五代十国
五代十国の噂[編集 | ソースを編集]
- 北部が五代、南部が十国。
- 正統を継いだのが五代、有象無象が十国。
- 実は三国時代よりも息の長かった戦乱の時代。
- 五代の国号は「後梁」「後唐」「後晋」「後漢」「後周」と、すべて「後」の字がつく。
- これらは日本では慣習的にすべて「こう」と発音する。「ご」ではないのでご注意を。
- 国号に「後」がつくのは、すべてそれ以前に使われていたものの二番煎じだったから。長続きさえすれば「宋」のようにちゃんと呼んで貰えたのだが。
- もちろんその王朝は「大梁」「大唐」……と名乗っていた。「後」をつけたのは後世の史家。
- 梁は知らないが、唐以降はうちこそが「より正当だ」とどんどん古い時代の国号を名乗るようになった。
- 伍代夏子とは関係ない。
五代の皇帝[編集 | ソースを編集]
後梁の皇帝[編集 | ソースを編集]
太祖[編集 | ソースを編集]
- 唐の昭宣帝から禅譲を受けて即位。名前は朱全忠。
- 全忠というのは唐朝から賜った名で、もとの名は「温」。その前は「三」だった。
- 全忠という忠誠心あふれそうな名を賜っておきながら、主家を裏切り即位。禅譲と言っても先帝(昭宗)を殺害して昭宣帝を傀儡として即位させた上での話。
- 朱全忠が即位しようとした時に反対したのは実の兄だけ。
- 「こら三よ、おめえが天子様になるなんちゃ、なんつー大それたことを」と諫めたが、朱全忠はもちろん聞かなかった。
- この兄の名はたぶん「朱一」か「朱二」。中国の庶民の名前なんぞ、大体そんなもんだった。
- 全忠というのは唐朝から賜った名で、もとの名は「温」。その前は「三」だった。
- 天下を取れたのは政治や軍事に通じていた上に情け深かった奥さんの張夫人のおかげだといわれている。この人をなくしてから押さえがきかなくなった。本来恐妻家か?
- 義理の子供がいっぱいいた。
- 「仮子」と言い、見込みのある若者と仮に親子の縁を結んだもの。親衛隊のような存在となる。仮とはいえ、親のためなら最後まで忠誠を尽くすだろうと期待してのこと。
- 仮子のひとり、朱友文の奥さんが美人だったので取り上げた。
- 部将ウリヤの妻バテシバに懸想したダビデ王よりは義理堅かった。
- ダビデ王はバテシバを自分のものにするため、ウリヤを死地に送り込んで戦死させた。@旧約聖書
- 一方太祖は、朱友文を実子に代えて後継者に指名しようとした。
- 朱友文のほうも、それを見越して奥さんに因果を含め、オヤジに差し出した形跡がある。
- 部将ウリヤの妻バテシバに懸想したダビデ王よりは義理堅かった。
- 朱友文に皇太子の座を奪われそうになった実子・朱友珪に殺される。
- 朱友珪はついでに朱友文夫婦も惨殺。
- これで帝位に就けると思っていた朱友珪だが、弟の朱友貞に攻め滅ぼされる。この朱友貞が末帝。
- 良い点をあげるとするなら、農民出身だったためか民衆へのいたわりの心は持っていた。また、交通の便がいい汴(サンズイに卞)州を新王朝の首都とした。この地は開封として大きく栄えることとなる。
末帝[編集 | ソースを編集]
- 太祖のライバルだった李克用の息子・李存勗と、10年間二代目同士のつばぜり合いを続けたが、その間に家臣や部将ともぎくしゃくし、ついに首都・大梁を囲まれて自殺。
後唐の皇帝[編集 | ソースを編集]
- トルコ系の部族出身の唐末期の軍閥、李克用の子が李存勗(荘宗)である。李克用は死後に太祖の号を贈られている。
荘宗[編集 | ソースを編集]
- 李存勗が後梁の末帝を亡ぼして即位。
- 唐かぶれで、せっかく朱全忠が弱めておいた宦官勢力を復活させ、人々をうんざりさせた。
- みずから寵愛して取り立てた、俳優あがりの将軍に殺されてしまう。
- 軍人としては優れていたが政治家としては失格。
- 特に後梁の都汴州(開封)ではなく交通の便が悪い洛陽に首都を置いたことは見る目が無いといわれても仕方ない。
明宗[編集 | ソースを編集]
- 荘宗の父・李克用の義子。これも「仮子」と同じようなもの。
- 善政を施したが、即位した時すでに60歳の高齢で、8年しか統治できなかった。
- のちに「五代の宰相」と呼ばれた馮道を宰相に取り立てて重用。
閔帝[編集 | ソースを編集]
- 多少の後継者争いがあったのち即位した、明宗の三男。
- しかし、明宗の義子で軍を握っていた李従珂に攻められ、亡命した挙げ句に殺される。
末帝[編集 | ソースを編集]
- 李従珂が即位。
- 閔帝が首都・洛陽から都落ちした後、宰相・馮道の勧進により迎えられた。
- この馮道の行為は裏切りとして評判が悪いが、洛陽が戦場になるのを回避しようとしただけのこと。
- 明宗配下で、末帝と共に軍の二大巨頭であった石敬瑭を煙たがり、勢力を削ごうとして逆に攻められる。石敬瑭は北方の契丹の力を借りて洛陽を攻め、末帝のみならず後唐朝そのものを亡ぼしてしまった。
