プロレス団体/過去の団体
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国内男子[編集 | ソースを編集]
IWAジャパン[編集 | ソースを編集]
- 社長はプロモーター出身。
- 創始者はプエルトリコ出身の悪徳マネージャーだった。
- その社長が織り成す「新宿2丁目劇場」で有名。
- 旗揚げ当初はFMWに対抗したデスマッチが中心だった。
- TAJIRIがデビューした団体でもある。
- IWA→EMLL→大日本→CMLL→ECW→WWE→RAW→ハッスル→SMASH→WNC→WRESTLE-1→WWE→フリー(全日本中心)
- 事実上ノアの子会社。
- 社長がプロレス活動から身を引いたため団体としては解散。会社は飲食店の経営が中心。
- 若手レスラーの山田圭介(現・バッファロー)が社長をやっていたことがあった。
イノキ・ゲノム・フェデレーション[編集 | ソースを編集]
- 略称IGF。アントニオ猪木が新日と袂を分かって旗揚げ。
- ×××で角界を追われた元力士をスカウトした。
- 蝶野正洋がプロデューサー就任。
- 現在は退任。宮戸GMもほぼ同時期。
- 2億円のチャンピオンベルトを作った。
- 大晦日の猪木祭を復活させた。
- ALL TOGHTERに興行戦争を仕掛けた。
- 2016年若手育成のための新ブランド「NEW」を立ち上げたが、翌年にお家騒動が起きてしまった。
- それと並行して上海に道場を再開設。その道場は後に「東方英雄伝」というプロレス団体になったが、いつの間にか活動休止…。
W★ING[編集 | ソースを編集]
- 邪道と金村のファイヤー・デスマッチで金村が大火傷をしてしまった。
- その影響もあり、1994年に崩壊。所属選手はIWAジャパン・WARへと移籍した。
- 1991年8月に「世界格闘技連合W★ING」として旗揚げ。
- 直後に格闘技中心の世界格闘技連合と、プロレス中心のW★INGプロモーションの2つに分裂したが、世界格闘技連合は旗揚げ戦すら開催せずに解散。
- その後FMWを超える過激なデスマッチ路線へと進み、マニア層の支持を受けるようになる。
- 日本で初めて、ファイヤー・デスマッチを成功させた団体(1992年8月2日・船橋オートレース場駐車場大会)。
- 有名外国人選手の参戦、プロレス界初の大晦日興行も実現させたが…。
- 1993年になると、主力選手であったミスター・ポーゴと松永光弘がFMWの引き抜き工作によって離脱、さらに中堅選手も多くが離脱。
SWS[編集 | ソースを編集]
- メガネスーパーが立ち上げた。
- 天龍源一郎を始め全日本・新日本から選手多く引き抜き、波紋を呼んだ。
- その影響から週刊プロレスからは「金権プロレス」とバッシングされた。
- これが原因で天龍源一郎の娘がいじめられてしまった。
- その影響から週刊プロレスからは「金権プロレス」とバッシングされた。
- 加えて天龍派と反天龍派の対立が激化してしまった。
- 解散後、WAR、NOW、さらにPWCに分裂。
- 多分一番長続きしたのはWAR。
- 「一本花道」を日本で初めて採用したプロレス団体。
NOW[編集 | ソースを編集]
- SWS崩壊後、反天龍派の選手(ケンドー・ナガサキ、ジョージ高野・高野俊二など)を中心に発足。
- しかし旗揚げ戦の前に高野兄弟は退団。
- その後は維新力をエースとして興行を開催していたが、順調な経営とは行かず活動を停止。
- デビューしたての所属選手がリング輸送中に交通事故で亡くなるという不運もあった。
- 1994年1月に登坂栄児が代表に就任、1994年1月に第2次NOWとして活動再開するも長続きせず、10月に解散。
- 解散後は事実上大日本と下記の東京プロレスに分裂。
FMW[編集 | ソースを編集]
- 大仁田厚が旗揚げした、インディプロレスのパイオニアとも言える団体。
- 資金5万円で旗揚げしたらしい。
- 正式には「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」と言うように、当初は異種格闘技やストリートファイトが中心だった。
