離独立するまで南海にも地下駅が存在していた。
  5. 地下化直後にトンネルへの自動車誤進入があったかもしれない。

泉北高速鉄道が○○だったら[編集 | ソースを編集]

最初から南海の路線だったら[編集 | ソースを編集]

とが・みきた
栂・美木多
TOGA-MIKITA
豊田 高橋
TOYODA TAKAHASHI

泉北高速鉄道は当初南海電鉄の路線として構想されていましたが、南海側の事情により大阪府の第3セクターである大阪府都市開発が建設・経営し、南海に運行を委託する形になりました。もし当初から南海の路線として存在していたら…。

  1. 駅間距離が南海の既存路線並みになり、高速鉄道ではなかった。
    • 駅:中百舌鳥 - 大阪府大前 - 土塔土師 - 深井 - 東山 - 深坂田園 - 泉ヶ丘 - 豊田 - 栂・美木多 - 高橋 - 光明池 - 室堂 - 和泉中央
    • 泉北線内を急行運転する種別ができる。
      • 停車駅:泉ヶ丘、栂・美木多、光明池、和泉中央
    • 特急「いずみ」ができる。
      • 停車駅:なんば、新今宮、天下茶屋、堺東、光明池、和泉中央
        • 泉ヶ丘をお忘れなく。
    • 南海本線も泉州を走るのでその特急名は変えて欲しい。
      • 史実通りに「泉北ライナー」になっていたのでは。
    • 駅間距離は史実通りだと思う。
  2. 「日本一高い料金」のイメージはなかった。
  3. 本線の岸和田辺りまで直通していた。
  4. 最終的に泉佐野へ延伸され、ラピートはαのみこちらを通る事になっている。
    • でも距離が長くなるのでスピードアップしても結局所要時間は短縮されないのでは。
  5. 泉北高速鉄道が製造した100・3000・5000・7000系は存在しなかった。
    • 100・3000系はそれぞれ南海6100・6200系の増備車となっていた。
      • 場合によっては、南海6100系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
    • 5000系・7000系は南海1000系となっていた。
      • 南海1000系は史実より2年早く登場していた。(南海1000系は1992年・泉北5000系は1990年登場)
    • 南海8000系(2代目)が初めて投入されていたのは高野線となっていた。
    • 8000系電車、8200系電車も史実よりも多く製造されていた。
  6. 南海電鉄の三大事故がなかったらと言える。
  7. 難波駅の改良工事が史実よりも早まっていた。
  8. 中百舌鳥~光明池間の開業が史実よりも早まり、沿線の開発も史実よりも早まっていた。
    • トリヴェール和泉の街開きも史実よりも早まっていた。
  9. 路線名は「南海泉北線」になっていた。
  10. 1990年代までには堺市は政令指定都市になっていた。
    • 無論、泉北ニュータウンの居住人口も史実よりも多くなっていた。
  11. 光明池車庫は「小原田検車区光明池検車支区」となっていた。
  12. 南海本線・高野線の1500Vへの昇圧が史実よりも早まっていた。

南海高野線以外と相互直通運転していたら[編集 | ソースを編集]

現在南海高野線と相互直通運転している泉北高速鉄道ですが、計画段階では地下鉄御堂筋線や近鉄南大阪線など他の鉄道路線との直通運転も考えられていたそうです。もし泉北高速鉄道の直通相手が南海高野線以外だったら…

