バカ人物志/日本

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  • 大正期までの人物ということにいたします。

独立項目[編集 | ソースを編集]

豪族伝[編集 | ソースを編集]

武内宿禰[編集 | ソースを編集]

  1. 一円札の人。
    • 今も法的に有効な紙幣。1円玉代わりに使える。
      • 古物商に売っ払った方が得だけど。
  2. 第一の臣にして有力諸氏の祖。
    • 蘇我氏、紀氏、葛城氏などなど。
  3. 超長寿。
    • 各天皇の在位年数が盛られてるのを計算に入れても、5代仕えてるのは異常。
      • 完全フィクションの伝説か、代々の「武内氏」の事績をくっつけたかだろう。
    • 歴史書によると没年齢は280歳以上。
      • どっか行っただけで生きてる説もある。
    • なぜか鳥取で死んだことになってる。
      • 出典が「因幡国風土記」なので、地元に箔をつけるための嘘かもしれない。

大伴狭手彦[編集 | ソースを編集]

  1. 佐用姫の恋人。
    • 佐用姫は石になったけど、狭手彦はその後も元気に仕事してた。
      • 出発時に別れた娘が帰国したら石になってるって相当ビビるわ。
  2. 朝鮮半島で大活躍。
    • 佐用姫に会って別れたのも百済援助の遠征のため。
    • 562年には高句麗にも勝利と日本書紀にはある。
      • この562年というのは伽耶が新羅に征服された年。
        • 本当は伽耶救援に行って新羅に大敗したのでは?という疑いが出てくる。

蘇我蝦夷[編集 | ソースを編集]

  1. 馬子の子で、入鹿の父。
    • 略して馬鹿。
    • 父と子に挟まれ影が薄い。
  2. 入鹿が乙巳の変で殺されると自殺した。
    • なんで、こうもあっさり死んでしまうのか。
      • 頑張れば勝算なくもなかったと思うんだけど。

阿倍比羅夫[編集 | ソースを編集]

  1. 海を征く大将軍。
  2. 阿部氏のトップ。
    • ただ、本家筋ではなかったっぽい。
  3. 北海道に渡り粛慎と戦う。
  4. 白村江の戦いで兵站を担う。
    • このときの経験から筑紫大宰帥(九州全域の地方長官)になった。
  5. 「ひらお」ではない「ひらふ」です。
    • 当時の発音だとおそらく「ぴらぷ」。

貴族伝[編集 | ソースを編集]

紀貫之[編集 | ソースを編集]

  1. 平安版マツコ・デラックス。
    • さすがにはるな愛の域にまでは達していない。
    • 曰く、「男って日記を書くよねえ~。女の私も書くよねえ~」
  2. 今はなき、大阪高知特急フェリーの大阪行きに乗船して紀行文をかいた旅行作家。
    • 紀氏という、紀州の出の家柄なのに、赴任先は高知だったのでその帰りにちょちょいと書いたそうな。
    • この船に乗りながら住吉の神さんをボロカス言ってのけた。
  3. 「中垣こそあれ」という古文の文法でお馴染みのフレーズのオカマ。
    • あの書き方は、おっさん目線なのに、無理やり女気取って書いている。
    • 要は、隣人はろくに何もしてくらはれへんかったとボヤいてるだけ。
  4. 別にオカマで書いたわけではなく、かな文字=女文字なので「女っぽい書き方だけどそれがしっくりくるんだい!」といいたかったという説もある。
  5. 彼曰く、和歌はチート能力らしい。

北畠親房[編集 | ソースを編集]

  1. 新田さんでも勝てなかった尊氏に勝利。鎌倉から追い払う。
  2. 天皇親政を目指していた後醍醐天皇に対し、彼は公家政治を目指していたとか。同床異夢。
  3. お手紙大好き。内容は「お前ら武士は南朝に味方して当然だろうが」。
    • でもそのお手紙が日本の後世の歴史学に大きな影響を与えることになるとは、本人も思いもよらなかっただろう。
    • 南朝にすりよってくる連中は北朝追われて行き場がないようなのが多いので、警戒して当然ではある。

山科言継[編集 | ソースを編集]

  1. 戦国時代の公家。「信長の野望」にも出てくるので、この時代の公家の中では少しは有名か?
  2. この人の日記『言継卿記』は戦国時代の重要史料。
  3. 名前は「ことつぐ」ではなく「ときつぐ」。
    • 「いいつぐ」って読んじまった・・・。
  4. 貧乏だった当時の朝廷のために諸大名から金を集めた。
    • 金集めの基本的な方法は、大名のところに行く→飲み比べをして酔い潰す→言うことを聞かせる。
    • 本人も相当な酒好き。行った先で禁酒令が出ていたときは、「京に帰るまで酒は無しか。あーあ」と日記に書き残している。
  5. 都の貴人としての教養があり、酒に強く、なにより朝廷のために一生懸命だったので、諸大名もかなり好意的に接していた。

