バカ人物志/中国

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  • 一応、清朝滅亡までとしましょうか。辛亥革命以後の近代史をからめるとややこしいので。

独立項目[編集 | ソースを編集]

思想家伝[編集 | ソースを編集]

孔子[編集 | ソースを編集]

  1. 儒学の祖。礼楽の元締めとして多数の弟子を育てる。
    • とはいえ、出自は貧乏な武士の子で、国家儀礼にタッチする機会は無さそうだったし、ちゃんとした先生から礼楽を教わった形跡もない。孔子の教えた礼楽は、民間習俗を独学と想像で練り上げた、思いっきりオリジナルなものだった可能性が高い。
      • 礼楽を執り行うのは君主の専権事項にあたるからオリジナルであることはまず無い。それに論語の中で数々の師事する場面が有る。
    • 弟子たちとの会話などをまとめたのが『論語』。
      • 礼楽の書としてはともかく、世間智の書としてはなかなかよくできており、今でもファンが多い。
      • マックス・ヴェーバーには「インディアンの酋長のおしゃべり」と酷評されたが……
        • それを言ったらお前らの所だって、道行く人を取っ捕まえて問答を始めるハタ迷惑な人じゃないか…。
        • そもそも西洋人、ことに一神教の徒に東洋の思想が理解できるのか?インディアンへの差別意識も感じられるし。
      • 現代の高度な思想書が幾らでも世の中では素朴な議論だが、ほぼ東洋最古の思想書で、まさに思想が神話や原始宗教から離れて立ち現れる瞬間を記録した貴重な書物。
        • おおよそ紀元前6世紀から5世紀にかけて、古代ギリシャやインド、中国において後の世界史に多大な影響を及ぼす思想家が次々と生まれている。人類は古代文明が成熟したこの時期に思想に目覚めたと言えるだろう。
        • 論語に徳を北極星に例える話がある。一見なんてこと無い話に見えるが、ここに孔子の東洋で初めて真理をつかんだという確信と、他の人と一緒に回ることのできない孤独、あるいは一種の傲慢が込められていると思う。
  2. ちゃんとした諸侯に仕えて、自分の理想を実現してみたいと熱望していたが、結局誘いをかけてきたのは陽虎のようなヤバいヤツばっかり。
    • 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
      • リアリストの晏嬰は、孔子の言う空想的な礼楽を採り入れたらとんでもないことになると見抜いていたらしい。
        • 晏嬰と仕官の時期が逆だったら斉もどうなっていたことか・・・
    • 陽虎以外の誘いはのりのりなるのだがその度にいつもは道化役の子路に窘められるお茶目さんな所もある
  3. 魯の国の歴史書「魯国春秋」は孔子が編纂したと言われ、「春秋経」として大変な権威を持ったが、眉唾。
    • 魯の高官でも史官でもなんでもなかった孔子が、国家事業である歴史書編纂に携われたとは考えられない。
  4. こうして歴史に名を残しました・・・・
    • 行動力は子路に及ばず智恵は子貢に及ばず仁の獲得は顔回に及ばずだったが孔子は彼ら高弟に慕われていた。

荘子[編集 | ソースを編集]

  1. 老荘思想の第一人者。老子は実在がはっきりしていないので、荘子が祖と言っても良いかもしれない。
  2. 実存、実用などに関する荘子の考え方は、現代でも充分通用するものがあり、2500年近く前の人とはとても思えない。
    • しかも、文章は非常に読みやすく、ユーモアにあふれている。作家・エッセイストとしても超一流。
    • ちょくちょく文章の中に孔子やその弟子たちを登場させてはおちょくりまくっているのが笑える。
  3. 恵子という論敵が居たが、荘子の文章を読む限り、論敵と言っても飲み仲間みたいな感じ。しょっちゅう悪口を言い合う仲良しさんだったのだろう。
  4. そうして歴史に名を残しました・・・・
    • 残念。「荘子」の読みは「そうじ」な。孔子の弟子の「曾子」と区別するために濁らせるのが通例。
      • そ、そうだったのか・・・勉強不足でした orz

墨子[編集 | ソースを編集]

