南朝の皇帝

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南朝の皇帝の噂[編集 | ソースを編集]

宋の皇帝[編集 | ソースを編集]

  1. 歴代皇帝の特技は共食い(同族殺し合い)。
  2. 基本的に貴族勢力との持ちつ持たれつつな関係だったが、王朝後期になると無理に集権的な政治を行おうとしたため混乱を招いた。

武帝(劉裕)[編集 | ソースを編集]

  1. 一兵卒から皇帝まで成り上がったという点では、漢の高祖・明の太祖に並ぶチャイニーズドリームの体現者。
    • 東晋の貴族・王恭の麾下の兵卒からスタート。
    • そこで出世して侍大将クラスに。
    • 王恭が司馬道子の専制に抗議して兵を挙げた時、その片腕であった武将・劉牢之は道子の息子・司馬元顕(当時17歳)の甘言に乗って寝返り。劉裕は武官として劉牢之の配下になっていたので、それに従う。
    • 新興宗教の教祖・孫恩が起こした叛乱を鎮圧し、一躍部将クラスに。
    • そうこうするうちに桓玄が兵を起こして建康に迫る。司馬元顕は劉牢之に鎮圧を命じるが、すでに東晋の命運を見越していた劉牢之は言を左右にして応じない。桓玄に恩を売っておこうと考えたらしい。
    • 劉牢之が動かなかったので、建康はあっさり陥落。桓玄は安帝から帝位を奪って自ら即位。恩賞が貰えると思った劉牢之は、案に相違して地方へ左遷される。
    • 怒った劉牢之は桓玄に対して兵を挙げようとするが、劉裕ら部将たちは、
      「王恭を裏切り、晋の皇室を裏切り、今また桓玄を裏切ろうとする。こんな大将のもとで戦えるものか!」と離反。劉牢之、落魄して自害。
    • 劉裕は桓玄に帰順して重用されるが、またたく間に手を回して、翌年桓玄を誅殺し、みずから大将軍となって東晋の実権を握る。
    • それで満足したらしく14年が過ぎるが、ある時予言書を読んで、自分が皇帝になるべきだと悟り、安帝を暗殺。弟の恭帝を即位させて禅譲を受ける。
    • 宋(劉宋)の武帝となった劉裕は、恭帝をはじめ司馬一族を滅殺。その後えんえんと繰り返されることになる南京大虐殺(南京は建康の後の名)の嚆矢となる。
  2. 漢の高祖や明の太祖のように全天下をとれなかったのは、このふたりと違って幕僚に大した人材(漢の蕭何・張良・韓信など、明の劉基・徐達・李善長などに匹敵する人材)が居なかったからかもしれない。もちろん華北に強敵の北魏が頑張っていたせいもあるが。
    • そのため、東晋の貴族たちをそのまま用いざるを得なかった。
  3. 倭王「讃」が朝貢。
    • 応神天皇説、仁徳天皇説、履中天皇説、大和朝廷と関係のない九州あたりの豪族説、など諸説あるが、いちおう有力なのは仁徳天皇説。
  4. この時代の有名な詩人である陶淵明は彼の元に仕えていた(同僚だったという説もある)。
    • 但し陶淵明は官吏の仕事に耐えられずに、短期間で辞めて隠遁生活に入ってしまった。

少帝[編集 | ソースを編集]

  1. 武帝の正統な皇太子で別に後継者争いがあったわけではないのに、なぜか即位後すぐに廃されて、のち惨殺される。
    • 徐羨之らの既得権を冒したからだというが、17歳の少帝に何ができたのか不明。

文帝[編集 | ソースを編集]

  1. 少帝の弟。
  2. なかなか善政を施したが、我が子に殺される。
    • 皇太子があまり不出来なので廃そうとしたところ、それを察した皇太子が親父を殺してしまった。
    • 皇太子は、それまで協力的だった叔父が急に弱腰になって逃げ出すと、その子ら(自分のイトコら)を皆殺しに。第2回南京大虐殺
    • もちろん父殺しの皇太子は、即座に弟(劉駿=孝武帝)に攻め滅ぼされる。
  3. 史書『三国志』が薄っぺらいと文句を言って、裴松之という人物に注を書かせた。この注の面白さが、後の三国志ブームの引き金になった(と思う)。
  4. 倭王「珍」「済」が朝貢。
    • 「珍」は「讃」の弟だというが、さて……