勧修寺晴豊[編集 | ソースを編集]

  1. 戦国時代の公家。藤原北家支流系の名家の出である。
  2. 最も一般化した名の読みは「かじゅうじ・はるとよ」だが、姓を「かんじゅじ」と読んだり名を「はれとよ」と読んだりしてもあながち間違いではない。
  3. 「武家伝奏」という役職にあり、武家と朝廷の取次役であった。その関係で戦国武将とも交流があった。
  4. この人が残した日記によって、織田信長の戦略観や本能寺の変の経緯を分析する研究に関し現代にも続く論争が生じた。
    • 特に天正10(1582)年4月25日付・5月4日付の部分は有名。いわゆる「三職推任論争」。
    • もっとも、敬語文法を多少知っていれば案外簡単に解決しそうな内容ではある。
      • 三職のどれかへの就任を仮に朝廷(晴豊)が持ちかけたものとした場合、晴豊が自分の言動に対して尊敬語を付ける構文になってしまうことが判明している。

菊亭晴季[編集 | ソースを編集]

  1. 秀吉のサポーター。
    • 足利義昭の養子になろうとして断られ、落ち込んでいた秀吉のもとへ、関白就任の話を持ってくる。
    • 「豊臣」姓の創設の時にも晴季が動いたらしい。
  2. 秀次が関白になると、先走って秀次に近づく。
    • 娘を嫁がせてしまう。おかげで秀次失脚に伴って晴季も失脚。

豊臣秀頼[編集 | ソースを編集]

  1. 実は内大臣や右大臣を経験している。
  2. 豊臣秀吉の子(?)
    • 石田三成の息子説とか大野治房の息子説とか、色々……
      • 大野治房ではなく大野治長の息子説も。淀殿と治長は乳兄妹。
  3. 家康のせいではあるが、畿内を中心に、色々な寺社を再建した文化財保護の立役者。
  4. モンスター・ペアレントのような淀殿とその仲間が居なければ、実は、摂河泉65万石の太守→どっか山陰あたりの大大名として生き残っていたかもしれないと言われている。それくらいには聡明な方だったらしい。
  5. そもそもこの人は、貴族なのか戦国武将なのか。
    • 内大臣や右大臣になったことを鑑みると貴族。でも、ぶっちゃけ、大坂の陣で徳川方相手に籠城戦をやった以外、戦の経験がないので戦国武将と言えない気もするが、豊臣秀吉の子供って考えると、貴族じゃない気もする。
      • 幕府は五摂家同様に公家として豊臣家を扱っている。朝廷も秀頼を摂家豊臣家の跡取として見ている。
  6. 細身の貴公子然としたイメージとは裏腹に、当時の平均身長158cmを優に超える約197cm、約161kgの巨漢だったという。家康もビビるわ、そりゃ。
    • 大河ドラマ「春日局」で渡辺徹演じていたが一番イメージに近いのか。
  7. 正室の千姫(徳川秀忠の長女)との間に子供はいなかったが、側室が何人かいて一男一女こさえているが、実はその下にさらに一男いるという説も。

岩倉具視[編集 | ソースを編集]

徳川家達[編集 | ソースを編集]

  1. 実は徳川家で唯一総理大臣になりかけた男。明治天皇陛下より組閣せよとの勅命まで出されていたらしい。
    • 実現していれば、船中八策で坂本龍馬が言っていたとされる、「政府トップは内府(内大臣徳川家)に」という意見が変わった形で実現していたとされていたのだろうか。
    • 組閣しなかった理由は家族会議で反対されたから。立法府のトップは経験済みなのに、行政府はいかんというのがイミフだわな。
  2. ケーキが嫌いだったらしい。甘ったるい色恋は好きだったようで……
    • 同性愛者だったらしい。
  3. 徳川宗家(本家)の16代目当主だが、当の本人は「徳川宗家の16代目当主」と言うよりも「明治以後の新しい徳川家の初代」という自負があったらしく、「自分は16代ではない」と公言していたらしい。
  4. 米国訪問時には日本のキング&プリンスとか言われたらしい。
    • 明治の頃まで、海外では天皇陛下=エンペラー、将軍家(徳川宗家)=キングという扱いだったらしい。

学者伝[編集 | ソースを編集]

菅原道真[編集 | ソースを編集]