- 初期には柔道のメダリストやボクシングの世界チャンピオンが参戦していたこともあった。
- 全盛期は何といっても電流爆破。大仁田が特許を取得していた。
- また、女子部も設けてミックスファイトも展開。女子プロレス対抗戦ブームはFMWが全女に申し込んだことが発端だった。
- 晩年は主力選手の欠場、それに伴う経営の悪化が響き、2002年に倒産。
- 最後まで金策に奔走していた荒井社長は団体倒産後に…。
- 早死にする関係者が後を絶たない。
- 一方、大仁田だけはピンピンしている為、ネタと言っては不謹慎だが、誰かの訃報が入る度に、周囲の生気を吸い取っているだのと話題にされる。
- 1998年から2000年までディレクTVが放映権を取得していた。
- この影響で末期は過激なエンタメ路線を推進していた。AV男優のチョコボール向井がデビューしたのもこの頃。
格闘探偵団バトラーツ[編集 | ソースを編集]
- 1995年11月、スポンサーからの所属選手の大幅なリストラ提示に反発した藤原喜明以外の全所属選手が藤原組を退団して設立された団体。
- そのため藤原組長との確執はなく、旗揚げ戦の直前に行われたスペシャルイベントでは藤原が挨拶を行っている。
- 当初はスター選手不在だったが、その後は「バチバチ」とも評されるファイトスタイルでプロレスファンの支持を得ることに成功。
- 更にPRIDEに参戦していたアレクサンダー大塚の活躍もあり、1998年11月には旗揚げから僅か2年で両国国技館大会を開催するまで急成長。
- 当時の所属選手だった臼田勝美曰く「超満員ではないけれども、満員マークは付けられるぐらいな客入りにはなった」。
- しかし両国大会後は田中稔(→新日本)や池田大輔(→全日本)の離脱もあり、団体としての勢いは徐々に失速。
- 2001年9月のZERO-ONEの火祭りボイコット騒動でファンの信頼を失い、10月に活動停止。
- 翌2002年6月に活動を再開したが、その後は団体として目立った活動のないまま2011年11月の新宿FACE大会を最後に解散。
- 解散の4日後には最後の所属選手の一人だった澤宗紀も引退。
- 翌2002年6月に活動を再開したが、その後は団体として目立った活動のないまま2011年11月の新宿FACE大会を最後に解散。
- 末期には女子部もあったが自然消滅している。
キングダム[編集 | ソースを編集]
- Uインターが解散した翌1997年、リングスへ移籍した田村潔司以外の所属選手の受け皿となる形で旗揚げ。
- しかし肝心の高田延彦はエキシビションへの登場やテレビ放送での解説役などサポート役に徹し、試合に出場することはなかった。
- その高田がヒクソンに敗れると人気も急落し、1998年3月の横浜大会を最後に活動終了。
- 活動終了後、佐野・桜庭・松井らは高田が設立した高田道場へ、高山と垣原は全日本プロレスへ、金原とヤマケンはリングスへそれぞれ移籍。
- プロレス団体としては初めてオープンフィンガーグローブ着用による顔面パンチとマウントパンチをルールで認めていた。
- 丸藤正道はここの入門テストに合格していたが、団体の崩壊により紆余曲折を経て全日本でデビュー。
健介office[編集 | ソースを編集]
- 元々はWJ退団後の佐々木健介のマネジメントだった。
- 社長は鬼嫁。
- その鬼嫁の地元に自社ビルを建てた。
- その鬼嫁の古巣であった全日本女子プロレスの手法を取り入れてる。
- 「ダイヤモンドリング」として団体化したが、健介引退により解散。健介オフィスとしては健介夫妻のマネジメント。
- 宮原健斗やマサ北宮(デビュー時は本名の北宮光洋)はここでデビューした。
- もちろん長男こと中嶋勝彦もここの出身。
- 元はWJのデビューだったが、崩壊等で健介の元へ。以降、夫妻の「長男」としてノアで活躍する現在に至る。無精ヒゲにパーマヘアのふてぶてしい現在の姿を見ると、立派なプロレスラーになったなと思う。
国際プロレス[編集 | ソースを編集]
- 日本プロレスを出た吉原功が旗揚げした。