孝武帝[編集 | ソースを編集]

  1. 兄を殺して即位したものの、被害妄想にかられ、自分の兄弟やその他の皇族たちをやたらめったら殺戮。第3回南京大虐殺
  2. 自分は男の子だけでも28人も作ったオットセイ皇帝。皇族を殺戮したのは、我が子に与える領地を得るためだったという説も。
  3. アル中になって35歳で死去。35歳まででそんなに子供を作ったのか……
  4. 倭王「興」が朝貢。

前廃帝[編集 | ソースを編集]

  1. 孝武帝の皇太子だったが、とんでもない親不孝者で、母親が病気になっても見舞いにも行かなかった。
    • 「病人のところには鬼が出る」というのが口実。
  2. 近臣をやたらと殺したという話もあり、叔父(劉彧=明帝)に命じられた側近に殺害される。

明帝[編集 | ソースを編集]

  1. 孝武帝の28人の男子のうち16人を殺戮。第4回南京大虐殺
    • 16人くらいで「大虐殺」もなかろう、と言うなかれ。ひとりの皇族を殺すということは、その姻戚や係累、使用人、私兵などまで皆殺しにするわけで、ひとりにつき千人単位の処刑者が出ることも珍しくはないのである。
  2. 北魏と戦ったがボロ負けし、領土を奪われる。

後廃帝[編集 | ソースを編集]

  1. 孝武帝の28人の男子のうち、残っていた12人を殺戮。第5回南京大虐殺
  2. とてつもない暴君だったとされるが、斉の簒奪を正当化するための誇張かもしれない。なにせ10歳で即位して15歳で死んだのだし。

順帝[編集 | ソースを編集]

  1. 後廃帝の弟。
  2. 11歳の時、後廃帝を廃立・殺害した蕭道成に即位させられ、翌々年蕭道成に譲位し、やがて殺される。
  3. 譲位する時、
    「もう二度と皇族などに生まれたくないものだな」と述懐。
  4. 倭王「武」が朝貢。
    • 「倭の五王」中、これ以前の「讃」「珍」「済」「興」が誰なのかは諸説あるが、「武」はたぶん雄略天皇だろうということで同意する研究者が多い。

斉の皇帝[編集 | ソースを編集]

高帝[編集 | ソースを編集]

  1. 宋の武帝同様、けっこう低い地位から昇りつめて皇帝になったが、やっぱり幕僚に大した人を得ず、貴族たちをそのまま流用。
  2. 漢の建国の重鎮・蕭何の子孫と称しているが、眉唾。
  3. 順帝をはじめ宋の皇族を殺戮。第6回南京大虐殺
    • さすがにひんしゅくを買った。
  4. わりと質素な生活を続けたので、世情は小康状態。

武帝[編集 | ソースを編集]

  1. とても厳しい検地を実行。
    • これに抵抗して農民一揆が頻発するが、ことごとく鎮圧。検地は大成功し、年貢の実入りはだいぶ増えた。
  2. 戸籍制度も充実させる。
  3. 南朝の皇帝の中では名君の部類と言われる。
  4. 皇太子が早死にしたので、その長男を皇太孫としたが、これは武帝の痛恨の大失敗。

廃帝・蕭昭業[編集 | ソースを編集]

  1. 自分が早く皇帝になりたくて、祖父(武帝)と父(武帝皇太子)がさっさと死ぬように祈祷させていたというとんでもないヤツ。
    • 即位後は、父の愛妾を自分のものにしたり、お気に入りの不良仲間を高位に取り立てたりと、絵に描いたような暗君ぶり。
  2. 実は父の従弟である蕭鸞に乗せられていた。
    • 蕭鸞は表では昭業を厳しく諫めていたが、裏では物分かり良く、むしろご乱行を焚きつけていた。世間には硬骨漢という評判を得た蕭鸞は、頃は良しと見て、昭業を殺害。
    • 昭業は父の愛妾とまぐわっているところに踏み込まれ、マッパで殺された。

廃帝・蕭昭文[編集 | ソースを編集]

