夏季オリンピック/1980年代以前
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第1回~第13回[編集 | ソースを編集]
アテネ(1896年)[編集 | ソースを編集]
- 全借民の中で見たことがある奴がいたら驚いてやる。
- 俺、見に行った事あるよ?・・・すいません、2004年の方でした・・・。
- 資金不足のため金メダルがなかったとか。
- 女子競技は全くなかった。
パリ(1900年)[編集 | ソースを編集]
- 万博と一緒にやったため5か月以上かかった。
- 当時は万博のおまけ扱いだったそうな。
- 生きた鳩を撃つ競技があったらしい。
- 最年少と思われるボート競技の金メダリスト、競技終了後に姿を消す。
- 結局現在オリンピックと正式に認められているのは陸上競技だけ。
- それでもマラソンの金メダリストが抜け道を使ってショートカットをしたという疑惑は残っている。
- クリケット競技が唯一行われた。しかしイギリス連邦でないフランスでクリケットはマイナー。
セントルイス(1904年)[編集 | ソースを編集]
- マラソン1位の選手が自動車でショートカットしていたというズルが発覚。もちろんメダル剥奪。
- ヨーロッパの多くの選手が「遠い」と参加を拒否したためメダルはほとんどアメリカが持って行った。
- アイヌやインディアンなど少数民族の体力測定が行われたのは黒歴史。
ロンドン(1908年)[編集 | ソースを編集]
- 本来ローマで行われる予定だったがヴェスヴィオ火山の噴火被害により急遽開催地変更。
- マラソンが42.195kmで競うようになったのはこの大会から。
- ウィンザー城の庭から競技場の貴賓席前までがこの距離だったらしい。
- 最初に競技場に入ってきたピエトリが役員の助力でゴールする羽目になったのも2.195kmのせいだとか。
- 日本選手の参加はなかったが日本のマスコミ(大阪毎日新聞)による取材はあった。
ストックホルム(1912年)[編集 | ソースを編集]
- マラソンの世界一遅い公式記録(54年8ヶ月6日5時間32分20秒)が生まれたのはこの大会。
- 棄権の意思が運営側に伝わっていなかった為、失踪して行方不明扱いに。開催55周年記念式典で当事者のこの方がゴールインしてようやくこの大会の全競技が終了。
- 日本が初めて参加した大会。
ベルリン(1916年)[編集 | ソースを編集]
- 初めて中止になった大会。
- オリンピックのために休戦という古代オリンピックの精神は引き継がれなかった。
アントウェルペン(1920年)[編集 | ソースを編集]
- この大会から初めて選手宣誓が行われるようになった。
- 日本人初のメダリストが生まれた。
- 男子テニスのシングルスとダブルスで熊谷一弥が銀メダルを獲得(ダブルスは柏尾誠一郎とのコンビ)。
パリ(1924年)[編集 | ソースを編集]
- クーベルタン男爵にとっては、会長として最後の大会。
- 映画『炎のランナー』の題材になった大会でもある。
アムステルダム(1928年)[編集 | ソースを編集]
- 男子三段跳で織田幹雄が金メダルを獲得。
- 表彰式では他国の旗より4倍ある巨大な日章旗が掲揚され、君が代も「千代に八千代に」から吹奏された。
- 人見絹枝が激走。
- 女子100mで準決勝敗退後、「このままでは日本に帰れない」とエントリーだけしていた800mに出場。
- レース後に参加選手全員が倒れこむ激戦の中、銀メダルを獲得。
- 女子100mで準決勝敗退後、「このままでは日本に帰れない」とエントリーだけしていた800mに出場。
- この大会からテニスが除外。テニスのオリンピック復帰は60年後のソウルまで待つことになった。