- 団体名が示す通り外国人を様々な国から呼び寄せた。
- やはり金網デスマッチ。
- 一時TBSが放映権を持ち「TBSプロレス」に改称していたが、後に打ち切られ、東京12チャンネルに移った。
- この打ち切り後、TBSでのプロレス中継は単発特番にとどまっている。
- 12chに移ってからは女子部も設けていたが、すぐ消滅。
- 選手入場時のテーマ曲を初めて導入した団体でもある。
- 東京12チャンネルのレギュラー放送打ち切りが致命傷となり、1981年8月9日の北海道・羅臼大会を最後に活動停止。
- 実はその後も留萌と函館での大会が予定されていたが、いずれも中止となってしまった。
ジャパンプロレス[編集 | ソースを編集]
- 1984年に新日本を退団した長州力を中心とした選手・レフェリー・スタッフを中心に独立。
- 所属選手は全日本プロレスや日本テレビと契約を結んでおり、事実上全日本所属と言っても過言ではなかった。
- TBSでのレギュラー中継も企画されていたが、国際時代のトラブルから上層部にプロレスを嫌っていた人物がおり頓挫。
- レスリングでオリンピックに出場した選手が多かったのが特徴(マサ斎藤、長州、谷津)。
- このラインがロサンゼルス五輪代表の馳浩の獲得に繋がった。
- 最後は新日本参戦組(長州、マサ斎藤、小林、タイガー服部ら)と全日本残留組(谷津、永源ら)に分かれる形で崩壊。
- 崩壊後も興行会社としてしばらくは存続しており、大相撲から移籍した田上明はここに暫定的に所属した後、全日本へ移籍。
WJプロレス[編集 | ソースを編集]
- 新日本を退団した長州力が2003年に旗揚げ、「プロレス界のど真ん中を行く」と発言するも…。
- 所属選手の退団や相次ぐトラブルで翌2004年8月に解散。所属選手は長州の所属事務所であるリキプロへ移籍した。
- 7回、長州対天龍をやるつもりだったのに途中でやめちゃった。
- 長州が丸くなった。
- 練習生の死亡事故・総合格闘技イベントの失敗・選手の退団が相次ぎ、2004年活動停止。
- WJの崩壊以降、長州と健介は事実上の絶縁状態に…。
- 中嶋勝彦はここでデビューした。15歳9ヶ月でのデビューは男子選手最年少記録。
- 石井智宏がブレイクするきっかけになった団体でもある。
東京プロレス(豊登)[編集 | ソースを編集]
- 力道山亡き後、豊登がアントニオ猪木を引き連れて旗揚げ。
- これを日本初のインディ団体とする意見もある。
- 1967年に崩壊。猪木は日本プロレスに戻り、豊登は国際プロレスに合流。
東京プロレス(石川敬士)[編集 | ソースを編集]
- WARを退団した石川敬士が1994年12月に旗揚げ。
- 上記の東京プロレスとは無関係。
- 末期は団体名がコロコロ変わった。
- 東京プロレス→新東京プロレス→新東京プロレス石川一家
- 元ダイエーの山之内が練習生として所属していたが…。
- 退団の際に「プロレスの練習はプロ野球のキャンプより楽」と言い残し、退団。
- 但し本人はこの発言を否定している。
- 退団の際に「プロレスの練習はプロ野球のキャンプより楽」と言い残し、退団。
- 1996年12月の両国国技館大会を最後に解散。
- 翌1997年からはFFFという団体になる予定だったが、なんと旗揚げ戦の前に崩壊してしまった。
日本プロレス[編集 | ソースを編集]
- 力道山が中心となって立ち上げ、日本にプロレスを根付かせた団体。
- ジャイアント馬場・アントニオ猪木もここデビューした。
- テレビは日テレに加えNHK、TBSでも放映されていたが、やがて日テレに一本化。力道山の死後に馬場の日テレと猪木のNETに分かれた。
- 末期は新日本との合併計画もあったが破談し1973年4月に崩壊。
- 最後は全日本に救済合併される形で消滅した。
SMASH[編集 | ソースを編集]
- TAJIRIらがハッスルから独立して旗揚げ。
- プロレスだけでなくアマチュアDEEPも請け負う。
- TAJIRIの人脈で元WWEスーパースターも多数参戦。
- 女子の試合も必ず組まれる。
