バ合戦誌
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独立項目[編集 | ソースを編集]
奈良時代以前[編集 | ソースを編集]
磐井の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:福岡県小郡市、三井郡
- 神代を除けば日本書紀に残る日本最古の反乱。全国の「いわい」さんは肩身が狭い?それとも胸を張る?
- 古事記には「竺紫君石井 不従天皇之命而(中略)殺石井也」とある。
丁未の変[編集 | ソースを編集]
壬申の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:滋賀県、奈良県、岐阜県、三重県
- 古代最大の内乱・皇位継承戦争。
- 大海人皇子側の準備周到ぶりにひきかえ、大友皇子側は不意を食らった形跡がありあり。
平安時代[編集 | ソースを編集]
前九年の役[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:岩手県、宮城県
- 本当は丸11年もかかったのに、なぜか九年と名付けられた。
- 安倍氏に味方した藤原経清、鈍刀で斬首される。痛かったろうな。。。
- そして息子の藤原清衡は雌伏の時を過ごす。、
後三年の役[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:岩手県、秋田県
- 源義家が鳥(雁)の列が乱れたのを見て、「あの下に伏兵がいる」と見破った話は有名だ。
- 金沢柵での兵糧攻めは我が国初と言われる。
- 藤原清衡が奥州六郡すべて手に入れた。奥州藤原氏の栄華が始まる。
保元の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:京都市など
- 後白河天皇と崇徳上皇の争い。結果、崇徳上皇は讃岐へ流され日本国の大魔縁となる。
- 藤原信西が死刑を350年ぶりに復活させた。
- 鎮西八郎為朝が伊豆大島へ流される。ところがいつの間にか支配者になってしまい、慌てて追討しにきた船を矢で撃沈する。
平治の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:京都市
- 発端は信西派・反信西派の争いなのだが、底流に後白河院政派と二条親政派、源平の対立が重なりグチャグチャとなる。
- 平清盛、源頼朝を助命する。この温情が日本史上最大の大逆転劇につながってしまう。
- 源義朝、逃亡中に首を洗っていたところ襲われ非業の死を遂げる。
源平合戦[編集 | ソースを編集]
- 下記の「八島」ほか、「敦盛」「清経」「船弁慶」など能の題材には事欠かない。
富士川の戦い[編集 | ソースを編集]
- 「戦い」なのか?
- だって、戦う前に平家軍逃げちゃってるし…
- 最大の勲功をあげたのは水鳥だな。
- でも感状はもらえないんだな。
- 最大の勲功をあげたのは水鳥だな。
- さしずめ「富士川のドッキリ対決」?
- だって、戦う前に平家軍逃げちゃってるし…
- この戦いにせよ、下記の倶利伽羅峠にせよ、平家10万人の軍勢と言われているけど、本当なのか?当時の人口や兵站じゃ無理ではと思うのだが
- たぶん文学上の誇張。そもそも数えてないからねえ。1/10掛ければいい方かと。
- 後世、この川が商用電源周波数の境となる。
倶利伽羅峠の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:小矢部市など
- 木曽義仲が「火牛の計」を使ったとされているが、怪しい。
- 本場中国の「火牛の計」は牛の角に刀を括りつけ、尻尾に火を付けて敵に突進させる策なのに、ここでは角にたいまつを括りつけたことになっている。
- それじゃ牛は暴れて敵に突っ込ませるどころじゃねえだろ、と後世の歴史家からツッコミが…
- 本場中国の「火牛の計」は牛の角に刀を括りつけ、尻尾に火を付けて敵に突進させる策なのに、ここでは角にたいまつを括りつけたことになっている。
- 追われた平家が落ちていった谷は地獄谷と呼ばれている。川が血で赤く染まったとか。
- ところで牛はその後どうなったんだろうか。
一ノ谷の戦い[編集 | ソースを編集]
- 鵯越の逆落とし。
- 義経曰く「鹿も四足、馬も四足。鹿が降りられて馬にできぬことがあろうか!」→ト連送。
- 畠山義忠は動物愛護法に基づき馬を背負って急降下。
- 実は鵯越と一ノ谷は結構遠い。
屋島の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:高松市
- 那須与一が扇の的を射て勝敗が決まった。
- なぜかこの直後に武者1名を射殺している。
- 射殺すよう命じたのは義経らしい。
- なぜかこの直後に武者1名を射殺している。
- この戦いで敗れた平氏は四国も失っていよいよ追い込まれた。
- 源義経があまりいい弓を使っていなかったことが判明。
- 平家物語に「源氏の大将がこんな貧相な弓を使っていると知られたら恥だ」という趣旨のセリフがある。
- 背が低いし膂力もそんなにでもなかったもんね。
- この合戦を題材にした能の題名はなぜか「八島」と表記される。
壇ノ浦の戦い[編集 | ソースを編集]
- 源平合戦最後の戦い。
- 敗れた平氏の主力は波の下の都へ逃亡。
- 一部は蟹に姿を変えた。
- オリオン座あたりのお星様もそうかも知れない。
- 残りの一部はホタルに、、はなっていない模様。
- 一部は蟹に姿を変えた。
- 草薙の剣水没。
- 水没した剣が本物か偽物かはおそらく永遠の謎。
- 伝承としては本体は神話時代から熱田神宮にあり、この時は宮中の形代が沈んだとなっている。
- ただ同時に勾玉(形代でなく本物!)も一緒だったのでえらいことになった・・・が箱ごと岸に流れ着いて回収された。
- 同時に若き安徳天皇も入水したことも忘れずに…
- なお鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』ではあまり細かく書かれていない。
- 義経が別の船へと飛び移ったことで有名。
- 実際は八艘も飛んでいないらしい。
鎌倉時代[編集 | ソースを編集]
元寇[編集 | ソースを編集]
- 神風。
- しかし現在では、歴史学だけではなく気象学の観点でも異論が出ている。
- 特に文永の役では大した風は吹かなかったというのが定説と化しつつある。
- ただし撤退途上で風雨に遭遇し被害を受けたことが「高麗史」に記載されている。
- そもそも弘安の役の台風では地元の畑や漁船にも大きな被害が出ていた。
- 「神仏の加護」などと騒いでいたのは遠く離れた京都や鎌倉のお偉いさんだけ。
