元首伝
- 没年順です。
分割ページ[編集 | ソースを編集]
- ローマ帝国の皇帝 (ユリウス・カエサルも含む)
- 東ローマ帝国#主な皇帝ごとの噂
- カリフ(イスラム帝国)
- ロマノフ朝の皇帝
紀元前の元首[編集 | ソースを編集]
ギルガメシュ[編集 | ソースを編集]
- ウルクの英雄王。
- 初代ウルク王じゃなくて5代目くらい。
- Fateではなんであんな偉そうなんだ?
- 初代ウルク王じゃなくて5代目くらい。
- 何でもある宝物庫なんか持ってない。イシュタル買収とか無茶言うな。
- イシュタルのために神殿を増築してるけど、かつて求婚してきたイシュタルを振ってるからどう考えても恨まれてる。良くてプラマイゼロ。
- でも、後に害獣駆除が必要になったときはイシュタルがギルガメシュを頼ってるんだよな。男女の仲は良く分からん。
- イシュタルのために神殿を増築してるけど、かつて求婚してきたイシュタルを振ってるからどう考えても恨まれてる。良くてプラマイゼロ。
- 金ピカでもないと断言したいところだが、シュメール人の自称が「黒頭の民」の一方でギルガメシュは2/3が神1/3が人間というよく分からない血筋のため黒頭じゃないかもしれないし、太陽神から美しさを授かったとか言われてるので、案外本当に金ピカだったかもしれない。
- 考えてみたら、曾祖父と母が神なので1/8と1/2併せて62.5%神の血になる。これを大雑把に言えば2/3くらいだよと表しているだけなのかも。
- 可愛いライオンを腕で抱っこしたレリーフで有名(ドゥル・シャルキン出土)
- あれ、本当にギルガメシュか?とも言われてはいる。
- ライオンとの関係性から見てもヘラクレス伝説のいくらかはギルガメシュが元ネタと思われる。
- シュメール語名ではビルガメス、「祖先は英雄」という意味らしい。
- 叙事詩以外だと実は全然情報がなかったりする。
- ギルガメシュと関わりのあった他の都市の王は実在が確認されてるので、ギルガメシュもおったんやろうな程度のことしか分からない。
- 叙事詩以外だと実は全然情報がなかったりする。
- なんやかんやでローマ帝国時代まで伝承が伝わってるのでやっぱり半端ない王様である。
サルゴン(シャル・キン)[編集 | ソースを編集]
- メソポタミア文明でも歴史的に最も重要な君主の一人。
- 名前は有名。
- なんだけど、同時代の史料はほとんどない。
- その名前も「正当な王」っていう意味で個人名というより称号っぽい。
- 始皇帝にも似たノリを感じる。
- アッカド帝国の初代、メソポタミア史上空前の大帝国を築いた。
- この後のメソポタミア統一政権はどれもアッカド帝国の模倣みたいな部分がある。
- 生まれたときは籠に入れられ川に流されたらしい。
- モーセはサルゴンのパクり。
- 案外、桃太郎もサルゴンがネタ元かもしれない。
- 赤ん坊が川をどんぶらこと流れてくる。
- サルゴンは史上初の海軍遠征で知られてるし、桃太郎も鬼ヶ島まで遠征してる。
ペピ2世[編集 | ソースを編集]
- エジプト第6王朝のファラオ。94年間在位したとされる。
- 即位したときは6歳、崩御したときは100歳。
- 但し、この記録は64年の書き間違いとする説もある。
- 将軍と同性愛関係にあったという伝説がある。
シャムシ・アダド1世[編集 | ソースを編集]
- 紀元前18世紀の成り上がり帝王。
- 一地方領主からメソポタミアの覇者に。
- 一時は拠点も失いバビロニアへ亡命する憂き目に合った。
- 後にはバビロニアの王ハンムラビをも臣従させる。
- アッシリアあたりを足場に帝国を築いたことからアッシリア王として知られる。
- でもアッシリア出身じゃないし、王都も旧来のアッシリアの国外に置いてるし、最終的には「アッシリア王でもあった」っていうのが妥当なところ。
- そのため、彼の王国は「上メソポタミア王国」と呼ばれる。
- でもアッシリア出身じゃないし、王都も旧来のアッシリアの国外に置いてるし、最終的には「アッシリア王でもあった」っていうのが妥当なところ。
- 死んだら、あっという間に王国は瓦解。
- 斎藤道三とか宇喜多直家なんかの下剋上大名っぽい流れ。
- 息子たちを副王に任命して地方を支配させてるけど、書簡で一々細かく指示してる。
- 結局、シャムシ・アダド1世個人の能力で持ってた国ということか。
ハンムラビ[編集 | ソースを編集]
- バビロン第1王朝の王様。
- 世界初の成文法「ハンムラビ法典」を作った。
- 「目には目を、歯には歯を」で有名。
- 「やられたらやり返せ」という意味に誤解している人が多いが、本当は過剰報復および私刑の禁止を意味している。
- 「加害者には被害の程度に応じた刑罰を国家が与えるので、勝手に復讐してはいかん」ということ。
- しかも、身分の低い人から身分の高い人に危害を加えると重罪だが、その逆はかなり罪が軽い。