- 文芸コンクールが同時に行われていた。優勝はポーランドのカジミェシュ・ヴィエジンスキ。
ロサンゼルス(1932年)[編集 | ソースを編集]
- 半世紀ちょっと後と同様に無投票で開催地が決まった。
- バロン西がウラヌス号に騎乗し金メダルを獲得。
- 実況放送を行う予定だったがオリンピック委員会と放送局がもめたため競技の様子のメモを頼りに実況っぽく再現する「実感放送」が行われた。
- アナウンサーの気分が乗りすぎて男子100m走の模様を伝えるのに1分もかかってしまった。
- 日本のマスコミが大いに白熱し始めたのはこの大会から。
- どの新聞社も号外を出しまくった。
- オリンピックに便乗した広告も出始めた。
- 日本でオリンピックの選手応援歌が作られたのも確認できる限りこの大会から。
- 「走れ大地を」。作曲は山田耕筰。当時大ヒットし、4年後にも再発された。
ベルリン(1936年)[編集 | ソースを編集]
- 前畑ガンバレ
- 聖火リレーがこの大会から始まる。
- ちなみにこの大会のものはドイツ軍の偵察を兼ねていたという。
- 友情のメダル。
- サッカーで奇跡が起きた。
- 「日本人、日本人、また日本人」byスウェーデンのラジオ放送の実況アナウンサー
- 奇跡を起こした日本代表の選手たちの中にはその後の太平洋戦争で亡くなった選手もいる。
- ヒトラーのたっての要望によりハンドボールが追加された。
- 但し当時は屋内7人制ではなく、当時の主流だった屋外11人制で行われた。
- 東亜日報が孫基禎のユニフォームに描かれた日の丸を塗りつぶし発禁処分を受けた。
- この大会の記録映画が好評を博したため以後の大会でも記録映画の制作が義務付けられるようになった。
- 再現映像がかなり含まれているのは秘密。
- 日本版では前畑が金メダルを獲得した女子200メートル平泳ぎが追加されている。
- ジェシー・オーウェンスが陸上競技4冠を達成した。
- 開催国がナチスドイツということでかなりの反対運動が起きた。
- 特にアメリカはユダヤ系の反発もありボイコット直前だったという。
- 対抗する大会の「人民オリンピック」もスペインのバルセロナで開催される予定だったがスペイン内戦のせいで潰れた。
- 参加予定だったアスリートの中には内戦に身を投じ戦死した人もいた。
- ソ連が当時オリンピックに関わっていたら間違いなくボイコットを主導していたであろう。
- 史上初めてテレビ中継が行われた。
- ただし視聴できたのは開催地ベルリン周辺とライプツィヒぐらいだった。
- 技術の発展途上だったので画面が非常に粗く、当時テレビの研究をしていたNHKの人によると競泳中継では選手がプールで泳いでいるということは何とかわかるが、どれが前畑かはわからなかったという。
東京(1940年)[編集 | ソースを編集]
関連項目:もし1940年の東京オリンピックが開催されていたら
- 1940? いや、2600でしょ。
- 幻。
- 中止直前には軍から「メインスタジアムを木か石で作れ」という無茶苦茶な命令があったらしい。
- この大会を機にNHKはテレビ放送を始める予定だった。
- 中止が決まる前に、既にテーマ曲が作られていた。
- 同じ頃札幌オリンピックや東京万博もやろうとしていた。
- 代わりに開催されたのが紀元二千六百年奉祝東亜競技大会。なお集客面ではオリンピックに遠く及ばなかった。
- この頃に生まれた人たちが1964年の東京オリンピックの選手の中心世代となった。
- この大会が決定した時に、当時読売新聞運動部記者の川本信正が「五輪」という略称を考案。
- 公開競技として野球や柔道が行われる予定だった。
第14回~第24回[編集 | ソースを編集]
ロンドン(1948年)[編集 | ソースを編集]