- 21世紀に入ってからは教科書でも鎌倉武士の奮闘が元寇撃退の主要因と記載されている。
- 風が吹かなかったら歴史は変わっていた。
- 少なくとも昭和史は変わっていた。
- しかし現在では、歴史学だけではなく気象学の観点でも異論が出ている。
- 蒙古襲来ともいう。
- ただし高麗軍が参加していたのは周知の事実(某国のみ知らない、または知らないふりをしている)。
- 強制的に参加させられたのであまり思い出したくないというだけでは。
- 他でもない「高麗史」に、のちの忠烈王になる王太子が元に日本侵攻を進言したと記録されている。
- 当時の高麗は元による軍政が布かれ苦しめられていた。
- 南部では反元を掲げる三別抄というゲリラも活動していた。
- なお捕虜になった高麗人や漢民族にはその後日本に永住した者もいるという。
- 強制的に参加させられたのであまり思い出したくないというだけでは。
- ただし高麗軍が参加していたのは周知の事実(某国のみ知らない、または知らないふりをしている)。
- 何が主目的だったかは今でも諸説ある。
- 近年では交易網の拡大や火薬の原料となる硫黄の独占といったところが有力視されている。
- 御家人の竹崎季長が描かせた絵巻(宮内庁所蔵)が有名。
- ただし江戸時代に修復された際に一部が出鱈目なつなぎ方をされ嘘八百の奥書も追加されてしまったという。
- あの絵巻に描かれている馬は当時日本にいなかったという説もある。
- 実は3回目も予定されていたが元の内紛やフビライの死により頓挫した。
- 実現していたら「第2次弘安の役」もしくは「永仁の役」と呼ばれていたであろう。
- 逆に日本側が高麗に侵攻する計画もあった。
- この戦いのさなかでも貿易は普通に行われていた。
- 日本の武士の名乗りを元軍兵士が嘲笑ったという伝承もあるが後世の創作らしい。
- その種本は八幡神信仰のプロパガンダ目的だったらしく武士の戦いは徹底的に過小評価されている。
- てつはうが使われたが日本側が鉄砲を使えるようになるにはさらに数百年かかった。
- てつはうと鉄砲は仕組みがまるで違うけどね。
- 撃退したはいいがその後が大変だった。
- 必死に戦って奉公した御家人に、幕府は御恩を用意しきれなかった。結果、御家人困窮。
- まあ、幕府にいきなり元が攻めてくるのを予想しろというのも酷ではあるけれども。
文永の役[編集 | ソースを編集]
- 対馬、壱岐、松浦が占領される。
- 松浦に関しては無駄な大回りになるため今回はやられなかったという説もある。
- 「八幡ノ蒙古記」に松浦郡に襲来とあるので、大軍のため別動隊を組織したと思われる。
- 松浦に関しては無駄な大回りになるため今回はやられなかったという説もある。
- 博多に上陸され、筥崎、宇佐まで侵攻されたが、日本側の反撃により1日で撤退。
- 宇佐まで攻め込んできたという話は聞いたことがない。
- そんな遠いところに行くより九州の中心だった大宰府を占拠するほうが明らかに得策。
- バカなサイトの釣りにマジメに反論されても。。。
- 最近の研究では威力偵察説も出ている。
- この時筥崎宮が燃えたことを日蓮は「要するに元の皇帝の方がこの国の神より強いってことだろ」(現代語訳)と切り捨てた。
弘安の役[編集 | ソースを編集]
- 対馬、壱岐、再び占領される。
- 後方支援の拠点として重宝されたという。
- 一部は長門にも襲来。
- 台風により元軍撤退。
- ただし台風直撃後も結構な数が残っていたらしく日本の武士と死闘を繰り広げたという記録も残っている。
- そもそも沈んだのは欠陥設計(バラストの石を積みすぎ)の元の船ばかりだった。
- そのうちの何隻かが長崎県の鷹島沖に埋まっている。
分倍河原の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:府中市 (東京)
- 鎌倉幕府に終止符を打った戦い。
- 日本史上屈指の大合戦。
- 20万人VS10万人。
- 投入兵力は、大坂の陣や応仁の乱なみ。
- 20万人VS10万人。
- なのに、全然知られてない。
- 分倍河原駅前に新田義貞の騎馬像があるのはこの戦にちなむ。
- 府中だから「お馬さんの像」ってわけじゃないんだ。
- 当時は多摩川の畔だった。
南北朝~室町時代[編集 | ソースを編集]
千早城の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:千早赤阪村
- 「人類史上最も○○な戦い」を選ぶとしたら軽く二冠は達成できる。
- 人類史上最も汚い戦い。
- 人類史上最も臭い戦い。
- 汚物戦法は西洋でも基本だから受賞は無理だ。ちなみにモンティ・パイソン ホーリーグレイルを見るとどんな感じかよく分かる。
- 南朝が正統派であろうとなかろうとこんな事をしていたら、汚さのあまり人望を失って、北朝を応援したくなる人が多くなるであろうというような戦い。
- しかも山火事は起こすわ……
- 持久戦になったため、包囲している幕府軍が陣中に連歌師を呼んだり、双六や茶に興じたり、挙句の果てには遊女を呼んだりしたという。
- そんな中、賽の目を巡って北条(名越)宗教と甥の名越兵庫助との間で双方殺し合いの喧嘩になり、さらに双方の家来200人余りが同士討ちするという、アホみたいな無用な争いも起きている。
湊川の戦い[編集 | ソースを編集]
- 大楠公玉砕。
- この戦いの教訓が、特に昭和初期の日本に最悪の影響をもたらした。
- 正成の比叡山避難提案を文官の坊門清忠が却下した→(影響)軍部が統帥権を盾に政府の関与を拒否し独走。
- 正成は勝ち目のない戦争でも後醍醐天皇のために戦った→(影響)軍部が「尽忠報国」「玉砕」を強制。
- 正成は寡兵700で万余の足利軍を16度にわたり撃退した→(影響)軍部が兵力・物量を無視した戦争を開始。
応仁の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:京都市ほか多数
- 戦国時代の発端になったとされる。
- 将軍家・管領家の家督争いがきっかけ。
- しかしその目的はだんだんどうでもよくなってきた。
- この乱により京都は焼け野原に。
- 南北朝時代の戦乱による被害の方が大きいという説もある。
- 何でも応仁の乱の頃の地層には焼けた土がほとんど見られないらしい。
- 南北朝時代の戦乱による被害の方が大きいという説もある。
- 最初は「山名宗全・日野富子・足利義尚vs細川勝元・足利義視」だった。
- いつの間にか「細川勝元・日野富子・足利義尚vs山名宗全・足利義視」と入れ替わっていた。
- この乱がなければ「西の京山口」「西陣」は誕生しなかった。
- 京都市民にとっての「先の大戦」とは、第二次世界大戦ではなく、この戦の事を指す。
- 「先の戦争」なら鳥羽伏見の戦いか?
