唐
唐の噂[編集 | ソースを編集]
- 楊貴妃で有名。
- 詩を作るのが大流行。
- ライチも流行。
- 日本でお見かけする赤いライチとは異なり、緑色だったらしい。
- さらに唐揚げも流行る。
- 夏目雅子が天竺(今のインド)まで七つの宝玉を授かりに行く。
- 途中のヒマラヤでシェルパを雇えず、猿や豚などで代用。誰もが先行きを危ぶむ。
- 猿、意外にも大活躍。このときの紀行文が後の世までロングセラーに。
- この後、猿は料理や芸を、豚は釣りを覚え一世を風靡するが、河童は借金だらけで自己破産をしてしまう。
- 平成の世でドラマ化されるも、豚役の俳優が猿役を演じてしまう。しかたなく猿役の俳優が豚役を演じる。
- 実はこのとき、猫を輸入したらしい。
- 政治に飽きた老年皇帝と尼僧上がりのデブ女の愛欲の生活を美化した白居易の詩がうけるという荒廃した時代。
- 「国敗れて山河あり」ここから「京都サンガF.C.」の愛称ができました。
- とうにょう病が発見される。
- とうにゅうも発見される。
- 初期の皇帝はマゾで、妃を「女王様」と呼ばせていたという。
- インパクトが強すぎて、日本人はその後1000年以上もこの国を唐と呼んだ。
- 武則天が中華史上唯一の女帝となった記念すべき時代。
- 権力を持った女性がやること=美男を集めて逆ハーレム作り、のパターンが確立された。
- 男も女もやる事は変わりませんな。
- 権力を持った女性がやること=美男を集めて逆ハーレム作り、のパターンが確立された。
- 天竺に留学するのが坊さんのステータスだった。
- 王玄策という役人は唐と天竺を三往復もした。が、大して出世しなかった為に伝を立てられる事は無かった…
- 本当は鮮卑人の王朝なのに、何故か漢民族の王朝と勘違いされている。
- だが、本人たちは中国の名族と言い張ってる&血統的にもすぐ同化されちゃうのであまり影響はない。
- そもそも漢民族の定義を勘違いしているor中国人=漢民族と思っている人が多すぎ問題。血筋の問題じゃないぞ
- 唐が衰退したのは平安時代頃から、
- イスラム帝国(アッパース朝)と一戦交えたこともある。ちなみに負けた。
- 都の長安は当時100万クラスの都市で、人種も多種多様の国際都市だった。
唐の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 隋までの皇帝は「○帝」と帝号が通称になっているが、唐からは「○宗」と宗廟名が通称になる。
- もちろん唐以後の皇帝にも帝号はあるのだが、「文武大聖大広孝皇帝(太宗のこと)」というようにむやみと長くなったため、呼びづらくなった。
高祖[編集 | ソースを編集]
- 優柔不断な人で、後継者選びにもたついた挙げ句、息子たちが殺し合いを始めてしまう。
- そもそも天下をとったのも息子たちが主導したらしい。
- 戦乱の時代でなければ温和な大貴族として終わったのではないだろうか。
太宗[編集 | ソースを編集]
- 「貞観の治」を成し遂げ、中国史上最大の名君と称えられる。
- しかし、皇太子であった兄と、その同志であった弟を謀殺し、父を上皇に祭り上げて幽閉した末に即位したという血まみれの皇帝でもある。
- 誰が何と言おうと、兄と弟を謀殺した後に弟の妻を自分の側室にしたという事実は忘れてはならない。
- 謀殺に関しては、やらなきゃやられていた。
- ↑と主張しているのは、太宗とその子孫に仕えた史家であることを忘れてはならない。
- 隋の煬帝も兄弟を謀殺したのは太宗と同じだが繁栄の絶頂にあった隋を食いつぶして破壊した煬帝と貞観の治と言われる功績を挙げた太宗では天と地の開きがある。
- まあ何と言われても勝てば官軍である。
- 謀殺に関しては、やらなきゃやられていた。
- 三蔵法師を家臣にしようとして、おだてたり脅したり……
- 凌煙閣二十四功臣という、光武帝の雲台二十八将とタメはる戦隊を結成。特にロボットとかは操縦しない。
- 尉遅敬徳はダンバインの先祖「当たらなければどうということは無い!」
- このことからも分かるとおり光武帝の大ファン。
- 尉遅敬徳はダンバインの先祖「当たらなければどうということは無い!」
高宗[編集 | ソースを編集]
- 太宗の息子の中で、いちばんおとなしくて操りやすそうだったため、重臣長孫無忌の推薦により後継者に。