- 「やられたらやり返せ」という意味に誤解している人が多いが、本当は過剰報復および私刑の禁止を意味している。
- 「目には目を、歯には歯を」で有名。
- 都市国家に過ぎなかったバビロンの領土を拡張し、メソポタミア一帯をほぼ統一した偉大な王様である。
アメンホテプ4世[編集 | ソースを編集]
- 神官たちの権力を抑えようとした結果、なんと信じる神を変えてしまったファラオ。
- でも没後に神官たちの手で元に戻されてしまった可哀想なファラオでもある。
- この時擁立されたファラオがあのツタンカーメン。
- でも没後に神官たちの手で元に戻されてしまった可哀想なファラオでもある。
ツタンカーメン[編集 | ソースを編集]
- エジプト第18王朝のファラオ。
- 本当は「トゥト・アンク・アメン」という。早口で言ってみよう。
- 若死にして、ほとんどなんの業績も残していないが、その地味さが幸いして、墳墓が盗掘されていなかった。そのため20世紀になってから見事な副葬品が発掘され話題となった。
- 暗殺説が根強くあったが、ミイラ分析を行った近年は負傷致死説が有力。生まれつき片足が短かったことにより、ある日バランスを崩し重傷を負い、だそうな。
- 発掘に関わった考古学者とスポンサーが相次いで死んだので、呪いがかかっていたと言われた。
- 両方とも老齢で病死。よく考えれば別に不思議もないのだが。
ダビデ[編集 | ソースを編集]
- 古イスラエル王国の最盛期を作った王様。
- 「ダビデの星」で有名。ユダヤのシンボルマーク。
- ふたつの正三角形を組み合わせた形。六芒星とも言う。
- キリストが落ち延びた青森県新郷村にも伝わっている。まぁ、日本では籠目紋といって別に不思議ではないんだが。
- 部下の将軍の奥さんの美貌に目を留め、その将軍をわざと敗北必至な戦場へ赴かせて死なせ、奥さんを自分のものにしてしまったという極悪な人。
- その妻の名はヘドバ。
- お付きの預言者から「ある悪人のたとえ話」をされ、「ひどい奴だ、そいつ死刑にしてやれ」と答えると「それ、あなたのことですよ……」
- そのやり取りで自分の外道ぶりを思い知ったダビデが必死で神様に許しを求めたときの祈りが、旧約聖書の詩篇・第51篇である。
- しかし結果として神様から下された罰は家族が崩壊するような激烈なものであった。
- そのときの不義の子はすぐに死亡、長男は妹をレイプし、三男はその事件にキレて長男をブチ殺した上、謀反を起こす。
- 全裸姿の彫像。
- 嬉しさ大爆発のあまりに裸踊りをやった、というエピソードが旧約聖書に載っている。
- 2017年まで旧約聖書の公式日本語訳に「気が違っている」という表現が堂々と載っていたのは、この人のおかげ。
- 2017年の改訳以降は「頭がおかしくなったかのように」に変わった。
ソロモン[編集 | ソースを編集]
- ダビデの息子。親父に続いてイスラエル王国を繁栄させた。
- 今でも知恵の象徴のように見なされている頭の良い王様だったが、晩年は朝貢してきたシバの女王の色香に惑ってgdgdに。
- 72柱の悪魔を従えていたという。
- 遠い国から招いたお妾さんが故郷の宗教を持ち込むのを許容した。旧約聖書の立場では、それによって神の加護を失い、国が傾くきっかけになったものとしている。
- 親父と同様に、政治手腕はとても優れていながら女性問題でズッコケた。それによって親父は家庭を崩壊させ、息子は国家を崩壊させることになる。
ナボニドゥス[編集 | ソースを編集]
- バビロニア最後の王。
- 考古趣味の人。
- 骨董品を集めて博物館を建てる。
- 世界最古の博物館らしい。
- 建てた場所がウルっていうのもまた趣味全開過ぎる。
- 骨董品を集めて博物館を建てる。
- 古代の神殿を発掘し神殿を再建しまくる。
- ウルのジッグラト、ハランにある月神の聖所などなど。
- 宗教改革を試みたっぽい。
- なぜか砂漠のオアシスに10年も引き籠る。
- その間、統治は王子ベルシャザルに丸投げ。
- 統治丸投げすんなら譲位しろよナボニドゥス。
- その間、統治は王子ベルシャザルに丸投げ。
- ナボニドゥスの抵抗むなしく、アケメネス朝により新バビロニア王国滅亡。
- 滅亡フラグが立ち過ぎてて、「そりゃそうだ」としか言えない。
- ナボニドゥス本人は助命されたらしい。
- ただ、Wikipediaなど没年と退位年を同じとしているものが多いので、どうなったのか今一つ不明。
- ベルシャザルはアケメネス朝がバビロンに攻めてきて即死亡。
- 王子、かわいそう過ぎる。
- ナボニドゥスは王族でもないのに即位してそれ以前の混乱を鎮めているので、タダモノではないはずだが、良い噂は聞かない。
アレクサンドロス3世[編集 | ソースを編集]
- 通称アレクサンダー大王。マケドニアの王様。
- 最近は、某ゲームのスピンオフの影響で「イスカンダル」の通称も一部で広まりつつある?