- 鳥羽伏見は都の外だから、京都ということで考えるのなら「禁門の変(蛤御門の変)」のはず。
- 「先の戦争」なら鳥羽伏見の戦いか?
- こっそり南北朝時代の南朝の皇統(いわゆる後南朝)も出てきてる。あんたら、まだいたの?って感じだが、流石にこのあとは熊沢天皇まで陰を潜める。
- 寝殿造の建造物や庭園が現存しない最大の理由。
- それを引き起こしたのが建築大好きの義政さん(とその一家)だったという。なんというこの皮肉。
戦国・安土桃山時代[編集 | ソースを編集]
桶狭間の戦い[編集 | ソースを編集]
- 豊明市ほか
- 日本史を代表する奇襲戦。
- 厳島の戦い・川越の戦いと合わせて日本三大奇襲。日本三大夜戦という言い方もあるらしいが、下に書いてあるようにこの合戦は夜じゃない。
- なお近年は「奇襲ではなかった」という見解が定説となりつつある。
- 織田信長軍2000が今川義元軍25000を破った戦といわれている。この戦で今川義元が討ち取られた。
- 実は夜ではなく、昼間の戦い。戦闘開始が午後1時ごろで、終了が午後4時ごろ。
- 戦いの直前に大雨が降って数で劣る織田軍は雨音にまぎれて突撃したとか。
- この戦を皮切りに、時代は天下統一へと向かっていく。
- 徳川家康の独立に一役買った。
- 褒章が一番多かったのは、今川の首を獲った服部一忠、毛利義勝の両名では無かったそうな。
- 今川義元の場所を教えた農民だったらしい
- こういったところに信長のカリスマ性がうかがえる。
- この辺り、情報を重視した信長の先見性、みたいな言われ方をしたりする。
- 今川義元の場所を教えた農民だったらしい
- 古戦場(名古屋市側)は現在単なる住宅地と化している。
- 一応「桶狭間古戦場公園」という両軍の将の像が立ち合戦のジオラマ?がある単なる児童公園は存在。
川中島の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:長野市
- 五回も戦ったのに決着がつかず。
- にらみ合いだけのもあったっぽいけど。
- 「啄木鳥戦法」「車懸りの陣」「大将同士の一騎打ち」など有名なエピソードは第4回に集中している。
- 現代ではよく各種イベントなどのネタにされる。
- 長野市付近でこの合戦に匹敵する人出はオリンピックまでなかったらしい。
- 長野五輪の際に「川中島の合戦以来最大の人出」という表現が用いられたという。
- 五回目の内容は知られていない
- 海津城(後の松代城)跡と八幡原史跡公園、典厩寺など、関連史跡はあちらこちらに残るが、場所は結構広範囲に分かれているので注意。
- 武田信玄の弟の武田信繁や、山本勘助など名高い武将がこの戦で戦死した。
姉川の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:長浜市
- 長浜市の姉川を挟んで、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った。
- 有名な合戦だが、歴史の流れには殆ど影響を与えていない。
- 何故なら、合戦後も織田vs浅井・朝倉の構図は変わらず続いているから。
- そもそもこの戦いを有名にしたのは小瀬甫庵の「信長記」だが、これは作者が当時の徳川幕府におもねって、徳川家康の活躍場面があるこの合戦を特に強調したから、とも言われている。
- 戦死者が多く、姉川の色が赤色に染まったとか。
三方ヶ原の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:浜松市
- 徳川家康が武田信玄に敗れ脱糞した。
- なお本人曰く「これは味噌をこぼしたのだ」とのこと。
- この合戦後のしかめ顔をした家康の肖像画は有名。
- 家康本人が描かせたんだったっけ。
- この後信玄が病死していなければ徳川家は危なかった。
- 家康が諸葛亮ばりに空城の計を用いた。 …っていうか、落ちてくる兵を浜松城に入れるために城門を閉められなかった、というのが正しい所か。
- 実は夜戦。家康の出陣が午後4時過ぎ。でも12月ってその時間もう暗いから・・・
石山戦争[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:大阪市
- 恐らく、日本史上最初の戦争。
- 日本初の軍艦も誕生した。
- なお海外では戦国時代がずっと内戦という扱いをされ「140年も戦争とか頭おかしい」と思われている模様。
- 戦争の期間は10年間。
- 現状では日本の戦争史で最も長い戦争だったりする。
- 因みに、日中戦争ですら、4年弱。
- 戦争と言いつつ、最初の3年間は下準備期間だったりする。調略やったりしつつ、顕如と信長が贈り物を遣り合ったりしてる。
- なんだかんだ言って、講和後の停戦命令を各地に出したり、京都の信長邸を顕如が訪問するなど、この二人は仲がいい。
- 現状では日本の戦争史で最も長い戦争だったりする。
- 実は、この戦争の戦後のゴタゴタが最大の原因で、加賀は後に、前田家の支配するエリアとなる。
- 「百姓が持ちたる国」の維持(正確には加賀の一部を本願寺領として保証)というのが、和議の条項にあったが、顕如の子供が我儘言って、それをぶっ潰したため、織田領(柴田氏支配)となったから。