  1. 絶対平和主義の専守防衛主義者。
    • しかし、決して非戦論者ではない。防衛のための兵器の開発に力を注ぎ、攻められている国へ出かけて行っては侵略者を撃退しまくっていた。
    • MD兵器にさえ猛反対するどこかの党首にもぜひ見習って欲しい。
  2. 墨子が防衛にあたった城は必ず守り抜けたので、人々は彼の鉄壁の守備を「墨守」と呼んで讃えた。
    • 「墨守」という言葉が、だんだん「融通の利かない」「旧態依然」というような悪い意味になって行ったのは残念。

孟子[編集 | ソースを編集]

  1. 儒家では孔子に次ぐ巨人。「亜聖」と呼ばれる。
    • 「パッとサイデリア~♪」という歌を作った人ではない。
  2. 母親が有名な教育ママ。
    • 息子がろくでもない遊びばかりしているので、3度も引っ越しをした。
      • 墓場の近くではお葬式ごっこをして、市場の近くではお店屋さんごっこをして、学問所の近くでは勉強ごっこをしたから3度目でやっと落ち着いた。
        • 典型的な子供を駄目にする母親の例。何故なら儒家で大事なお葬式の儀式を悪い事だと決めつけて引っ越すなんて孟子の将来どうするつもりなんだ?
    • 息子が勉強をやめて帰ってきたときは、自分が作っていた途中の布を破いて「おまえはこんなことをしたんだよ、わかってるの!?」って叱った。
  3. 斉の臨淄で諸子百家の一員となるが、ひときわ態度がでかかった。
    • 他の学者たちなど眼中になく、王様が自分だけを特別扱いしてくれないってんでヘソを曲げ、臨淄を出てしまう。
    • 国境を越えるまで、王様が慰留の使者をよこすのではないかと後方を気にしており、弟子にからかわれる。もちろん、使者など来なかった。
  4. すごい人だから歴史に名が残ったともうしております・・・

荀子[編集 | ソースを編集]

  1. 戦国末期の儒者。
  2. 儒者ではあったが、孔子の思想の枠にとらわれず、さまざまな学派を吸収して比較検討し、自らの思想体系を作り上げた。一種の百科全書派と言える。
    • ただし、そのために儒学の狭い立場から見ると、夾雑物が多くて不純とも思われ、後世儒学のひとり勝ちになってからはあまり重んじられなくなった。
    • 法家に分類される韓非子や李斯が荀子の弟子だったことから見ても、彼の学問の広範囲さがわかる。
  3. 孟子の性善説を批判して性悪説を唱えたという点で、悪役みたいに思われることがあるが、実は言っていることはさほど変わらない。
  4. 先秦時代の儒者としては珍しく、招かれてある町を治めたことがある。
    • なかなか評判が良かったらしい。行政の実地を知っていたからこそ、それまでの儒家の枠にとらわれない自由な発想ができたのだろう。

韓非子[編集 | ソースを編集]

  1. 韓の国の王族だったらしい。法家の第一人者。
    • 「韓非子」を読むと、意外と道家のような文章が含まれている。これを韓非子の作とみるか、後世の偽作とするか、仮に偽作でも法家の思想のエッセンスがそこに含まれているとするかで解釈が変わる。
      • 法家というのはぶっちゃけ「聖天子の徳治(つまり人力)に頼らなくても社会が破綻無く運営できる方法」を考える思想なので、「人力など大したものではない」と考える老荘思想とは案外相性が良い。むしろ社会科学化された老荘思想と言っても良いくらいで、老荘的な部分は少なくとも韓非子の本意に逆らうものではないと思われる。
  2. 秦王・政(のちの始皇帝)が彼の著作の一部を読み、「この著者に会えたら死んでもいい!」と叫んだとか。
    • 韓に兵を出し、講和の使節に韓非子を指名するというまわりくどい手段を用いて招聘。
    • 政は喜び勇んで韓非子の講義を受ける。韓非子の教えは、のちの帝国の思想的バックボーンとなる。
      • ただし、韓非子の厳密な法家思想では、王もまた法の下にあるものとしていたようだ。政はこの部分だけは断固拒否し、そのために体系に歪みが生じて、秦帝国を短命なものにしてしまったように思われる。
    • 政は韓非子が他の国に利用されるのを怖れ、この恩師を殺してしまった。
      • 政の側近で、韓非子と同門だった李斯が、自分の地位を脅かされるのを怖れて讒言し殺させた、というのが定説になっているが、疑わしい。やはり政が自分の意思で殺したと見るべきだろう。
  3. 極度のどもり症だったらしい。
    • それだから余計、著作に熱がこもっていたのかもしれない。