- 大学者アリストテレスの薫陶を受ける。
- 史上初の「世界征服」をやってのける。
- この場合の「世界」は、「その当時知られていた世界」という意味で、「地球上すべて」ということではありませぬ。
- ヨーロッパ、アフリカ地中海沿岸、オリエント地方、くらいなもの。
- 親父のフィリッポス2世も貪欲に他国を征服した男で、若き日のアレクサンドロスは「父上は俺に征服する土地を全く残さないつもりか!」と煩悶したとか。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- フィリッポスが完璧な下準備、特に最先端の軍制と優秀な部下を残してくれたため、アレクサンドロスは思うがまま征服事業に専念できた。
- もし、アレクサンドロスとフィリッポスの生まれる順番が逆だったら、慎重なフィリッポスがペルシャを征服できないのはもちろん、一本気なアレクサンドロスでは、複雑で反復常ならぬギリシャを統一することは出来なかっただろう。
- もしかして「百年に一人」「千年に一人」では……? 百人に一人じゃ大したことないと思うぞ。
- orz。
- 軍事だったらアレクサンドロスに一歩及ばないかもしれないけど外交、内政、組織力なんかも加味した総合点だったらフィリッポスはいい線いってるんじゃね。アレクサンドロスは父みたいに相手によって巧みに外向と軍事を使い分けるというよりはむしろ武力一辺倒だし。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- エジプトを制圧し、ペルシャを叩き潰し、ソグディアナを蹴散らし、インドまで到達したところでひとまず帰国。
- この場合の「世界」は、「その当時知られていた世界」という意味で、「地球上すべて」ということではありませぬ。
- わずか33歳で病死。長生きしていたらどうなっていたことか。
- 息子のアレクサンドロス4世はこの時まだ母の胎内におり、巨大な版図の後継者が居なかった。
- アレクサンドロスの遺言は「最も強い者が帝国を継承せよ」……たちまち血で血を洗う内戦が始まり、巨大帝国はあっけなく瓦解した。
- 長生きしていたらこうなっていたのかな。
- 征服地のあちこちに「アレクサンドリア」と名付けた都市を建設。
アショーカ[編集 | ソースを編集]
- インドをほぼ統一した王様。
- いつ頃の人だったのか、前後百年以上の差がある説がいろいろあって、よくわからなかった。
- 中国人に較べて、インド人の歴史的記録に対する無関心さを示す例としてよく挙げられた。始皇帝がいつ頃の人だかわからないようなものだからなあ。
- 最近になってようやく、紀元前4世紀末~前3世紀後半に生きていたことがほぼ確定したが、生没年には未だに「頃」がつけられる。
- 全国一律の法によって天下を治めようとした点、始皇帝に似ている。
- その死後王朝がたちまち傾いてしまった点も、始皇帝に似ている。
- 仏教の庇護をおこなった。仏教が普遍的宗教のひとつになったのはこの王様のおかげが大きい。
- 世界中に遺骨をばらまかれた。
クレオパトラ7世[編集 | ソースを編集]
- エジプト・プトレマイオス朝最後の女王様。
- 美女の代名詞。鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう。
- 実際には高すぎて、ワシ鼻気味だったとか。美女じゃなかった説も根強い。
- 肖像彫刻の鼻は、日本人から見れば高めだけど、ギリシャ人からすれば平均かやや低いと思う。
- 十数ヶ国語を使いこなし、きわめて教養豊かな知性派女性だったあたりが、どっちかというと無教養なローマの将軍どもにはまぶしかったと思われます。
- 実際には高すぎて、ワシ鼻気味だったとか。美女じゃなかった説も根強い。
- 骨肉の争いに外国勢力を引き入れたばかりに亡んだという点ではバカな女ではある。その時その時で必死だったことは認めるにせよ。
- この人の名前が、エジプトの象形文字の解読に役立った。
- 絨毯の中に隠れてカエサルのところに忍んで行ったり、宴席で高価な真珠を酢に溶かして飲んで見せたり、船の帆に香水をかけて香りを振りまいたりと、機知と演出でローマの将軍たちを虜にした。
- その最期は、わが身を毒蛇に咬ませて自裁。これも演出的。
- つまりモテるのは顔だけじゃなく仕草もあるということか。
- (当時の慣習として正当とは言え)初婚の相手が実の弟である。
1000年紀の元首[編集 | ソースを編集]
ゼノビア[編集 | ソースを編集]
- パルミラの女王。
- インテリ。
- 割といいとこのお嬢様だったっぽい。
- 「エジプトの女王」を自称してたらしいし、クレオパトラっぽさを感じなくもない。
- クレオパトラとの違いは本人にも軍事的才覚があったところ。
- アウレリアヌスに攻められて帝国は崩壊。わずか数年の短い栄華だった。
- パルミラ帝国滅亡時でも30代と結構若い。
- こんなことやらかしたら普通は処刑されちゃうものだが、ゼノビアの場合は余生も楽しく暮らしてた。
- ローマ近郊に立派な別荘を持ち、普通に再婚して子供もできたとか。
- 歴史上の皇帝僭称者たちと比べて危険性が少なかったおかげってところはあるかも。
- パルミラの街は潰して軍事基地にされたし、対立皇帝の類と違ってローマ軍に地盤がある人でもないし、ましてや地元シリアから離れイタリアで暮らしてるという状態。
