北朝の皇帝
北朝の皇帝の噂[編集 | ソースを編集]
北魏の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 傾向として気性が荒く短命な人物が多い。天寿を全うしたのはこの中のたったの4人で、残りは軒並み誰かに殺されている。
- この王朝は皇太子が決まると、その生母を殺すしきたりになっていたが宣武帝の代にあまりに非人道的だからやめようということになった。ただ、それが王朝に禍根を残してしまったのは皮肉。
道武帝[編集 | ソースを編集]
- 鮮卑拓跋部の領袖。五胡十六国時代、一旦華北を統一した前秦に服属していたが、前秦の弱体化を見て「代王」を名乗って独立。13年後、国号を魏とし、皇帝を名乗る。
- 果敢で勇猛な皇帝だったが、晩年はおかしくなり、臣下や皇族をやたらと殺害。妻妾にも家庭内暴力をふるった。
- 母が虐待されるのを見、自分の身も危ないと思った次男に殺される。
明元帝[編集 | ソースを編集]
- 道武帝の長男だが、母を道武帝に殺され、親父に反撥して一時家出していた。
- 弟が親父を殺したのを知って、軍勢を率いて舞い戻り、弟を誅殺して即位。
- 14年間戦乱に明け暮れ、南朝・宋との戦いの中で死亡。
太武帝[編集 | ソースを編集]
- 五胡十六国の中で残っていた北燕と北涼を亡ぼし、前秦の苻堅以来半世紀ぶりに華北を統一。
- 最初仏教に理解を示していたが、漢人宰相・崔浩の口車に乗って道教に乗り換え、仏教を弾圧。
- この時代、僧になれば税金も払わず徴兵にも応じなくて良かったから、人々がわれもわれもと出家して、肝心の労働人口や兵力が激減していた。仏教を弾圧してにわか僧たちをむりやり還俗させたのは、むしろGJ。
- 歴史の授業では「三武一宗の廃仏」の記念すべき第1回と習う。テストに出ますよ!
- ちなみに崔浩はこのあと国史の編纂を命じられるが、あまりに漢人至上主義な書きぶりだったので鮮卑貴族たちの大ひんしゅくを買い、誅殺されてしまった。
- この時代、僧になれば税金も払わず徴兵にも応じなくて良かったから、人々がわれもわれもと出家して、肝心の労働人口や兵力が激減していた。仏教を弾圧してにわか僧たちをむりやり還俗させたのは、むしろGJ。
- 晩年は宦官・宗愛を寵愛。
- 宗愛は皇太子の側近を讒言して死罪にする。皇太子は衝撃を受けて間もなく病死。太武帝が皇太子を悼む余り、先の側近の処刑を後悔しているらしいのを見て、讒言の罪に問われることを恐れた宗愛は太武帝を殺害してしまう。
- 華北統一の偉業をなしとげた英傑にしては、悲劇的な最期であった。
敬寿帝[編集 | ソースを編集]
- 太武帝の末子。
- 宗愛に擁立されるが、我が物顔に跋扈する宗愛にむかつき、誅殺しようとするも逆襲されて殺される。
- 皇帝をふたりも殺した宦官というのは珍しい。
- さすがに宗愛はこのあと重臣たちにより誅された。
文成帝[編集 | ソースを編集]
- 太武帝の孫。
- 仏教弾圧をゆるめ、大過なく北魏を治めたが、26歳で病死。
- 皇后は馮氏。なかなかやり手の女性で、夫の死後実権を握って、次の献文帝、その次の孝文帝の代まで影響力を行使。
- といって、呂后や西太后のようなとんでもないオバハンではなく、けっこう善政を敷いている。
- 道武帝から彼まで5代。彼らをかたどったとされる雲崗の石窟寺院の「曇曜五窟」5体の大仏は有名である。
- えー?太武帝って仏教弾圧したじゃん?というツッコミはしないように。
- 「仏教」を弾圧したと言うより「寺院」を弾圧したわけですな。
献文帝[編集 | ソースを編集]
