大阪市の神社/中央区
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少彦名神社[編集 | ソースを編集]
- 道修町の神農さんと言えば、薬品業界では本当に有名。
- 国内大手は勿論外資系でも正月に奉納をやるところがあるくらい。
- 絵馬の中にはドイツ語で書かれた物が奉納されていることもある。神農さんてドイ語分かるんか?
- 学問の神様ではないのに○○大医学部合格とか薬学部合格を祈願しているものもある。さすがにそこまで行ったら専門外ちゃうの?
- 製薬会社のビルが立ち並ぶ北浜の中にあるだけあって、入口も境内もめちゃくちゃ狭い。行きこそ、ビルとビルの合間を抜けていくが、絵馬掛ける所と帰り道はビルの下を抜けんとアカン。
- そんな神社でも一部上場の大薬品会社から崇拝されとる。神社はデカさだけではない。
- 日系の製薬会社だけではなく、アストラゼネカ等、外資系製薬会社の日本法人からも寄進を受けていたりするらしい。
- 張り子の虎がシンボルなので、阪神ファンも必勝祈願に来る。
- って言うけど掛かってる絵馬見てる限り、阪神がどうのとか言うのは全然見ぇへんで。信貴山と勘違いしてへん?
- 御朱印コレクターの間では、限定御朱印が多い神社としても知られてる。
- 多かったというべきかも。というのも昨今の社会情勢の変化を受けて、常設の3種類と雨天時限定の御朱印以外は、すべて書置きに変更されたため。(令和2年)
- 日本医薬の神である少彦名神と漢方医薬の神である神農炎帝をお祀りする。
- 実は江戸期にできた神社。
- 道修町界隈に薬種屋が集まった江戸初期に、薬種屋の寄合所に、京都の五條天神から少彦名神を勧請し祀り上げたのが、少彦名神社の始まり。
難波神社[編集 | ソースを編集]
- 本町(正確には博労町)にある。
- どの角度から社殿を撮ってもビルが映り込む。
- 反正天皇によって創建された。創建当初は松原にあったらしい。
- 秀吉の大阪の都市改造の時に、平野から移ってきたらしい。
- 上難波と下難波に移転し、上難波の方が難波神社となる。
- 一方の下難波に鎮座した神社は、今の難波八阪神社となったが、元々はひとつの神社だった。
- 秀吉公のお気に入りだったらしく、移転時に二千石もの領地が与え、おまけに大阪内の神社で唯一、楼門付き拝殿の建設を許していた。
- 徳川幕府に替わってからは冷遇され、大坂夏の陣で社殿が燃えても再建費を出して貰えず、逆に社領の9割を没収される憂き目に遭った。
- 上難波と下難波に移転し、上難波の方が難波神社となる。
- 今の社領は綺麗な長方形状で、四方に鳥居がある。
- ただし、北門は普段閉鎖されている。
- 1階分程度の高さにかさ上げされた拝殿は、なかなかの威厳がある。
- 階段オンリーでスロープは設置されていないので、拝殿へ登れない人のために、階段下にも賽銭箱が置かれている。
- 昔は境内社の稲荷神社の方が有名で、「博労稲荷」だとか「稲荷社」と呼ばれていた。
- 江戸時代は、大阪城の城代を交替する時に、大阪城鎮守に指定していた玉造稲荷神社へ提灯を奉納する決まりがあったが、ある代の時に使者が間違えて博労稲荷の方へ提灯を持ってきてしまった。
- 一方の神主は誤りと知りつつ、提灯を黙って受け取って拝殿に吊るしてしまったので、幕府側も今更間違えたとは言い出せず、以来博労稲荷へも提灯を奉納することになったんだとか。
- 江戸時代は、大阪城の城代を交替する時に、大阪城鎮守に指定していた玉造稲荷神社へ提灯を奉納する決まりがあったが、ある代の時に使者が間違えて博労稲荷の方へ提灯を持ってきてしまった。
- 神木の楠は、大阪市指定の保存樹第1号。
- 樹齢は400年以上で、大阪大空襲にも耐えた。
- 2018年頃から、なぜか、難波八阪神社と間違えてやってくる参拝客が多くなったらしい。
- 原因は、恐らくインスタグラムの普及で、獅子殿がインスタ映えスポットとして認知され始めたことによるものだと思う。