- ついでに、本当にローマ帝国と対立してたのは数年で、それまでは東部諸州まで手が回らないから任せてた感じだし。
投槍器フクロウ[編集 | ソースを編集]
- おそらく、唯一名前が知られているテオティワカン王。
- マヤ文明の碑文に名を残したおかげ。テオティワカン人は文字記録をほぼ残していない。
- 象形文字の形状から便宜的に「投槍器フクロウ」と呼ばれている。
- 英語では「Spearthrower Owl」
- 古典マヤ語での読み方は「ハツォム・クイ」らしい。
- あくまで、マヤ語名であって、テオティワカンでは別の呼ばれ方だったのは確実。
- ひょっとすると個人名というより、テオティワカン王の称号かもしれない。
- テオティワカンの軍事神も「投槍器フクロウ」と呼ばれていた様子がある。
- 西暦378年、マヤ文明の諸都市に軍を派遣し征服した。
- 征西将軍はシヤフ・カック。
- ペテン盆地はだいたい占領か従属させたらしい。
- テオティワカンからペテン盆地までは約1000kmもある。
- 征西将軍はシヤフ・カック。
- 「ホ・ノフ・ウィッツ」という国の4代王という記録がある。
- このため、すでに数百年の歴史があるテオティワカンの王だと4代目では年月が合わないという批判がある。
- 王朝交代があったとすれば辻褄が合う。
- そうするとテオティワカンの当時の呼称が「ホ・ノフ・ウィッツ」だったということに。
- ただテオティワカンのマヤ語名はプフ(「葦の国」もしくは「蒲の国」の意味)だったとも言われている。
- そうするとテオティワカンの当時の呼称が「ホ・ノフ・ウィッツ」だったということに。
- 王朝交代があったとすれば辻褄が合う。
- このため、すでに数百年の歴史があるテオティワカンの王だと4代目では年月が合わないという批判がある。
- この時代はテオティワカンの影響がメソアメリカ各地で強化されてるので、ひょっとするとペテン盆地以外にも派兵した大征服王なのかもしれない。
- 他の場所は軍事的形跡があんまりないので、たぶん違う。
- マヤの都市・ティカルでは息子のヤシュ・ヌーン・アイーン1世を即位させる。
- なお、前王朝最後の王チャック・トック・イチャーク1世はシヤフ・カックが来たその日にお亡くなりに。
- 孫のシヤフ・チャン・カウィール2世が即位すると早くもテオティワカンの影響は薄まる。
- 服装もメキシコ高原風だったものが、孫の代にはマヤ風になってる。
- 当時はまだ「投槍器フクロウ」は存命だったが、やはり1000km彼方の大人口を持つ異文化圏を維持するのは難しかったのだろう。
- このシヤフ・チャン・カウィール2世が設置した碑文に「投槍器フクロウ」の死が記録されてる。
- 374年即位、439年死去。
- 在位65年は凄い。
- これより長い在位となると、日本だと伝説上以外ではいないし、中国皇帝にもローマ皇帝にもいない。
- 東ローマも入れるとバシレイオス2世が同じ65年。
- ティカル王だった息子が先に亡くなって代替わりするのも仕方ない。
- これより長い在位となると、日本だと伝説上以外ではいないし、中国皇帝にもローマ皇帝にもいない。
- 他のテオティワカン王は存在すら不明なのに、即位や死去の年月日すら分かってしまうのは、ひとえにマヤの碑文文化のおかげ。
- メキシコ高原とマヤじゃ全然文化が違うんだということが、こういうところからも分かる。
- 在位65年は凄い。
- ティカルではその後も国の偉人として位置づけられていたらしい。
- 26代目のティカル王であるハサウ・チャン・カウィール1世は、没後256年の追悼を行っている。
- 256年というのはマヤの暦だとキリがいい期間で、短期暦の1巡分。現代人でいえば没後100年とか没後200年を記念してるようなもの。
- 26代目のティカル王であるハサウ・チャン・カウィール1世は、没後256年の追悼を行っている。
郁久閭社崙[編集 | ソースを編集]
- 柔然の初代可汗。
- 君主としては丘豆伐可汗を名乗った。
- 「可汗」という称号を最初に使った人物とされる。
- つまり、中央ユーラシア史が「汗」まみれになったのは、この人のせい。
- 北魏との戦いに明け暮れた人生だった。
- 北魏に捕まって脱出するところからスタート。
- 北魏を避けつつ、漠北に大帝国を築く。
- 北魏軍から逃走中に死亡。
アッティラ[編集 | ソースを編集]
- あちらの方へこちらの方からえっちらおっちら行ってった。
- フン族の王。
- フランク王国のカロリング朝はアッティラの末裔だという伝説がある。
- 「神の災い」と恐れられる一方で、英雄視される傾向もある。
アーサー[編集 | ソースを編集]
- 5~6世紀くらいに生きたらしいブリトゥンの王様。
- 伝説はやたらと多いが、実像はよくわからない。つーか実在さえ確かでない。
- 伝説の色合いはどう見ても11~14世紀くらいの、中世的な雰囲気。喩えて言えば雄略天皇や武内宿禰が鎌倉時代みたいな装束と美意識で行動しているようなもので、いい加減なことおびただしい。
- どこぞのゲームのせいで実は女性でしたっていう疑惑まで出ている。
- 円卓の騎士を率いて、聖杯を手に入れたり、サクソン人を撃退したりした。
- 嫁は騎士のひとりランスロットと浮気した。
- ちなみに嫁の名はグエネヴィアで、現代英語で読むとジェニファー。なので、ジェニファーという名前は英語圏では少々色っぽすぎる印象があるらしい。