- 9歳で即位したが、だいたい母・馮皇太后の言うなり。
- その後反抗期になって母にたてつくようになると、母の命令で息子に譲位させられる。
- ちなみにその時献文帝は18歳で、譲位した息子は4歳。をい……
孝文帝[編集 | ソースを編集]
- 4歳で即位したが、しばらくは祖母・馮太皇太后の言うなり。
- 太皇太后が死ぬと親政を始める。
- 積極的に漢化政策を推し進め、古都・洛陽に遷都。
- ちなみにこの遷都の手法は、後世、織田信長が本拠地を清洲から小牧に遷した時にも似た卓抜なもの。
- 南朝・斉を討伐すると号して大軍を発するが、敵情視察もろくろくおこなわず、時宜も得ていない無茶な軍事行動だったため、臣下は口を揃えて諫言。
- 孝文帝は諫言を聞かずにどんどん南下したが、洛陽に着いた時に、根負けしたふりをしてそこに居座ってしまった。
- 胡服を禁じ、鮮卑族・漢族の通婚を奨励。
- 自分の姓まで変えた。拓跋と言っていたのをやめ、「元」姓に。
- のちの隋朝の「楊」姓、唐朝の「李」姓も、この頃に鮮卑貴族が改姓したものではないかと思われる。
- 積極的に漢化政策を推し進め、古都・洛陽に遷都。
宣武帝[編集 | ソースを編集]
- 孝文帝の次男。
- 皇太子だった兄が、孝文帝の漢化政策に反対してクーデターを起こそうとして失敗、自害させられたのちに代わって皇太子に立てられ、17歳で即位。
- 仏教にはまる。
- その結果政務から興味を失い、外戚の高肇に全部任せてしまう。
- 皇后は胡氏。次の孝明帝が幼少だったので実権を握る。
孝明帝[編集 | ソースを編集]
- 7歳で即位。当分は母・胡皇太后の言うなり。
- その後反抗期になって母にたてつくようになると、なんと母によって殺される。あ~あ、腹を痛めた我が子を……
- 胡皇太后は生まれたばかりの孝明帝の娘を「男だ」と主張して皇帝にしたけど、翌日にはばれてしまって、計画はご破算に。
孝昭帝[編集 | ソースを編集]
- 3歳で即位。祖母・胡太皇太后の言うなり。
- ……になるはずだったが、孝明帝の親政を画策していた山西の軍閥・爾朱栄により、胡太皇太后ともども洛水に沈められた。
孝荘帝[編集 | ソースを編集]
- 孝文帝の甥。爾朱栄に擁立される。
- 専横をふるう爾朱栄にプッツンし、手ずから刺殺。なかなか胆力のある皇帝であった。
- しかし、怒った爾朱一族の軍勢に追われて都落ちし、やがて殺される。
廃帝・元曄[編集 | ソースを編集]
- 爾朱一族に擁立されたが、皇族として傍流過ぎて、人望がなかったので廃位され、翌年殺される。
節閔帝[編集 | ソースを編集]
- 孝文帝の甥。元曄を放り投げた爾朱一族が代わりに擁立。
- 爾朱栄の片腕だった部将・高歓が、爾朱一族の専横に怒って挙兵、皇族の元朗を担いで洛陽に攻め込み、爾朱一族を殺戮すると共に節閔帝を廃位。やがて殺される。
廃帝・元朗[編集 | ソースを編集]
- 高歓に担がれて即位するが、やっぱり皇族として傍流過ぎて、人望がなかったので廃位される。やがて殺される。
孝武帝[編集 | ソースを編集]
- 高歓に担がれて即位。
- 高歓の専横を憎んで退けようとしたが、先手をとられて、命からがら洛陽を脱出、長安で勢威を張っていた軍閥・宇文泰のもとにころがりこむ。
- 高歓は別にあわてず、孝文帝の曾孫を擁立。
- 孝武帝は頼った宇文泰に毒殺される。
- 宇文泰が外道なヤツだったか、孝武帝がよほど性格の悪い人だったのか、それとも単に乱世の掟と言うべきか……
- 宇文泰は孝武帝の従弟を擁立。高歓の擁立した孝静帝と両帝並立となり、ここに北魏は東西に分裂。「南北朝」は、「(南・北西・北東)朝」となる。