  1. 昭業の弟。
  2. 蕭鸞に擁立されるが、数ヶ月で廃位、その後殺害される。

明帝[編集 | ソースを編集]

  1. 昭文を殺害した蕭鸞がみずから即位。
  2. 武帝の子供や孫たちを大半殺戮。その後、自分の皇太子が不出来なのをおもんぱかって、後世の妨げにならぬようにと残りも殺戮。第7回南京大虐殺
  3. 有力貴族を警戒し、身分の低いお目付役を送って不評を買う。
  4. どこが「明」帝だったのかよくわからない。
  5. 中国史上最強クラスの二重人格皇帝
    • 2にあるような同族殺戮をするときは、必ず仏前で涙を流して祈願を込めるのが常だった。
    • 貴族勢力を抑え側近らによる武断政治を敷いたが、民衆が疲弊していると知るや公共工事を抑制するなど、行政の才能はあった。

東昏侯・蕭宝巻[編集 | ソースを編集]

  1. 明帝が心配した通り、実に不出来な男。
    • 父・明帝の通夜の席で、重臣が哭礼をおこなった拍子に冠が外れ、見事なハゲ頭が露わになったのを見て大爆笑。その不謹慎さに周囲はドン引き。
  2. 即位後、佞臣ばかり近づけ、彼らの讒言のままに重臣を退けたり殺したり。
    • 事実上の宰相であった、尚書令・蕭懿まで殺害。蕭懿の弟の蕭衍が抗議の兵を挙げる。
    • 斉の皇室が人心を失っていたため、建康はたちまち陥落。
  3. 宝巻は蕭衍に殺害され、皇帝即位も無かったことにされた。
  4. 幼馴染みの妃(潘氏)を寵愛。足の小さかった彼女のために、庭園の歩道を黄金の蓮の花で散りばめ、彼女がその上を歩くと「まるで蓮の花のようだ」と一人悦に入っていた。

和帝[編集 | ソースを編集]

  1. 宝巻の弟。
  2. 蕭衍に即位させられ、翌年禅譲し、やがて殺される。享年15。

梁の皇帝[編集 | ソースを編集]

武帝[編集 | ソースを編集]

  1. 蕭衍が即位。
    • 同じ「蕭」姓なので、斉の国号を継承しても良かったのだが、斉がすっかり不人気になっていたので、人心を一新すべく梁の国号を称した。
  2. 和帝は殺したが、その他の斉皇族の殺害は最小限にとどめた。南朝時代としては珍しいこと。
  3. 40歳で即位したが、87歳まで在位。南朝の皇帝としては非常に長い在位年数。
    • そのためばかりでもないが、世情はひとまず安定し、武帝は南朝随一の名君と称えられる。
    • ちなみに退位時の年齢87歳は、中国皇帝史上最も高齢。(清の乾隆帝は84歳で退位しているため)
  4. 晩年になってから仏教にはまり、3度も出家を試みる。
    • そのたびに朝廷はあわてて莫大な金銭を寺に寄進し、武帝の身柄を買い戻す。
    • そればかりでなく、仏教寺院には惜しげもなく予算をばらまいたので、せっかく潤っていた財政も悪化。年とってから宗教にはまると危ないですね。人心も動揺しはじめる。
    • だるまさんが訪ねて来たけど、話が難しくて分からんと言ったら、だるまさんに見捨てられた。その後だるまさんは北の国へ向かう。
  5. 北朝・東魏の反体制派・侯景に肩入れして領土拡張を図るが、ボロ負け。
    • 和平会談が始まり、このままでは東魏に身柄を売られてしまうと危機感を持った侯景、逆ギレして軍勢をかき集め、同盟者であるはずの梁に向かって進撃。
    • 建康は包囲され、餓死者続出の末、5ヶ月で陥落。侯景の軍勢は乱暴狼藉の限りを尽くし、第8回南京大虐殺がおこなわれる。
    • 侯景は武帝の前にまかり出たが、最初は位負けして慄えていたという。
    • が、われに返った侯景の手で幽閉され、その年のうちに死去。
  6. 「文選」を著した昭明太子は、彼の長男である。しかし父親よりも早世した。

簡文帝[編集 | ソースを編集]