- 敗戦国抜き…のはずがイタリアは出場。
- そのころ日本ではトビウオが驚異的な記録を出す。
- 朝鮮戦争前の韓国がオリンピック初参加を果たす。
ヘルシンキ(1952年)[編集 | ソースを編集]
- チェコ製の人間機関車が長距離でその性能をフルに発揮。
- トビウオは旬を過ぎていたためメダルならず。
- この回から、再び日本独自の応援歌が作られるようになった。
- この年のNHK紅白歌合戦でも藤山一郎によって歌われている。紅白で歌われた初の五輪ソングでもある。
- ソ連と中華人民共和国という共産主義国の大物が揃って初参加。
メルボルン(1956年)[編集 | ソースを編集]
- 初の南半球開催。
- 開催時期も11~12月。
- 馬術だけストックホルムだった。
- 当時はオーストラリアに馬を持ち込む際の検疫に恐ろしく時間がかかっていたため。
- ハンガリー動乱の影響が水球の試合にも及んだ。
ローマ(1960年)[編集 | ソースを編集]
- 裸足で走ったのはこちら。
- 体操会場は「テルマエ・ロマエ」だった。
- 日本の団体5連覇はここから始まった。
- モハメド・アリが金メダルを川に流した。
東京(1964年)[編集 | ソースを編集]
- 高度経済成長期真っ只中。
- 東海道新幹線が開業するきっかけとなった。
- このときは、裸足で走らなかった。
- しかもせっかく日本のメーカーが送った靴を使わず、海外の靴を履いて出場した模様。
- 一方その頃新中国は核実験をしていた。
- 日本に魔女軍団発生。
- 魔女軍団の活躍がママさんバレー普及のきっかけになったらしい。
- 閉会式で独立宣言した国がある。
- 国旗も期間中に新調。(イギリス領北ローデシア→ザンビア)
- 「世界中の青空がここ東京に集まったかのようです」は名言だがその裏で大変なことが起こっていた。
- 詳細は忘れたが撮影技術か通信技術の欠陥で、晴天でなければカラー放送の中継が大変なことになっていたらしい。
- このオリンピックが無かった場合、この年の国体は天皇杯・皇后杯は無しとなっていた可能性が高い。
- 関西人もオリンピックに夢中になった結果、関西勢どうしの日本シリーズはたいして見向きもされず、甲子園はスカスカだったという。
- その日本シリーズ、オリンピックに配慮して開幕前に終わらせるつもりだったのだが、天候に泣かされ最終戦と開会式がかぶってしまった。
- ユニットバスや冷凍食品が広く普及するきっかけになった。
- 本大会の開催地を決めるIOC総会での平沢和重の演説はもはや伝説。
- 閉会式は選手が勝手に流れ込むというグダグダだったが、以降のオリンピックでもこんな感じになった。
- 開会式は各テレビ局で中継していたが、なぜかテレ朝だけオリンピックの文字が使われていなかった。
- 前年のケネディ暗殺などで使われ始めた衛星中継が本格的に行われるようになった。
- 聖火リレーはギリシャからレバノン、イラン、インド、ビルマ、フィリピンなどを通って日本まで運ばれた。
- 太平洋戦争で戦場となった地域も通ることで平和と和解のためというイメージを強く打ち出した。
- 香港を出ようとしたところで台風の直撃を受け危うく国内でのリレー開始に間に合わないところだった。
メキシコシティ(1968年)[編集 | ソースを編集]
- 初めて衛星による世界生中継を行った。
- アンラッキーアイテムは黒い手袋。
- 彼らに賛同して手袋を貸してあげた銀メダルの人も追放された。
- やっぱり釜本さん。
- 南アフリカを参加させようとして危うく大規模なボイコットが発生するところだった。
- 標高が高いために陸上では好記録が続出。
- 男子走り幅跳びの世界記録は20年以上更新されなかった。
- 日本がサッカーで銅メダルをとった。
