もし国鉄の分割民営化が○○年早かったら
戦後すぐにGHQの指令で民営化していたら[編集 | ソースを編集]
全般[編集 | ソースを編集]
- 長距離寝台特急などは、戦前の話になっていた。
- 貨物も追随していたかもしれない。
- ただ戦後しばらくは航空機の利用が一般的ではなかったので、長距離輸送にはフェリーが現実以上に活躍した。
- 当時の商船の実態や国民の認識を考慮するとそれはない。
- 商船は大戦の影響で壊滅状態だった上、旅客輸送の主体はフェリーではなく純客船だった。
- むしろ進駐軍からの返還車両を改造しより豪華な内装になる。
- 鉄道の長距離輸送の需要が大きかったので、廃止までには至らないが、夜行列車衰退は史実より早かった。
- ヨーロッパのように新たなサービスの導入などが積極的に行われていたら逆にそこまで衰退しなかった可能性あり。
- 鉄道の長距離輸送の需要が大きかったので、廃止までには至らないが、夜行列車衰退は史実より早かった。
- 都市圏輸送主体になって都市間輸送は二の次になっていた。
- 手持ちの車両などを踏まえるとそうなるのは早くても昭和30年代に入ってからか。
- 分割は鉄道局単位で行われた。
- 後に一部の区分見直しなどがあったかもしれない。
- 少なくとも貨物と旅客が別会社ということはあり得ない。
- ローカル線は史実ほど多く建設されていない。
- JRの経営は現実よりは楽だっただろう。
- その代わり史実で鉄道の恩恵を受けられた地域の一部が泣きを見ていた。
- 「地方開発のため」という大義名分で一部ローカル線に上下分離方式が導入された可能性も。
- そもそも名称が「JR」になっていない。
- 「北海道鉄道」「関西鉄道」のような過去に存在した名称が複数地域で復活していた。
- JRの経営は現実よりは楽だっただろう。
- 新幹線は半官半民の新会社で建設・運行された。
- 戦前の日本電気鉄道計画が日の目を見ていた。
- あるいは五島慶太などが実際に計画していた「日本鉄道」の計画が実現していた。
- 中曽根政権時代もしくは小泉政権時代に完全民営化された。
- 戦前の日本電気鉄道計画が日の目を見ていた。
- 国有化されていない私鉄との経営統合や買収なども発生していた。
- 現在では各会社の経営姿勢により鉄道の状況は地方ごとに大きく異なっている。
- 専売事業・電信電話事業もほぼ同時に特殊会社になっていた。
- 史実では専売公社・電電公社に移行。
- 日本放送協会も財団法人にはならず、社団法人から特殊会社に移行していた。
- 小泉政権の頃に完全民営化されていたかも。
- 日本交通公社の営利部門(現JTB)分離もこのタイミングだった。
- 近鉄の関東進出が成功していたかもしれない。
- 国労や勤労といった大規模な労組が存在しないため労働運動の歴史にも結構影響があった。
- 総評は左傾化することもなかったので、昭和30年代には同じく反共右派の総同盟と合併して史実の連合のようなナショナルセンターが結成されていた。
- 社会党や共産党は早くに衰退し、戦後の日本は現実以上に自民一強状態になっていた。
- 日本は現実よりも右傾化し、憲法改正もあったかも。
- 市民運動が弱くなる要因には経済成長もあるので(参考:韓国)それは怪しい。
- 1960年代後半の学生運動もそれほど激しくなかった。
- 平成初期に55年体制が崩れることはなく、従って民主党は存在しなかった。
- 社会党という大敵を失い自民党が再分裂するという展開も考えられるのでは。
- 日本は現実よりも右傾化し、憲法改正もあったかも。
- 春闘による私鉄などのストライキも存在しなかった。
- 新自由主義という考え方は既に高度成長期に存在していた。
- その結果、終身雇用制度は早くになくなり、1960年代のうちに夫婦共働きが当たり前というアメリカ型の社会になっていた。男女雇用機会均等法も同時期に施行されている。
- 非正規雇用も現実以上に多くなっていた。
- 戦後の日本は現実よりも少子化のペースが早くなり、第2次ベビーブーム世代の出生数も現実ほどではなかった。
- あるいは団塊世代が現実よりも晩婚化したため、1980年代まで第2次ベビーブームが続いていた。
- 1990年前後のバブル景気は到来しなかったかもしれない。
- 蒸気機関車や貨物列車、操車場にも女性の鉄道員が従事するようになった。
- 史実でも「新自由主義」という語は1930年代には登場していたが…。
- それ以前に日本一国の方針転換が世界的な経済思想を変えると考えるのは無理がある。
- その結果、終身雇用制度は早くになくなり、1960年代のうちに夫婦共働きが当たり前というアメリカ型の社会になっていた。男女雇用機会均等法も同時期に施行されている。
- プロ野球に「スワローズ」という球団ができることはなかった。
- セ・リーグは西日本パイレーツ消滅時点の6球団で安定していた。
- あるいは史実でパ・リーグに属していたどこかの球団がセ・リーグ入りしていた。
- 神宮球場はどこの本拠地になっていたのだろう?