  1. 学問の神様になった。
    • 「学問をしても成功しなかった」実例のような気がするので、受験生が詣るのは本当のところいかがなものか……
    • ともあれ学識のほどは凄かった。
      • 11歳の時に、平仄の完全な漢詩を作って周囲を驚かせた。
      • 渤海国の使者の接待をして、その詩才と語学力を賞賛された。
  2. 宇多天皇と藤原基経の間の紛争を首尾良くおさめて、宇多天皇に絶大な信頼を受ける。
    • 基経が死ぬと、その子・時平とリンクさせるように道真を取り立てる。
      • 藤原氏との縁が薄かった宇多天皇としては、藤原氏に対抗できる腹心の臣下が欲しかったのだろう。
    • 右大臣まで昇りつめる。非門閥出身者としては稀有なこと。
  3. 政治家としては、大したことはやってない。
    • 目立つのは遣唐使の廃止くらい。
    • 何かやろうとしても、まわりが藤原氏ばかりなので、ほとんど動きがとれなかったものと思われる。
      • 藤原氏の内部の対立をうまく利用すれば、かなりのことができたかも……と考えられるが、根っからの学者にそんな政治的策謀を期待しても無理である。
      • 学者や貴族とかから、恨み妬みをメチャクチャ買ってたらしく、色々と嫌がらせを受けてた。
        • そんなもんだから人間不信になっていたようで、本当に自分を理解してくれると感じた友人は3人しかおらず、その友人達もやがて失ってしまうのではないかと恐れていた。
    • 最近は政治家としても有能だったとする研究もある。
      • 家は代々官僚養成学校を営んでおり、現代で言えば東大法学部の学長のような立場。その人脈を活用し、政治改革を行おうとした。
      • 道真の時代に、税を人から土地にかける方法に切り替えはじめる。人とは違い、移動しない土地から徴収する事により安定した税収を得るだけでなく、後の封建体制へつながる極めて重要な改革と評価出来る。
        • 逆に言えば、税制を根本的に変えたことで朝廷支配体制の崩壊を招いたというふうにも言える。
  4. 醍醐天皇の廃立を図ったというかどで九州へ左遷され、そこで死ぬ。
    • 左遷は左遷だが、言われるほど悲惨な「流刑」であったかどうか疑問。
      • 道真が就かされた「大宰権帥」は九州総督代理(上役の「大宰帥」は遙任職なので現地には居ない)というべき役職で、やりようによっては莫大な財産の築ける、ものすごいうまみのある地位である。
    • 天皇廃立という「大逆罪」への刑としてはヌルすぎる。どうも全体が八百長臭い。
      • 「時平たちが何しろうざいんだよ。あんた、しばらく大宰府に行って風向きを見てたら?」と宇多上皇あたりに薦められた可能性もある。
    • 給料も貰えずボロ屋に押し込められていたというが、果たして?
      • 左遷される道中で何度も暗殺されかけた、という話もチラホラ。
    • 左遷されてる道中に立ち寄ったり休憩したとされる場所は、彼の死後に天満宮や天満神社として神聖化される。
    • 有名な「東風吹かば…」の歌も一般に想像されるよりもずっと軽い気持ちで詠んだという説もある。
  5. 死後、悪霊となって京都を恐怖のどん底に叩き込む。
    • 道真が九州に行ったまま死んでしまったりしたので、その後災厄があると、うしろめたい気分だった連中が、道真の怨霊のせいにしたのだろうが……
    • 鎮魂のために、北野天満宮が建立される。
    • 左遷されて死んだ後に怨霊、それも雷神として復活。
      • 彼の領地であった桑原には雷が落ちなかったといわれており、おまじないの言葉としてしられる「くわばら、くわばら」の由来にもなっている。
    • 死語すぐに息子は都へ呼び戻されている。しかも大学頭だから、菅原家的には十分な地位。
  6. 学問の神様として祟りを沈めることに。
  7. 分家の子孫の中には姓が菅原ではなく菅の一文字だけになったところもある。読み方も変わった。
    • 実は菅直人がその流れにある人。いわゆる「美作の菅家」。
  8. 出生地については、京都だとか、大和国の菅原(今の奈良県奈良市)、出雲国の菅原(今の島根県松江市)など、色々云われている。
    • 要するに「どこで生まれたかようわからん人」ってこと。
  9. 「生真面目な人」というイメージがあるが、実は人並みには遊んだりするし、女好きでもあった。
    • 美人舞妓が踊って乱れた姿を、髪・肌・汗・香・化粧・衣に至るまで細かく観察して、それを詩にしたためた超絶フェチおじさん。
  10. 越州国マニアで、ここの風景に惚れ込むあまり「一国丸ごと買い取ってしまいたい」と言ってたこともあった。
  11. 梅花好きだったことで知られるが、実は桜花や薔薇や菊も好きだったらしい。

慶滋保胤[編集 | ソースを編集]

  1. 日本史でも有数の難読人名。苗字も名前も難しい。
  2. 賀茂家の嫡子だった。にも関わらず家業を捨てて儒学者になる。
  3. 菅原道真の孫の弟子にして藤原道長に授戒あせた人物でもある。
    • どうでもいいけど菅原道真と藤原道長ってこうしてみると名前似てるなあ。
  4. 出家して仏門に入りはしたが、浄土教とか言う新興宗教に毒される。『日本往生極楽記』でのすさまじい浄土信仰はこの表れ。

