中央ユーラシア史
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スキタイ[編集 | ソースを編集]
- 金ピカ古代文明。
- アッシリア、アケメネス朝ペルシア相手に大暴れ。
- ヘラクレスとエキドナの子孫だってローマ人が言ってた。
- 代表的なクルガン建造民族の一つ。
- クルガンとは中央アジアからヨーロッパにかけて見られる古墳的なもの。
- 黄金製品がざくざく埋まってることもある。
- 最高神は竈の女神・タビティ。
- なんか遊牧民らしくない気がする。
- スキタイには遊牧スキタイの他に農耕スキタイ・農民スキタイとかもいる。
- 火炎崇拝って考えたらイラン系民族らしくはあるかもしれない。
- なんか遊牧民らしくない気がする。
- 小スキタイはドナウ川河口付近のこと。
匈奴[編集 | ソースを編集]
- 紀元前最強の遊牧国家。
- 東アジアで匈奴系国家は五胡十六国の夏が最後。
- 独孤氏は唐末まで貴族として栄える。
- 独孤損は宰相にまでなっている。
- 朱全忠の貴族大粛清で死亡。匈奴の末裔・独孤氏の栄華もここまで。
- 独孤損は宰相にまでなっている。
- 独孤氏は唐末まで貴族として栄える。
- フンやエフタルは西に向かった匈奴だと言われている。
- トルコ人によると元祖・トルコ人国家。
- 議論はあるけど、匈奴語はトルコ系の言語なのはガチっぽい。
月氏・クシャーナ朝[編集 | ソースを編集]
フン族[編集 | ソースを編集]
- 欧州東部に巨大勢力を築いた遊牧民族。
- 370年ころ、ヴォルガ川を越えヨーロッパに侵入。
- 「ゲルマン民族の大移動」とは、ウクライナにやって来たフン族からゲルマン民族が逃げ出したことである。
- 一枚岩ではない。
- 東西ローマや西ゴートはフン族を傭兵として雇ってることもあった。
- 匈奴と同じ民族とも言われている。
- アッティラが亡くなると求心力もなくなり、ゲピド族に敗れて覇権を失った。
柔然[編集 | ソースを編集]
- 鮮卑が五胡十六国時代に華北に引っ越したので、空いたモンゴル高原で拡大した勢力。
- もともと鮮卑拓跋部に従属していた。
- 突厥により滅ぼされた。
- 西に移ってアヴァールになったと言われている。
- 本当かどうかは怪しい。何でもかんでもモンゴル高原から来たことにするんじゃあない。
エフタル[編集 | ソースを編集]
- トルキスタンから北インドにかけて栄えた大帝国。
- インド人やペルシア人は「白いフン」と呼んでいた。
- 白いフン族って意味であって、鳩の糞みたいなイメージをしてはいけない。
- どこから来たのか不明。
- アルタイ山脈から南下してきたとか、パミール高原から来たとか。
- 『北魏書』によると大月氏の一族。
- 実際、版図的にはクシャーナ朝を受け継いでる。
- プロコピオスによると、フン族の一種らしい。
- 100年かけてグプタ朝を滅亡させた。
- サーサーン朝に朝貢させる。
- 突厥・サーサーン朝同盟に567年に打ち倒された。
- でも、その半世紀ばかり後に隋に朝貢してる。この遣使はどこから来たんだ?
- 3度目の大海嘯で滅んだ。
- ナウシカはエフタルの末裔。
突厥[編集 | ソースを編集]
- 後のトルコである。
- 当時はモンゴル高原からアラル海にかけてを領土としていた。
- 西突厥はカスピ海に達した。
- 突厥という国名自体、トルコ(テュルク)を漢字音写したもの。
- 最終的にウイグルに滅ぼされたけど、そのウイグルもテュルク系。
- 当時はモンゴル高原からアラル海にかけてを領土としていた。
- 優れた製鉄技術で覇権をとった。
- ヨーロッパから中国まで影響を及ぼした最初の汎ユーラシア帝国。
- 独立からたった30年で東西分裂してしまった。
- 7世紀半ばには東突厥も西突厥も唐の支配下に入る。
- 7世紀の唐の強さは異常。
- 唐から突厥第二可汗国が再独立してから突厥文字を使いだした。
- 突厥第一可汗国の頃は碑文やら行政文書にはソグド語を使ってた。
- 属国化してた期間にナショナリズムが芽生えたのか、唐支配下で文明化が進んだのか。
吐蕃[編集 | ソースを編集]
- チベット人が言うところの「大チベット」。
- そもそも、吐蕃によって「チベット」は誕生した。
- 鮮卑の末裔って噂がある。
- 青海あたりにいた吐谷渾は鮮卑系なのでありえなくもないのかも。
- 唐と真っ向から戦ってるわりに、影響も深い。
- 後半はウイグルとの戦いに明け暮れる。
- 安史の乱に乗じた吐蕃と安史の乱を鎮めたウイグルが対立するのは必定だったのかもしれない。
- ウイグルも、最終的に唐の援軍になったとはいえ、侵攻してるけどな。
- 840年に西域・河西回廊をウイグルに占領され講和。
- これにて吐蕃VSウイグルはウイグル勝利で決着。
- と、思いきや数年のうちに両方とも内乱で木端微塵に。