- ランスロット共々最後は警察に逮捕されている。容疑は歴史学者の通り魔殺人。
カール1世(カール大帝)[編集 | ソースを編集]
- 例の駄菓子「カール」が大好きでそれを自分の名前にしてしまった神聖ローマ皇帝。
- フランク王国全盛期の王。
- 飼い犬は、後に刑事犬となった。
- 昔、とあるテレビ番組ですごく速いランナーのロボットとして走ってた。
- フランス語ではシャルルマーニュ、英語読みではチャールズ大帝。
- 教育に熱心で、学問を奨励し、各地に学校の設置を命じた。
- 1960年代に「学校なんて馬鹿げたことを考えたのは誰なの?それはシャルルマーニュ大帝!」という歌を歌っていたフランスの女性歌手がいた。
オットー1世[編集 | ソースを編集]
- 神聖ローマ帝国初代皇帝と言われている。
- 神聖ローマ帝国初代はカール大帝という説もある。
- 西欧における約40年ぶりの皇帝。
- マクデブルク大好きおじさん。
- 妻であるエドギタに婚資として贈った土地。王位継承前はここに住んで、ここで子供もできた。
- マクデブルク大司教座を設立した。
- エドギタと一緒にここに埋葬されてる。
- 再婚した妻であるアーデルハイト・フォン・ブルグントは別のところで永眠してる。
- マジャール人を追っ払った。
- この当時はまだマジャール人は非キリスト教徒だったのでカトリック圏から見たらフン族の再来みたいなもの。
- 皇帝になれたのはこの功績によるところもたぶんある。
ハーラル1世[編集 | ソースを編集]
- Bluetooth。
- ハーラル1世の通称「青歯王」にちなむ。
- Bluetoothって命名したのはエリクソン社の社員。
- ハーラル1世の通称「青歯王」にちなむ。
- デンマークの名君。
2000年紀の元首[編集 | ソースを編集]
フリードリヒ1世(神聖ローマ帝国)[編集 | ソースを編集]
- バルバロッサといえばこの人。
- ドイツでは不死伝説があるほどの人気者らしいが、実際に収めた成功は意外と少ない。
リチャード1世[編集 | ソースを編集]
- イングランドの国王。ただし、英語は片言程度しか喋れなかった。
- ついでに言えば、在位は10年だがイングランドにいたのは半年だけ。
- 理由は、フランスの大貴族でもあったのと、戦争であちこち駆け回っていたため。
- ついでに言えば、在位は10年だがイングランドにいたのは半年だけ。
- 第3次十字軍で活躍していたのと、ロビン・フッドの逸話に登場するため格好いいイメージがあるが、実のところ戦争狂のDQNと言われても仕方のないところはある。
- 将としては一流な一方で王としては無茶苦茶だったが、政治家であるヒューバート・ウォルターが非常に有能だったおかげで国内はそれほど混乱はなかった。
- 十字軍のためにロンドンを売り飛ばそうとしたことがある。
ジョン[編集 | ソースを編集]
- 「失地王」とか「欠地王」と言われる。日本においてある意味有名な王。
- 勘違いされがちだが、この称号は戦争で領土を失いまくったからついたわけではない。(実際失いまくりはしたけれど)
- リチャード1世と直接喧嘩することを回避したかったフランスのフィリップに「奴の弟ならば…」と目をつけられ、翻弄された。
- とにかく失政ばかり取り上げられるため、無能の極みのような印象を持たれる。
- 評判が悪すぎて、その後のイギリス王にジョンはいない。
- 後世への影響を列挙すると史上稀な偉大な君主みたいに見えるけど、それは気のせい。
- マグナ・カルタを制定した。
- 正確に言うと制定させられた。
フィリップ2世[編集 | ソースを編集]
- 尊厳王。
- という称号の割に、腹黒いこともけっこうやっている。
- 当時フランスより優勢だったイングランドの勢力を大陸から追い出し、形勢を完全にひっくり返した。
- 蒼き狼と白き牝鹿では能力がやたらと高く設定されている。(政治値と智謀値が主役であるチンギスハーンよりも上なのに加え、戦闘値もあまり変わらない)
フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国)[編集 | ソースを編集]
- 第6次十字軍時代の神聖ローマ皇帝。ただし、皇帝になる前はシチリア王で、本人もドイツ人というよりイタリア人。
- なので、イタリア語読みでフェデリーコ2世と呼ばれる事も多い。
- 当時のシチリアはイスラム・ギリシャ正教・カトリックの混ざり合った多宗教地域だったため、本人もアラビア語やギリシャ語がペラペラ。当然、十字軍に対して情熱なんて持ってなかった。
- あまりにもやる気が無かったので、ローマ教皇に破門されて渋々出陣。現地のイスラム勢力が内乱中だったので、外交交渉だけで戦果を上げてほぼ無血でエルサレムに入城した。
- 当然、ローマ教皇やバリバリの宗教騎士団あたりからは「なんで戦わないんだよ!」と非難囂々だったそうな。
- で、結局エルサレム王としての戴冠式には、ドイツ騎士団長1人しか来なかった。
- あまりにもやる気が無かったので、ローマ教皇に破門されて渋々出陣。現地のイスラム勢力が内乱中だったので、外交交渉だけで戦果を上げてほぼ無血でエルサレムに入城した。
- 複数の言葉を堪能だったため、ふと「人間は、何の教育も受けなかったら何語で喋るようになるんだろう?」と思い立ち、赤ん坊を集めて一切言葉を使わずに育てさせた。