- それが原因で、本願寺は東西に割れる。
- そして、維新の時の佐幕派と倒幕派で別れる。
- 徳川家康がうまく東西に分けることによって勢力を分散させたとさ。
- 毛利氏も本願寺を支援していた。安芸も門徒が多いからね。
- 紀州の雑賀衆も本願寺を支援。こっちも門徒が多いからね。
- 毛利氏の配下で村上水軍が大阪湾から兵糧を運び入れ。包囲している織田の水軍が邪魔しようとするが、焙烙火矢で散々にやられる。
- そして村上水軍にやられないように九鬼氏の軍船が造られる。
長篠の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:愛知県新城市
- 世界初の鉄砲一斉射撃、のはずだった。
- 鳥居強右衛門の磔が有名。
- 有力武将が多数討死した武田氏の凋落が始まる。
手取川の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:手取川
- 織田軍が上杉謙信に大惨敗した戦い。
- 意外にも合戦の時期は「長篠の戦い」よりも後である。
- 一般的には、武田の重しが取れて、天下統一を目指す信長常勝と思われている時期。
- この時点で信長が天下を失いかねない程の敗北をしていたことは、意外と知られていない気がする。
- 桶狭間とは逆に、雨のせいで織田側が大敗したらしい。
- 得意技である鉄砲や火薬が使えなかったとのこと。
- サルが勝手に帰ってしまっている。明らかな敵前逃亡で本来は処刑ものだが、実際は謹慎処分で済まされている。
- 合戦場所が具体的にどこなのかはいまいちよくわからないらしい。
高松城の水攻め[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:岡山市北区高松
- 結局あの戦は誰得だったのか……?
- 毛利は勢力圏を備中まで後退させられたとはいえ、それは既に趨勢として決まっていたことだし……
- 織田方は宇喜多家が秀吉の子分みたいな地位に既に就いたあとなので、こっちも得したとはいえまい……
- 世界中で水利を用いた戦というのは数多くあるだろうが、戦の主力事業でダムを拵えたというのは多分これが最初で最後。
- だからかしらんが、戦の名称が「高松城の水攻め」という正式名称なのか疑ってしまうような、語感の悪いものに……
- いや、この後も太田城の戦い(秀吉vs雑賀衆)や忍城の戦い(秀吉方の石田三成vs北条方の成田氏、「のぼうの城」のやつ)で築堤して水攻めしているよ。
- 戦いの舞台となった城に置かれた絵看板、誰の顔も写っていないのがちょっと残念。
- まさかと思うが肖像権の都合とかだったりして……
- 念のために言うと、高松は高松でも香川県高松市では無い。
- この戦いの締めにもなった清水宗治の切腹は有名だが、数万人が見守る中での自決とは実に壮絶な光景だ。
- それだけに敵味方とも感動し、特に毛利家は宗治の子孫を厚く遇し続けた。
山崎の戦い[編集 | ソースを編集]
- 慣用句を3つ(三日天下、天王山、洞ヶ峠を決め込む)も生んだ。戦にかかった時間を考えるとコスパは非常によろしい。
- 三日天下と言いつつ11日くらいとか、「洞ヶ峠」というのはお話だけで実際は筒井順慶は洞ヶ峠に行ってないとか、ツッコミどころはある。
- 光秀がインケツな嫌われ者であるというイメージを浸透させるのに最も貢献した戦い。
- 天王山トンネルで亡霊を見たとか言う都市伝説ができた遠因。
- 実は秀吉は山崎着陣後、しばらく足踏みしていたという事実。でも中国大返しのスピード感のお陰であまり知られていない。
- ちゃっかりこの合戦の直前にボロ儲けしていた朝廷と公家衆。光秀が自分の貯蓄を彼らに寄付しまくったらしい。
- 信長の貯めていたものは燃えてしまったのでパクろうにもパクれなかったらしい。先に奪ってまえよ……
- 光秀も先に良い陣地を押さえられなくもなかったのに、そこに陣取ると山崎の町の人が迷惑して後々 天下を治めるのに不都合、とのことでやめちゃった。義理堅さが彼らしいけれど。
小牧・長久手の戦い[編集 | ソースを編集]
- 東海3県内の局地戦かと思いきや、畿内にも戦いが広がっていたらしい。
- 「中入り」が行われた。相撲ではない。
- 池田家は恒興、元助の大黒柱2人を失い、存亡の危機となる。
- 秀吉が榊原康政に侮辱されまくる。
- 戦闘では徳川の圧倒的勝ち戦。しかし秀吉が織田信雄との和睦というウルトラCをやってのける。戦争では戦術より政戦略が優越する良い手本。
天正壬午の乱[編集 | ソースを編集]
- 武田滅亡→本能寺の変からの領主不在となった上州・信州・甲州での北条・上杉・徳川の領地ぶんどりあいと真田氏を初めとするこれらの国の小領主たちの立ち回り。
- 真田氏が武田(滅亡)→(うらで北条とやりとり)→織田(本能寺の変)→(一瞬)上杉→北条→徳川→上杉(その後 豊臣)という主君変更を行った。
- 合戦としては神流川の戦い以外は大規模な合戦はない。ほとんど地元小領主の引き抜きあいみたいな。
- 上杉氏はさくっと川中島あたりまで押さえたものの、新発田さんが暴れていたので早々に引き上げ。
- 北条・徳川が甲州でにらみ合い。小田原本拠なのに上州→佐久と大迂回して来ていた北条氏、信州で徳川方に寝返った人たち(含む真田氏)によって兵站線を封じられてしまう。大軍だったのに徳川と和睦する羽目に。