  1. 武帝の皇太子だが、87歳まで生きた親父の死後即位したので、すでに46歳になっていた。
  2. 事実上侯景の傀儡で、侯景に宇宙大将軍の称号を贈る。
    • しかしすでに壮年であった簡文帝は、侯景にとっては何かとやりづらい相手だったようで、2年で廃位され、まもなく殺された。
    • 簡文帝の皇子たちも皆殺しにされた。第9回南京大虐殺
  3. 父より早死にした兄・昭明太子の伝記他、著書多数。

廃帝・蕭棟[編集 | ソースを編集]

  1. 簡文帝の甥。
  2. 侯景に擁立され、数ヶ月後に侯景に譲位。宇宙大将軍・侯景は「漢の太祖」を名乗る。
    • 譲位後監禁されていたが、叔父(蕭繹=元帝)の手の者に救出される。しかし結局、その叔父の手で殺される。

元帝[編集 | ソースを編集]

  1. 武帝の四男。
  2. 江陵の太守になっていたが、部将の王僧弁と陳霸先を派遣して宇宙大将軍を撃破。
  3. その後江陵に身を置いたまま即位するが、西魏の軍勢に攻められて死亡。
    • 西魏は元帝の甥を帝位に就け、傀儡政権を作らせる。史家には「後梁」と呼ばれる。
      • この後梁は「ごりょう」と読みます。五代十国時代の後梁(こうりょう)と混同しないように。

敬帝[編集 | ソースを編集]

  1. 元帝の息子。
    • 宇宙大将軍を破って建康に居た陳霸先と王僧弁により擁立される。時に13歳。
    • 陳霸先はやがて王僧弁と反目し、攻め殺す。第10回南京大虐殺
  2. のちに陳霸先に譲位。間もなく殺される。
  3. はっきり言って梁という王朝は、武帝ひとりで保っていたようなもの。

陳の皇帝[編集 | ソースを編集]

武帝[編集 | ソースを編集]

  1. 梁の敬帝の禅譲を受けた陳霸先が即位。
  2. 南朝を通じて副都の地位にあった江陵を後梁に占拠されているので、建康周辺のごく狭い地域しか支配できなかった。
  3. 北斉の侵攻軍を撃破するなど、軍事的にはけっこう強かったが、王僧弁の残党の蜂起に手を焼き、多忙のうちに即位3年で死亡。

文帝[編集 | ソースを編集]

  1. 王僧弁の残党の叛乱を鎮圧し、北斉や北周の侵攻を食い止め、なんとか陳王朝の基礎を築いた。
  2. 内政でも善政を施して人心を得た。
  3. が、わずか7年の治世で崩御。

廃帝・陳伯宗[編集 | ソースを編集]

  1. 文帝の皇太子だったが、幼少だったので叔父(陳頊=宣帝)に後見される。
  2. そのうち幼少ではなくなり、叔父の言うことを聞かなくなってきたので廃位され、のち殺される。

宣帝[編集 | ソースを編集]

  1. 甥・伯宗を殺して即位。
  2. 北斉を大いに破り、軍事要衝の寿陽を占拠。
    • だが、強大に思っていた北斉が陳ごとき小国に負けたので、勢いづいた北周の武帝は北斉に侵攻、ついに攻め亡ぼしてしまった。後梁はもとから北周の傀儡だったので、これにより北周の勢力は中華の8割方に及んだ。
    • まんまと北周に漁夫の利を得させてしまい、さらに北周を継承したの文帝にいいようにあしらわれた宣帝は、失意のうちに死亡。

後主(陳叔宝)[編集 | ソースを編集]

  1. もはや陳の滅亡は予定済みと悟り、滅びの美学を全うしようとした。
  2. 酒と女と歌に日々を過ごす。本人も有名な「玉樹後庭花」を作った詩人。
    • 文化の力で陳の存在を後世に知らしめようとしたのかもしれない。
  3. 滅びの美学を全うしようとしたわりには、隋軍が迫ると、あまたの妻妾たちと共に井戸に隠れたりして、あまり潔くなかった。
  4. 隋の文帝の前に引き出されるとがたがた慄えて口も利けなかった。
    • その様子を見て警戒心を解いた文帝は後主を生かしておくことにし、無事天寿を全う。第11回南京大虐殺が回避されたのは何より。