- 大学野球専門の球場になっていた可能性もある。
- セ・リーグは西日本パイレーツ消滅時点の6球団で安定していた。
- 地図における経営母体による記号の使い分けは消滅していた。
- 現在では諸外国同様に路線の規模や規格による記号が使われている。
- 運賃料金の等級制は戦後すぐに廃止され、旧1等は貴賓車、旧2等は特別車、旧3等は普通車と呼び名が変わって、特別車や貴賓車は普通車(旧3等)の運賃に料金をプラスするという方式に変更されていた。
- 但し車両の記号「イ」・「ロ」・「ハ」はそのまま存置されていた。
- 百貨店など史実では進出しなかった事業への参入も普通にあった。
- 当時は鉄道が陸上交通の王者だったので各会社の業績は史実よりずっと良かった。
- ほとんどの旧省線系の鉄道会社が株式上場を果たしていた。
- 分割民営化の動機はあくまで鉄道が戦争の道具として使われないようにするため。
- 一部保守派が今なお「省線民営化」を批判していた。
- 三鷹事件や松川事件は民営化反対派または反対派を煙たがっていた何者かが起こしていた。
- この時点で3公社5現業以下様々な国有事業が徹底的に民営化されていた。
- 「ショックドクトリン」でも「終戦直後に民営化された日本国鉄の悲劇」の記述が存在した。
キャンペーンと特別企画乗車券[編集 | ソースを編集]
- 民間放送開始とともに、史実の民営化後のようなキャンペーンを実施。高度経済成長の開始とともに、それが更に華やかになる。
- JR東海は、東海道新幹線開業直後以来、「シンデレラ・エクスプレス」「クリスマス・エクスプレス」を実施。これにより、この頃に既に新幹線による遠距離恋愛が一般化していた。
- 当時の新幹線は高価な乗り物だったので一般人にはおそらく無理。
- ただしPR目的でそのような映画(主演:吉永小百合?)が制作されることはあってもおかしくない。
- 当時の新幹線は高価な乗り物だったので一般人にはおそらく無理。
- JR東海は、同時期以来、「そうだ 京都、行こう。」「トーキョーブックマーク」キャンペーンを実施。
- 「ブックマーク」という語は携帯普及後に広く知られた言葉なので少なくとも後者は全く別名称になっている。
- JR東日本は、東北本線の大半が電化された頃から、「週末パス」を発売。
- その事で、東北から上京した人が気軽に帰省できるので、「あゝ上野駅」のような望郷の流行歌が作られない。代わりに、JR東日本による上京者応援のCMソングが流行する。その歌は明るくポップ。
- 当時の集団就職先はほとんどが中小零細企業だったのでそこまで懐に余裕はなかったはず。
- 史実でも勤労青少年旅客運賃割引制度とかあったはずだが。
- 「お金がたまったら凱旋帰郷しよう」「父ちゃん母ちゃんに東京を見せよう」という趣旨のCMが多くなっていたと思われる。
- 当時の集団就職先はほとんどが中小零細企業だったのでそこまで懐に余裕はなかったはず。
- その事で、東北から上京した人が気軽に帰省できるので、「あゝ上野駅」のような望郷の流行歌が作られない。代わりに、JR東日本による上京者応援のCMソングが流行する。その歌は明るくポップ。
- JR東日本は、同じ頃から、「JR SKISKI」キャンペーンを実施。
- CMキャラクターには加山雄三あたりが起用されていた。
- JR九州は、後年の水戸岡鋭治のようなデザイナーに車両デザインを委託。また、急行の運行開始以来、2枚きっぷ・4枚きっぷを発売する。
- 当時は日本国内にあまり工業デザイナーがいなかったため海外のデザイナーにも頼んでいた。
- 日本のデザイン史もかわっていたかも。
- こうしたことで、当時の鉄道史、ひいては昭和戦後史が、史実と大きく変わる。
- 一人一人の経済状況や使える人材などが史実と変わらないためそこまで劇的に変化したかどうかは微妙。
- 東京オリンピックや大阪万博といった大イベントの際には特別塗装の列車や企画切符が大量に投入された。
- 遅くとも70年代には朝ドラや大河ドラマ絡みの企画乗車券が存在していた。
- その一方で「青春18きっぷ」は誕生しなかった恐れがある。