- ……が、育てた子供達は程なく皆死んでしまい、結局この疑問に答えは出なかったという。さすが中世、やる事がエグイ。
- 歴代神聖ローマ皇帝はイタリアにかまけきりでドイツ本国をほったらかしにする傾向があったが、この人はイタリア育ちで居城もイタリアという典型例。おかげで神聖ローマは中央集権からどんどん遠ざかったゆくのだった……
- 当時の評価は散々であったが、後世では「300年先を行っていた文化人」と評価された。
マンサ・ムサ[編集 | ソースを編集]
- マリ王国の王。猫大好き。
カジミェシュ3世[編集 | ソースを編集]
- 14世紀頃のポーランドの王。
- 国内の改革を大々的に進め、国力を飛躍的に向上させた。
- 後世の評価は上々。「木造の国に現れ、レンガの国を残して去って行った」と言われたりもした。
- が、日本の高校世界史における知名度はほぼ皆無。
シャルル7世[編集 | ソースを編集]
- ジャンヌを助けなかったことでジャンヌのファンからは痛い目を見られている。
- 息子のシャルルに殺されたとの説がある。
- ルイさん(11世)じゃなかったっけ。
- 勝利王
モンテスマ二世[編集 | ソースを編集]
- アステカ皇帝。狂犬とも噂されるほどの戦争好き。
ヘンリー8世[編集 | ソースを編集]
- イングランドの王様。メアリー1世、エリザベス1世のパパ。
- 不仲な王妃と離婚したいがためにカトリックをやめ、お手盛りで英国国教会を作ってしまったという自分勝手かつ痛快な王様。
- そのため英国国教会は離婚には寛容である。
- 離婚癖がついたのか、生涯に6人もの王妃をとっかえひっかえ。側室がたくさん居た君主は多いが、正室そのものをこれだけ取り替えたのは記録的かも。
- やってることは典型的な暴君なんだけど、結果的にカトリックの影響から抜け出せたので名君。
メアリー1世[編集 | ソースを編集]
- 英国の女王。エリザベス1世の異母姉。
- イケメンと結婚するために鬼となった。
- スペインのフェリペ2世との結婚話が持ち上がるが、カトリック国との婚姻に反対する人も多かった。
- しかしメアリーはフェリペ2世の絵姿を見て夢中になってしまい、愛する人との結婚を邪魔する新教徒どもを大弾圧。ブラッディ・メアリー(血塗られたメアリー)のあだ名をつけられる。
- そんなメアリーは稀代のブサージョ。肖像画を見てもひどいもので、お抱え画家ですら美化できないほどだったらしい。
- カクテルのブラッディマリーはもちろんこの人にちなむ。
- ともあれイケメンと結婚できて舞い上がり、彼との子供が欲しくて欲しくてたまらず、ようやく妊娠したかと思ったらなんと想像妊娠。
- フェリペ2世と結婚した時、メアリーはなんと38歳。今なら50歳近い感じだろう。
- 想像妊娠は卵巣腫瘍の症状をそう思ってしまったという説がある。その病気で没。
エリザベス1世[編集 | ソースを編集]
- 「処女王エリザベスElizabeth the virgin」と呼ばれたが、本当に生涯処女であったかどうかは定かでない。正式な結婚をしなかっただけ。
- 愛人とされた男の名前は何人か挙がっている。
- ともあれ、「私は国家と結婚した」とカッコいいことをのたもうた。
- 政治家としてのやり口はけっこうえげつない。
- 海賊どもを操ってスペインの海上権益を破壊、怒ったスペインの無敵艦隊を撃破。
- 従姉にあたるスコットランド女王メアリへの仕打ちはかなりひどい。
- 自分の肖像画の顔に影を描くな、と命令した。この人の顔がのっぺりしているのはこれが原因。
- 油絵で陰影を使えないのはかなり辛いが、自分の国に影が射さないように、という意味らしい。
ルイ14世[編集 | ソースを編集]
- またの名を太陽王。
- 「朕は国家なり」の名言を残す。
- 近衛軍の大砲の底には「朕の最後の意思」と刻まれていたとか。何かとスタンドプレイの目立った王様。
- 食事場面を公開し生涯続けるなど、やり方はともかく、その言葉通り自己を公的存在ならしめようと努力したことはすごいと思う。
- 絶対主義王政を確立。
- 勘違いしている人が多いが、絶対主義は単なる独裁や専制とは違う。それまでは王様に肉薄するくらいの権勢を持つ公爵やら大公やらが各地に割拠していたが、彼らを経済的軍事的に締め上げて骨抜きにし、王様の権力を絶対的にしたのが絶対主義。つまり封建制を経験した地域と時代にしか成立し得ない。
- ハイヒールがお好きだった。
- 「1643」年に生まれ、「1661」年に親政を始め、「1715」年に崩御。この3つの数字、どれも各位を足すと「14」になる。
- 72年の在位期間は君主としては世界史上最長らしい(2016年現在)。
- 古代だとこういう記録もある。
マリア・テレジア[編集 | ソースを編集]
- オーストリアの女帝。マリー・アントワネットのママン。
- 子供をたくさん産んでいるので、どっしりした肝っ玉母さんのイメージがあるが、前にハプスブルク秘宝展に陳列された着用のドレスを見たら、ウエストなんと39センチ。すげえ柳腰。
- マリア・テレジアの若い頃の肖像画はマジ美少女。世界史上最萌えと言っていいレベル。
- ただし、胸はない。チッ・・・
- 年をとった肖像ではあるって!? こやつめ、ハハハ
それじゃ意味無いじゃないか! - 美少女はむしろ胸がないほうがいいに決まっているじゃないか!
