トーク:原爆ドーム
話題追加~広島原爆~
広島の原爆のエネルギーの強さは? 原爆による熱はとても熱く、爆心の下の地面では、温度がカ氏7,000度まで上がった。爆心から200m離れた銀行の入口の階段で、ある男の人が開店を座って待っていた。その石の階段の表面は膨大な熱で変化した。男の人が座っていた部分はそのままで残った。なぜなら彼の体が熱を吸収したからである。 爆心から半径500m以内の焼物の屋根瓦は熔け、ケイ素の粒子が含まれた灰色の石が白くなった。爆心から半径2km以内にいた人々の着ていた服は熱によって焼かれた。 爆風もとてつもなく強く、爆発によって非常に高い空気圧力が生成された。爆心の下の地上での風速は毎秒440mを記録した。これは強い台風の生む風の5倍の速さである。気圧は1平方cm当たり3.5kgを記録し、これは1平方m当たり35トンになる。 爆心から500mの地点では、風速毎秒280m、気圧 1平方cm当たり1.9kgだった。この範囲のコンクリート建造物のほとんどが完全に破壊された。 爆心から1.6kmの地点でさえ、風速毎秒86m、気圧 1平方cm当たり0.48kgであり、全てのレンガの建物は完全に破壊された。 放射能の影響は、爆心から半径100m以内では、ほとんどの人が数時間で亡くなった(たとえ直接熱線や爆風を受けていなくても)。半径300m以内では、ほとんどの人が爆発後30日以内に亡くなった。 (グラフhttp://www.pref.hiroshima.jp/hiroshima/bunka/html/img/others/gengraph.gif を使う) 爆発後100時間以内に爆心から半径800mに入った人々も、地上に残る放射線の影響を受けた。 最後に、原爆が直接の原因で亡くなったと推定される人の総数は、1945年の終りまでで 140,000人である。このグラフは、それぞれの年の終りまでに亡くなった被爆者の累計総数を示している(1945年の終りまでに亡くなった人の数は含まれていない)。 1946年から1951年の間、原爆による死者の数は60,000人と推定される。このまとめの最初の10年の間、被爆者の死者の数はほとんど変動がないので、原爆が直接の原因で亡くなった人の数は200,000人と推定される。 ~広島のに落ちたリトルボーイ~ リトルボートは、原爆のニックネーム。 投下後、約1分でリトルボーイは爆発地点に到達した。リトルボーイは午前8時15分、原爆ドームの上空580メートルに達した時爆発した。このリトルボーイは、原爆投下機B-29 エノラ・ゲイから投下された。
熱線の強さ
・爆心地 ・・・3000度~4000度に熱せられた。 ・1km ・・・瓦の表面に泡状の火ぶくれ、即死もしくはそれに近い状態で死亡 ・1.4km・・・瞬時着火、人体に致命的なやけど ・2km ・・・大火災発生、人体に3度のやけど ・2.5km・・・部分的火災、人体に2度のやけど ・3km ・・・木材や黒い衣類が焦げ、人体に1度のやけど
爆風の強さ
爆風のは、1秒後に約750m、10秒後には4km、30秒後に11kmに達し、消滅した。 爆心地あたり・・・1平方メートルに30トンの爆風圧が1秒前後かかった。 (通常爆弾の数ミリ秒に比べると、はるかに長い) ・0.8km・・・ほとんど全ての建物全壊 ・1.6km・・・軽構造ビルや木造住宅の全壊 ・2.8km・・・木造住宅の半壊 ・4.3km・・・建物に損害、ガラスが飛ぶ
明治43年 広島県が産業振興のため物産陳列館として建築を決定し、チェコの建築家ヤンレツルが設計。 核兵器廃絶・平和のシンボルとして世界遺産として1996年に登録された原爆ドーム。 戦後広島の廃虚に作られた平和公園の一角に立つ。 名前の由来となったドーム部は鉄骨を残し、建物全体は1階部分を残してほとんどが破壊されている。木製の壁や天井は焼け落ち、内部にはそれらの残骸が今も残されたままである。無残な姿をさらしたまま、1945年8月6日の惨劇を今に伝える。
原爆ドームは、かっては広島県産業奨励館と呼ばれ、大正時代に建設された。 ほぼ真上から爆風を受けたことで全壊は免れたが、不安定な状態で残った壁とむき出しのレンガは老朽化が進む。 広島市は過去2度の大規模な補修保存工事を実施している。 壁を何十本もの柱で支え、レンガや壁のひび割れには樹脂が注入されている。 また、レンガのひとつひとつの形状に至るまでの細かなデータが集められ、万一の事態に備えている。
原爆は、猛烈な爆風と熱線をもたらせた。 爆心地から周囲2kmの殆どの建物が破壊された。 そして、老若男女を問わず、多くの命を奪い、傷つけた。 その年に亡くなった人の数は、およそ14万人にのぼる。 さらにその放射線によって引き起こされた白血病やガンが無傷の人の体をも蝕み、その被害は今も続いている。 核兵器が無差別・残虐兵器であることを原爆ドームは物語る。
戦後まもなく原爆ドームを取り壊せ、という声があがった。 「あの日の記憶を呼び戻す」「未来を見据える広島に必要ない」解体論が強まる中で、若者たちが保存運動を始めた。 きっかけは白血病で亡くなった高校生・楮山ヒロ子さんの日記。 そこには原爆のことが時代の流と共に忘れられ、「原爆ドーム(産業奨励館)だけが恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」との思いがつづられていた。