- 似たような乗り放題切符は存在していてもおかしくないが全国規模にはならなかった気がする。
昭和30年代に民営化していたら[編集 | ソースを編集]
昭和30年代、民間シンクタンクの産業計画会議が国鉄分割民営化を提言していました。
- 新幹線は開業していなかったか、全額自己負担で建設していた。
- 並行在来線の経営分離も昔から行われていた。
- フル規格での開業は弾丸列車計画を受け継いだ東海道・山陽のみ。それ以外の路線にはスーパー特急方式(急勾配や急曲線のある区間を部分的に新線化する)が推進されていた。
- 史実の埼京線やTXが優等列車街道と化す。
- 標準軌を導入しなかったことへの後悔が史実以上に深いものに。
- 大半のローカル線は開業していなかった。
- 開業していたとしても割増運賃が適用され、さらに沿線市町村に赤字分を補填するという事になっていたかもしれない。
- BRTが普及していたかも。
- JRバスが予定線の区間を網羅する。
- 越美線、広浜線や高千穂線など地方都市間を結ぶ路線が優先的に建設された。
- 智頭線や北越北線などのような路線はなおさら。
- 開業していたとしても割増運賃が適用され、さらに沿線市町村に赤字分を補填するという事になっていたかもしれない。
- 蒸気機関車列車も史実より早く消滅していたかも。
- 101系は関東地区のみで製造されていた。
- 関西地区では103系が製造されていた。
- いや、関西地区は高速仕様の105系(実際に計画はあった。現実の105系とは異なる)となっていた。
- 関西地区に投入された105系は車内の蛍光灯がカバー付き、空気バネ台車など当時の関西私鉄車両と同レベルの車両となっていた。
- いや、関西地区は高速仕様の105系(実際に計画はあった。現実の105系とは異なる)となっていた。
- 関西地区では103系が製造されていた。
- 関西地区の場合新快速電車が史実より早く登場していたため関西の私鉄のシェアをある程度奪っていた。
- 対抗して阪神なんば線は昭和40年代に開業していた。
- 阪神梅田~山陽姫路間の直通特急も神戸高速鉄道開業時に登場していた。場合によっては阪急も姫路に直通していたかも。
- モータリゼーションが到来する前なので各社の経営状態もよかったかもしれない。
- 首都圏の通勤五方面作戦が史実より進んでいない。
- 複々線化は沿線自治体が負担しない限り進まないという状態になっていたかも。
- 中央線の複々線は未だに中野止まりなので杉並3駅は問題になっていない。
- 天王台・東船橋・幕張本郷の各駅に至っては開業すらしなかった。
- 東船橋駅は地元高校の請願で建設される。
- 天王台・東船橋・幕張本郷の各駅に至っては開業すらしなかった。
- 中央線の複々線は未だに中野止まりなので杉並3駅は問題になっていない。
- 東京への一極集中も史実ほどには進んでいなかった。
- 関西や中京地区では新快速が早期に登場していたことから、ある程度こちらに機能が分散していた。
- 首都圏の交通網がパンク状態になったため、地方分権が推進されるようになっていた。
- 首都圏の近郊形電車(中距離電車)のロングシート化は昭和40年代には始まっていた。
- 複々線化は沿線自治体が負担しない限り進まないという状態になっていたかも。
- 労組のストライキは起こらなかったため、鉄道の輸送シェアは現在でも5割を上回っている。
- スト権ストや順法闘争が行われていないため上尾事件はなかった。
- でも結局スト権ストの規模で分割民営化反対ストが行われていたかも。
- 民間企業になれば合法的にストができるので、民営化後も状況によっては史実以上に激しくストが起きていたかも。
- 遵法闘争をする必要もなかった。
- 昭和30年代から40年代にかけての私鉄総連がかなり過激だったのを考えれば、昭和50年代前半までは激しいストは起きていたはず。
- スト権ストや順法闘争が行われていないため上尾事件はなかった。
- 福知山線や勝田線は全線複線電化されていた。
- JR東西線も1970年代には開業している。
- 1970年の大阪万博がきっかけで整備されていたかも。
