大阪の城
大阪市[編集 | ソースを編集]
大阪城[編集 | ソースを編集]

- 所在地:大阪市/中央区
- ランドマークといえばこれでしょう。
- 大阪城以外考えられない。
- 市民の募金で建てたんだもん。
- 世界大恐慌による深刻な不景気な時代にね。
- んなことありません。今の一般大阪人にとっては↓のほうが。そもそも外観のモデルは徳川時代だし。
- んなことありません。一部のビルマニアだけ。
- 天守に限っては逆に城郭ファンが嫌ってるんじゃないかな。「城」として機能してた時代から残っているもの、石垣などは別にして。
- 外観のモデルは、徳川時代と豊臣時代の折衷。
- 天守に限っては逆に城郭ファンが嫌ってるんじゃないかな。「城」として機能してた時代から残っているもの、石垣などは別にして。
- 徳川時代の天守閣も17世紀後半に落雷で焼失、それから昭和に再建されるまで天守のない時代が長かった。
- んなことありません。一部のビルマニアだけ。
- その募金の半分ぐらいを陸軍がピンハネして、第四師団司令部を作ったんだとかなんとか。
- 元々関一市長の「昭和天皇即位記念大阪城公演整備事業」の一環として作られた。大阪城全体が陸軍の土地なので一般人が入る事は不可能だったが、師団司令部と天守と公園を造る事で、一般市民でも城内・天守に入って楽しめるようになり、一躍、大阪名所となった
- 天守閣の前にある旧大阪市立博物館の建物は元々軍の建物だった。大阪市立博物館は今は大阪歴史博物館に移転し、跡地はミライザ大阪城という商業施設になった。
- 元々関一市長の「昭和天皇即位記念大阪城公演整備事業」の一環として作られた。大阪城全体が陸軍の土地なので一般人が入る事は不可能だったが、師団司令部と天守と公園を造る事で、一般市民でも城内・天守に入って楽しめるようになり、一躍、大阪名所となった
- ランドマークの原義から言えば「西梅田の高層ビル群」or「OBP」もありかと?
- 在京マスコミは見事なカメラワークで、高層ビル群を一切映さずに大阪城だけを映し出す。
- 高層ビルをバックにしたら大阪城がぼやける。
- 高層ビルが映らない角度が一番かっこいい。
- 全国の高層ビルマニアは大阪城とOBPが一緒に見える角度が一番美しいと思ってる・・・はず。(by長野出身のビル好き)
- 具体的には、どのあたりから見た場合でしょうか。
- NHK大阪放送会館のエレベーター室から(有料)
- ああ、歴博の方ね。年に一回(大体、11月の第二週の週末辺り)、関西文化の日とかいうので入場無料になることがあるからそれを狙っていくといいよ。
- 具体的には、どのあたりから見た場合でしょうか。
- 全国の高層ビルマニアは大阪城とOBPが一緒に見える角度が一番美しいと思ってる・・・はず。(by長野出身のビル好き)
- 地元民も観光客もビルなんて見に行かない。
- 昔、幕府が架けた橋は12カ所だけで後は町人が自腹で架けている。大阪城もたった半年で募金が集まったそうで正に大阪が誇る町人文化の結晶と言える物です。OBPや梅田のビルと比べないでほしい。
- ビルの持ち主には大阪発祥の企業も含まれているだろうにその言い草は失礼すぎる。
- 在京マスコミは見事なカメラワークで、高層ビル群を一切映さずに大阪城だけを映し出す。
- 城の内部はめっちゃ近代的。エレベーターも設置されている。
- さすが太閤さんやなぁ、今のビルと変われへんやん。
- 昭和初期のコンクリート建築で逆に「近代建築」として登録有形文化財入りしました。ちなみに大阪ガスビルより古いです。
- 現存する世界最古の鉄骨鉄筋コンクリート造建築物、昭和の名建築。
- 今はなき大阪球場は、かつて昭和の大阪城と言われていたことがある。
- かつては和歌山から遥々やって来た御殿があった。是非復元して欲しい。
- どこかのアメリカ軍の失火で焼いてしまったらしい。
- おそらく、大阪で最も(平日の昼時は特に)外国語が聞こえる場所といっても過言ではない。
- 秀吉が作った城なのに韓国人観光客も平気で来る。
- パルクールなどエクストリームスポーツには絶好のスポット。周囲の目も比較的優しい。
- 桜の名所として有名だが地元民は、桜の時期の人出の多さと桜はどこでも見られることから、梅の時期に梅林へ行く方を好む者が多い。
- とはいえ、やはり、桜が美しいという事実には変わりはないわけで……
- 4月1週目の金・土曜は「新歓」を兼ねるのか混雑はハンパない。
- 西の丸庭園開門直後の場所取り合戦は、もはやお花見シーズンの儀式。
- 4月1週目の金・土曜は「新歓」を兼ねるのか混雑はハンパない。
- だからといって、梅が汚いわけでもなく、こっちはこっちでめちゃくちゃ美しい。
- さらに桃園の桃の花もキレイ。
- 桃園は、新鴫野橋のすぐ横手にあります。遠方の方向けに言うと大阪城ホールの側にありますので是非ライブなんかのついでにチョット散策がてらどうぞ。
- 梅園よりも人の数は少ない。結構思いのままに歩ける。
- 桃→梅→桜を全部見るとなると、だいたい、三週続けて毎週同じ曜日に出向くことになる。
- とはいえ、やはり、桜が美しいという事実には変わりはないわけで……
- 上沼家が所有する不動産の代表として全国的に知られている。
- 庭は淡路島。
- NHKなどで働いていることを考えると究極の職住近接ではなかろうか?