東魏の皇帝[編集 | ソースを編集]
孝静帝[編集 | ソースを編集]
- 高歓に擁立されて即位。
- 洛陽に皇帝を置いておくと何かと面倒だと思った高歓は、自分の勢力下にある鄴に遷都。
- 高歓の言うなりだったが、高歓が死ぬとその長男・高澄から実権を奪うべくクーデターをもくろむ。
- が、密告により失敗。幽閉される。
- 高澄は2年後に部下に殺される。孝静帝も、もう少し待っていれば……
- 高澄の弟・高洋に迫られて禅譲。東魏は孝静帝一代だけで滅亡。
- 禅譲後、一応諸侯として遇されるが、のち難癖をつけて殺された。
西魏の皇帝[編集 | ソースを編集]
文帝[編集 | ソースを編集]
- 宇文泰に擁立されて即位。
- 宇文泰の言うなりに生涯を過ごし、なんのエピソードも残さず病死。
廃帝・元欽[編集 | ソースを編集]
- 宇文泰を排除しようとするが事前に露見、毒殺される。
恭帝[編集 | ソースを編集]
- 宇文泰の死後、その子の宇文覚に禅譲。西魏三代の皇帝はまるで存在感なくあっさりと滅亡。
- 禅譲後、一応諸侯として遇されるが、のち難癖をつけて殺された。
北斉の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 実質的創業者は高歓(高祖・神武帝)とその長男高澄(太祖・文襄帝)。最初に皇帝に就いたのは高歓の次男である高洋(顕祖・文宣帝)である。
- 基本的にここの王朝の家系は金王朝も真っ青の奇人変人だらけ。あと大抵不慮の死を遂げている。
- ただし戦争にはめっぽう強く、末期まで北周の宇文氏政権を軍事力で圧倒していた。
文宣帝[編集 | ソースを編集]
- 東魏・孝静帝から譲位されて皇帝に。
- 戦争には強かったが、酒乱。
- 酔うたびに戯れで人を殺した。
- たまりかねた重臣が、生け贄用に死刑囚の檻を作った。三ヶ月間、文宣帝に殺されずに済んだ者は、罪を許され釈放されたという。
- 酔うたびに戯れで人を殺した。
- 死の床で弟(高演=孝昭帝)に向かい、
「おまえがうちの息子から帝位を簒奪しても仕方がないと思うが、できれば彼を殺さないでやってくれないか」と頼んだ。 - ある時、東魏の旧皇族の元韶に対して、「何故光武帝による漢の中興がありえたのか」と問うて、元韶が「王莽 が劉氏を根絶やしにしなかったからです」と答えた折、危険分子は排除せねばならぬとばかりに東魏の旧皇族を老若男女問わず全員捕らえた上悉く処刑した。
- その屍体は首都近郊の河に棄てられたが、そこで捕れた魚の腹から人間の指や爪がゴロゴロと出てきたため、漁師達は暫くの間魚を捕るのをやめてしまったという。
- 舌禍によって全ての一族郎党を死に追いやってしまった元韶は、幽閉された地下牢にて自らの衣服の袖を飲み込んで自死した。
- ちなみにこの元韶なる人物は性格が穏和だったために高氏一族に重用されていたが、その上かなりの美形でもあったためか文宣帝に髭を剃られて化粧をさせられ、さらに女装までさせられた上に「自分の嬪御とする」などと言われるという羞恥プレイをさせられたりもした。
廃帝・高殷[編集 | ソースを編集]
- 父・文宣帝の予言通り、叔父・高演に帝位を奪われ、父の臨終の懇願にもかかわらず殺害されたかわいそうな人。
孝昭帝[編集 | ソースを編集]
- 甥から帝位を奪った祟りか、即位後1年で落馬事故のため死去。
- 名君だったという話もあるが、1年ではなんとも言えない。他がひどすぎたからかも。
- 臨終の席で、息子・高百年を皇太子の座から降ろし、弟の高湛に譲位。高湛が百年を殺さないようにと念じてのことだった。