- そこで華名が「マニフェスト」を発表して物議を醸す。
- 日本では無名だったフィンランドの団体「FCF」の名を広めた。
- 国際プロレス以来ではないかと思われる欧州トップレスラー同士の試合も組まれる。
- 2012年にTAJIRIと社長の対立が原因で解散。TAJIRIは当時の所属全員を引き連れ新団体を旗揚げする一方、社長はパンクラスの運営権を得た。
パイオニア戦志[編集 | ソースを編集]
- 元国際プロレス所属の3人(剛竜馬・高杉正彦・アポロ菅原)で1989年4月に旗揚げ戦を開催するも、1990年12月に解散。
PWC[編集 | ソースを編集]
- 上記のNOWを旗揚げ戦前に退団した高野兄弟を中心に1993年設立。
- しかし兄弟仲の悪さからジョージが離脱。その後は選手不足・離脱・退団もあり、1994年に活動休止。
- それでも翌1995年に活動を再開すると新弟子の募集や他団体からの移籍・フリー選手の入団で持ち直したかに見えたが…。
- 1996年10月の北沢タウンホール大会終了後にまたしても所属選手が一斉退団し団体消滅となってしまった。
- 退団した選手のうち、高木・野沢・三上の3人は翌1997年にDDTを旗揚げした。
- 1996年10月の北沢タウンホール大会終了後にまたしても所属選手が一斉退団し団体消滅となってしまった。
UWF[編集 | ソースを編集]
- 旗揚げの発端はアントンハイゼル問題だった。
- アントニオ猪木の参加及びフジテレビの中継も予定されていたがいずれも頓挫。
- 第1次と第2次に分かれる。第1次解散後は新日本に出戻りした後、第2次旗揚げへ。
- 我々がイメージするUWFは主に競技色が強かった第2次。
- 第1次にラッシャー木村や剛竜馬が所属していたのはほとんど知られていない。
- 最後は経営陣と所属選手が対立した末、1990年12月の松本大会を最後に解散。
- 解散後は高田・安生・宮戸を中心とした下記のUインター、藤原・船木・鈴木を中心とした新UWF藤原組(のちの藤原組)、前田とWOWOWを中心としたリングスの3団体に分裂した。
UWFインターナショナル[編集 | ソースを編集]
- 第2次UWF崩壊後、高田延彦を中心に1991年旗揚げ。
- 「Uインター」とも略される。
- よくも悪くも、元双羽黒に引っ掻き回されたことでも有名。
- 新日本プロレスとの対抗戦後は勢いを失い、1996年に解散。
- 解散後はほぼ全選手が後継団体のキングダムへ移籍。
- 実はこの人がリングアナウンサーを務めていた。
ユニオンプロレス[編集 | ソースを編集]
- 1990年代半ばに活動していた第1次と、2005年から10年間活動していた第2次に分かれる。
- どちらにもポイズン澤田が関わっている。
- 第1次はインディー団体の統括組織だった「レスリング・ユニオン」を改組する形で1994年に旗揚げ。
- 史上初の「マムシデスマッチ」で話題になったが、ホームとしていた流山以外での興行は苦戦が続き1995年に活動停止。
- 第2次はDDTの別ブランドとして2005年に旗揚げ。
- 2015年の旗揚げ10周年記念・後楽園ホール大会を最後に解散。
- 解散時の所属選手はBASARAやDDTへと移籍。
- 現在はBASARAのシングルタイトル・ユニオンMAX王座に名前を残している。
ユニバーサル・プロレスリング[編集 | ソースを編集]
- ルチャリブレを日本に広めるきっかけを作った団体。
- 略称はUWFだったが、ここと区別するためユニバーサルと呼ばれていた。
- 旗揚げは全女が協力し、KAORUら女子選手も移籍。
- メキシコから一流選手を多数招聘していたことが経営に響き、1993年8月の後楽園大会を最後に活動休止。
- 末期はほとんどの日本人選手がノーギャラで参戦していたらしい。
- 活動休止後、ほとんどの所属選手はみちのくプロレスへ移籍。
WRESTLE-1[編集 | ソースを編集]
- 全日本プロレスが、また分裂してできた団体。
- 武藤と新社長のゴタゴタが原因。
- ノアも合わせると、全日系団体三国志状態。
- 当時の全日の主力選手の大多数が離脱して所属。