- 年をとった肖像ではあるって!? こやつめ、ハハハ
- 中世欧州貴族の間ではウェストが小さい女性が美人であった。故に幼少から専用のコルセットでウェストを絞めつけていた。まぁ中国の纏足みたいなものである。
- 初孫が生まれた時、昂奮して公演中の劇場の舞台に駆け上がり、
「みんな聞いて! うちの息子に子供が生まれたのよ!」と叫んだそうな。- 観客たちは一瞬あっけにとられたが、すぐに満場の大拍手。
フリードリヒ2世(プロイセン)[編集 | ソースを編集]
- マリア・テレジアの最大のライバル、プロイセンの大王。
- 王太子時代に『反マキャヴェリ論』なる著作を物し、「マキャヴェリみたいな権謀術数主義は良くないよな。君主は国家の第一の僕みたいなもんだし、戦争も正当な目的でやらないとだめだ」と主張した。
- とか言っておいて、マリア・テレジアが即位したとたん「シュレージエンって元はハプスブルクの領地じゃないし、プロテスタント多いからプロイセンが領有するのが正当だよな」とか難癖つけて占領した。本人には正当性があってのことかも知れないが、言行不一致にもほどがある。
- おかげさまで、後日オーストリア・ロシア・フランスのフルボッコに遭ってあわや国家滅亡まで追い込まれた。不幸中の幸い、連合側の意見不一致に助けられて奇跡的な引き分けを勝ち取った。
- この歴史に残る大逆転を都合良く受け取ったドイツの某指導者が、「諦めずに頑張れば逆転できるんだ!」という妄想を抱いて悪あがきを続けた結果、ドイツは悲惨な目に遭ったのだった。
- おかげさまで、後日オーストリア・ロシア・フランスのフルボッコに遭ってあわや国家滅亡まで追い込まれた。不幸中の幸い、連合側の意見不一致に助けられて奇跡的な引き分けを勝ち取った。
- とか言っておいて、マリア・テレジアが即位したとたん「シュレージエンって元はハプスブルクの領地じゃないし、プロテスタント多いからプロイセンが領有するのが正当だよな」とか難癖つけて占領した。本人には正当性があってのことかも知れないが、言行不一致にもほどがある。
- ライバルのテレジアと違って、男女関係は淡泊そのもの。子供もいなかった。
- 一応結婚はしていたが、七年戦争の後数年ぶりで妻と顔を合わせた時の言葉が「奥さん、少し太りましたか?」。
- 実はゲイだったんじゃないかとかイ○ポだったんじゃないかとか、後世で様々な憶測が流れている。
- 女性への蔑視とは裏腹に、あらゆる階級の将兵との交流を好んだ。時には士官の膝枕で仮眠をとったりもしたとか。やっぱりそっちの気が・・・
ルイ16世[編集 | ソースを編集]
- フランス革命でギロチンにかけられた気の毒な王様。
- 改革の必要性は知ってはいたが、ソフトランディングしようとして慎重すぎるあまり、フランス革命という究極のハードランディングを呼び込んでしまった。
- ちなみにギロチンは残酷な処刑道具というイメージが強いが、それまでの剣や斧による首切りは、うまく斬れずに受刑者を無駄に苦しめることが多かったため、確実に即死させる親切な装置として発明されたもの。
- 庶民側としても元々王様を処刑しようとまでは考えておらず、世の中が改革されればそれでよかった。しかし不穏な情勢に危機感を覚えて一時パリの脱出を図った(しかも失敗して連れ戻された)ことから、国民を見捨てた王の人気は地に落ち、国家に対する罪人はぶっ殺してしまえと投票で決定。特権にはノブレス・オブリージュが伴うという事をしくじったらこうなる見本である。
- 錠前を作るのが趣味。
- 浪費家の嫁を持ち、苦労した。
- 重度の包茎だったので嫁と×××することができず、欲求不満にかられた嫁が浪費に走ったという説があるが、どんなもんでっしゃろ。
- 包茎だってできることはできそうな気がするんだが。
- もともと包茎じゃなかった説が最近は有力。包茎が有名になってしまったのは革命期のゴシップまみれの誹謗中傷のせいでしょう。
- いわゆるカントン包茎だと、勃起時に痛いどころか血行が阻害されてナニが壊死することもある。ルイ16世がそうだったかは不明だが、×××どころじゃなかったのは確かだろう。
- ともかく、嫁の兄さんであるフランツ・ヨーゼフ王の薦めで手術を受けて完治、その後は普通に×××して数人の子供を作ったそうな。
- 単純に嫁が子供っぽすぎたのでその気になれなかったという話もある。
- 包茎だってできることはできそうな気がするんだが。
- 重度の包茎だったので嫁と×××することができず、欲求不満にかられた嫁が浪費に走ったという説があるが、どんなもんでっしゃろ。
ナポレオン1世[編集 | ソースを編集]
- コルシカ島出身の田舎者の伍長が、どう間違ったか成り上がって皇帝に。
- 間違えている人が多いが、「フランス皇帝」ではない。
- フランスの国民に対して演説する時、彼は「共和国市民諸君!」と呼びかけている。当時のフランスは帝国ではなく共和国だった。従って「フランス皇帝」が居るわけがない。
- 建前としては「世界皇帝」。だから革命の理念を世界中にひろめようとしてあちこち侵略しまくった。
- 「フランス人民の皇帝」という結構謎な称号だが皇帝なのは本当。そのため、帝政の共和国というどっちやねんな感じに。
- ローマ帝国からしてもともと帝政の共和国なんで、西洋の皇帝とは本来そういうもの。
- 睡眠は一日3時間だった。
- 実は、いつでもどこでも数分~数十分の短時間睡眠がとれる体質だったので、夜は3時間寝れば充分だったらしい。
- 匂いフェチだった。