- 片町線も。京田辺市は昭和のうちに市制施行していた。
- JR東西線も1970年代には開業している。
- 仁堀航路の本数も増加していた。
- 発着が呉と三津浜に変わって呉三航路になっていた。
- 九州ブルートレインはかなり豪華な編成になっていた。
- ブルートレインブームは史実より凄まじいものに。
- B寝台主体のビジネス向けの列車は電車化されてスピードアップされ、東京-博多間は12時間になっていた。
- 寝台料金も現実よりも安く抑えられていた。その結果夜行バスは現実ほど発達していない。
- 運賃は値上げされていてもある程度抑えられ、初乗りも120円ぐらいだったかもしれない。
- 等級制廃止(1等・2等→グリーン車・普通車に変更)も民営化に併せて行われていた。
- 国鉄スワローズの身売りが早まっていた。
- 身売りしていない場合、本拠地は神宮球場ではなかったかもしれない。
- これを機に国鉄以外の国家機関の民営化も早まっていたかもしれない。
- 日本専売公社や日本電信電話公社、郵政事業も昭和40年代に民営化されていた。
- 日本放送協会も民営化していたかもしてない。
- 日本道路公団も1970年代に民営化されていた。
- 営団地下鉄も同時期に民営化されている。さらに大阪市・名古屋市など各地の公営交通も民営化されていた可能性もある。
- 営団地下鉄は民営化にあたって都営地下鉄と経営一元化していたかも。
- 大阪市交通局は1969年の路面電車廃止と同時に民営化されていた。
- 日本専売公社や日本電信電話公社、郵政事業も昭和40年代に民営化されていた。
- 急行形車両の冷房化はグリーン車が民営化までに、普通車も1968年までには完了していた。また、近郊・通勤形車両の冷房車も史実より早く1968年には登場していた。
- 485系など特急型車両の普通車も当初から簡易リクライニングシート装備だった。
- 私鉄の通勤冷房車導入も現実よりも早まっていた。
- 阪急5000系・小田急5000形・南海6100・7100系などは当初から冷房車として登場していた。
- 上記のように地下鉄の民営化が早ければ、東京の地下鉄は昭和のうちに冷房化率100%を達成できた。
- 「L特急」という概念は存在していない。
- 東日本の特急は一貫して全車指定席だった。
- 民営化記念事業として東京駅の丸の内駅舎が高層ビルに建て替えられてしまった。
- 旧国鉄系の鉄道会社によるニュータウン開発が普通に行われた。
- 私鉄さながらの通勤通学に特化した新線も各地に誕生。
10年早かったら[編集 | ソースを編集]
新幹線[編集 | ソースを編集]
- 0系は1970年代後半に製造が終了していた。
- そして遅くとも20世紀中には引退していた。
- 2000番台は存在しない。
- それ以後は100系に移行し、1990年頃まで製造が継続される。
- 現実より多くの車両が導入された。
- 220km/h運転開始も1982年11月には行われていた。
- 300系「のぞみ」の登場は史実と同じ。
- 東北・上越新幹線は民営化後に開業した。
- 最高速度は開業時から240km/h。
- 200系の先頭車は全て100系タイプの顔だった。
- ちなみに東海道新幹線を管理しているのはJR西日本。
- JR東海は存在しない。
- もし存在してあっても強引な新幹線誘導は行ってない。
- 名阪間直通の新快速や静岡地区の快速も運転されていたかも。
- ただ広島地区のことを思うと後者は消えていた可能性もあり。
- 名阪間直通の新快速や静岡地区の快速も運転されていたかも。
- 山形新幹線は1980年代後半に開業した。
- 九州新幹線や東北新幹線の盛岡以北は20世紀中に全通していた。
- 近鉄の名阪ノンストップ特急は東海道新幹線に負けて廃止されていた可能性が高い。
- 乙特急に早々と統合されていた。が、後に津・大和八木のみ停車の形で速達型が再設定された。
- 東京-大阪間の空路でも羽田-伊丹線は、東海道新幹線に敗れて廃止されていた可能性も大いにありうる。神戸空港は建設さえ行われなかった可能性が強い。
