オーストリア・ハンガリー帝国

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  1. 「オーストラリア・カンガルー帝国」ではない。
  2. 普墺戦争でドイツにおける覇権を失い、大きく威信を失ったオーストラリア帝国が国内体制を見直し、帝国で多数派を占めるマジャール(カンガルー)人に自治権を認めることになった。ゆえに二重帝国という呼び名もある。
    • しかし、他の帝国在住の民族は依然として自治権獲得を主張した。あまりの激しさに、帝国末期の頃はチェック(チェコ)人への自治も許そうという人も多かったくらいである。
      • 独立したらお隣のドイツロシアにすぐに占領されそうだしね。
      • 成立していたらオーストリア・ハンガリーボヘミア3重帝国となる予定だった。そもそもボヘミアは神聖ローマ帝国を構成する王国であったわけだし(つまりハンガリーと立場的には同等だった)
    • 実はクロアチア人も比較的自治権が認められていた。なので実際は「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」だったと唱える学者もいるらしい。
      • 下記ブルゲンラント(旧ハンガリー王国領のドイツ語地域・現オーストリア共和国領)のクロアチア系屯田兵村の存在がその証左。
    • サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナント大公も南スラブ人にも自治権を与えようと考えてたらしい。
    • ポーランド分割で編入したガリチア地方でもポーランド人は結構優遇されていた。少なくともプロイセンドイツ帝国領やロシア帝国領内での扱いに比べれば天国。
      • なお、ガリチア東部(現在はウクライナ領)では少数派ポーランド人が支配者で、土着のウクライナ人が被支配者という構図が存在した。
  3. ウィルソンの野郎・・・
  4. 正式名称は「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」。…無茶苦茶長い。
    • 現在世界一長い国名とされているイギリスの正式名称「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」の比ではない。間違いなく当時世界一の長さをもつ国名であっただろう。
  5. 当時の「オーストリア」と「ハンガリー王国」の「国境」は現在のものよりオーストリア寄りにあった。帝国滅亡後、民族自決の大儀名分によりドイツ人が多数派のこの国境地域は「ブルゲンラント州」としてオーストリア共和国領に編入された。ハンガリー出身の作曲家フランツ・リストの生地もぎりぎりオーストリア側になっている。
    • ポーランドに編入された旧ドイツ領や、チェコズデーテンなどではドイツ系住民の多くが追放されているが、こちらは第2次大戦後も国境変更は一切なかった。共産化したハンガリーからの亡命者は多かったが、ハンガリー領からのドイツ系住民追放はさほど厳しくなかった模様。
      • ハンガリーがあまり厳しくなかったのと、ドイツじゃなくてオーストリアだったのが大きいか。
    • ブルゲンラント州には現在でもハンガリー系やクロアチア系のかつての「屯田兵」の村が存在する。
  6. 軍事的にはかなりお粗末だったようで、多民族国家だったのに軍隊内部で使う公用語すら統一されていなかったらしい。
    • 第一次世界大戦でセルビアにいちゃもんつけて攻め込むが、緒戦であっさり敗北。
      • 同盟国ドイツの支援を受けて、ようやくセルビアを占領。
        • しかし、大戦の敗戦と共に帝国も解体される。
  7. 実は15年間だけ天津に租界地を持っていた。帝国唯一の植民地

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