- ただ、諏訪魔、大森、バーニング等は全日本に残ったので、若手中心。
- 後に解散したWNCからTAJIRIを含む大半の男子選手が移籍。
- 興業計画は強気だが、果たして・・・
- ここからCEOがやってきた。
- 2017年9月に退任。
- 練習拠点は旧スポーツ会館。
- 業界初ともいえるプロレス専門学校を開校させた。
- 団体名は過去に武藤がK-1と合同で企画した興行から流用。
- 実は、女子選手もいる。
- 2020年4月で団体の活動休止が決定…
- 活動休止後、武藤・稲葉・吉岡らはノアに、芦野・土肥・羆嵐らは全日本へそれぞれ移籍。
- 「VOW12」で金本浩二がヤジった観客をつかまえたらダンスをすることを言っていたのにヤジった観客とダンスをせず、ぶっ飛ばしてしまった事件がW-1で起きた。
- 「チア-1」という、専属のアイドルグループが存在していた。
- メンバーの一人である才木玲佳は、レスラーも兼任していた。その実力は、あの武藤も認める折り紙つき。
国内女子[編集 | ソースを編集]
Actwres girl'Z[編集 | ソースを編集]
- 「アクトレス」とは「Actress(俳優)」と「Wrestling」をかけ合わせた造語。
- その名の通り「女優によるプロレス団体」をコンセプトとしており、アクション女優を兼務している選手が多い。
- 堀田祐美子が団体のアドバイザーだったことがある。
- しかし、就任から3年後に、運営会社と揉めて辞任した。
- 2021年限りでプロレス団体としての活動終了を発表。
- ファンの間では早くも各選手の去就について予想が飛び交っている。タレントとして残る人、プロレスラーとして生きて行く人、また後者は関わりのある団体へ移籍するのか、フリーで活動するのか、など。
- 現在も劇団としては存続しているが、プロレス団体としては事実上の解散で、自動的に残ったメンバーもプロレスラーとしては引退もしくは休業といって差し支えない状態となっている。
- かつて、DDT傘下のガンジョと対抗戦をした事がある。
- 現在、スターダムの中心選手となっている中野たむは、元々ここの出身。
- プロレス団体としては活動を終了したはずだが、何故かアイスリボンと絡み出したり、かと思ったら急遽取り止めになったりと、謎のムーブを繰り広げている。
- この事から撤退というのは口実で、既存の女子業界や人間達と、やりたくなかっただけなのでは?などと憶測が広がっている。
アルシオン[編集 | ソースを編集]
- 全女の倒産騒動が機となって分裂して旗揚げされた団体のひとつ。
- ライセンスナンバー制度やみちのくプロレスとの提携なども打ち出した。
- ここが生んだ最大のスターと言えば浜田文子。
- 新人が死亡するリング禍以降、アジャコングとの裁判や金銭問題など負の連鎖が続き、最後は堀田祐美子に乗っ取られてAtoZへ。
- この団体も一時期ディレクTVが放映権を持っていた。
- 2024年1月に新宿FACEで一夜限りの復活興行が開催。
- 色々あってプロレス界からフェードアウトしていた浜田も来場した。
GAEA JAPAN[編集 | ソースを編集]
- 長与千種が中心となって立ち上げた。
- 里村明衣子を始めとする1期生を「脅威の新人」と称されるまでに育てた。
- コミカルレスラー広田さくらもここでデビューした。
- しかし、1期生があまりにも脅威だったため、以降は広田以外の新人をうまく育てられず、ベテランに頼り崩壊の一因になった。
- 2005年4月の後楽園大会を最後に解散し、飛鳥と長与は引退。
- 広田と新人の水村も一度は引退したが、両選手とも後に復帰している。
- クラッシュギャルズを復活させたことでも知られる。
- 当時、フリーでヒールとして活躍していたライオネス飛鳥を長与が誘う形で「クラッシュ2000」として復活を遂げた。
JWP[編集 | ソースを編集]
- ジャパン女子プロレスからLLPWが分かれ、その残党によって旗揚げされた団体。
- 全日本女子プロレスなき今、女子プロ団体の老舗となった。
- 米山革命はうまくいくか!?