大阪市営地下鉄御堂筋線
  1. 当然750V第3軌条式、1435mm軌間となっていた。
  2. 泉北高速線の駅間距離が長いことから、第三軌条方式での最高速度100km/h運転が実現していた。
    • 大阪市営地下鉄10系は史実(1973年に試作車登場)より2~3年早く登場し、しかも当初の計画であった100km/h運転が実現していた。
  3. 泉北ニュータウンが難波はもちろんのこと本町や梅田・新大阪と直結されることから、千里ニュータウンと同等かそれ以上に発展していた。
    • 住宅地としてだけではなく業務地域としても発展していた。
  4. 地下鉄御堂筋線で急行運転が行われていた。
    • 急行運転を行うのは天王寺―中百舌鳥間で、その間の停車駅は長居のみとなっていた。
      • どこで通過待避するの?つまり無理だろ。
        • 新大阪・梅田・難波・天王寺・長居を待避可能にする。快速は千里中央ー江坂ー新大阪ー梅田ー淀屋橋ーなんばー動物園前ー天王寺ー(長居)ー我孫子ーなかもずからの各駅
        • 北花田~中百舌鳥のいずれかが待避可能になっていた。
  5. 御堂筋線の我孫子―中百舌鳥間は大阪万博開催と同時期に開業していた。
    • 我孫子以南が高架線になっていた可能性もある。
      • その場合だと我孫子以南で100km/h運転が実施されている。
  6. 南海高野線の輸送量は現実より少なく、未だに南海本線の後塵を拝していた。
    • 新車投入も南海線が優先されていた。
  7. 御堂筋線の10連化が早まっていた。
    • 車庫も早い時期に中百舌鳥に移転していた。
  8. 和泉中央から先関西空港まで延伸されていたかも。
    • 関西空港が大阪の大動脈である御堂筋線と直結されるので現実よりも使い勝手がよくなっていた。
  9. 大阪市営地下鉄民営化の際には地下鉄運営会社との合併が検討されていた。
    • 堺筋線と乗り入れていた場合も同様。
  10. 泉北100系は北急2000形と同様、大阪市30系をベースにした車両になっていた。
    • 1980年代後半になって大阪市20系をベースとしたVVVF車が導入されていた。
JR阪和線
  1. おそらく百舌鳥あたりで分岐し、深井で現在線と合流していた。
  2. 阪和線の天王寺―百舌鳥間は複々線化されていた。
  3. なにわ筋線が早期に実現していた。
  4. 2014年にJR西日本の子会社になっていた。
  5. 泉北高速線に直通する快速電車には民営化後「泉北快速」とかいう愛称が付けられていた。
近鉄南大阪線
  1. おそらく河内天美で分岐していた。
  2. 大阪阿部野橋駅の乗降客数がさらに多くなり、近鉄ではダントツの1位を誇るようになっていた。
    • 混雑緩和のため、大阪都心へのバイパス新線が建設されていた可能性もある。
  3. 近鉄は南海よりも経営基盤が強いので、自社の新線として建設していたかも。
    • 「近鉄泉北線」みたいな名前で近鉄南大阪線の支線として開業していた。
  4. 泉北地区で近鉄オリックスファンが増えていたかも。
水間鉄道
  1. 清児あたりで合流。
    • ただし、水間鉄道乗り入れの手前の駅で前2両のみ切り離しての運転。
  2. 水間鉄道も早いうちにスルッと関西に加入。
  3. 採算があわない赤字路線。
    • いや、泉北ニュータウンの通勤輸送があるので水間鉄道の経営状態は現実よりも良かったかも。あと社名も変更されていた可能性が高い。
  4. 水間鉄道の熊取~泉佐野市大木(さらには和歌山県打田町)への延伸計画がもうちょっと話題になった。でも計画のまま進展はしない。
  5. 岸和田市の山手の方もニュータウン開発が進んだ。
  6. 清児あたりから先、日根野までの延伸が実現していたかも。
    • 関西空港までの直通電車も運行されていた。
大阪市営地下鉄堺筋線
  1. 当然1435mm軌間(1500V架線式)となっていた。
  2. 中百舌鳥へは御堂筋線ではなく堺筋線が延伸されていた。
  3. 阪急河原町~和泉中央間に直通特急が運行されていた。
    • それはないような気がするが、観光シーズンには和泉中央-嵐山間の臨時特急が運行されていた。
  4. 泉北高速鉄道はいずれは阪急系列になっていたかも。
南海本線
  1. 湊駅で分岐し、上野芝を経由して深井へ向かい、そこから現実と同じルートとなっていた。
  2. 高野線よりも南海本線の方が線形が良いため、泉北ニュータウンから難波方面への所要時間が短縮されていた。
  3. 南海本線は湊駅以北が複々線化されている。
  4. 堺市の都心部である堺東駅周辺に行くには不便になっていた。
    • その分本線の堺駅周辺が現実よりも発展していたかも。
大阪市営地下鉄千日前線
  1. ルートは南巽~平野~喜連瓜破~松原~美原~北野田~泉ヶ丘というルートになっていた。
  2. 千日前線は現実のように低迷せず、泉北ニュータウンをはじめ大阪府南東部からの幹線として機能していた。
  3. 恐らく松原あたりまでは大阪市交通局、そこからは泉北高速鉄道の路線となっていた。
  4. 高速運転のため千日前線は1500V架線式集電となっていた。
    • 急行運転も行われていた。
  5. 谷町線が現実通りのルートをたどっていた場合、平野か喜連瓜破で谷町線と千日前線が合流していた。
    • この場合、谷町線も架線式集電となり、京阪との乗り入れも考えられていた。
  6. 野田阪神以北も神崎川まで延伸し、阪急神戸線と乗り入れていた。
  7. 美原町は早くから発展し、堺市に合併される以前に単独で市制を施行していた。
  8. 近鉄南大阪線や南海高野線の利用客がこちらに奪われていた。
大阪市営地下鉄四つ橋線
  1. 住之江公園~大浜の計画線が建設され、大浜から南海本線からの分岐案と同じルートをたどっていた。