- 甲州・信州は徳川、上州は北条と言うことで徳川-北条は和睦したのに、徳川配下の真田氏が上州沼田を手放さず、勝手に北条領にした徳川を嫌って上杉に寝返り。この沼田領問題が後、小田原合戦の引き金に。
神流川の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:埼玉県上里町
- 山崎の戦いの3日後に始まり、6日後に終了。滝川一益の没落が始まる。
- 織田信長が武田遺領を北条氏に分配しなかったので、不満をもった北条氏が「だったら実力で奪ったらぁ!」と接収にかかった。そのターゲットが滝川一益だった。
- 実は戦国時代の関東における最大級の野戦だったが、教科書はスルー、小説では「滝川一益は北条氏に敗北し尾張に逃げ帰った」の最大20文字で済まされる。
小田原合戦[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:小田原市ほか
- 1行にまとめると、秀吉と家康が小田原まで連れションしに行っただけ。ついでに物見遊山もしたらしい。
- 征討に向かう兵隊の先頭が安倍川を渡る頃、最後尾は未だ濃尾平野を歩いていたらしい。
- 秀吉お得意のナイトキャッスルがここにもでっかくオープンしたとか。
- この合戦に参戦しなかった戦国大名の領地はことごとく潰された。
- この合戦に遅延した大名はことごとく領地を削られたり移封された。
- 伊達政宗とか遅刻したけど、色々あって許された。
- この合戦に遅延した大名はことごとく領地を削られたり移封された。
- もはや日本の企業の伝統である「小田原評定」はこのときに行われた。毎日会議は続くけれど、結論でない。徹底抗戦なのか和睦なのか。
- 後北条氏では2代目氏綱さんの「勝って兜の緒を締めよ」と並ぶ慣用句。
- 小田原城落城後も忍城は落城しなかったが石田三成の援軍にかけつけた真田安房守昌幸,伊豆守信幸(後の信之)親子によって開城され小田原攻めは幕を閉じた。
文禄・慶長の役[編集 | ソースを編集]
- 信長秀吉家康ときて、名護屋城となれば愛知県名古屋市に城をつくったもんだと思ってしまう。
- コスプレ茶会が行われたことでも知られる。
- 鎖国時代の主な輸出品である、高級で芸術性の高い有田焼や伊万里焼などの陶磁器が生まれた。
- その裏には多くの陶工の強制連行という恥ずべき行いがあったことは忘れてはならない。
- 強制連行された朝鮮人が南蛮人へ奴隷として売られたという記録もある。
- 韓国では「壬辰・丁酉倭乱」と一般的に呼ばれる。
- 近年ではより中立的な「壬辰戦争」という言い方が提唱されている。
- 原因が何だったのか未だにはっきりしていない。
- 領土を広げ続けないといけないという豊臣政権の欠陥、息子を失った腹いせ、東アジア新秩序の実現…。
- 珍説の類では元寇の復讐や茶器の略奪といったものまである。
- これで朝鮮を征服できていたら次は中国中原や東南アジアも征服するはずだった。
- 首の代わりに鼻を取ることにした結果まさに酸鼻を極める事態が発生。
- 討ち取った敵兵どころか生きた一般人からも平気で鼻を切っていた。
- 京都の方広寺の近くに鼻や耳を埋葬した耳塚がある。
- 日朝関係が良くないと収入に困る対馬の宗氏が板挟みになった。
- 秀吉が朝鮮に出した「明へ攻め込むから先鋒を務めろ」という書状を「明へ攻め込むから道を貸せ」に改竄。
- 後の日朝国交回復時にも朝鮮国王の墓を荒らした犯人として無関係の囚人を差し出している。
- 結局宗氏も朝鮮に出兵している。
- 文禄の役では現在の北朝鮮に相当する領域まで攻め込んでいた。
- 加藤清正に至っては豆満江を超え現在の中国領まで侵攻している。
- 現地で富士山に似た山を目にしたらしい。
- 加藤清正に至っては豆満江を超え現在の中国領まで侵攻している。
- 朝鮮側では水軍を率いた李舜臣や各地の義兵が防衛に大活躍した。
- 李舜臣はソウルや釜山などあちこちに銅像が建てられ朝鮮史を代表する名将の地位を不動のものとしている。
- 『坂の上の雲』の劇中では東郷平八郎が日本海海戦の前に李舜臣の霊に戦勝を願っていた。(真偽不明)
- なお代名詞となっている亀甲船は意外と活躍できた場面が少なかったらしい。
- 李舜臣はソウルや釜山などあちこちに銅像が建てられ朝鮮史を代表する名将の地位を不動のものとしている。
- 日本の兵士として従軍したが降伏した人もいた。
- 特に沙也可という人物は火縄銃の技術を伝えたとされる。
- 名称の由来は「雑賀(衆)」とも「○○左衛門」ともされる。
- 唐辛子の朝鮮への伝来もこの時という説がある。
- 特に沙也可という人物は火縄銃の技術を伝えたとされる。
- この時に建設された日本風の城(倭城)の遺構が今も韓国南部に残っている。
- 「信長の野望」シリーズでは一切登場していない。
- 日朝両国だけでなく援軍を出した明にとっても大きな負担となった。
- このダメージのせいで滅亡が早まったという見解もある。
- この戦で明の蔵が空になったとか。
- このダメージのせいで滅亡が早まったという見解もある。