藤原定家[編集 | ソースを編集]

  1. 名前は「さだいえ」でも「ていか」でもどっちでも良いらしい。
  2. 和歌の名手であり、様々な歌集や歌論がある。
    • あの百人一首の原型を作った人でもある。
  3. 日記「明月記」も名作。
    • 隕石とかオーロラについての記事も書かれていると天文学的にも重要な資料だったりする。
  4. 晩年には古典の研究もした。
    • 有名な古典の最古の自筆書が彼が書き写したものというのは、よくある話だったりする。
  5. 滅茶苦茶気性が激しく、他人の歌は褒めない、自作でも気に入ってないものはこんなもん褒めんなやと噛み付くような芸術至上主義。平安の海原雄山。

藤原惺窩[編集 | ソースを編集]

  1. 日本初の「プロの学者」。
    • 朝廷や大名家に仕官することなく、生涯民間に居て著述と後進育成に専念した。仕官もせず、僧になることもなかった学者は彼以前には見当たらない。
      • 家康に仕えた林羅山は彼の弟子。
        • この人のせいで惺窩の伝記では徳川家に都合が悪い部分が改竄されたり削除されたりしている。
  2. 現代の東大教授などに時々見られる、「脳内お花畑」な学者の元祖でもある。
    • 朝鮮の儒者・姜沆に向かって、
      「日本は戦に強いヤツばかりが威張っているんだお。徳のある者が上に立っている明国やあんたの国がめっさうらやましいお。わしゃこんな国さっさと出て行きたいお」と愚痴りまくった。
      • もちろん、明国の皇帝(当時は万暦帝)や朝鮮国王(当時は宣祖)にホントに徳があるかどうかをちゃんと検証した形跡はない。もっぱら古い書物だけからの知識。そのあたりが現代のサヨク学者とそっくりだったりする。
      • こういった事を鑑みるとトンデモ戦国大河「天地人」や「江 姫たちの戦国」に登場しなかったのは幸いに思える。前者はともかく後者では天下人秀吉をどうしようもない小悪党に描くのはもとより、過剰なまでに戦は嫌とアピールしまくっていたストーリーだけに。
        • もし「江」に出てきたらヒロインを過剰にヨイショしまくっていたのかもしれない。
    • 藤原惺窩→儒学、戦後の進歩的文化人→マルクス主義、という感じで外からやって来たものはとにかく優れているという幻想に捕らわれていた。
      • 実際のところは源氏物語を高く評価したり日本書紀を研究したりと日本の文化もかなり誇っていた。
      • 秀吉が朝鮮に出兵した頃には外交文書に明や朝鮮をボロカスに書こうとして交渉から外されたこともある。
        • 朝鮮は日本の寡兵に負ける臆病者の集まりで明は文武も知勇も道徳も失われた腐った国だとかなりの悪罵が草稿として現在まで伝わっている。
  3. 相当な戦争嫌いの源流は父の冷泉為純が赤松氏の軍勢に殺された経験。
    • 後に文禄・慶長の役による民衆の疲弊についても言及し秀吉を批判している。
      • ただし被害国の朝鮮が日本へ逆侵攻してくることについては「民を救うつもりなら白河の関まで行けるだろうがただの復讐なら対馬すら取れない」と述べている。
  4. 人生の少なからぬ部分を明国留学のために費やしたが結局実現しなかった。
    • 薩摩を介した密貿易路を利用し喜界島や琉球を経由して渡航しようとしていたという説もある。
    • 酒好きだったため薩摩では中国酒(白酒?)やワインをたしなんだらしい。
  5. 最近の研究によると17世紀初めにしてはやけに視野が広い人物だったという。
    • 日本、中国、インドの「三国」以外も包摂する「世界」という概念をかなり正確にとらえていた。
    • 学問の守備範囲も広くキリスト教関連の書物にすら目を通していたとか。

関孝和[編集 | ソースを編集]

  1. 日本史上最大の数学者。
    • ベルヌーイ数、エイトケンのΔ2乗加速法、微積分、行列式などを西洋数学とは全く無関係に発見している。しかもほぼ同時期か、むしろ先んじている。
    • 公平に見て、17世紀の世界三大数学者を選ぶとすればニュートン・ライプニッツと関孝和だったと言って良い。
  2. せっかくの数学的業績を、「関流」という和算流派の秘伝として非公開にしてしまったのが惜しまれる。
    • 本人の責任というより、たぶん弟子たちがやったことだろうけど。
      • 江戸時代の社会環境では遅かれ早かれそうならざるを得ない。西洋のように知識を広く共有すべきという考え方は、全く無いわけではないが薄い。それよりも自分の得た知識や技術を一門で独占した方が、ブランド力は上がるし、子孫も確実に飯が食える。
        • ちなみに西洋でも昔からそうだったわけではなく、数学については16世紀のジェロラモ・カルダーノ辺りが元祖。多分その方が儲かると考えたからだと思うが。
    • 公開されていたら、18世紀のオイラー、19世紀のガウスに匹敵する数学者も日本に生まれていたかも。残念。