南海電鉄の子会社にならなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 今ごろ大阪に本社を置くどこかの企業の傘下になっていた。
    • 社名も「大阪府都市開発」のままだったかもしれない。
  2. 3000系電車がなぜか南海に買われることはなかった。
    • 南海8000系(2代)は製造中止にならず2015年まで増備が続けられた。
  3. 南海との直通が減っていたかもしれない。
    • 中百舌鳥・三国ヶ丘を通過する泉北区急は廃止されていたかも。
  4. 準大手私鉄ではなく中小私鉄扱いだろう。
  5. 2015年4月に行われた南海との乗り継ぎ運賃の値下げはなかったか、現実より値下げ幅は少なかった。
  6. イベントに合わせて南海の「サザン」や「ラピート」が泉北高速線に乗り入れたり鉄道むすめに参加したりすることはなかった。
    • 南海と相互にイベントをPRするヘッドマークが付くこともなかった。
  7. 泉北ライナーも運転されなかった。
    • 運転されても、南海の特急の車両から塗装を変えて運用しなかった。
  8. 中百舌鳥駅での地下鉄御堂筋線への乗り換えが便利になるよう中百舌鳥駅の改良工事が計画される。

泉北高速鉄道が設立時から南海グループの一員であったら[編集 | ソースを編集]

史実では、2014年に南海電鉄が買収し、晴れて南海グループの一員になりました。もし設立時から南海グループの一員であたら…

  1. 北大阪急行電鉄のような形になっていた。
    • 無論、運賃も史実よりも安くなっていた。
  2. 泉北ニュータウンの居住人口が史実よりも多くなっていた。
    • 堺市の人口が史実よりも多くなり、1990年代までに政令指定都市になっていたかもしれない。
  3. 5000系以降の車両も独自設計にはならず、南海車両がベースになっていた。
    • 川崎重工業製の車両は存在せず、9300系までは東急車輌製だった。
  4. 光明池までの延伸が1970年前半までに実現していたかもしれない。
  5. 南海本体への吸収合併も早まっていたかもしれない。

紀和鉄道の買収が実現していたら[編集 | ソースを編集]