- 文禄の役は征服のために出兵したが慶長の役は明との講和において秀吉が明の国書を読んで激怒したので成敗のために出兵したという側面もある。
- 秀吉に近い武将達が出兵する一方で家康は参加せず江戸で力を蓄える。
- 初期の朝鮮通信使の目的はこの時の捕虜を朝鮮へ連れ戻すこと。
- やはりというべきか、すんなりとはいかなかった。
関ヶ原の戦い[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:関ケ原町ほか多数
- 天下分け目。
- 川中島・天王山と並んで天下分け目の例えにされる。
- うどんの出汁の濃さとか、エスカレーターの右立ち左立ちとか、バカとアホの使い分けとか、様々なものの分かれ目がこの地であるのは偶然ではない、、いや偶然かなぁ。
- 逆に、ここが東西の境目だから決戦の地になったと考えた方が妥当。
- 餅が丸餅か切り餅かもここを境に分かれるらしい
- 狸親父の策略が見事に役立ち東軍が勝利。
- 陣形だけなら、西軍の勝利。
- 西軍の総大将は一応毛利輝元。
- なお本人は大坂城にとどまったまま出陣せず。
- 一族の吉川広家が裏で東軍と通じて動かなかったから、輝元も動けなかった
- 吉川が動かなかったから動けなかったのは関ヶ原にいってた毛利秀元ですよ。輝元が大坂城から動けなかったのは城内の増田長盛が東軍に内通しているとかいう噂のせい。
- 一族の吉川広家が裏で東軍と通じて動かなかったから、輝元も動けなかった
- なお本人は大坂城にとどまったまま出陣せず。
- 関ヶ原町最大のアピールポイント。
- 合戦に参加した武将名やその兵力、家紋などを書いた大きな看板が駅に立っている。
- 地元出身の竹中重門さん(竹中半兵衛の息子)の名前は後から付け足されている。
- 地味に小早川秀秋は西軍扱い。着陣時の状況を看板にした模様。
- 西軍に長宗我部盛親が居ないとか、東軍に山内一豊や藤堂高虎、松平忠吉らが居ないなど、必ずしも実力や奮戦ぶりを評価していない点が気になって仕方がない。
- おかげで、観光資源には困らなくなったらしい。
- 誰それの陣跡、といった史跡もあちらこちらにある。
- 合戦に参加した武将名やその兵力、家紋などを書いた大きな看板が駅に立っている。
- 本戦は1日だが各地で連動した合戦も起きていた。
- 東北の長谷堂城の合戦、信州の上田城の合戦が著名。
- 関ヶ原での戦闘を指して「天下分け目の戦いはたった一日で終わった」と言うと「その前後の戦闘を含めれば、たった一日とは言い難い」と異論を唱える人もいる。
- 親子兄弟で敵味方とか、応仁の乱ばりに陣容が複雑。
- 20歳前後の小僧1人の動きが、全てを決めた。
- 一説では、元義父に対する意趣返し程度の感覚であったとか。
- 黒田官兵衛が、天下を取ろうとするもしくじった戦い。
- 官兵衛は隠居していて兵は息子の長政が連れて行ってあんまり残ってなかったのに、ため込んでいた金銀で臨時徴兵、それなりの兵力になって西軍の大友氏を攻める。
- 黒田官兵衛の息子・黒田長政が寝返り工作に大活躍し、東軍の勝利に大いに貢献した。
- これにより長政は家康から大激賞された。長政は親父・官兵衛に得意満面に「家康さんに手を取って感謝された」って自慢したら官兵衛「もう片方の手は何しとってん」と。空いてた手で家康刺し殺してこんかい、せっかくの天下取りの機会を一日で終わらしてしまいよってからに、という話になってる。
- 真田氏(昌幸・幸村父子)が上田城に籠城。数で勝っていた徳川軍を翻弄(2回目)。上田城の戦い
- このせいで徳川秀忠は関ヶ原の合戦本戦に間に合わず。
- 真田昌幸はじめは降伏すると伝えておきながら「準備するからちょっとまっててね」→「も~いいかい」「まーだだよ」→「はよせぇや(怒)」「あーごめんごめん、籠城の準備してたんだ♪もういいよー」→徳川軍激怒
- 東北ではきっかけになった上杉氏が最上氏を攻める。
- 最上氏の山形を攻めたのは会津米沢の領地からは飛び地になっていた庄内の領地と地続きにするためとか。
- 関ヶ原で西軍が負けたので、山形城まであと一歩の長谷堂城を包囲してるほど優勢だったはずの上杉氏撤退。(長谷堂城の戦い)
- 直江兼続が責任とって切腹しようとしたくらいの壮絶な戦い。
- この戦いがきっと戦国きっての傾き者・前田慶次の一番の見せ場。
- 上杉氏、旧領越後で一揆を起こすも堀氏にさくっと鎮圧される。
- 「徳川軍対豊臣軍」というより「(少なくとも表向きは)豊臣軍対豊臣軍」であった。
- もっというと「上杉討伐へ行く途中で戻ってきた豊臣軍」VS「上杉討伐へ行く豊臣軍を討伐に行く豊臣軍」という構図。結果は、御存知の通り、「上杉討伐へ行く豊臣軍を討伐に行く豊臣軍」を逆に討伐した「上杉討伐へ行く途中で戻ってきた豊臣軍」の勝利。早口言葉みたい。
- 戦後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した記録があるとか。
- 黒田家の兵士たちが、石田家の島左近が死ぬ気で突撃してくる雄叫びを思い出しておびえたり夢でうなされたりしたとか。
- 島津義弘の壮絶な退却戦「島津の退き口」が有名。退却なのに敵陣中央突破。1,500人いたのに薩摩に帰り着いたのは100人切っていた、とか。