- さすがに毎度毎度「獅子殿はどこですか?」と聞かれまくって、神社側も業を煮やしたのか、徒歩で行くルートを日英二ヶ国語表記で案内する神を社務所に貼り出すようになった。
- 「案内する神」→「紙」ね。神様がはりつけにされながら二か国語で案内してくれるの想像して笑ってしまった。
坐摩神社[編集 | ソースを編集]
- 全国の渡辺さん発祥の神社。
- 住所表示も久太郎町4丁目渡辺
- 1989年に東区が南区と合併し中央区になるまでは渡辺町だった。
- 摂津源氏の渡辺綱さんの根拠地だったらしい。鬼退治のプロだったらしいよ。
- だいたい、みんな「いかすりじんじゃ」などとよばず、「ざまじんじゃ」と読んでいる。
- 境内に陶器神社がある。
- 元々は中央大通沿いにあったが、阪神高速道路建設に伴い境内に移転してきた。
- 付近はかつて陶器屋が多かったらしい。現在でも7月には境内で陶器まつりが開催されている。
- 灯籠や由緒書きが陶器で造られている。
- しかし賽銭箱は、石タイルを貼った植え込みのような感じで、陶器製じゃない。
- 上方落語寄席の発祥地でもある。
- なお、上方落語自体の発祥は生玉さん。
- 桂三枝(現・6代目桂文枝)と肥田晧三による石碑が建立されている。
- 鶴丸ならぬ鷺丸が社紋。
- それに因んでサギソウ(サギラン)を栽培している。
- 境内には大阪府神社庁のビルが建っていて、ここが社務所を兼ねている。
- 変わった特徴が多い神社。
- 全国的に珍しい三ツ鳥居が建つ。
- 手水舎には柄杓と水槽がなく、公園にある手洗い場のようなシンプルなデザイン。
- センサー感知によって水が自動で出てきて、そこで直接手を洗うというスタイルをしている。
- 狛犬がすんごい背筋を伸ばして座っていて、前足が異様に長い。
- そして何故かライオンの石像もある。
- 携帯可能な小型の守札(巾着袋に入ったお守りではない)を扱っている。
- 元々、石町のエル・おおさかの向かいにあった。
- 向かいにあんなもんが置かれてしまったら神様も安心して寝ていられない。因果関係はないが結果的には移転して正解だった。
- 船場エリアの幅広い地域が氏子地域扱いになっている理由の一つはこれなんとちゃうかと思う。
- 今でも旧社地は御旅所として残る。
御霊神社[編集 | ソースを編集]
- 御堂筋から西へ一本入ったところにある神社。
- 元々この辺にあった入江跡地の泥濘に、八十島祭を行うための祭壇が設けられたのがその始まり。
- 八十島祭というのは「古代、天皇が即位した年の翌年、御代の安泰と国土の生成発展とを祈った祭り。」のことらしい。ブリタニカ百科事典にそんなことが書いてあった。因みに大嘗祭のつぎにやるのがこの祭りで御霊神社でのみ執り行われるものだったんだとか。
- 文徳実録によると9世紀頃の創建らしい。結構古い。
- 御神木のくすのきはビル街の中にあって都会のオアシス的な雰囲気を漂わす。
- このくすのきをさすって拝むと美肌のご利益があるらしい。なんでそうなのかは知らん。
- 中井エンジニアリング本社の前に忽然と鳥居がある。
- 因みに中井エンジニアリングというのは大阪ガスの下請け企業。
- ガスビルもすぐ近く。
- この本社ビル付近には、当社の神宮寺だった宝城寺があったのだが、明治時代に廃寺になって鳥居だけが残った。
- 奈良や京都などの「御霊神社」とは祭神が全く異なる。
- 多くの神を合祀している東宮は、社殿内に15もの祠が並んでいて、なかなか圧巻。
玉造稲荷神社[編集 | ソースを編集]
- お伊勢参りの大阪側の起点の神社として有名。
- 上方落語の「東の旅」で喜六と清八が旅出のお詣りをするのがここ。でもそんなすごい神社には見えないくらいこじんまりとしている。
- 境内には豊臣秀頼の銅像が建てられている。
- なんでも豊臣大阪城の三の丸があったのが玉造稲荷神社のある地点だそうで、三の丸に秀頼の胎盤を埋めたからとか何とか。案内板にそう書いてあったけど、湯治は出産時にへその緒だけでなく胎盤も後生大事にとっていたのかと。