叔孫通[編集 | ソースを編集]

  1. 漢の高祖に仕えた儒者。
  2. 儒者嫌いの高祖をうまく言いくるめて、儒礼による儀式を確立。その後の中華帝国の儀式の原型を作った。
    • 高祖自身も行儀の悪い男だったが、家来たちのガラの悪さに辟易していたところ、叔孫通が「儀式を作りましょう」と申し出た。
    • 「まあやってみるといいや。でも俺にできる程度のにしてくれよ」と高祖に言われ、叔孫通は本来の儒礼をかなり簡略化した儀式をプログラミングした。
    • いよいよ儀式の日が来ると、あの乱暴者たちが一糸乱れぬ厳粛さで整列し、神妙な顔つきでうなだれているのを見て、高祖は驚愕。「俺は今日はじめて皇帝がどんだけ偉いかわかったよ」と述懐。儒者の使い道を納得したらしい。
  3. 一般には、権力者に迎合した日和見主義者と思われているが、彼が居なければ儒教は始皇帝の焚書坑儒で衰えたまま消えて行ったに違いない。少なくとも後世の儒者は叔孫通に感謝すべき。

朱熹[編集 | ソースを編集]

  1. 南宋時代の儒者。朱子学の祖。
  2. いま儒教と考えられている思想体系は大体この人が構築した。
    • 国土の北半分を女真族の金に押さえられている時代の思想家だけに、異民族に対する敵愾心が強く表れた思想。ぶっちゃけていえば漢族至上主義。
    • それまでは比較的グローバルな思想であった儒学を、ナショナリスティックな狭隘なものにした影響は大きい。しかし、それだけに思想体系としては精緻になっている。
      • そのため後世の朱子学者は、朱子をただ祖述するだけの存在。余りに朱子学が精緻なため、もし自分なりの解釈を少しでも入れようとすると、結局他の部分も手直しを加えざるをえず、別の思想に変質してしまうため。
  3. 万物の根源は「理」と「気」であるとする。このように、儒教を一種の宇宙理論化したあたりが斬新ではある。
  4. 当初は偽学として弾圧されたが、漢族至上主義を採る朱子学はもともと漢族にとって心地よいものではあり、ほどなく解禁され、しかも国学となった。
    • 朱子学びいきの南宋第5代皇帝には「理宗」という宗廟名が贈られている。いうまでもなく万物の根源の片一方。
  5. 朝鮮王朝は朱子学一本だった。その影響が今なお残る韓国・北朝鮮と日本がこれほどまでに仲良くなれない諸悪の根源。

王陽明[編集 | ソースを編集]

  1. 時代の儒者。陽明学の祖。
  2. 青白きインテリではなく、武将として叛乱軍討伐で功績を挙げたりもした行動派。
    • そのため、陽明学では言行一致(知行合一)を重んじる。
    • すでに国学として権威を持っていた朱子学をやんわり批判したりもしている。当時としては甚だ危険なこと。
  3. 中国より、江戸時代後期の日本で人気があった。
    • 大塩平八郎など、陽明学を学んで過激な行動に出た人も多い。幕末志士の多くも陽明学の信奉者だった。

康有為[編集 | ソースを編集]

  1. 末の儒者。
  2. 西太后の権勢に反対しつつ、立憲君主制を唱えたので、開明的な人物と思われがちだが、実は思想的にはガチガチの保守反動。
    • 極端な孔子絶対主義を唱えた。
      • それまでは、孔子以前に「先王の教え」があり、特に周公旦が重視されていたが、康有為は「『先王の教え』も『周公旦の教え』も、全部孔子が作ったものだ」と主張。それらは孔子が古代に仮託して述べたのである、とのこと。
    • これによって「孔子神学」が完成されたと見る人も居る。が、間もなく「打倒孔家店」の運動が活発になって儒学そのものがはやらなくなった。掉尾の勇とはこのこと。

宦官伝[編集 | ソースを編集]

勃鞮[編集 | ソースを編集]