- しかし、彼を操ったのは長孫無忌ではなく、愛妾・武氏(のちの武則天)であった。長孫無忌は武氏との権勢争いにあっけなく負けて追放される。
- 日本が白村江で唐軍に惨敗したのはこの皇帝の治世。
- よりによって唐の国力がいちばん上向きの頃に戦ってしまった。
- 晩唐の頃とか、安禄山の乱の最中とかに戦っていたら勝ててたかも……
中宗[編集 | ソースを編集]
- パパ高宗がママ武則天の一族を取り立てたのに倣って、皇后・韋氏の一族を取り立てようとしたが、ママの逆鱗に触れ、退位させられる。
- ママの死後帝位に復帰したが、しゅうとめに倣って女帝になろうとした奥さんの韋皇后と、その皇太子になろうとした娘・安楽公主の陰謀で、毒殺されてしまったかわいそうな人。
- もちろんこの非道な母娘はすぐ誅殺された。
睿宗[編集 | ソースを編集]
- 兄・中宗の後を継いで、ママ武則天の指名により即位するが、これまたママの不興を買って退位させられる。
- ママと兄の死後帝位に復帰したが、妹の太平公主と息子の李隆基(玄宗)との権勢争いに心を痛め、自ら退位して李隆基に帝位を譲る。
武則天(則天武后)[編集 | ソースを編集]
- 中国史上唯一の女帝。
- 彼女の即位により、皇帝の「姓」が変わった(易姓)ので、実はこの時点で唐は断絶し、「周」になっている。
- 彼女は唐朝にとっては簒奪者のはずなのだが、唐が復活してのちの皇帝はみんな彼女の子孫なので、悪人扱いはされていない。
- でもこの人「中国三大悪女」に指定されてるけど。
- 他の二人は呂后と西太后ですな。つまり「三大悪女」は清末の西太后以後の話で、唐朝のあいだは武則天は決して貶められていなかったし、日本の女帝たちにも尊敬されていました。
- 文化大革命の最中にも武則天を高く評価する歴史論文が山のように出現。「偉大なる女性指導者」=江青をヨイショするのが真の目的だったわけだけど。
- 他の二人は呂后と西太后ですな。つまり「三大悪女」は清末の西太后以後の話で、唐朝のあいだは武則天は決して貶められていなかったし、日本の女帝たちにも尊敬されていました。
- でもこの人「中国三大悪女」に指定されてるけど。
- 彼女は唐朝にとっては簒奪者のはずなのだが、唐が復活してのちの皇帝はみんな彼女の子孫なので、悪人扱いはされていない。
- 既得権を持つ貴族階級に対抗するため、科挙を大いに活用した。科挙が軌道に乗ったのは武則天時代から。
- 「則天文字」というものを発明した。
- マイナー?とんでもない。日本の人だって十分この文字のお世話になっている(例:黄門様)
- 逆に言うとそれしかメジャーな字は無いと思うけど・・・。
- マイナー?とんでもない。日本の人だって十分この文字のお世話になっている(例:黄門様)
- 即位の経緯はともかく、能力的には間違いなく王朝開祖クラスの大物。自分の一族を繁栄させるためにあれこれ手を打った結果、それに連なる人材が玄宗時代の盛唐をもたらした。悪党にも一流と二流があるとはこのことか。
玄宗[編集 | ソースを編集]
- 若い頃は颯爽としていたのだが……
- ひとつことにやたらと凝る性格が仇となった。
- その性格が人に向けられ、やたらと寵愛されたのが、楊貴妃と安禄山。このふたりが唐朝の土台を揺るがした。
- 楊貴妃も安禄山も丸々と太っていた。……デブ専?
- 美人の定義が今とは違うし
- 梅妃というスレンダー型の愛妾も居たので、必ずしも当時の価値観が「デブ=美人」であったわけでもない。
- 梅妃は玄宗の寵愛が楊貴妃に移ったのを恨んで、楊貴妃のことを「肥婢」と罵っている。「デブの女中め!」といったところ。
- 教養があって気遣いに優れた癒し系タイプだったから気に入られたのだろう。政治に疲れた50男となれば、絶世の美女より包容力を求めても不思議はない。
- お忍びで街に出かけ、若者たちと酒を酌み交わす。
- 別れ際に名を問われ、「曽祖父は天子、祖父は天子、父は天子。そして、我も天子!(キラン)」と言い残し、馬に乗って去った。マツケン並みのかっこ良さ。
粛宗[編集 | ソースを編集]
- 安禄山の乱にあわてふためいて逃げ出した玄宗から後を任された。どう考えても貧乏くじ。
- 憂慮した挙げ句、親父の玄宗とほとんど同じ頃に死んだ。
代宗[編集 | ソースを編集]
- 安禄山の後を継いだ史思明の乱をかろうじて収拾。
- つーか、これ以降影薄くね?