- 大阪城以前には石山本願寺が存在していたことは忘れられがち。
- その確実な痕跡が、まだ見つかってないとか言うのが悪い。
- 一応跡地であることを示す石碑ならあることはある。
- そういえば、つい最近まで、登記上の所有者は陸軍省だったらしいが、どうなったのやら。
- 実務上は建物の所有者は大阪市で土地は国からの借り物ということに。大阪市側は登記しない理由について「登記はあくまでも権利関係の問題が発生した際に他者に対抗するための手段。天守閣の所有権を第三者に移したり、他者に占有される可能性が考えられない」とのこと。
- 「大阪城を建てたのは誰?」
「大林組」 - 「大阪城の下には何がある?」
「大坂城」- ひねくって、石山本願寺というネタもあった。
- ネタと言うよりはマジレスやね……それも結構硬めの……
- 江戸時代までは大坂城という表記だったが、「坂」の字が「土に返る」につながり縁起が悪いので「阪」になった話は有名。
- ひねくって、石山本願寺というネタもあった。
- ゴジラやウルトラマンのゴモラに壊されたことがある。
- ゲームでもよく再現されているが一部作品では時代考証がおかしい。
- PS2「ウルトラマン」では時代設定が初代マン・帰マン放送当時のはずなのに80年代に完成したOBPのビル群が見える。
- ゲームでもよく再現されているが一部作品では時代考証がおかしい。
- 最近、また豊臣時代の石垣を掘り出して、観光資源化しようとしているらしい。
- 確か大阪城博覧会の時、一回話題になったことがあるが、埋め戻されていたから。
- 大阪城博覧会は築城400年を記念して1983年に開催されたが、その時に大阪城ホールや大阪城公園駅も開業した。
- 天守閣の前にある井戸のような物体の下に豊臣時代の石垣が眠っている。普段は蓋がされていて見えないが。
- 豊臣時代の石垣が発見されたのは昭和30年代のこと。それまでは豊臣時代の城の上に徳川時代のそれが作られたとは知られていなかった。
- 確か大阪城博覧会の時、一回話題になったことがあるが、埋め戻されていたから。
- ここ数年、大阪城間近でレッドブルXファイターズの日本(大阪)大会が開かれるようになった。橋下市長が見たいからやっている?
- 1年目は夜開催だったので大阪城から見る人は皆無だったが、2年目は昼間開催だったために大阪城天守閣で見る人も多数。
- 錦城という異名を持つ。
- 大阪相撲最後の大関(東京との合併後は平幕)が錦城山勇吉という四股名を使っていた。
- 1970年の大阪万博の際にタイムカプセルが埋められた。
- 万博から5000年後に掘り出す予定だとか。
野田城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:大阪市/福島区
- 昔からよく言われる「幻の城」。
- 城跡を示す石碑が、二箇所にある。
- 戦後頃の史料には、何度か登場するが、あまり目立たない。
- 細川高国やら出てくると思えば、石山合戦や大坂の陣などでも出てくる。
河内[編集 | ソースを編集]
千早城[編集 | ソースを編集]

- 所在地:千早赤阪村
- 楠木正成が鎌倉幕府軍10万(ほんまか?)を敵に回して籠城した城。
- 上から糞尿やら熱湯やらを浴びせまくった。
- 太平記には総勢100万という記載すらある。
- 尾根沿いに郭跡が一応広場になって、茶店があって神社になっている。
- 山城、マジで登る。
- 金剛山への登山口にもなっている。
- 城と言っても初期の中世山城なので石垣や天守はない。ほぼ天然の城。
下赤阪城[編集 | ソースを編集]

- 所在地:千早赤阪村
- 府道705号から行こうとすると赤阪中学の校庭の間、建物の間を通ることになる。通って良いものやら迷って途中まで行って引き返す人多し。
- あの道、村道ですか?車で通って良いの?