  1. 「閹楚」という名前も伝えられる。春秋時代の晋の国で献公・恵公・文公に仕えた宦官。
  2. 文公(重耳)をつけ狙う悪役として登場。
    • 若い愛妾にたぶらかされ、年長の息子たちを排除しようとした献公の命令で、次男だった重耳を暗殺しようとする。きわどく逃げて無事。
    • 恵公(献公の三男)も、兄貴が生きていると剣呑なので、勃鞮に重耳暗殺を指令。これにより重耳は中国全土を巡るような逃避行に出ざるを得なくなった。
    • たびたび暗殺を命じられているところを見ると、宦官のくせに武芸の達人だったと思われる。
  3. 重耳が帰国して文公になると、誰もが誅殺されるだろうと思ったが、恵公時代の重臣の叛乱の企てを密告して、あっさり許され、以後文公に仕えた。
    • さすがに最初は文公も勃鞮を殺そうとしたが、勃鞮は逆に文公を説教して認められた。
      • 時の君主の命令を忠実に果たそうとしただけだというのが勃鞮の言い分。今は文公が君主なのだから文公に誠心誠意仕えるということ。文公もなるほどと思った。
  4. 宦官なのに、何とも皮肉な名字だ。

嫪毐[編集 | ソースを編集]

  1. の始皇帝に仕えたが、実はニセ宦官。
    • 始皇帝のママはもともと文信侯・呂不韋の愛人だったのが、始皇帝のパパ荘襄王に望まれて王妃になった人。亭主が亡くなると元彼の呂不韋とよりを戻したがったが、太后と密通などというはめになるのを好まなかった呂不韋は、代わりの男を差し向ける。それが嫪毐。
    • ただし、普通の男では後宮に入れないので、名目だけ宦官ということにした。
  2. とにかくち*こがでかく、そのため太后にいたく寵愛される。
    • でかいだけではなく強靱だった。桐の車輪をち*こにはめて見事に廻したそうな。
    • 寵愛されたあげくに長信侯という爵位まで貰う。ち*こだけでそこまで栄達したヤツは空前絶後だろう。
      • 弓削道鏡「ここにいるぞ!」
      • ラスプーチン「ここにもいるぞ!!」
  3. 当然そのうち子供ができ、その子を王位に就けようとして始皇帝に謀反を起こしたが、事前にばれて処刑される。
    • 車裂きという極刑。
    • 嫪毐を太后にあてがったのが呂不韋だったこともばれ、呂不韋も失脚。
      • もっとも、始皇帝は何かと煙たい存在であった呂不韋を排除しようとしており、これ幸いと連座させたというのが実際のところだったらしい。

趙高[編集 | ソースを編集]

  1. の始皇帝・二世皇帝に仕えた。
  2. 始皇帝の歿後、遺勅を偽造して末子の胡亥を二世皇帝に擁立。
    • 遺勅では長子の扶蘇を指名していたという。だが、密室のことではあり、ホントのところはよくわからない。
  3. 二世皇帝を巧みにまるめこみ、絶大な権勢を獲得。
    • 悪だくみ仲間だった宰相の李斯もおとしいれて処刑。もう怖いものなし。
    • 陳勝呉広の乱にはじまる全国の叛乱も、徹底的な箝口令を敷いて二世皇帝には隠していた。
  4. 叛乱が手がつけられない状態になり、さすがに二世皇帝にも伝わりそうになると、それまでの悪行がばれるのを怖れて二世皇帝を殺害。
  5. 三世皇帝も擁立しようとしたが、当の本人(子嬰)がそもそも趙高の専横に憤っていたので、なかなか参内せず、しびれを切らした趙高が直接催促に来ると手ずから誅殺した。
  6. 「馬鹿」という言葉の由来になったという俗説がある。ある意味chakuwikiの恩人。

司馬遷[編集 | ソースを編集]

  1. の武帝に仕えた。
  2. 「史記」という歴史好きのバイブルみたいな書物を書いた。「史聖」と呼んでも過言ではない。
    • 書き始めたのはパパの司馬談だったが、忙しいパパに代わって各地を取材して歩き、パパの死後執筆を引き継いで完成させた。
      • なお、パパは武帝が「封禅」の儀式をおこなう際、当然史官である自分に諮問があるとばかり思っていたら、ひとことの相談も無かったので、気落ちして死んでしまったという。
    • この人の開発した「紀伝体」という歴史記述の方法は、その後の史書に踏襲された。ただし、「書」という歴史評論の部分は、ものすごい知識と知見が必要なため、後世の歴史家はびびって手を出さなかったという。
  3. もともとは宦官ではなかったが、宮刑というち*こを切り取る刑罰を受けて宦官になった。
    • 匈奴討伐に向かったが、力及ばず降伏した李陵を弁護したため。このころの武帝は人の言うことに聞く耳を持たなかったらしい。