- この中で「捨てがまり」が行われる。兵の一部が退却路に残り鉄砲を撃ちかけ、必死で(自らは全滅して)敵を食い止める。義弘の甥っ子の豊久さんや家老の長寿院さんが総大将義弘の身代わりとなり討ち死に。東軍でも井伊直政がこのときの鉄砲傷が元で2年後に死亡。
- 退却までは陣から動かず、陣に近づくものは敵味方問わず西軍でも鉄砲を撃ちかけたとか。
- 動かなかった原因は戦術についての意見の相違から。前日に大垣に居たときに島津「夜襲しましょう」石田「正々堂々戦うべし、奇襲など無用」みたいな。
- 毎年戦国武将を名乗るツイッターアカウントが9月15日前後になると騒ぎ出すのは、きっとこの戦いの影響。
- 例年、石田三成を名乗るアカウントがMKタクシーのアカウントに関ケ原から六条河原町まで乗せていこうかと言われる……
江戸時代[編集 | ソースを編集]
大坂の陣[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:大阪市ほか
- 真田信繁(幸村)とその家臣団が大活躍。
- 城内からの抜け穴を利用して神出鬼没、だったと言うことになっている(特に講談の類いでは)。今でも大阪市内には真田の抜け穴とされるものが残っているらしいが、実態は単に昔の古墳の穴だったりするとか。
- 堀の大切さがよく分かる戦い。
- 落城直後の大坂は無法地帯と化したと伝えられる。
- その様子を描いた大坂夏の陣図屏風は、ピカソのゲルニカをもじって日本のゲルニカと呼ばれる。追剥、強姦、押し込みなどやりたい放題が克明に描かれている。
- 大坂城にはキリスト教の宣教師も籠城していたらしい。
- 家康がこの戦いで戦死したという説がある。
- 家康のものとされる墓石が堺の某寺院にあるらしい。
- 大阪方、元からの豊臣直臣と新たに雇われた浪人衆(真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親など)が意見があわずがたがた。そこへ淀君が口を挟んで… というイメージ。
- 古い大企業のプロパー・古参は官僚的になってしまっていて、拡大のために経営傾いた企業を大量に吸収したらそっからきた社員は自分勝手で、、みたいな?
- まぁ実際は浪人衆同士の連携だって良くなかったっぽいが。
- そりゃ本当なら土佐の大名だったはずのやつからしたら、黒田家を追っ払われたやつと一緒にしてほしくないとかいう思いはあっただろうし、信濃の元小領主といえど武田、上杉、北条、徳川あたりとやりあってきた家の人間からすれば、田舎でのんびりやってきた大名が偉そうにしているのは気に入らなかっただろうし、五大老宇喜多家の重臣だったやつとか、豊臣家の知恵袋に最も可愛がられたやつなんかからしたら、田舎大名と同格に扱われるのは酌だっただろうし…… 馬が合うはずがない。
- 家康が夏の陣で死にかけたのは事実のようだ。
- 豊臣方もハナから篭城戦一本槍だったわけでなく、冬の陣では城外に築いた砦を巡る攻防戦(今福・鴫野の戦い等)、夏の陣では八尾・若江の戦いとか道明寺の戦いとか大坂城外でも戦ってた。
- 冬の陣は籠城戦だが、夏の陣は籠城しようにも城に堀がない。ので、城の外に拡大して陣をひいてた。
- このため、布陣図を見くらべると冬の陣の方が大坂方がコンパクト。ぱっと見 冬の方が押し込められて見えるので、どこかの社会科資料集では冬・夏の図が間違えられていた。
- 冬の陣は籠城戦だが、夏の陣は籠城しようにも城に堀がない。ので、城の外に拡大して陣をひいてた。
- 大坂方で一番奮戦したのは冬は真田信繁だが、夏は毛利勝永であった。が、上記記事を見ても分かるように毛利勝永の知名度があまりにも・・・・
- 実は塹壕戦が行われていたらしい。
- あくまでも名目上の話ではあるが、寺の梵鐘にかいてある文言が原因ではじまった合戦。
島原の乱[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:南島原市ほか
- 一揆勢の中身:浪人+百姓+キリシタン。
- 必ずしも純粋な宗教戦争というわけではなかった。
- なおキリシタンの戦死者は殉教者に含まれていない。
- 原因が宗教弾圧だけではない上武力で抵抗してしまったため。
- 十字軍は聖戦といううくせに、キリスト教の価値観はわけわからん。
- 宮本武蔵が投石で負傷した。
- オランダ船による砲撃があった。
- 一揆勢への心理的ダメージはそれなりにあったらしいが実際の被害はほとんどなし。
- 明に援軍を要請する計画もあったとか。
- 九州とは直接関係のない備後福山藩の水野勝成一家が参戦。
- 家康の従兄弟のため。
- 島原藩と天草(唐津藩)の圧政が原因。
- 島原藩は南蛮貿易できたころのバブリーな感覚を引きずり、お城を豪華に建てたりしたもんで税金が重くなった。
- 天草は唐津藩の飛び地だが、天草から搾取して本土・唐津の整備に使ってた。そりゃ怒るわ。
- 島原藩の拷問には雲仙の火山も使われた。火山には「○○地獄」みたいな地名がよくあるが、ここの場合はマジ生き地獄。
- 一揆軍は内通者を除いて皆殺されたが、原因を作った島原藩主の松倉勝家は斬首、天草を領有していた寺沢堅高は領地没収(後に自殺する)となり事実上の相討ちとなった。一揆軍の面々は殉教者にも義民にもなれなかったが、そういった意味では役立ったのかも?