- 大阪-福岡はもっと早く廃止され、今では東京-岡山や名古屋-福岡でさえも存廃が議論されるようになっていた。
- 東京−三沢、東京−青森も東北新幹線に負けて廃止に追い込まれたかも。
- 大阪-福岡はもっと早く廃止され、今では東京-岡山や名古屋-福岡でさえも存廃が議論されるようになっていた。
- 三島駅の開業から間髪入れずに掛川駅、三河安城駅などが開設された。
- 中には「ひかり」の停車する駅もあったかもしれない。
- 東海道・山陽新幹線の車両形式は、0、100、200、300、…となっていた。
- そしてJR東日本系新幹線は開業当初からE1、E2、E3、…と振られていた。
在来線[編集 | ソースを編集]
- 廃止路線は比較的少数ですんだであろう。
- 三島会社の経営も現実よりは安定しているだろう。
- JR九州も2010年までに株式を上場させていた。
- ただし平成以降の廃線数は現実以上に多くなる。
- 路線単位でなく、ほんとに区間単位で輸送実績が計算されて廃止・転換が行われた。
- 江差線が残って松前線が廃止になったり、上砂川支線が歌志内線より数年遅く廃止になるというようなことはなかった。
- 勝田線や尼崎港線、高砂線、鍛冶屋線などは生き残れただろうし、伊勢線や中村線が第三セクターになるなんてこともなかった。
- 逆に加古川線の野村(現西脇市)~谷川の方が廃止されていたかも。
- りんかい線もJR東日本の路線だった可能性あり。
- 大崎 - 新木場 - 蘇我が「京葉線」だった。房総特急は多くが新宿や渋谷にも発着していた。
- 池袋折り返しも設定される。
- そのまま埼京線と直通して川越まで。名付けて臨海埼京ライン。
- 鉄道公団のローカル新線の建設凍結も早かったかもしれない。
- 白糠線、可部線、三江線は開業したか非常に疑問。
- 気仙沼線もどうだろうか。三陸鉄道所有になっていた可能性も……
- 多分阿佐線のように途中で建設放棄になっていたのでは。
- 逆に中村線、岡多線、瀬戸線、伊勢線などはJRに継承されていた可能性あり。
- もしかしたら既存路線の三セク化はなかったかもしれない。
- 石勝線は建設されず、札幌から帯広・釧路へは引き続き滝川経由で運行されることに。
- 内子線も盲腸線のまま。宇和海は伊予長浜経由のまま。
- 民営化後に東北・上越新幹線が開業することになるため、並行在来線の三セク化が史実より進んでいる。
- 少なく見積もっても上越線水上~宮内間、東北本線黒磯~白石間・小牛田~青森間は全て三セクに。
- 上越線高崎~水上、信越本線宮内~新津も三セクかも。
- 少なく見積もっても上越線水上~宮内間、東北本線黒磯~白石間・小牛田~青森間は全て三セクに。
- 運賃は今よりずっと安かったろう。
- 史実での分割民営化10年前の昭和52年は、怒濤の値上げ連発が始まってはいたものの、まださほど進んでいない。
- 青春18きっぷは発売されなかった。
- その代わり「西日本・四国・九州パス」とかがあったかもしれない。
- 現実とは異なり特急・急行券をプラスすると特急・急行にも乗車できるタイプになっていたかも。あるいは普通・快速列車のみ乗車できるタイプと2種類設定されていた。
- もしあったとしても、史実より高額になっていただろう。
- 東京機関区以外の寝台特急牽引機でヘッドマークが廃止されることはなかった。
- ただし分割民営化の弊害が現れ、寝台特急の淘汰は現実より早かった。
- 「北斗星」とかも生まれなかったかもしれない。
- 夜行高速バスは寝台特急廃止の代替という意味合いが強かった。そのため現実よりもJRバスの比率が高まっている。
- 逆に1社内完結の夜行列車は新幹線並行区間を除き多くが残存。
- キハ56系とオハネフ12形を併結した急行が北海道を走る。
- 「ながさき」は「ムーンライトながさき」か「ドリームかもめ」になったかも。
- 上野〜東北間ブルトレの個室化が早まる。
- ただし分割民営化の弊害が現れ、寝台特急の淘汰は現実より早かった。
- ヤード廃止も早まり、別府鉄道や南部縦貫鉄道は現実より早く消えていたかもしれない。