蔡倫[編集 | ソースを編集]

  1. 後漢の明帝から安帝までの5代の皇帝に仕えた。
  2. 紙の発明者として知られていたが、類似のものがそれ以前からあったことが判明し、現在では紙の改良者ということにされている。
    • しかし、現代と基本的にほぼ同じ製法を確立したのが彼だったのは確か。それまでの類似物とは格段にクオリティが違ったので、わざわざ「蔡侯紙」と呼ばれたらしい。
  3. 和帝とその奥さんの鄧太后から深く信任され、宦官でありながら竜亭侯という爵位を貰う。
    • 後漢の後期になると、叙爵される宦官はやたらと増えたが、蔡倫はその嚆矢となった。そのため後代の宦官たちの憧れの的になった。
    • 彼の作った紙が「蔡侯紙」と呼ばれたのも、実際に「侯」だったから。
  4. 安帝の時の政変に巻き込まれて、自殺。
    • 宦官としてではなく、あくまで諸侯として自裁した。この辺の進退も、のちの宦官のうち硬骨の者たちの模範となった。

曹騰[編集 | ソースを編集]

  1. 後漢の順帝に仕えた。
  2. 三国志の英傑、曹操のお祖父ちゃん。
    • もちろん宦官なので本当の子孫は作れなかったが、一族の中から嵩という子供を選んで養子にした。この曹嵩が曹操のパパ。
      • 一説によれば、曹騰が宦官になる前に生まれた娘と、夏侯家から迎えた婿養子(曹嵩)とが結婚して生まれた子供が曹操。なので、曹操にしてみたら曹家と夏侯家が親戚という事になっている。
  3. 順帝の幼い頃からの学友で、けっこう教養と節度を持っていた人だったらしい。
    • ただし子供(曹嵩)には甘かった。官職に就けるために一億銭という大金をはたいた。

蹇碩[編集 | ソースを編集]

  1. 後漢の桓帝・霊帝に仕えた。
  2. 三国志物語の最初のほうで登場するので、名前はよく知られているが、何をした人なのかはあんまり知られていない。
    • 叔父さんが夜間外出禁止令を無視し、取り締まりにあたっていた曹操に捕まって叩き殺された話が有名だったりする。
  3. 霊帝の遺勅を奉じて、劉協(献帝)を立てようとし、少帝劉辨の後ろ盾となっている大将軍・何進を排斥しようとするが、失敗して殺された。
  4. 宦官にしてはガタイがよかったようで、それを買われて霊帝期には皇帝直属の部隊・西園八校尉の筆頭を務めたりもしている。

張譲[編集 | ソースを編集]

  1. 後漢の桓帝・霊帝に仕えた。
  2. 蹇碩の遺志を継ぎ、大将軍・何進の謀殺には成功したが、直後に起こった袁紹による宦官皆殺しの騒ぎに遭遇。かろうじて少帝と陳留王(献帝)を伴って脱出したが、追っ手がかかって川に飛び込み自殺した。
  3. 張譲の自殺で、後漢王朝を揺るがした宦官の系譜は終わり、武力の時代となる。

黄皓[編集 | ソースを編集]

  1. 蜀の後主(劉禅)に仕えた。
  2. 三国志演義の最後近くに、劉禅に取り入って姜維を讒言する悪役として登場。
    • 姜維が劉禅に嫌われ、あげくに蜀の滅亡を招いたのはコイツのせいだと言わんばかりの書かれ方だが、姜維はもともと、大して実効のない軍事行動を連年繰り返して蜀の財政を壊滅的に悪化させた将軍なので、嫌われたのは別に讒言のせいではない。
    • その点を差し引くと、何をしたのかさっぱりわからない宦官ではある。実在したのかどうかも微妙。
      • 具体的な悪政記録は残っていないので、実在したとしても言われているような悪人だったかは疑わしい。