現在の和歌山線の五条-和歌山を建設した紀和鉄道は最終的に関西鉄道に買収されましたが、当初は南海への売却が有力視されてました。もし、南海が買収にこぎ着けていたら。

  1. 路線名は紀和線
  2. 紀伊中ノ島経由の旧線は存続していた。
    • JR和歌山駅(旧国鉄東和歌山駅)への乗り入れは行われなかったかもしれない。
    • 紀伊中ノ島には阪和線の快速列車が全列車停車していた。JRになってからは特急「くろしお」の一部も停車するようになった。
      • むしろ紀伊中ノ島ができなかった可能性がある(史実では阪和電鉄開業後の設置)。出来たとしても三国ヶ丘同様、南海による阪和買収後だろう。
  3. 南海電鉄は奈良県内にも路線を保有していた。
  4. 橋本駅経由で高野線との直通も実現していた。
    • 大阪から五條市へはこちらがメインルートとなっていた。五條市は奈良県内としては珍しく近鉄よりも南海がメインの地域となっている。
      • 五條市の人口は現実より多かった。宅地開発も進んだ可能性あり。
    • 五新線も開通していた場合、難波から五新線経由で新宮まで行く直通特急の運行も行われていた。
      • 20000・30000系特急車はもう少し増備が行われ、喫茶・軽食を提供できるスナックコーナーも設置されていた。
      • 直通特急の停車駅は新今宮・天下茶屋(2000年以降)・堺東・橋本・五条・城戸・阪本・上野地・十津川温泉・熊野本宮・湯の峰温泉・川湯温泉となっていた。
    • 和歌山から高野山への直通も行われる。
    • 高野線は橋本までで、高野山電気鉄道は高野口分岐になったかもしれない。
      • その場合、橋本でスイッチバックを要したか、河内長野から橋本へは東から入る路線になっていた。
        • 橋本から高野口までは紀和線と共用するので複線化も果たされただろう。難波からの大運転以外の急行もここまで直通した可能性あり。
  5. 電化は史実よりも早く行われていた。
    • 北宇智のスイッチバック廃止も史実より早かったと思う。
  6. 高野線の河内長野~橋本間の線形改良及び複線化は現実よりも早く行われていた。
  7. 和歌山市駅が和歌山駅となり、史実より早く(旧)和歌山駅は紀和駅か東和歌山駅と改称された可能性がある。
    • 後者の場合、阪和電鉄・紀勢東線の駅は新和歌山駅とでもなっていた可能性あり。
  8. 岸里玉出-橋本-和歌山市の三角形の内側で大回り乗車の特例が設けられていた。
  9. 貴志川線が和歌山市駅に乗り入れていた。

高野線の橋本以南も20m車が入線可能だったら[編集 | ソースを編集]

  1. 大運転の列車が削減されることはなかった。
  2. 南海2000系の処遇に困ることはなかった。
  3. 南海の車両は全て20m車になっていた。
    • それでも九度山以南は急勾配があるため、オールMの専用車両となっていた。
  4. 11000系は「こうや」にも運用されていた。
    • 30000系も20m車となり、31000系は登場しなかった。
    • 「こうや」の座席定員が増えていた。
  5. 「泉北ライナー」用の12000系は山岳区間直通可能な仕様になり、繁忙期には「こうや」にも運用されていた。
  6. ズームカーの増解結は最初から行われていない。
    • というよりそもそも21000系や2000系に、ズームカーという呼び名がつかなかった。

高野線の橋本までの複線化が1980年代に完成していたら[編集 | ソースを編集]

  • 史実には1995年に完成しました。
  1. 2000系の製造両数は現実よりも少なかった。
    • その分8200系や1000系が増備されていた。
    • 2000系が本線に転用されることはなかった。
      • 21001系電車と22001系電車と2200系電車の置き換えも兼ねて製造されたので、少なくなることはなかったかと。(8200系電車と1000系電車は橋本以南への乗り入れができない。)
  2. 橋本駅は現実よりも拡張されていたかもしれない。
    • 恐らく島式2面3線ホームになっていた。
  3. 橋本まで行く列車の本数が増えていた。
    • その分林間田園都市折返しは少なくなっていた。
  4. 御幸辻~橋本間の着工が史実よりも早まっていたら十分にあり得た。
  5. 小原田検車区が1990年までに完成していた。
  6. 1984年3月までに完成していたら、30000系電車が史実よりも多く製造されて、特急「こうや」が増発していた。
    • 1989年9月に完成していたら、11000系電車が史実よりも多く製造されて、特急「りんかん」が増発していた。
    • もしくは、追加として、30000系電車が投入されていた。いずれにせよ、定期車両点検に伴う特急「こうや」の減便はなかった。
  7. 美加の台住宅地と南海橋本林間田園都市の入居者人口が史実よりも増えていた。
    • 美加の台駅が無人駅にならなかった。
    • 林間田園都市駅の駅前に当初の計画通り髙島屋が出来ていたかも。
  8. 林間田園都市駅が島式ホーム2面4線を有する駅になっていた。(史実では、2面3線になっている。)
  9. 高野山で弘法大師御入定1150年御遠忌大法会が開催される1984年3月末までに完成していたか。
  10. 難波~河内長野間における10両編成での運行が史実よりも早まっていた。
    • 当区間での10両編成での運行は2010年代までに実施され、泉北高速鉄道における10両編成での運行は2020年代までに実施されていた。
  11. ズームカーの増解結はもっと早くから橋本駅で行っている。
    • 史実では1995年8月まで三日市町駅で行っていた。