- 下赤阪城の横の棚田は棚田百選に選ばれている
- あじさいもきれいなので棚田と一緒に写真を撮る人も。
- バックに富田林市のスポーツ公園のライトが見えるのはちょっと残念。
上赤阪城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:千早赤阪村
- 下赤阪城に比べてアクセスしづらい。麓にそんなに車停めるスペースもないし、車停めてからも少し登らなきゃいけないし。
- 城跡の範囲に入れば、堀切の跡とかの案内立て札はちょこちょこあるのでその点親切。まぁ、そもそも観光案内的なものに上赤坂城自体の案内があんまりないねんけど。上2つの城跡に比べてはマイナー。
- 下赤阪城よりも山城っぽい。尾根沿いに郭がいくつかあって。マニア向けかも。
飯盛山城[編集 | ソースを編集]
- 飯盛山山頂に有る。
正行さん - 楠木氏の居城。
- ほとんど、山はいじられていないので廓の形状などがよく分かる。
- 名前だけ聞くと福島県にあるように思えてしまうがそうではない。福島県の飯盛山に飯盛山城はない。
- むしろ大阪人からすると、「福島にも飯盛山があるんだぁ。」という感じ。白虎隊ファンでもない限りは。
高安城[編集 | ソースを編集]
- 読み方は2つ。一方は「たかやすのき」、もう一方は、「たかやすじょう」。
- 「たかやすのき」は謎に包まれている。
- 「たかやすじょう」も、なんだかんだで不明なことが多い。
- 分かっているのは、信貴山城の支城だったということだけ。
- どちらも高安山の上にあったということだけは判明している。
高屋城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:羽曳野市
- 河内守護畠山氏の城とは言うが、ほとんどわからなくなってる。
- 基本的に、安閑天皇陵と言うことで保護されている場所以外は、宅地化されているため。
- 学校の勝手口への路地みたいな所に案内板があったりと……
- 基本的に、安閑天皇陵と言うことで保護されている場所以外は、宅地化されているため。
和泉[編集 | ソースを編集]
岸和田城[編集 | ソースを編集]


- 所在地:岸和田市
- 模擬天守があって、二の丸に猿山がある公園で、他に市役所や高校、神社、消防署。典型的城跡。
- あと明治期になってからの庭園付きの屋敷がある。今ではがんこ寿司の店舗として活用中。
- その神社が岸和田市浜手のだんじりがお宮入りする岸城(きしき)神社。
- 台風によって石垣が崩れたことがある。本丸に生えていた木ごと根こそぎ倒れた。
- 本丸に庭園に岩が配置されている。兵法の八陣を表している、らしいが、前衛的で全く理解出来ない。
- 何気に東福寺の庭などを設計した重森三玲の作である。
- 城跡にある高校は遺跡発掘のためだか、府の財政難のためだかで改築工事が一年延びた。
- 南北朝時代からの城。元々は楠木氏の親戚の和田氏が築城。和田一族のうち、浜手にいたので「岸の和田」。そこから岸和田になったとさ。
- 戦国時代までの岸和田城と江戸時代からの岸和田城は場所が違う。昔の方は岸和田古城と呼んで区別することも。
- 敵に攻められて落城の危機にあったとき、岸和田城にタコに乗った入道と大勢のタコが助けてくれた。後日、堀だかなんだかから仏像が見つかり、あぁ、あのときの入道はこれの化身だったんだと。
- で、蛸地蔵のお寺の由来につながる。
- 他にも海でタコを釣ったら仏像を抱えていた、とかいうバージョンもあった気がする。
- で、蛸地蔵のお寺の由来につながる。
- そんな大きな城ではないが、小牧長久手の戦いのときに徳川方に呼応した雑賀・根来衆を撃退してたり。
- なぜこの城が日本百名城の選定候補にすら入らず、千早城が入着したのかが理解できない大阪人は多い。
- 歴史的な重要性から見ると当然なんだけれど、天守閣とか見てわかりやすいものはこっちだからなぁ。
- 天守閣は模擬天守で、何もなかったところに観光資源のためにぶっ建てただけ。
- 当初は図書館として利用されていた。今は博物館的施設。
- 天守閣は模擬天守で、何もなかったところに観光資源のためにぶっ建てただけ。
- 歴史的な重要性から見ると当然なんだけれど、天守閣とか見てわかりやすいものはこっちだからなぁ。
- お堀で溺れた子供がいたが、向かいの高校の体育教師が飛び込んで助けたという美談がある。そして、その体育教師は堀の大腸菌にやられてしばらく体調を崩したというオチがつく。ここに限らずお城のお堀の水はねぇ…