平賀源内[編集 | ソースを編集]

  1. 本業は本草学者だが、発明はするわ、ユーモア小説や浄瑠璃台本は書くわ、油絵は描くわ、陶芸はするわ、イベント屋はするわ、鉱山開発はするわ、しかもそのどれもが結構な水準に達していたスーパーマルチ人間。一名「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」。
    • ただ、どれも一流半歩手前な感がある。どれか一つに専念していたら、超一流になれたのに・・・。
  2. 四国・高松藩の貧乏藩士の子として生まれる。
    • 高松では郷土の偉人として顕彰されているが、その高松の殿様(松平頼恭)に源内がパワハラを受けていたことには誰も触れない。
      • うんざりして致仕を申し出ると、他家仕官お構いにされ、どこまでも嫌がらせを受ける。おかげで一生浪人暮らし。
      • まあ、殿様としては、藩の予算で長崎だの大坂だのに留学させてやったのに、その成果をちっとも藩に還元しようとせず、江戸で田沼意次に見出されるやそっちに鞍替えしようとした源内に腹を立てるのも無理はなかったのだが。
      • 殿様自身もちょっとした本草学者だったので、余計に話がややこしくなったらしい。
  3. いろいろ発明。
    • エレキテル(起電機)を発明。当時なんの役に立ったのかは微妙。
      • 10代将軍徳川家治のオネショの治療に使われたという話も。効果あるのか?
      • 発明と言うより、オランダ製の機械を修理しただけという説もある。
    • 火浣布を発明。アスベストのことだが、これを繊維状にして織ったのがオリジナル。
    • 竹とんぼを発明。史上初のプロペラらしい。
  4. 作家としても一流。
    • 浄瑠璃で今でも有名なのは「神霊矢口渡」。他にも沢山書いている。
    • ユーモア小説「風流志道軒傳」は「ガリバー旅行記」の翻案らしい。
    • 「放屁論」という爆笑エッセイもある。
    • もちろん、学者としてちゃんとした論文も書いている。「物類品隲」など。
  5. 画家としては一流かどうか微妙だが、とにかく西洋画の技法は完全に身につけていた。
    • 「西洋婦人図」などが有名。
    • 秋田の洋画家・小田野直武は源内から西洋画を習った。
    • 浮世絵の進歩にも一役買っているらしい。たぶん絵の具の改良を試みたと思われる。
  6. 「平賀焼」「水無焼」などの陶芸品も作っている。
    • 最近は「源内焼」と呼ばれることが多い。デザインを一言で言えば「文人趣味を取り入れた黄瀬戸・織部焼」かな。
      • どちらも華南三彩を元ネタにしているため、色合いが似ている。
  7. イベント企画力も凄腕。
    • 三井をスポンサーにして博覧会を開催。
      • 海外からの輸入品を国産品でまかない、外貨の流出を防ごうという意図があったという。
    • 「土用の丑の日にウナギを食べる」というのは源内のキャッチコピーで普及した習俗。
      • 「夏場の暑い時には、ウナギみたいな脂っこいものが全然売れないんです。源内先生なんとかなりませんか」とウナギ屋に泣きつかれて考案したらしい。
      • 実際のところ、このエピソードの初出は不明で、信頼性に乏しい。「土用のウナギ」の起こりには他にも諸説ある。
        • 蜀山人説は比較的知られている。
  8. 鉱山開発のほうはあまりうまく行かなかったが、秋田藩に招かれて阿仁鉱山の再生に力を尽くしている。
    • 田沼意次をスポンサーに、北海道あたりでもっと大がかりな鉱山開発をもくろんでいたという話も。
  9. 最後は殺人罪で逮捕され、獄中で死ぬ。
    • 誰を殺したのか、なぜ殺したのかもはっきりしていない。殺す気はなかったのに間違えて殺したとも、誤解がもとで殺したとも、乱心して殺したとも言われる。
      • 男色の痴情のもつれという古代ギリシャさながらの説もある。
    • 杉田玄白が墓碑銘を書いた。「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」
  10. 出張なんでも鑑定団でおなじみ。
  11. 1971年のNHKテレビの連続時代劇「天下御免」の最終回では、気球に乗って、フランス革命下のフランスに脱出したことになっている。

田中久重[編集 | ソースを編集]