高野線の橋本までの複線化が1992年までに完成していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 特急「りんかん」の運転開始と同時であった。
  2. 11000系電車が史実よりも多く製造されていた。
    • 31000系電車も史実よりも多く製造されて、車両定期検査による運休はなかった。
    • 1000系電車も史実よりも多く製造されていたかもしれない。
  3. 難波~河内長野間における急行の10両編成での運行が史実よりも早まり、1996年11月のダイヤ改正までには、5本になっていた。
  4. 小原田検車区の完成と小原田信号所の設置が1993年までに実現していた。
  5. 難波~橋本間に「りんかんサンライン」という愛称が付けられるのが史実よりも早まっていた。
    • そしてその愛称が黒歴史にならずもっと定着できていた。

南海本線のインフラ整備が史実よりも○○だったら[編集 | ソースを編集]

大阪市内の高架化(萩ノ茶屋~岸里玉出間)が○○だったら[編集 | ソースを編集]

  • 史実では、1995年11月に高架化が完成しました。

10年早かったら[編集 | ソースを編集]

  1. 天下茶屋工場の閉鎖が史実よりも早まり、千代田工場の開設が史実よりも早まっていた。
    • 千代田検車区の開設も史実よりも多少早まっていたかもしれない。
  2. 南海天王寺線(天下茶屋~今池町間)の廃止が早まり、大阪市営地下鉄堺筋線の天下茶屋への延伸が1983年3月頃に実現していた。
    • 岸ノ里駅と玉手駅との統合も史実よりも早まっていた。
  3. 特急「サザン」・「ラピート」・「こうや」の天下茶屋駅への停車が史実よりも早まっていた。
    • 特急「サザン」の当駅への停車が1994年9月のダイヤ改正で実現し、特急「こうや」の当駅への停車が1992年11月のダイヤ改正で実現していた。またラピートはラピートαの一部を除いて、1994年9月のダイヤ改正から当駅に停車していた。
  4. 大阪市営地下鉄堺筋線の天下茶屋への延伸開業が史実よりも早まっていたので、堺筋急行が日中での運行が1994年頃に実現していたかもしれない。
    • その代わりに需要の少なさを理由に2001年のダイヤ改正で取りやめになっていた可能性が高い。
    • 66系の登場も早まっていた。登場時期によってはVVVF車ではなく10系と同様の電機子チョッパ制御車になっていたかもしれない。

泉大津市内の高架化が○○だったら[編集 | ソースを編集]

1990年代に実現していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 泉大津駅地域再開発事業が史実よりも進展していた。
  2. 場合によっては、泉大津駅が橋上駅舎になることはなかったかもしれない。

電圧の昇圧が別の時期に実施していたら[編集 | ソースを編集]

1960年代[編集 | ソースを編集]

  1. 22000系電車は登場時に電圧昇圧に対応していた。
  2. 千代田工場の設立が史実よりも早まっていた。
    • 天下茶屋駅付近の高架化も史実よりも早まっていた。
  3. 高野線の複線化が史実よりも早まっていたかもしれない。
    • 三日市町までの複線化が史実よりも早まり、三日市町での車両の増結・解放の実施が史実よりも早まっていた。
  4. 泉北高速鉄道は開業時から南海電鉄の路線として開業していたか南海電鉄の子会社として開業していた。
  5. 難波駅の駅改良工事も史実よりも早まっていた。

関連項目[編集 | ソースを編集]