- 列車愛称の号数が下り奇数・上り偶数に改められることはなかった。
- 南武線の快速は廃止されず、後に登戸以北でも通過運転を始める。
- 鹿島田や武蔵新城には未だに停車していない。
- 横須賀線東京トンネルができていたか怪しい。品川折り返しになっていたかも。
- JR北海道は廃線を進めまくり、JR北海道バスが多くの路線を代替した。
- 2015年からの普通気動車が老朽化してお金がないので減らす問題は、10年繰り上がっていたので置き換えが順調に行っていたかも。
国鉄・JR車両動向[編集 | ソースを編集]
- 現実より多くの車両が導入された。
- 581・583系が近郊型に改造されることはなかった。
- 205系はJR東日本の新車となっていた。
- 201系も。(なぜなら1979年登場だから。)
- 加えて203系も。(こちらは1982年登場だから。)
- 207系900番台は存在しなかった。試験で作られたとしても別の形式を名乗っていた。
- 全国的にもステンレス車両の導入が史実より早かったと思われるので、JRグループ初のステンレス車の形式が201系となっていた。
- もちろん地下鉄直通向け筑肥線用開業当初の車両もステンレスでワンマン対応。
- むしろアルミ車体の方が普及していたかも(東急車輛製造がオールステンレス車体の製造ノウハウを公開しなかった可能性があるので)。
- 201・205・211系はアルミ車体になっていたかも。
- シティ電車が民営化してから行われるので、時期早尚に国鉄車は地方転属。
- 燃費向上をうたい「走ルンです」が史実より全国各地に積極導入。
- 「走ルンです」もきっと異なる俗称がつけられた。
- 燃費向上をうたい「走ルンです」が史実より全国各地に積極導入。
- 201系も。(なぜなら1979年登場だから。)
- 1978年10月にはJR東日本に651系が早くも登場し、まずは上野-仙台の特急「ひばり」に投入される。
- 1978年10月改正での特急のスピードダウンもなく、東北新幹線開業まで上野-仙台は3時間58分で運転していた。
- ただし、史実の651系よりデザインが古く見える。
- 境界駅超えても、料金が加算されずにすんでた。
- 旧型客車は早いうちに無くなってるかも。
- そもそも50系客車が製造されていないので、かなり早期に電車・気動車化が図られる。
- そのため改造車である西日本のキハ33系、北海道のキハ141系は存在しなかった。
- ノロッコ号も存在しなかったかもしれない。
- 快速海峡は最初から電車だった。
- むしろ設備がいいので、最初からすべて昼間は特急。785系青ガエルが盛岡まで入線していた。
- そのため改造車である西日本のキハ33系、北海道のキハ141系は存在しなかった。
- そもそも50系客車が製造されていないので、かなり早期に電車・気動車化が図られる。
- 103系・113系・115系は1970年代後半に製造終了していた。
- キハ40系も。
- むしろ冷房搭載・高出力にモデルチェンジされた。
- キハ40系も。
- 781系はJR北海道の新車となっていた。
- 591系が現在も保管されている。
- 首都圏色は全国に広まらなかった。
- 185系は製造されず、153系の置き換え用には251系(史実のものとは異なる)が登場していたが、車内設備や性能は117系準拠ではなく他の特急車同様のもの(但し扉幅は1m)となっていた。
- 北海道・四国向けの民営化前の駆け込み導入は、キハ66系になった。
- 当時四国は全線非電化のため、121系は導入されていなかった。
JR西日本・アーバンネットワーク[編集 | ソースを編集]
- 新快速の強化は1980年代にすでに行われていた。
- その結果、117系は混雑に耐えられなくなり1980年代中盤に地方線区に転用されていた。
- 221系は130km/h運転対応になっていた。
- 120km/h運転は1978年10月の117系化と同時に行われていた。因みに新快速117系化は現実より2年早い。
- 117系を3扉に無理矢理改造したりもした。
- そもそも117系も民営化後だから、最初から3ドアだったのでは?