学者というか発明家だが、いい場所がないのでここで。

  1. 「弓曳童子」だの「文字書き人形」だのといった変態としか言いようがないレベルのからくり人形を作った発明家。
  2. その究極がゼンマイと歯車の仕掛けだけで太陰暦の時間の変動に対応した「万年自鳴鐘 」。なんとゼンマイを一度フルに巻けば一年動き続けるという意味の分からなさ。
  3. 明治に入って彼が創設した田中製造所が後の東芝の前身となる。
  4. 日本初の鉄道模型を作った。

南方熊楠[編集 | ソースを編集]

  1. 粘菌の研究で有名。
    • 監獄でも新種を発見した実績がある。
  2. 民俗学の研究でも有名。
  3. 寺社林の保護の観点から神社の合祀に反対した。日本における環境保護の先駆けみたいな人。
  4. いつでもどこでも反吐をはけたらしい。反芻動物。
    • で、その反吐に繁殖した菌を観察していたらしい。
  5. 大ボラふき、大風呂敷を広げる人。
    • 曰く、外国語はその言語で書かれた本と日本語で書かれた本を一冊読み比べれば習得できる、らしい。
  6. オヤジの遺産の相続で実弟と大げんか。弟にすればこっちは真面目に商売しているのに、仕事もせんと意味のわからん好き勝手ばっかしてる兄貴に金はやれんかったんかな。
  7. 昭和天皇に進講を行い、粘菌の標本をキャラメルの箱に入れて献上した。
    • 昭和天皇も相当印象に残ったらしく、後に熊楠の名前を織り込んだ和歌を残している。
  8. 肖像画は西村和彦に激似だ。
  9. 大英図書館で乱闘を起こしたこともある。しかも2回。
  10. 異常な記憶力の持ち主で新婚初夜の夫婦の会話も完全に覚えていたという逸話がある。
  11. 水木しげるが描いたこの人の伝記漫画を読んでいるともはや妖怪にしか見えない。

商人伝[編集 | ソースを編集]

ルソン助左衛門[編集 | ソースを編集]

  1. ルソンから茶壺を輸入して財をなす。
    • が、実はその壺は現地では糞壺として使われていたものだったとか。
      • で、それが豊臣秀吉にバレたのか、嫌われて没落。
  2. 本名は納屋助左衛門。
  3. 大河ドラマの主人公になったこともある。

鴻池新六[編集 | ソースを編集]

  1. 尼子十勇士の筆頭・山中鹿介の遺児。
    • 上月城が落ちて父が囚われ、のちに毛利に斬られたのち、武士として生きるのをやめ、商人に。
  2. 清酒を発明した。
    • うっかり酒樽の中に灰を落としてしまったところ、酒の濁りがすっきり取れて、見事な無色透明になっていたという。
      • 伊丹の人に、なんかでしくじって怒られた丁稚か手代か番頭やったが、逆ギレして灰を投げ込んだとかいう話を聞かされたことがあるけど、どっちが正しいんや?
    • つまり、信長の時代くらいまでの酒盛りシーンで透明な酒が出てきたら、そのドラマは考証不足ということになります。
      • 半透明くらいな「澄んだ酒」はそれ以前にもあったようだが。
  3. 鴻池財閥の基礎を築く。つまり三菱UFJ銀行の祖。
    • 三和は3行対等合併やから1/3は鴻池の流れを組んでるし、UFJも実質三和による東海吸収やったから、そこまでやったらそうも言えたけど、糖蜜都の時は名実ともにUFJを吸収したもんやから、それはおかしいと思う。
    • 一時期は中規模(20万石前後)クラスの大名家ですら鴻池を怒らせると家が終わると、ビビるほどの財力だったらしい。それだけ大名貸が多かった。なので、明治維新で不渡りでまくって明治の頃は財務がきつかったらしい。
  4. 上方落語に頻出。

茶屋四郎次郎[編集 | ソースを編集]

  1. 徳川家康の御用商人。
  2. 活躍が目立つのは伊賀越えから。
    • 家康に本能寺の変をいち早く知らせた。
    • 危険な伊賀越えの道を、カネをばらまくことで安全に通過。以後家康から絶大な信頼を得る。
  3. 3代にわたって家康に寵愛されるが、3代目四郎次郎が奨めたタイの天ぷらに当たって家康死亡。
    • その責任を問われたわけではなかったが、秀忠以降の将軍からはさほど優遇もされず、そのうちなんとなく没落してしまった。
    • 家康の死因は実は胃癌だったとの説も。タイの天ぷらを食べてから死ぬまで3カ月近くもかかっている。

住友政友[編集 | ソースを編集]

  1. 影武者が何人も居て、誰が本当の政友かは一般には不明。
    • どうも、本屋さんだったらしいが、一説では両替商・金貸しであるとの噂もあり真偽は不明。

紀伊国屋文左衛門[編集 | ソースを編集]