徳宗[編集 | ソースを編集]
- 安史の乱で荒廃した国家の財政再建に努めた。
- 「両税法」を導入し、「薄く広く」税金を集めることにした。
- 安史の乱でやたら強力になってしまった地方軍閥(節度使)の力を削ごうとした。
- が、既得権を奪われることを恐れた節度使たちが叛乱を起こし、長安を逃げ出すことに。
- 結局節度使の既得権を認めることになり、せっかくの「薄く広く」の両税法は不徹底になり、かえって財政が悪化した。
- 徳宗の治世末期、空海と最澄が入唐。
順宗[編集 | ソースを編集]
- 役人の腐敗を一掃しようとした。
- が、即位してすぐ脳溢血で倒れ、言語障碍になる。
- やむなく7ヶ月で長男に譲位、翌年死亡。
- 順宗の即位を祝賀するべく長安を訪れた外国の使者たちは、一転して順宗の葬儀に参列するはめになり、服装などのことで大騒ぎになった。
- 日本からは高階真人が参列。おかげで空海は長安滞在を2年で切り上げて、真人の一行に加わって帰国することができた。
- やむなく7ヶ月で長男に譲位、翌年死亡。
憲宗[編集 | ソースを編集]
- 宦官や節度使の増上慢に鉄槌をくらわし、中興の名君と称えられる。
- が、皇太子が早死にすると、悲しみの余り仏教寺院に莫大な予算をつぎ込む。
- ついには精神に異常をきたし、身近な宦官などを虐待したので、暗殺されてしまう。
穆宗[編集 | ソースを編集]
- 宦官の王守澄に擁立され、頭が上がらなかった。
- そのためか享楽に走り、政務にはほとんど携わらなかった。
- 牛李の党争はじまる。
- 牛さん派(科挙によって選抜された官僚群)と李さん派(貴族階級出身の官僚群)のどちらが権勢を握るかによって政令がころころ変わり、朝令暮改となる。
- しかしながら、科挙がようやく既成の特権階級にとって脅威になってきたということでもあった。
敬宗[編集 | ソースを編集]
- お相撲好きの皇帝。
- 宦官を粛正しようとするが、逆襲されて殺される。
- 暴虐な皇帝だったというが、殺された時19歳というのでは、どの程度のことやら……
- 宦官側の捏造の可能性がある。都合の悪い歴史は書き換えられるのが常。
- もしかしたら本当にキレやすい若者だったのかもしれない。
- 宦官側の捏造の可能性がある。都合の悪い歴史は書き換えられるのが常。
- 暴虐な皇帝だったというが、殺された時19歳というのでは、どの程度のことやら……
文宗[編集 | ソースを編集]
- 敬宗の異母弟。
- 何度失敗しても諦めずに宦官勢力と戦ったが、ついに矢折れ刀尽きて幽閉される。
武宗[編集 | ソースを編集]
- 敬宗・文宗の異母弟。
- 仏教寺院を弾圧した。
- 武宗が道教にはまったため、とも言われる。
- 武宗に反対していた叔父(宣宗)が寺院に逃げ込んだため、とも言われる。
- 純然たる経済政策、とも言われる。寺院は税金を払わない上、仏像などの鋳造のために銅をやたらと消費し、銅銭に用いるべき銅すら不足する有様だった。
- 「三武一宗の排仏」第3回。テストに出ますよ!
- 「会昌の廃仏」という別名もお忘れなく。
- このとき、仏教だけでなくキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教、マニ教などにも弾圧を行って壊滅させている。
宣宗[編集 | ソースを編集]
- 敬宗・文宗・武宗の叔父。
- かなりの業績を上げて「小太宗」と呼ばれた。
- 牛さんと李さんを共に抑え、党争を沈静化させる。
- 宦官や節度使に対しても、あまりコワモテにならぬよう配慮しつつやんわりと抑制。
- 武宗の排仏令も解除。
- 晩年は道教にはまり、不老長寿を求めて変な薬を服んで死亡。
懿宗[編集 | ソースを編集]
- 宣宗の息子。
- あまりにアホな息子なので、皇太子に立てるのをためらっているうちに宣宗は死亡。宦官たちが勝手に帝位に就けてしまった。
僖宗[編集 | ソースを編集]
- 黄巣の乱で長安を陥され、命からがら逃げ出す。
- 部将李克用と、黄巣軍から寝返った朱全忠との権勢争いを茫然と眺めながら死去。
昭宗[編集 | ソースを編集]
- 朱全忠の言うがままに、洛陽に遷都する。
- この時皇帝の行列に向かって民衆が「皇帝陛下万歳!」と叫んだが、昭宗は涙を流して「もう万歳とは言ってくれるな。朕はすでにそなたたちの主とは言えないのだ」と愚痴った。
- 結局、朱全忠に暗殺された。
昭宣帝[編集 | ソースを編集]
- 朱全忠が簒奪のために即位させた幼帝。朱全忠に譲位したのち殺された。朱全忠はこののち後梁の太祖となる。
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