- 勿論、車両が足りない分は115系で補った。
- 花博の時はモハ70系まで動員した。
- 民鉄ではステンレス車が流行りだしていたので、117系もステンレス車として製造されることに。
- もちろん軽いので120km/h対応。しかし当時のステンレスは流線形が作れなかったので、全面は国鉄203系か東急8500系みたいになる。
- こんな新快速はいやだ。
- 近畿車輛が近鉄3000系で試作した独自のオールステンレス車の技術が採用されていたかもしれない。
- もちろん軽いので120km/h対応。しかし当時のステンレスは流線形が作れなかったので、全面は国鉄203系か東急8500系みたいになる。
- 福知山線の全線電化は桜井線や和歌山線よりも先に行われていた。
- 能勢電鉄の川西国鉄前駅は廃止されなかった。
- 片町線も1980年代前半の内に全線電化されていた。
- 関西私鉄各社は1980年代には利用客が減少に転じていた。
- 近鉄10100系の後継車は2階建て30000系ではなく高速仕様の21000系になっていたかもしれない。
- 国鉄→JRの運賃が史実より安くなっていたので、近鉄の名阪ノンストップ特急はさらに利用客が減少し、1970年代末期には廃止されていた。
- 京阪・阪急・阪神などの特急停車駅の増加は1980年代後半には行われていた。
- その結果、京阪8000系は3扉クロスシート車として登場し、TVも設置されなかった。
- 南海本線の泉佐野以南での急行との統合による特急停車駅増加も1985年の10000系「サザン」登場と同時に行われていた。
- 阪神梅田~山陽姫路間の直通特急も1980年代後半に実現。阪神8000系と山陽5000系は当初から直通特急の運用に対応できるよう設計されていた。
- 阪神8000系はセミクロスシートになっていたかも。
- 阪急・阪神・近鉄・南海は1980年代前半に相次いで球団を手放していたかもしれない。
- 阪神は球団を手放すとかえって大変なことになりそうな気が…。
- 阪堺電気軌道・和歌山電鐵・養老鉄道・伊賀鉄道の分社が早まった。
- 近鉄北勢線も史実よりも早く三岐鉄道に経営移管されていた。
- 東西線が早期に建設されていた。
- 一方でモハ80系・モハ70系・モハ72系などツリ掛け式国鉄車も多く残った。
- 広島支社管内の電車は山陽本線筋の一握りを除いて、今でも全てツリ掛け式。
- 阪和線にはクハ86・サハ85とモハ70で混成した編成をブルーライナーに塗装したエゲツない新快速が出没。
- 153系共々魔改造の対象になる。
- 鍛冶屋線や高砂線、飾磨港線、尼崎港線などが残り、アーバンネットワークに組み込まれていた。
- 嵯峨野観光鉄道は存在しなかったかもしれない。
- 山陰本線複線化の際に片方を旧線のまま使用していた可能性が高いため。
- JR京都線快速のデータイムにおける高槻以東各駅停車化は行われなかった(現実には1985年に実施)。
- その後1990年代に入って長岡京駅への追加停車が実施されていた。
- その結果、大阪~京都では互いに快速が後続の新快速よりも先着することになり、新快速の混雑が幾らか緩和されていた。
- それでも京阪神快速へのグリーン車連結は史実と同じ1980年頃に廃止されていた。
その他[編集 | ソースを編集]
- 1976年11月の国鉄運賃・料金大幅値上げは行われなかった可能性が強いので(仮に値上げがあっても小幅に留まっていた)、鉄道から航空への転移は進まず、国内線の航空路線は史実ほど発展しなかった。
- 全日空はB747を導入しなかった。日本航空もB747を就航させたのは羽田-千歳・福岡・那覇便と、伊丹-千歳・那覇便のみ。
- JRの運賃水準が低いままなので、鉄道から高速バスへの転移もあまり進まなかった。
- いや、私鉄は1997年まで値上げしていたので、おそらくJRグループも値上げし続けていた。
- 一般庶民にとって飛行機は贅沢な乗り物という認識しかない。せいぜい新婚旅行で乗るぐらいという程度に留まっている。
- むしろ料金の引き下げが早まった可能性あり。今日の「早割」「特割」、更にLCCが早く登場した。
- おそらく地方交通線運賃や電車特定区間制は存在しなかった。
- 要するに会社内統一運賃。
- でも不採算路線は近鉄のように加算運賃を設けたり、名鉄のように路線別に距離に係数をかけて運賃を計算した。
- 要するに会社内統一運賃。
- JRマークのついた仁堀連絡船が見られた。