- 最終的に吐蕃が去った後の西域・河西回廊には、ウイグル可汗国の残党によって天山ウイグル王国と甘州ウイグル王国ができた。
- これにて吐蕃VSウイグルはウイグル勝利で決着。
- 安史の乱に乗じた吐蕃と安史の乱を鎮めたウイグルが対立するのは必定だったのかもしれない。
- 最後の王、ラン・ダルマは仏教を弾圧。
- 仏教国教化で国民の負担がおかしなことになってた反動。
- 結局、ニンマ派の僧侶に刺されて死ぬ。
- その後、後継者争いで南北分断。
- この暗殺成功によってニンマ派が栄えたかというと全然そんなことはない。
- チベット高原の数世紀続く混乱を見るに、桓武天皇の仏教政策は偉大。
- 時代も半世紀程度しか違わないし、下手すると日本もこうなってたかもしれない。
- 統一を失った後も吐蕃王家の血をひく王朝は長く続く。
- 最後まで残ったのはグゲ王国で1630年滅亡。
ハザール[編集 | ソースを編集]
- なぜかユダヤ教に改宗しちゃった不思議な人たち。
- 突厥の最西端勢力。
- つまりテュルク(トルコ)系。
- ブルガール人をぶちのめして黒海北岸も奪い取る。
- ドナウ川の南に今のブルガリアが出来たのはハザール人の影響。
ガズナ朝[編集 | ソースを編集]
モンゴル帝国[編集 | ソースを編集]
- 史上最大級の帝国。
- 広大さにおいて大英帝国と双璧。
- タイミングが良かったというのもある。
- 中国も中央アジアも単一の強大な国家がなかった。
- 一方、デリー・スルターン朝が興亡を繰り返した北インドには侵攻しきれてない。
- 中国も中央アジアも単一の強大な国家がなかった。
- パクス・モンゴリカ。
- モンゴル帝国による平和。当てはまるのはせいぜい14世紀前半くらいな気がする。
- 13世紀中は遠征と内部抗争で落ち着かない。14世紀半ばにはどこの構成国も戦乱まみれになってる。
- 元に限っては14世紀前半も政争で朝廷はグダグダ。
- モンゴル帝国による平和。当てはまるのはせいぜい14世紀前半くらいな気がする。
チャガタイ・ハン国[編集 | ソースを編集]
- モンゴル帝国の中部地方。
- 中央アジア南部にあった。
- まるで一体感がない。
- 一時期はオゴデイ家のカイドゥの傘下に入ってた。
- カイドゥの子チャパルを1306年に降伏させて、ようやく実質的な建国を果たす。
- 1347年には早くも東西分裂。
- 一時期はオゴデイ家のカイドゥの傘下に入ってた。
- 本人たちも「中央王国」って呼んでた。
- 草原地帯の東チャガタイとオアシス地帯の西チャガタイで分裂。
- 生活スタイルの不一致で別れた。
- 東チャガタイは遊牧の伝統を大事にしてモグーリスタンと呼ばれるようになる。
- 西チャガタイはオアシスで地元の文明に染まる。
- チャガタイ語が誕生し、後世も含めて豊かな古典文学を生み出していく。
- この東西争いの中で頭角を現したのがティムール。
- モンゴル帝国のインド方面担当。
ジョチ・ウルス[編集 | ソースを編集]
- いわゆるキプチャク・ハン国。
- 首都はサライ。往時は数十万人の大都市。
- 現代のヴォルゴグラードとアストラハンの間、ヴォルガ川沿いにあった。
- 24時間テレビの歌を連想するかもしれないが、それは正解。
- タタールのくびきによりロシアの地を支配。
- ノガイによりバルカン方面にも進出。
- 端っこだし草原地帯メインなせいかモンゴル帝国諸邦では一番安定してる気がする。
- ティムールが大暴れした結果バラバラに。
- 最後のモンゴル帝国系の国家、カザフ・ハン国は19世紀半ばにロシア帝国に完全に吸収され消滅。
- ジョチ・ウルスはバラバラになってもやっぱり安定感がある。
- 最後のモンゴル帝国系の国家、カザフ・ハン国は19世紀半ばにロシア帝国に完全に吸収され消滅。
ティムール帝国[編集 | ソースを編集]
オイラト[編集 | ソースを編集]
- 近世におけるモンゴル系民族の2大派閥の一方。
- もう一方はモンゴル族。
- 今は衰退してモンゴル族の1/30くらいしかいない。
- 現代は主にヨーロッパに住んでる。
- チンギス・カンの頃に登場したが、当時からそこそこ強大な勢力だった。
グシ・ハン王朝[編集 | ソースを編集]
- チベットの王朝。
- チベット人地域をほぼ統一する
- オイラトの盟主グシ・ハンがジュンガリアから南下して打ち立てた王朝。
- グシ・ハンはホシュート部の長だったことからホシュート・ハン国とも言う。
- グシ・ハンが去ったジュンガリアについては娘婿のバートル・ホンタイジに任せている。
- そこから発展したのがジュンガル帝国。
- ダライ・ラマ政権(ガンデンポタン)はグシ・ハンがヤルンツァンポ河流域を寄進したことで誕生した。
- 経緯としては教皇領の誕生とだいたい同じ。
- ハンの称号を与えたのもダライ・ラマ5世だし。
- 青海省のモンゴル人はグシ・ハンととも移住してきたオイラトの末裔。
- 清により解体された。