- ちなみに、徳川幕府260年の歴史上、斬首(武士としての死である切腹ではなく、罪人としての処刑)になった大名は、後にも先にも松倉勝家ただ一人っぽい。
- その松倉勝家の先代の松倉重政から圧政は行わえていたが、重政は前の領地では名君として知られていた。
- ちなみに、徳川幕府260年の歴史上、斬首(武士としての死である切腹ではなく、罪人としての処刑)になった大名は、後にも先にも松倉勝家ただ一人っぽい。
- かつてのキリシタン大名がやっていた寺社の弾圧、非キリシタン領民の人身売買は相変わらず続けていたとか。
- 一揆軍は篭城戦をして結局はジリ貧となったが、立てこもった原城は海に面していたことから南蛮からの援軍を期待していた節があったようだ。
- 荒野と化した一帯を復興させた代官の鈴木重成はもっと知られるべき。原因の土地の石高が2倍とされてたのを元どおりにするため最後は抗議の切腹して果てた。
幕末・明治時代[編集 | ソースを編集]
薩英戦争[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:鹿児島市
- 発端は英国人が大名行列に下馬の礼を取らなかったため、切り捨て御免となったことによる。
- これを生麦生米生卵事件という。
- 薩摩藩の砲台はイギリスの軍艦で吹き飛ばされたが、染物に使う縦型の釜を大砲に見せかけたため、英艦隊は撤退した。
- 英艦隊の旗艦が直撃弾食らって艦長が戦死した。成果としては上級であろう。
- 戦後、薩摩藩は英国側の「切り捨てた下手人を出せ」、「賠償しろ」等の要求をスルーして幕府に押し付けた。
- 鹿児島では「まえんはまいっさ(前の浜戦)標準語では「まえのはまいくさ」」と呼ぶ。城下町周囲の海浜が「前の浜」と呼ばれたため。
- 政治的にはややこしい結果になったが、西洋でも「渡航自由化ってはその国の礼儀を無視していいことにはならねーよ。バカじゃねーの」という論調で当事者はあんまり同情されなかった。後世にて中東の紛争地帯につっこんだ自称ジャーナリストなどに通じるものがある。
- 生麦事件の被害者は成り上がりだったからそう言われたみたいね。記者クラブの大本営発表じゃ得られない情報を得に行く中東の紛争地帯に取材に行くジャーナリストと比較してはいけない。
- この時は戦ったが数年後にはバックにつくことになる。
- ぱっと見「よくこれで引き分けで終わらせることができたな」と思ってしまうカードである。
- さしずめ2022年現在J3にいる鹿児島ユナイテッドFCとサッカーイングランド代表が試合するようなものである。
戊辰戦争[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:京都市伏見区、東京都台東区上野など
- 鳥羽・伏見の戦いや函館戦争を含めていいかどうかよくわからないがとりあえずここで。
- 薩長軍のお馬の前で錦の御旗がビラビラしたことが戦局を大きく左右した。
- 幕府側の主な犠牲者:近藤勇、土方歳三、白虎隊、伊武谷万二郎など
- 南北朝合一以来久々に朝廷が分裂しかけた。
- この戦争が原因で潰されたのは1万石の小藩一つだけ。
- 林忠崇は戊辰戦争で脱藩し改易。幕府軍側で戦うも降伏し、その後数奇な人生を送って昭和時代まで生き延びた。
- 会津藩みたいにとんでもない場所に飛ばされた藩も多かったけど。
- 長岡藩などは明治に入ってから財政難になった。
- 特に東北方面に様々な遺恨を残した。
- 都道府県名に影響したと主張する識者もいる。
- 福島県なんか、会津若松から県域のはずれの福島まで県庁が行っちゃったわけだし(当時郡山は未開拓地だったが)。
- 秋田県民歌の3番はなかなか思い切った歌詞。同盟側についた周りの地域の人は何を思う。
- 都道府県名に影響したと主張する識者もいる。
- 鳥羽伏見の戦いは小学校の時など初見の時には、京都と三重って広域な戦争だったんだな、と思われてしまう。
- 徳川慶喜の評価を異常に難しくする原因の一つ。慶喜の基本的な方針として「諸外国に狙われている今大規模な内戦を起こすのは自殺行為」というのがあり、そのため全面衝突をやりたがらなかった。肯定的な人間は第二の関ヶ原にならなかったのは慶喜のおかげといい、否定的な人間は味方捨てて敵前逃亡はどうよとツッコむ。
- 彰義隊による抵抗が江戸の唯一の戦闘である。
- 戦争中に明治へ改元、江戸も東京に改称する。
西南戦争[編集 | ソースを編集]
- 合戦場:熊本市、鹿児島市など
- 今のところ日本最後の内戦。
- 西郷軍は新式銃装備の政府軍と清正公の前に敗れ去った。
- 最終目標地点は東京だったが熊本県さえ脱出できなかった。
- 別動隊が大分まで進出したけどね。
- 最終目標地点は東京だったが熊本県さえ脱出できなかった。
- 当初は「またも負けたか八連隊、これでは褒美はくれんたい(九連隊)」と揶揄されるほど政府軍は圧倒されていた。
- しかし最終的には「西郷隆盛鰯か雑魚か、鯛(隊)に追われて逃げて行く」と評されるほどの活躍を見せた。
- 映画『ラストサムライ』の元ネタはこの戦争。
- 日向からすると、戦場とされるわ地域経済はめちゃくちゃにされるわと踏んだり蹴ったり。
- 宮崎県復活のきっかけでもある。
- 旧薩摩藩領でナンバー2の地位にあった都城ですら、鹿児島県残留派が優勢ではなかった時点でお察しである。