- 廃止される前に、両岸の発着港を変更していた可能性もある。
- 松山と呉をむすんでいたかも。
- 廃止される前に、両岸の発着港を変更していた可能性もある。
- 本四架橋の神戸~鳴門ルートは鉄道併設になっていたかもしれない。
- 東武日光線の快速の区間快速化は1991年の特急車の置き換えと同時に行われていた。
- 1720系の後継は史実とは異なってスペーシアではなく、りょうもう系統と共用の汎用特急車になっていた。
- 東武の有料急行の特急格上げと「急行」の一般列車の種別への変更も1991年には行われていた。
- 快速用6050系も史実とは異なり3扉セミクロスで登場していた。
- 小田急のロマンスカーも新宿-小田原無停車の列車は1987年の10000系登場時に廃止されていた。
- 10000系は史実とは異なってハイデッカー仕様・連接構造ではなく、現実のEXEのような通常形の汎用特急車となっていた。
- 京急600形の後継である2000形は3扉車端ロング・扉間固定ボックスシートで登場した。2100形は製造されず、2000形の後継は新1000形(車端ボックス)の増備で賄われた。
- 京急における日中時間帯の快特・特急の統合も1980年代後半~1990年代前半には行われていた。
- 名鉄の特急における特別席と一般席の併結は1982年に行われていた。また「高速」という種別は設定されなかった。
- 西鉄8000系は史実と異なって先頭貫通式の3扉車端ロングで登場した。8000系登場と同時に日中の急行廃止、特急の停車駅増加も行われていた。
5年早かったら[編集 | ソースを編集]
全般[編集 | ソースを編集]
- 原因はガスタービン車かもしれない。
- どっちみちバス事業は分社した。
- 流通事業や不動産事業の参入が史実よりも早まっていた。
- 操車場の閉鎖と梅田貨物駅の移転も史実よりも早まり、土地の売買が史実よりも進んでいたかもしれない。
- 本州3社の東証への上場が史実よりも早まっていた。
- ただバブル崩壊の煽りにより、経営が苦しくなっていた。
新幹線[編集 | ソースを編集]
- 東北・上越新幹線は民営化と同時に開業した。
- 開業後に民営化されていた可能性もあった。
- 0系は民営化と同時に製造が終了した。
- 100系は全車民営化後に落成された。
- 「こだま」の減車はなかったかも。
在来線[編集 | ソースを編集]
- 103系、113系、115系は民営化と同時に製造が終了した。
- 205系、211系は全車民営化後に落成された。
- 203系も。
- キハ185系はJR四国の新車であった。
- 全車民営化後に落成された。
- もちろん緑帯を巻いた経験はない。
- 東北・高崎線中距離電車の新宿乗り入れは昭和のうちに開始された。
- 常磐線の万博中央駅はそのまま常設化していた。
- クハネ581はエキスポライナーに使用されなかった。
- 415系500番台が九州に転属することはなかった。
- EF70の直流化改造が実現したかも。
- EF58 60号機が解体されずに済んだ。
- 現在はリニア・鉄道館に保存されている。
- 70系や80系2枚窓車も。
- EF66は全車JR貨物に継承され、ブルトレ牽引を担当しなかった。
- 奈良・和歌山地区の105系は新車だった。
- 713系が量産化されていた。
- EF81形400番台はJR貨物の新車で、車体もステンレス製であった。
- 関西では、JR東西線とおおさか東線の開業が史実よりも早まっていた。
- なにわ筋線の開業も史実よりも早まっていたかもしれない。
- 関東では、上野東京ラインの開業が史実よりも早まっていた。
- 山陰本線(京都~福知山)、篠栗線・筑豊本線(折尾~吉塚)などの電化が史実よりも早まっていた。
- 山陰本線(京都~園部)、奈良線の複線化も史実よりも早まっていた。
その他[編集 | ソースを編集]
- 関西私鉄の利用客減少は昭和のうちに起こっていた。
- 利用客のJRへの移行が史実より早かったため。
- 国内線の航空旅客の減少は1985年の日航ジャンボ機墜落事故以降ずっと続いていた。
- 墜落事故後航空旅客が減少し、それに追い討ちをかける形でJRがのぞみを走らせ、空からJRへの移行が史実以上に急速に進んだ。
- 日本国内のステンレス車両は現在も全て東急車輛製。
- 民営化直後から特定地方交通線の処理に追われていた。
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