高力士[編集 | ソースを編集]

  1. の玄宗に仕えた。
  2. 玄宗の生涯すべてに寄り添って生きた「忠臣」。もっとも「良臣」であったかどうかは微妙。
    • 韋后や太平公主を討つ時には玄宗の参謀役になって活躍。
    • 宰相李林甫と結託するが、玄宗のためにならぬと見るやたちまち見捨てて、楊国忠による追い落としに協力。
    • 楊貴妃を寿王(玄宗の息子)の後宮から召し上げる時にも知恵をしぼった。
    • その楊貴妃に馬嵬の変で引導を渡したのも高力士。
    • 安禄山を玄宗に近づけたのも高力士。
    • 要するに玄宗の成功にも失敗にもすべて高力士が関わっていると言って良い。
      • と言って、玄宗に常に唯々諾々と従っていたわけでもない。時には諫めたりもしている。むしろ玄宗に代わって決断していたような観もある。玄宗も時々、自分の意志だか高力士の意志だかわからなくなっていたのかも。
  3. 最晩年は玄宗と引き離されて流罪になるが、間もなく玄宗は崩御。恩赦で長安に戻りつつあった高力士は、途上で悲報を聞くやいなや血を吐いて死んでしまった。
    • もうほとんど玄宗と一心同体みたいなもので、引き離されるとふたりとも生きていけなかったのかもしれない。
  4. 実は少年時代、「金剛」という別の宦官とセットで武則天に献上された。二人合わせて「金剛力士」(金剛のその後は不明)

童貫[編集 | ソースを編集]

  1. 北宋の徽宗に仕えた。
  2. 宰相・蔡京と組んで権勢を誇った。「水滸伝」の悪役。
    • 実際は、風流人だった徽宗の趣味生活にかかる費用を捻出するために、四苦八苦して財源をあさっていたようだ。その意味では、徽宗にはどこまでも忠誠を尽くしたとも言える。
  3. 評判が悪くなってきたので、金と結んで宿敵の遼を征伐しようとする。
    • ところが、兵を集めたところで方臘の乱が勃発、せっかく集めた兵は遼を攻めるのではなく内乱の鎮圧に使わざるを得なくなってしまった。
      • 方臘にとっても、わざわざ大軍が調ったタイミングで乱を起こしたのは不運としか。
    • 方臘の乱をもたもた鎮圧しているあいだに、金軍は単独で快進撃を重ねて、遼を亡国寸前に追いつめる。
    • ようやく乱を収めて遼に向かった北宋軍だったが、敗残の遼軍にすらかなわず蹴散らされる。
  4. 童貞と字が似ているので注意。まあ間違ってはいないが。

鄭和[編集 | ソースを編集]

  1. 大航海時代に先駆けて大航海を行った、「海の男」ならぬ「海の宦官」。
    • 艦隊司令としてインド洋を7回も往復した。
    • この時の船は、のちのヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスの乗った船などおもちゃのように見えるほどの巨艦だったそうな。
    • 宦官の中では、例外的にかっこいいイメージで語られる。
  2. の永楽帝に仕えた。
  3. もともとは中央アジアあたりの少数民族の出身だったらしく、少年時代に捕虜になって去勢された悲運の人。
    • しかし美貌で頭が良く、志操もさわやかだったので永楽帝に寵愛される。
  4. 何度も航海に出たのは、行方不明の建文帝を捜索するという裏の目的があったからとも言われている。
    • 永楽帝は甥の建文帝から簒奪して帝位に就いたので、建文帝に生きていられると非常にヤバい立場だった。
  5. 14世紀という時期の人物としては、民族や宗教に関する偏見がきわめて少なく、温和だが威風もあり、海の男たちに大いに慕われたという、とてもできた人だったらしい。
  6. イスラム系民族だったといわれている。イスラム系民族はかつて元によく用いられていたため、漢族に恨まれていており、鄭和の死後に彼の業績はかなり消されたらしい。そのせいで西洋人から『14世紀に中国人が世界一周?捏造乙』と言われ続けてきた。

王振[編集 | ソースを編集]