- マラソン3連覇を狙ったアベベは17km地点で棄権。
- 金メダルは同僚のウォルデが獲得した。
- 君原健二が前回大会8位の無念を晴らす銀メダル。
- ピクトグラムは他の大会のように人の動きで表現するタイプではなかった。
- 陸上競技が「スパイクを履いた足」だったり。
- やってきた、やってきた、ゲゲゲの鬼太郎やってきた。
ミュンヘン(1972年)[編集 | ソースを編集]
- ある球技の日本チーム、大会前、テレビ番組にレギュラー出演。
- そして今のところ唯一の金メダルとなった。
- パレスチナにドンパチくらわれた。
- ベルリン大会の全体主義的なイメージを払拭すべく警備を控えめにしていたのが裏目に出た。
- 一旦は政府スポークスマンが「全員無事」と発表したが実際に待っていたのは最悪の事態だった・・・。
- ブランデージIOC会長が大会の再開を宣言した際にどのような反応があったかは資料により異なっていてよく分からない。
- 大会続行に抗議しイスラエル、エジプト、フィリピンの選手団は帰国した。
- この大会のピクトグラム等グラフィックデザインは、ルフトハンザやシェーバーのBRAUNのロゴと同じデザイナーによるもの。
- 陸上男子100mでは優勝候補のアメリカ選手2名が2次予選に遅刻して失格となった。
- 札幌市とミュンヘン市が姉妹都市となったのはこの同年の五輪開催都市同士という縁から。
- プロレスファンにとってはジャンボ鶴田と長州力が出場した大会。
モントリオール(1976年)[編集 | ソースを編集]
- 麻生太郎がクレー射撃の選手として出場。
- アフリカでボイコットが相次いだ。
- ハイライトといえばコマネチの10点満点。
- ただし電光掲示では最高でも9点台しか想定していなかったため「1.00」と表示された。
- このときに米ABCが使った「妖精コマネチのテーマ」は、アメリカにおいてオリンピックから生まれた初のポピュラーヒットになった。
- 元々はオリンピックともコマネチとも全く関係ない映画のサントラ曲。
- 「コマネチ」はビートたけしのギャグとしても有名になってしまったが、のちに本人とたけしの共演が実現した。
- 当初の予算を大幅にオーバーしてしまい大赤字に。さらにそれを補填するために税金が投入される事になってしまった。
- 赤字を完済したのは大会から30年後の2006年である。
- 下記のロサンゼルスオリンピックにて商業化路線をとるきっかけになった。
モスクワ(1980年)[編集 | ソースを編集]
- 日本人は、開催期間中のことを、よく知らない。
- テレ朝が独占放送権を取得していた。
- アメリカでは3大ネットワークがソ連の映画や紹介番組を放送してソ連当局の気を引き放映権獲得を目指していた。
- くまのミーシャ。
- 閉会式で泣いていた。
- 34年後、ソチ大会の閉会式でオマージュとも言える演出が行われていた。
- 閉会式で泣いていた。
- ジンギスカンの「もすか~う♪」。
- 大会期間やその直後の現地ではキャビアがいつもより安かったらしい。
- 日本人やアメリカ人の観光客が来ることを想定して大量に用意していたがボイコットによりさっぱり売れなかった模様。
- アメリカでは不参加国のアスリートを招待して「リバティ・ベル・クラシック」という代替の陸上大会が行われた。
- 日本の選手も出たがメダルは全く獲得できなかった。
ロサンゼルス(1984年)[編集 | ソースを編集]
- 五輪はカネになると気づかせた大会。
- スポンサーが集まらなければ開催中止や主催団体の変更(国連かユネスコに)もありえたらしい。
- 野球。日本はアマ選手で金メダル。
- ほかには女子マラソンが追加、テニスが復活。
- アンデルセンといえば童話作家ではない。
- 彼女が熱中症でふらつきながらも諦めずに歩いてゴールする姿に感動。