  1. 通称「紀文」。
    • でもかまぼこ屋の紀文とは直接の関係はない。
    • 書店チェーンの紀伊国屋とも関係はない。
      • 高級スーパーの紀ノ国屋とも関係ない。
    • 「紀文お大尽」とかとも。
  2. ミカンを江戸に運んで大儲け。
    • 紀州で大豊作だったので上方では大暴落、一方江戸では「ふいご祭」にミカンが必要なのに荒天で船が着かず大高騰。文左衛門は嵐の中頑張って船を出し、ただ同然の上方からミカンを輸送し、その利ざやで一躍お大尽となる。
    • その後、鮭を上方まで運んでこれまた大儲け。
  3. 調子に乗って貨幣鋳造まで請け負うが、粗悪品を作って信用を落とし、没落。
    • まあ実際は、元禄時代の右肩上がり経済が、一転してマイナス成長になってしまったため、それまでの拡大戦略が頓挫し、方針転換に対応しきれなかったのが没落の原因と思われる。

淀屋辰五郎[編集 | ソースを編集]

  1. 罪を犯して資産没収。理由は贅沢したからというもの。罪状が主観的すぎる。
    • 実は資産没収されたのは17歳の時。もっとええ歳したおっさんのイメージが有ったので意外。
    • 淀屋が多くの大名に金を貸しまくっていたので、取り潰して大名の借金をチャラにしてしまおうというのが実際の目的だったとか。

三井高利[編集 | ソースを編集]

  1. 越後屋、お主も悪よのう」と呼ばれて返答するあの親爺。
  2. 東京を中心に全国展開するデパート経営者。
    • 伊勢松阪の出だが松阪には店舗はない。過去には地場のバス会社に代理出店させていたが、会社自体が潰れた。
  3. 両替商・金貸しもやっていたが、規模が小さく、他社と合併する時は、「救済、乙」とか言われる始末。

五代友厚[編集 | ソースを編集]

いきってません?
  1. 薩摩人のくせして、東京ではなく大阪に投資しまくった男。
    • 鹿児島と大阪に銅像があるが、そういう事もあって、建ててもらったのは地元鹿児島のほうが後。
      • 極めて個人的な感想だが、大阪の方のはきもちいきってはる様に見える。というか、あの斜めな感じがめっちゃいきってる気がする。えらいひとやからしゃあないけど。
  2. 何でもかんでも手広くやって、政商としても上手く立ちまわっていたが、自分の財閥は作れなかった情けないやつだったりする。
    • 長崎造船所や日本郵船を造るも岩崎さんの所に食われたり、神戸で港湾会社を造るも第一勧銀グループに食われたり、大阪商船を造るも井桁マークの商人に食われたりと、明治の政商の中では、そのへんが下手くそ。
      • しかも、大阪商船は越後屋に食われて商船三井となり、「大阪」の名前も消される始末。
  3. 大阪経済の中興の祖と言ってもいい様な人物だが、その辺の市民への浸透は今ひとつ。
    • 市大を創るも、そのあたりの功績は元大阪市長の関一のせいで隠れてしまうし、大証を作るも、世界初の先物取引だった堂島のデリバティブ取引の一部を後から継いだために、そっちも影が薄くなる。
      • だが朝ドラで重要人物として登場したおかげで関係者が「びっくりぽん」と口走りそうなくらい急激に知名度が上がった。
        • 今まで普通に日本史をかじっていると「開拓使官有物払い下げ事件で黒田清隆から官有物を安く払い下げようとした人」くらいにしか思われなかったのに...。
  4. ≒ディーン・フジオカ。

銭屋五兵衛[編集 | ソースを編集]

  1. 加賀百万石の御用商人。通称は銭五。
    • 地元の土産菓子に「銭五せんべい」がある。
  2. 日本海商圏を席巻した北前船を操る豪商だった。
  3. 国内のみならず、ロシア、アメリカなどと密かに取引し(いわゆる抜け荷)、財を築いた。
    • なかば藩公認だったという。黙認する代償に巨額のワイロがお城に渡っていたことは想像に難くない。
  4. 遠くタスマニアまで進出していたという噂もある。彼の地に「加州銭屋五兵衛領地」と書かれた石碑が発見されたという記事が明治時代の新聞に載った。
    • 地元の回覧板新聞によるネタ記事かと思いきや、読売新聞や当地の新聞にも載ったというから、あながち都市伝説でもなさそう。
  5. 藩の要請を受け、河北潟の干拓事業に乗り出したが、疑獄事件に巻き込まれて失脚。
    • 埋立の際に魚が大量死したのだが、毒を入れて湖面漁業を妨害して反対派を黙らせようとしたのだとされた。
    • 抜け荷が幕府にバレそうになって、連帯責任が及ぶことを恐れた加賀藩が仕組んだともいわれている。
    • 有明海の干拓騒動でもわかるように、土砂を入れて埋め立てただけでも環境が変わって魚が死ぬことはありがち。
    • 1982年には銭五の子孫と前田家の子孫が130年ぶりの和解を行った。
  6. 金沢市内に記念館がある。
  7. 五兵衛の獄死と銭屋の取り潰しがペリー来訪の2年前で開国直前。明治維新まで長らえていたら、その対外人脈・通商ルートの豊かさから、大財閥に成長していたのではないか。