- 戦地から帰還するとき、嫁宛に「これから帰るから、それまで体を洗わないでいてね」という手紙を送る。
- 嫁の体臭は乳製品系だったらしく、昼寝しているナポレオンの鼻先に召使がチーズを近づけたら、「ジョセフィーヌ許せ、今日は疲れているのだ」と寝言をもらした。
- ケルンで作られていた香水が気に入り、月に60本も消費していた。オーデコロンの始まりである。
- 戦地から帰還するとき、嫁宛に「これから帰るから、それまで体を洗わないでいてね」という手紙を送る。
マクシミリアーノ (メキシコ帝国)[編集 | ソースを編集]
- 落下傘皇帝。
- 最初の婚約者がブラジル皇女だったり、何かと新大陸と縁がある。
- 1864年メキシコ皇帝に即位、1867年処刑。
ナポレオン3世[編集 | ソースを編集]
- ナポレオン1世の甥。第二共和政のgdgdぶりにうんざりした人々の支持を受けて皇帝に。
- 一旦大統領に選出されてから、国民投票で皇帝になった。民主的な手段で昇りつめた点、ヒットラーに似ている。
- 前言を平気で翻すことが多く、「銃でも突きつけて談判しない限りは信用できない男」と言われた。
- 普仏戦争にボロ負けしてあっさり退位。
- 幕末から明治初期にかけて、日本はフランスを手本にすることが多かったのだが、このボロ負けの惨状と、その後ナポレオン3世がひきずりおろされた様子を見て、これではとても参考にならぬとドイツに鞍替えしたらしい。
- 捕虜にされるは、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝の即位しちゃうは、ちょっとかわいそう。
- ただ、こいつのせいでもっと酷い目にあった人が大勢いるのを忘れてはいけない。
- 捕虜にされるは、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝の即位しちゃうは、ちょっとかわいそう。
- 復位目指して裏で動いていた。
- 実行前に亡くなったので何事にもならなかった。
- 幕末から明治初期にかけて、日本はフランスを手本にすることが多かったのだが、このボロ負けの惨状と、その後ナポレオン3世がひきずりおろされた様子を見て、これではとても参考にならぬとドイツに鞍替えしたらしい。
- 徳川慶喜に軍服を送ったのはこの人。
- フランス第二次植民地帝国の創始者。
- パリ改造や鉄道整備など内政もよくやってる。
- 産業振興の功績も大。ルイ・ヴィトン、ソシエテ・ジェネラルなどの今日まで続く巨大企業も第二帝政期に登場。
- 偉大なるフランスのラスト・エンペラー。
- ナポレオン3世退位後はずっと共和国。
ヴィルヘルム1世[編集 | ソースを編集]
- プロイセン王からドイツ皇帝へ出世。
- ただし、本人は出世とは思わず、皇帝即位式の前夜、プロイセン王の称号を失うことを悲しんでさめざめと泣いたとか。
- 本人は大したことはしていない。皇帝に出世したのももっぱら宰相ビスマルクの権謀術数の結果。
フリードリヒ3世(ドイツ帝国)[編集 | ソースを編集]
- ヴィルヘルム1世の子。ヴィルヘルム2世の父。在位が100日ほどしかなかった皇帝。
- 父とは違って自由主義的だった模様。この人が長生きしていたらドイツももう少し変わっていたかも。
- 在位期間が短いためだろうか日本の世界史の授業では一切登場しない。
ヴィクトリア[編集 | ソースを編集]
- 英国の黄金期を築いた女王。
- 本人の政治手腕がさほどあったとは思えないが、何しろ長期在位だったので世情が安定したことが大きいようだ。
- むしろ君臨しただけで統治せず、政治にあまり口出ししなかったのが良かったと思われる。
- 途中からインド皇帝を兼任。「大英帝国」という呼び名に実が伴ったのはこの時から。
- 当時、ナポレオン3世(仏)、ヴィルヘルム1世(独)、フランツ・ヨーゼフ1世(墺)と、本来皇帝はひとりしか居ないはずのヨーロッパに何人も出現していたので、ヴィクトリア女王も皇帝位を欲しがっていたらしい。たまたまムガール帝国が軍門に下ったので、インド皇帝の後継者となることができた。
- シャーロック・ホームズやドリトル先生が活躍したのは主にこの治世。
- 旦那のアルバートは若死にして地味だが超切れ者。ヴィクトリアが名君でいられたのもこの人のおかげといっていい。
ヴィルヘルム2世[編集 | ソースを編集]
- 第一次世界大戦のラスボス扱いされているが、それほどの大人物ではない。
- ビスマルクがあまりに超人的な政治力を発揮していたせいなのか、国際政治学の中では彼に関してはかなりの無能として見られている。
- 影響力基準なら近代史上有数の大物なのは間違いない。ただし、無能な大物である。
- 英国のヴィクトリア女王の孫なので、若い頃はやたらと英国から口を出され、憤激して軍国主義に走る。
- 日本と開戦することに気乗り薄だったロシアのニコライ2世に、手紙を送って焚きつける。実は日露戦争の陰の推進者だったりする。
- これに限らず、さほど能力もないのに権謀に没頭し、ついに未曾有の大戦をひきおこして自分も退位するはめに。愚帝と呼んで差し支えないかと。
- 片手が不具だったらしい。ひた隠しにしていたが、フロイトに看破される。
- とっても無茶な軍事計画『シュリーフェンプラン』を実行して失敗した人。
- 退位後もオランダで健やかに22年の余生を過ごした。
- 独ソ戦の前に亡くなったのは、本人にとって幸いだったのだろう。
- オランダ移住の4年後には28歳年下の女性と結婚してたりもする。
- 通称、オランダの木こり。
- 趣味が木の伐採。変わってる。