- アンデルセンといえば童話作家ではない。
- マイケル・ジョーダンの伝説が始まった。
- 自転車初メダルで超特急に格上げ。
- 野球日本代表はアジア予選で台湾に敗れて当初は出れなかったが、東側諸国のボイコットに伴いキューバの代わりとして出場した。
- ほかには女子マラソンが追加、テニスが復活。
- キャラクターは「はっとはっとはっとっと イーグルハットではっとっと」でおなじみのイーグルサム。
- イーグルサムのデザイナーは後に日本プロ野球の鳥類球団のマスコットも手がけた。
- 団塊ジュニアあたりの世代にとっては、初めて見たオリンピックがこれ。
- モントリオール五輪はまだ幼少期、モスクワは日本選手団がボイコットしたため。
- 開会式でのパラシュートが印象的だった。
- あとロス五輪といえばロケットベルト。
- 不参加だった北朝鮮もこの大会を記念する切手を発売した。
- 写真フィルム業界でスポンサーだったのは常連のコダック(米)ではなくまさかの富士フイルム(日)。
- 今でもオリンピックというと象徴的にテレビでちょくちょく使われるジョン・ウィリアムズのあの曲はこの大会でのテーマ曲。
- 上記の報復としてソ連はロス五輪をボイコットし、フレンドシップ・ゲームズを開催。西側諸国の選手も何人か参加したらしい。
ソウル(1988年)[編集 | ソースを編集]
- マスコットキャラは虎と狸のあいの子みたいな感じ。
- 東京に続きアジア二回目の開催
- 卓球とバドミントンが追加されたのはこの大会。
- 韓国だもの、テコンドーも忘れちゃいかん。
- この時は公開競技で、正式種目になったのはシドニーだった。
- 韓国だもの、テコンドーも忘れちゃいかん。
- 開会式で、焼き鳥が調理された。
- そのせいで、以後生きた鳩が飛ばされることはなくなった。
- ベン・ジョンソンがドーピングしたのもこの大会。
- 妙に「鈴木大地、金メダル!」という実況を覚えている。
- 愛知県民にとっちゃ苦い思い出……(名古屋五輪構想)
- 楽観ムードからの油断、市民団体の反対活動、ロビー活動の不備、日本国内での連続開催(東京→札幌→名古屋)になる点をソウル側に突かれたのが痛かった。
- 招致成功を見込んでいた地元マスコミは報道特別番組まで組んだが、ソウル決定後はお通夜状態に…。
- 閉幕後、愛知県は21世紀初頭の大規模な国際博覧会開催構想を提起。これが2005年の愛・地球博に繋がっていくことになる。
- 楽観ムードからの油断、市民団体の反対活動、ロビー活動の不備、日本国内での連続開催(東京→札幌→名古屋)になる点をソウル側に突かれたのが痛かった。
- NHKが大会ごとにテーマ曲を決めるようになったのはこの大会から。
- ロイ・ジョーンズの金メダルが盗まれた。
- 16年ぶりにほぼ全世界の国と地域が参加した。
- 旧ソ連、東ドイツにとってはこれが最後のオリンピックとなった。
- 日本からの視点では夏冬通じて昭和最後のオリンピック。平成最後のオリンピックも平昌であり、偶然にも韓国での開催となった。
- ここからシドニーまでの間は日本のメダル総数が激減する。
- その原因ってなんなんだろう?(いろいろ聞くが詳細はわからない)
- そのせいで1960年代生まれは金メダリストが少ない。
- 正確には1962~1971年生まれが谷間世代。
- 北朝鮮はこの大会の開催を妨害しようとして大韓航空機を爆破した。
- しかしソ連など共産圏諸国を怒らせてしまい逆効果に。
- 自動車分野でのオフィシャルスポンサーは今は亡き大宇自動車だった記憶がある。
- 実際はライバルの現代自動車(ヒュンダイ)がオフィシャルスポンサーだった。ちなみにヒュンダイと提携していた関係で三菱自動車工業もスポンサーに加わっていた。