武成帝[編集 | ソースを編集]
- 兄・孝昭帝から帝位を譲り受けたが、兄の臨終の願いもむなしく、甥の高百年を殺害。
- 高百年の邸のあたりに「帝王の気」がある、などと要らぬことを進言した男が居たらしいが、武成帝のヤラセの疑いが濃い。
- 兄の文宣帝と孝昭帝が、いずれもその死後に息子を殺されているのを見て(というか孝昭帝の息子は彼自身が殺したわけだが)、自分の息子だけはそんな目に遭わせまいと思い、さっさと息子(高緯)に譲位し、自身は上皇として高緯を後見。
- おかげで高緯は簒奪されずに済んだが、その代わり国を失った。
後主(高緯)[編集 | ソースを編集]
- 北斉の皇帝はみんな人格異常の酒乱だったが、なぜか戦争にはめっぽう強かった。しかし、高緯は酒乱の上に武勇の素質にも欠けていた。
- 讒言を信じて、軍を支えていた名将を次々と処刑してしまう。北斉軍はガタガタに。
- 小国の南朝・陳にまで負ける。
- それを見てほくそ笑んだのが北周の武帝。すぐさま北斉に侵攻して、4年後に亡ぼしてしまう。高緯はとらえられ、やがて殺される。
北周の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 実質的創業者は鮮卑族の宇文部の族長、宇文泰。西魏の元氏政権を擁立しつつ東魏(北斉)に対抗して富国強兵策、徳治による政治を行った。死後に太祖・文帝を追贈されている。
- 紀文とは関係ない。
- 宇文泰死後、甥の宇文護が政権の実力者となる。宇文護は宇文泰の三男宇文覚への帝位の禅譲を実現させ、国号を周とした。
孝閔帝[編集 | ソースを編集]
- 西魏・恭帝から譲位されて皇帝に。
- 初代皇帝なのに「閔(びん=あわれむ)」などという不景気な文字を含む諡号がついている。
- 従兄の宇文護に最初から実権を握られ、排除を図るも失敗して殺されてしまったため。
明帝[編集 | ソースを編集]
- 孝閔帝の異母兄。
- 宇文護に擁立されるが、利発そうだったのでこれまた殺される。
- 息子まで殺されるのを防ごうとしてか、臨終にあたって弟に譲位。これが武帝。
武帝[編集 | ソースを編集]
- 宇文護から害を受けないようみずからを韜晦。
- 実に12年間雌伏した後、みずから武器を執って宇文護を誅殺。
- 人口が少ないので、仏教寺院を叩き壊して若い僧たちを還俗させ、どしどし兵営に放り込んだ。
- 「三武一宗の排仏」第2回です。試験に出ますよ!
- 宇文護を誅殺した年に、北斉の高緯が名将・斛律光を処刑。武帝は大いに喜んで大赦令を発し、囚人を大量釈放。釈放した囚人たちもどしどし兵営に放り込んだ。
- 北斉が陳に負けたのを見て、頃は良しと侵攻、北斉を滅亡させる。
- 北斉滅亡後は余力を駆って南朝の陳や突厥への攻撃も行うが、突厥遠征途上で病没。
宣帝[編集 | ソースを編集]
- 放蕩児だったので、たびたび武帝から叱られていた。
- それを逆恨みし、武帝が崩御した時には、
「クソ親父め、死ぬのが遅えってんだよ」と放言。
- それを逆恨みし、武帝が崩御した時には、
- 帝位についてみると案外窮屈なので、息子に譲位し、自分は「天元皇帝」を名乗ってさらに放蕩し放題。
- その挙げ句、22歳で太く短い生涯を終える。
- ちなみにその時、帝位を譲られた息子は8歳。をい……
静帝[編集 | ソースを編集]
- 北朝のラストエンペラー。
- 即位の翌々年、宣帝皇后・楊氏の父親に譲位。これが隋の文帝。
- 間もなく死亡。おそらく文帝の毒牙にかかったものと思われる。
- なお、宇文氏の皇族はことごとく殺され全滅。合掌。