- 王座陥落後、引退撤回騒動を起こし非難を浴び、退団。
- 日本初のリング禍による死亡事故はここで起こった。
- 一時活動停止や所属選手が5人しかいなかったどん底の時期もあったが、なんとか持ち直した。少なくともここよりは機能している。
- WOWOWで中継していた時期もあった。
- 月1の道場マッチは普段考えられないエンタメマッチが売り。
- 道場でプロレス教室も開き、最近では多くの出身者がデビューしている。
- 2017年、25周年の節目で活動停止。選手たちは新団体「PURE-J」を旗揚げへ。
JDスター[編集 | ソースを編集]
- JDはジャンヌ・ダルクの略。旗揚げ当初は吉本興業の傘下で「吉本女子プロレスJd'」だった。
- しかし、後に吉本から離れJDスター女子プロレスに改称。末期は団体の看板を外しJDスターに。
- ジャガー横田がコーチに就いていた。
- BSジャパンとタイアップを打ち、プロレスを通じてアクション女優を目指すアストレスプロジェクトを立ち上げた。しかし女優として成功できたのは朝ドラ出演を果たした川崎亜沙美くらいだった。
- 現在では女子やインディを中心に多くの団体が使用する新木場1stRINGは元々ここの道場だった。
- 所属選手とフリーで参戦していた選手が「負けたら即×××デビューマッチ」を行い、負けた所属選手がそのままリングで撮影を行って騒動になったことがある。
- 解散時点での所属選手だった大畠美咲は2018年にDDTの大石真翔と結婚。
ジャパン女子プロレス[編集 | ソースを編集]
- 女子プロレス界の全女独占を終わらせた団体。
- 旗揚げ当初は秋元康が関わっていた。
- 全女との差別化からかコーチに山本小鉄を迎えるなど男子プロレスのエッセンスが入っていた。
- 旗揚げ戦で新人の神取忍がレジェンドのジャッキー佐藤にシュートを仕掛け騒動になった。
- 興行不振が続き起死回生として男女混合を狙い団体職員だった大仁田厚とグラン浜田を現役復帰させたが、反発に遭い頓挫した。
- 1992年1月の熊本大会を最後に解散し、JWPとLLPWに分裂。
全日本女子プロレス[編集 | ソースを編集]
- 女子プロレスが市民権を得るまで成長させた団体。
- 松永家による同族経営だった。
- フジテレビで中継をしていた。
- 実況を担当していた志生野アナウンサーも、当時全女の本社で電話番をしたことがあるらしい。
- 厳しい上下関係、三禁、25歳定年などを導入し、巡業もハードだった。
- 人気レスラーを歌手デビューさせ、ファンを拡大していった。マッハ文朱、ビューティーペア、ミミ萩原、クラッシュギャルズ、JBエンジェルス…。
- 「女人禁制」と言われた両国国技館、つづいてプロレス界初となる横浜アリーナにも進出。
- 対抗戦ブームに乗って女子プロレス界として唯一東京ドーム進出も果たしたが、高すぎる価格設定が響き予想外空席が目立ちさらに興行終了が日付をまたいだため、これがきっかけでブームが終焉。
- 副業として飲食店も経営。元々はセカンドキャリア対策だったが、後に興行不振の穴埋めに使われた。
- 90年代半ばに倒産。直後に分裂が起こり大幅縮小し、立ち直ることないまま2005年崩壊。
- 最終興行は2005年4月17日の後楽園ホール大会。当時ZERO1の運営会社だったファースト・オン・ステージの主催だった。
- 中西百重が全女にあるベルトを全部、巻くことができた。
NEO女子プロレス[編集 | ソースを編集]