陰陽師伝[編集 | ソースを編集]

賀茂保憲[編集 | ソースを編集]

  1. 安倍晴明の師匠的存在。
  2. 陰陽道のうち天文の部分を安倍晴明に伝授し、安倍晴明を陰陽道の世界でもっとも有名な人物にする一助となった。
  3. 陰陽道の柱となる天文学は安倍晴明に譲った一方、暦学は賀茂光栄(息子)に引き継いだ。
    • 暦学を安倍晴明に渡さず息子に伝授することで、中世、さらには近世に至るまで賀茂氏の権力を維持することができた。

安倍晴明[編集 | ソースを編集]

  1. 安倍晴明は陰陽師史上最強だろう。
  2. 安倍晴明は陰陽師になる前に職業が朝廷の雑用係だっだらしい。

蘆屋道満[編集 | ソースを編集]

  1. 安倍晴明のライバル的存在。
  2. 兵庫県出身。
  3. 平安時代の陰陽師の中で歴史に名を残した人の中では、官人でもなければ学者でもなく、また僧侶でもないという唯一の人。
    • Chakuwikiの内輪的整理の話で申し訳ないが、この人のネタを書きたかったけど、該当項目がないので、やむなく陰陽師伝なんてものを作ってしまった。正直、この人以外は学者or貴族or僧侶に分類できてしまう。

鬼一法眼[編集 | ソースを編集]

  1. 剣術の神。
    • 京八流の開祖。
  2. 源義経の師匠。
    • 鞍馬天狗とはこの人のこと、かもしれない。
  3. 法眼は僧侶の位の一つ。
    • 菩薩にそなわる諸法を見る目のことでもある。そういう含みもありそう。
  4. 義経記では非常に散々な目に合っている。
  5. 陰陽師要素はあんまりないけど陰陽師って言われてるので陰陽師。
    • 陰陽師じゃなくて園城寺の関係者だっていう話も。
      • そんなちゃんとした寺の関係者にしては、えらい胡散臭いけど。
  6. 一条堀川在住。
    • 住んでるとこは陰陽師っぽい雰囲気出てる。

旅行家・探検家伝[編集 | ソースを編集]

伊能忠敬[編集 | ソースを編集]

  1. 実は学者でも武士でもなく、商人だったというのは忘れ去られている。
    • そもそも出身もどこだったか知っている人が少ない。
      ところで、失礼ですがご出身はどちらですか?
    • というか学者や武士になったのはすごく晩年の話であって..。
  2. 打ち壊しを防ぐ方法が当時としては斬新だった。
    • 曰く「壊される前に農家に銭をばらまけ」と。確かに打ち壊されても与えるもんがなければ意味は無いが……

間宮林蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 樺太が島であることを発見した人。
    • 日本人で唯一、海峡の名前にその名を残した。
  2. 大日本沿海輿地全図の蝦夷・樺太・千島版はこの人が作った。
    • 測量技術は伊能忠敬の直伝だったそうな。
  3. 実は御庭番だった。
    • 御庭番時代に浜田藩に立ち寄り、竹島事件の摘発の端緒となる調査をしている。このとき竹島と呼んでいた島が=鬱陵島であったことを日本も韓国も確認する根拠になろうとは……

松浦武四郎[編集 | ソースを編集]

  1. 北海道の名付け親。
    • だからって雅号を北海道人なんかにしなくてもいいと思う。
  2. 三重・松阪の出身で、探検の鍛錬は大台ケ原でつんだらしい。
    • 大台ケ原には深い思い入れがあったらしく、墓も大台ケ原にある。
  3. 書斎として使っていた建物が、なぜかICUの物となっている。

近藤重蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 大日本恵登呂府の標柱を建てた人。
  2. 武家の出。
  3. 息子がやらかしたせいで、晩年は流罪になり、近江大溝藩にお預けとなった。
    • 息子がやったこと。町人6名と喧嘩して斬殺。ありがちといえばありがちだが……
    • 軟禁状態であったのに、『江州本草』という近江の植物図鑑を作ったりしている。

最上徳内[編集 | ソースを編集]

  1. 大日本恵登呂府の標柱を建てた人。

菅江真澄[編集 | ソースを編集]

  1. 東京の人だが、東北とか越後の風習なんかを記録した北越雪譜で知られる旅行家。
  2. 秋山郷とかに滞在したりもしたらしい。

関連項目[編集 | ソースを編集]