  1. の英宗に仕えた。
  2. もともとは英宗の教育係だった。その結果英宗に対する影響力が相当に強く、立場を利用して大いに私腹を肥やした。
  3. 評判が悪くなってきたので、北元の征伐を企む。外征によって自分への風当たりを逸らそうという私利私欲。
    • このときも英宗を動かし、皇帝親征ということにした。それなら士気が上がって、まさか負けはしないだろうと思ったらしい。
    • 行軍途中に自分の領地があったので、迂回させる。行軍によって農地が踏み荒らされないようにしたかったのだろうが、とことん自分本位。
    • 北元のエセンとの戦いは、英宗の親征にもかかわらずボロ負け。英宗は野戦で捕虜になるという、中華皇帝の中で唯一と言って良い大恥をかく。
    • 王振は捕虜になった英宗を見捨てて逃げ出すが、さすがに北京に帰り着いたところを逮捕され、誅殺される。
      • 英宗を見捨てた瞬間に、自分の権勢の源泉そのものが無くなったことに気づかなかったようだ。

張敏[編集 | ソースを編集]

  1. の成化帝に仕えた。
  2. 成化帝から、世継ぎが生まれないことを愚痴られ、ひと肌脱ぐことにする。
    • 実は成化帝の愛妾である萬貴妃が、後宮の女が妊娠するたびに堕胎させていた。自分が成化帝の世継ぎを産めなかったので、他の女に産ませてなるものかと思ったらしい。後宮の宦官たちはみんな知っていたが、萬貴妃の権勢を恐れて見て見ぬふりをしていた。
    • おりしも紀妃という側室が妊娠したので、張敏は萬貴妃に逆らって紀妃に出産させることに。大変な偽装工作をおこなって萬貴妃の眼をごまかし、紀妃を後宮から出して民間で出産させた。これが明朝中興の祖と呼ばれた弘治帝。
  3. ふたたび成化帝から愚痴られた張敏は、「陛下にはれっきとしたお世継ぎがいらっしゃいます」とささやく。
    • 萬貴妃の眼を盗んで父子対面を果たさせ、正式に皇太子として認知して貰う。つまり張敏は弘治帝の生命の恩人であると共に、明朝の中絶を防いだ殊勲者だったと言える。
  4. 立太子の儀が済むと、張敏自身は萬貴妃を欺いた罪をかぶって自殺。
    • 宦官の害が多かった明朝にあっては、珍しいほど志操のさわやかな宦官であった。

魏忠賢[編集 | ソースを編集]

  1. の天啓帝に仕えた。
  2. 暗愚な天啓帝を祭り上げておいて、好き勝手やってのけた最大のワル。
    • ワイロ取り放題。
    • 批判者殺し放題。
    • 全国に自分を祀る祠を建てさせる。
    • 百官に「九千九百歳!」と呼ばせる。「万歳」は皇帝のことなので、これはいわば「準皇帝」。
  3. 天啓帝が早死にして弟の崇禎帝が即位すると、あっさり誅殺される。
  4. 悪いヤツだったが、養子をとって財産領地を継がせるという、後漢の宦官みたいなことはしなかった。

商人伝[編集 | ソースを編集]

徐福[編集 | ソースを編集]

  1. 日本に帰化する中国商人第一号。
    • 但し歴史書に残っている限りではとの注意書き付き。
  2. 豚まん求めて東シナ海を横断。
    • 何故か、紀州へ上陸。豚まんは大阪でっせ。
      • 豚まんはあるかどうかはさておき、肥前国説もある。
    • 一説では不老不死を求めていたとか。

芸術家伝[編集 | ソースを編集]

王義之[編集 | ソースを編集]

  1. 書聖
  2. 真筆がない。
    • 作品が失われて名だけ残ってるのは、空しさを感じる。
    • 残っているのは精密なコピーばかり。

李白[編集 | ソースを編集]

  1. 古今中国における詩人の頂点。
  2. 隴西あたりで生まれて、蜀で育つ。
    • あちこち放浪してる。
  3. 仙人になりたい。
  4. 酔っ払い。
    • 酔った李白は水面の月を捉えようとして溺死した。
      • 最期まで詩人らしい。

夏珪[編集 | ソースを編集]

  1. 「辺角の景」で知られる画家。
    • 速筆。
    • この人が描く岩はすごく硬そう。
  2. 南宋の首都・杭州で生まれた都会っ子。
  3. 雪舟にも影響を与えた。
    • そのせいもあってか、日本でも幾つか作品が見られる。