- 下半分が地面に埋もれたようになっている石鳥居は豊臣家による寄進の品。因みに埋もれたのでも埋めたのでもなく、単純に震災で壊れた下半分を取り除いて上のところだけ下ろして存置したにすぎないらしい。
高津宮[編集 | ソースを編集]
- 高津
- 「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」など上方落語の数多くの作品で舞台として登場した神社というか宮殿跡というか。
- それゆえに参集殿の別名が高津の富亭という。その名に恥じぬように数多くの寄席が主に五代目桂文枝の門弟たちによって行われている。
- 「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」 by仁徳天皇
- この句にある「高き屋」というのは当時の高津宮にあったとされる建物らしく、そこから浪速の街を見て詠まれたんだとか。因みに、難波高津宮という仁徳天皇が御造営になられた宮殿が高津宮の起こり。
- この逸話は大阪市歌にも登場している。
- また豊太閤こと秀吉より前の大坂を示すためか鉄道唱歌の大阪パートでも歌われた。
- 元々は今の高津高校さんのある辺にあったらしい。今そこにあるのは高校と現在の政治を握る宗教だが。
- こっちは、かつて政治に深く関わっていた宗教という意味ではある意味共通点があるといえるのか。
豊國神社[編集 | ソースを編集]
- 京都にあるものとは異なり「ほうこく」神社と読む。
- 社号の表記も京都は新字体の「国」、こっちは旧字体の「國」と区別されている。
- 秀吉だけではなく弟の秀長や息子の秀頼も祀られている。
- 京都では秀吉しか祀られていない。
- もともとは中之島にあった。
- 現在地はもともと軍用地だったため戦後になってようやく移転できた。
- ウルトラシリーズの3D格闘ゲームで大阪城のステージがあると高確率でこの神社も再現されている。
- 大阪城の桜門を出て左斜め前にある。
- 豊公愛の強い大阪にある豊公を祀る神社であるにもかかわらず、参拝客数はそれほど多くはない。
- 由緒ある神社が多すぎるため、仕方あるまい。
- 最寄り駅から微妙に遠いことも、足を運びにくい要因かもしれない。
- JR大阪環状線で行く場合、実は大阪城公園駅よりも森ノ宮駅の方が近かったりする。
- それは鉄オタのこじつけであって、全く関係ないと思う。最寄り駅から微妙に遠いから参拝客が少ないというのであれば、大阪城だって来城客数はもっと少なくなるはず。また、その理論が正しければ、今頃、森ノ宮駅前の鵲森宮なんて、参拝客数で、朝の御堂筋線のラッシュ並みの人混みになっていただろう。
- 秀吉公の命日に行われる太閤祭になると参拝客が増える。
- 遍座前に使われていた社殿は、服部住吉神社へ移設されている。
鵲森宮[編集 | ソースを編集]
- 「森之宮神社」とも言われる。森ノ宮の由来になった神社。
- 元は四天王寺の鎮守社で、聖徳太子の父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を国内で唯一祀る。
- 後年は聖徳太子自身も合祀された。
- 元は四天王寺の鎮守社で、聖徳太子の父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を国内で唯一祀る。
- 聖徳太子が自ら建てた唯一の神社を自称している。
- あれ、龍田神社は…?
- 雑居ビルに囲まれているので、境内が狭いうえに入り組んでいる。
- かつては、今の大阪城公園辺りまで社領があったらしいが、戦国時代の戦乱や近代の道路整備で、縮小されてしまったらしい。
- 玉造筋側(東側)には玉垣が並んでるのでまだ場所が判りやすいものの、森之宮公園(西側)から観ると雑居ビルの隙間にあって気付きにくい。
- 第二次大戦時の大阪空襲で被災しなかった、数少ない神社のひとつ。
- 近くに大阪砲兵工廠があったから、そっちへ爆撃が集中して被害を免れたのかも。