後晋の皇帝[編集 | ソースを編集]
高祖[編集 | ソースを編集]
- 石敬瑭が即位。
- 後唐の末帝を攻めるのに、契丹の力を借りた。代償に差し出したのが、現在の北京付近であるいわゆる「燕雲13州」。
- のちに宋が理不尽にも契丹(遼)に返還を要求し続けた。
- 即位はしたが、急場のことだったので、朝廷の百官はそのまま留任。馮道もそのまま留任。
- 馮道は契丹へ使節として赴き、その人柄で耶律徳光(遼の太宗)に大いに信頼されて帰国。大任を果たしたということで高祖にも絶大な信頼を寄せられる。
- 臨終にあたって、幼少の皇太子を、河東節度使・劉知遠に輔佐させるよう遺言したが、遺勅を授かった天平節度使・景延広はこれを握りつぶし、仲の良かった高祖の甥を擁立。これが出帝。もちろん劉知遠は大いにヘソを曲げる。
出帝[編集 | ソースを編集]
- 遼に対し、無用に強硬に出て激怒させ、たちまち亡ぼされる。
- この時、馮道は親遼の立場と見なされて政局から遠ざけられていた。
- あまりにあっけなく亡ぼされてしまったのは、出帝即位のいきさつを知ってヘソを曲げた劉知遠が、大軍を擁しながら一兵も動かさなかったため。
- 出帝の死後、左遷されていた馮道は、首都・開封に進駐していた遼の太宗のもとへ行って、城内での乱暴狼藉を抑えるよう懇願。
- この時馮道は
「今や民衆は仏菩薩が出でようとも救われませぬ。ただ陛下だけが彼らを救えるのでございます」と言った。たかが夷狄の首長を仏菩薩以上と持ち上げたというので、この発言も後世不評を買った。
- この時馮道は
後漢の皇帝[編集 | ソースを編集]
- この後漢は「こうかん」と読みます。光武帝が開いた後漢(ごかん)王朝と間違えないように。
- この王朝があるが故に、前漢の事を「西漢」,後漢の事を「東漢」と呼ぶこともある。(前漢の首都が長安〔現・西安〕。後漢の首都が洛陽だった事による物)
高祖[編集 | ソースを編集]
- 遼軍が去った後、劉知遠が空城となった開封に入り込んで即位。
- 即位を奨めたのは部将の郭威ら。
- 後漢は僅か4年で亡びる。出帝即位のいきさつでヘソを曲げて兵を動かさず、後晋が亡びるのを座視していた劉知遠程度の器量では、まあそんなものだろう。
- 即位した翌年、病死。
隠帝[編集 | ソースを編集]
- 有力家臣の存在をおそれ、彼らの勢力を削ろうとした。
- 危機感を持った部将の郭威が、抗議の兵を起こす。
- 郭威は別に、隠帝を亡ぼすつもりはなかったようだが、開封城内でも人望を失っていた隠帝は、どさくさまぎれに側近に殺されてしまう。
後周の皇帝[編集 | ソースを編集]
太祖[編集 | ソースを編集]
- 後漢の隠帝の死後、開封に入城した郭威が即位。
- 当初は、後漢の高祖の甥を擁立しようとしたが、その準備中に遼軍来襲の知らせを受け、軍を率いて出立したところ、逆に部下の将兵から自分が擁立されてしまった。
- ……ということに史書ではなっているが、限りなくヤラセっぽい。
- もっとも、後漢の高祖を同じような形で擁立したのは太祖自身。のちに宋の太祖も同じような形で擁立されている。この当時、出先で将兵が皇帝を擁立するのがはやっていたのかも。
- 当初は、後漢の高祖の甥を擁立しようとしたが、その準備中に遼軍来襲の知らせを受け、軍を率いて出立したところ、逆に部下の将兵から自分が擁立されてしまった。
世宗[編集 | ソースを編集]
- 太祖に子がなかったので、皇后・柴氏の甥が後を継ぐ。
- だから太祖と世宗とは実は血縁がない。姓も異なる。
- 軍政を改革し、中央軍の強化に努める。
- その結果、地方軍閥を抑え込むことに成功。
- 中央軍の強化のためにおこなったさまざまな施策が、結果的に善政となり、世宗は五代随一の名君と呼ばれるようになった。
- 遼に一矢を報い、四川の後蜀を攻め、江南の南唐を蹴散らし、ほぼ中国全土を統一する直前まで勢力を拡げた。
- しかし、惜しくも39歳の若さで病没。
- 在世中に、のさばっていた仏教勢力を抑制したことで有名(歴史の授業で習う三武一宗の廃仏のラスト)。
- 余談ながら、水滸伝に登場する好漢達の世話人役・小旋風柴進は彼の子孫という設定。
恭帝[編集 | ソースを編集]
- 7歳で即位。
- 「もうちょっとで天下統一だったのに、ここで幼帝かよ!」という後周の人々の声なきツッコミが形となり、世宗の片腕だった中央軍司令官・趙匡胤が出先で擁立される。これが宋の太祖。
- 後周の皇室には、大したうるさ型も居なかったので、趙匡胤の即位はあっさり認められ、恭帝は帝位から下りた。
- 中国史上もっともすんなりと天下をとれた趙匡胤はこれを王とし、恭帝とその子孫を厚遇するよう後継者に要請。
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