- 堀と石垣の間に細い通路が存在している。これを「犬走り」と言って、幾つかの城に存在しているが岸和田城はこの「犬走り」が存在する城の代表的存在。
- ここを足掛かりに出来るので、城として考えた時は防御力が落ちるのだが、石垣に使った石が弱い場合などに圧力分散のために設けられる。
- 天守の最上階にある展望台からは天気が良ければ淡路島・明石海峡大橋・ポートアイランドなど神戸方面がよく見える。
- 「千亀利城」という別名がある。
千石堀城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:貝塚市
- 雑賀衆の勢力下だったときに、豊臣秀吉に攻められる。雑賀衆は得意の鉄砲で応戦していたが、偶然 秀吉方が放った火矢が火薬庫に引火、爆発炎上して落城。
- このとき貝塚市の近木川沿いに近木城、積善寺城、森城などがあった。ここの落城を期に次々開城、雑賀衆・根来衆は撤退。
- 城跡は空き地だけが残る。元々そんなに重要拠点だったわけではないし。
- なんとなく名前が歴史的でかっこいい。
雨山城・土丸城[編集 | ソースを編集]
- 南北時代の城。和泉山脈の前衛の小山にある。二上山みたいにふたこぶになった山の東側が雨山、西側が土丸城跡。
- 雨山に犬の散歩している地元の方がいたけれど、小さい山とはいえ結構登るよ?
- 北朝方に攻められ落城するときに、城側の人間がが再起のための資金を浜辺かどこかに埋めたらしい。で、埋めた人間は再起するときまで雌伏するように言いくるめられていたのに、仲間が討たれていくのを見捨てることが出来ず城に戻って討ち死に。どこに埋めたかわからなくなりました、という埋蔵金伝説。
- その後根来寺の勢力が泉州側への出城として使ったそうな。
- その前には、日根野弘就の先祖さんが住んでいた。
- 雨山の方は元々は南朝方、楠木正成の親戚が立てたらしいが、南朝・北朝で取ったり取られたり、らしい。お向かいの土丸城はそれに対抗して北朝側が造った、のだっけ。
- 何しろ地元には南北朝時代の百姓が、南朝方の役人が来たら「北朝にもう持って行かれました」と応え、北朝方が来たらやっぱり「南朝に(略)」とかうそぶいていたとかいう話しがあるくらい。
- 雨山の方は元々は南朝方、楠木正成の親戚が立てたらしいが、南朝・北朝で取ったり取られたり、らしい。お向かいの土丸城はそれに対抗して北朝側が造った、のだっけ。
- 特に何かが残っているわけではない。馬場跡とかがどこかはわかっているらしいが。
北摂[編集 | ソースを編集]
高槻城[編集 | ソースを編集]
- 大阪城の京都方出城として、家康が整備した。
- 当然そんな城なので、外様が入られるはずもなく、譜代の中でも特に信用のあるものか親藩しか入城できなかった。
- 例外は2代目藩主の土岐氏だろうが、彼は一度、家康の三河時代に旗本を勤め、秀忠の部下となっていたので譜代といっても差し支えない。
- 大阪の陣では補給の点で役に立ったらしい。
- あまりに重要だったため後に大阪城代の直轄支配に変更された。
- 現地ではそれ以前の高山右近の方がプッシュされている気がする。
- 近くにはご丁寧にカトリックの立派な教会まである。
- 城跡の公園に建っている銅像も高山右近。
- 当然そんな城なので、外様が入られるはずもなく、譜代の中でも特に信用のあるものか親藩しか入城できなかった。
- 明治時代に廃城になった後石垣が東海道本線の工事に使われた。
- なお城跡へのアクセス自体は阪急の駅からでも時間的にあまり変わらない。
- 跡地自体は陸軍の工兵隊が使用した後学校や公園になった。
- 陸軍時代を偲ばせるものとしては歩哨の詰所や赤レンガ造りの門が健在。
- 城跡の公園には古い民家が建っているが市内の別の場所から移築してきたものなので城とは直接関係ない。
- 「高槻市立歴史民俗資料館」という大層な名称が付いているが実際は休憩所に申し訳程度の民具が展示されているだけ。
- 城のことを知りたいなら三の丸跡地のしろあと歴史館へ。
普門寺城[編集 | ソースを編集]
- 所在地:高槻市
- 結局ワケがわからない。
- 普門寺が城なのか、普門寺の城なのか。
- 荒廃して放置された期間が長いため。
- 足利義栄が将軍襲位した場所らしい。
- 明治の時、明治天皇が立ち寄ったとか何とか。
- 細川晴元の墓などと言われている場所がある。