- アルシオンともに全女が分裂してできた。
- 当初はネオ・レディースだったが、興行不振やトラブル続きで短期間で崩壊し、改めてNEO女子プロレスを立ち上げた。
- 初代の代表とうまくいかなかったチャパリータASARIが団体から離れたが、2代目の代表が甲田さんになったら、団体に戻ってきた。
- ネオ・レディースの反省から堅実路線、エンタメ路線を打ち出した。
- 横浜が拠点だった。
- 新日本女子プロレスと名乗る予定だったが、流石に新日本からクレームがついたので「ネオ・レディース」と名乗った。
- 2010年大晦日に解散。代表取締役だった甲田さんはその後東京女子の事業部長に。
国内その他[編集 | ソースを編集]
ハッスル[編集 | ソースを編集]
- ここ最近、勢力を伸ばす新興団体。
- 親会社は×××したけど・・・。
- 総統が大人気。
- 最初は総統じゃなかったことは内緒。
- 某老舗団体ファンとは犬猿の仲。
- というか、ショー要素が嫌いな人たちからは徹底的に嫌われている。
- コアなファンからは完全な際物(または別物)扱い。
- というか、ショー要素が嫌いな人たちからは徹底的に嫌われている。
- 何気にメインキャラよりも、ご当地キャラのほうがインパクト大。
- 「KIDATA・ロー」シリーズは掟破りの増毛。
- デンジャラスさんは芸の面でもデンジャラスだった。
- まさかエガちゃんをキャラで圧倒するとは。
- 武勇伝、ラララライ、チキショー!、何でだろう・・・。
- まさかエガちゃんをキャラで圧倒するとは。
- 芸能人参戦も目玉。
- 良くも悪くもプロレス危機の時代に一石を投じている。
- まさか、高田vs武藤(の外の人対決)が見られるとは。
- 高田将軍は?は禁句。
- 賃金不払いなどで訴えられている。
- これを機に選手大量流出。そのうち一部選手でSMASHを旗揚げ。
- 辛うじて持ちこたえ、「ハッスルマンズワールド」として再出発。
- 再出発から僅か1年で活動終了となってしまった。
海外[編集 | ソースを編集]
ECW[編集 | ソースを編集]
WCW[編集 | ソースを編集]
- 団体名の由来は衛星放送の番組のタイトルから。
- 90年代後半から2000年代前半にかけて、WWF(WWE)と激しい視聴率戦争を繰り広げた。
- nWoやゴールドバーグのブレイクもあり、一時期83週連続でWWFの視聴率を上回り、WWFを廃業寸前まで追い込んだ。
- nWoは日本にも輸入され一大旋風を巻き起こしたが、売り上げの多くを本国に持っていかれると、蝶野が嘆いていた。
- nWoやゴールドバーグのブレイクもあり、一時期83週連続でWWFの視聴率を上回り、WWFを廃業寸前まで追い込んだ。
- その後はWWFの巻き返し・主力選手のWWFへの移籍が相次き、2001年に活動終了。
- 末期の団体内はかなりのカオス状態だったらしい。
- 前座のレスラーが平然と実権を握り、グレート・ムタやスティングに平然と勝つというありえない試合が連発。
- ムタの代理人の武藤も「あんな下っ端レスラーの言う事なんか聞きたくねーよ」と不満を露わにしていたらしい。
- 前座のレスラーが平然と実権を握り、グレート・ムタやスティングに平然と勝つというありえない試合が連発。
- 末期の団体内はかなりのカオス状態だったらしい。
- 藤波の世代から、新日を始め日本の団体やレスラーとは交流があるので、結構お馴染みではないだろうか。
- ムタの活躍や、女子でも何人か関わりのあるレスラーがいる。