大阪市交通局30系電車
大阪市高速電気軌道の車両 > 30系



- 1970~1980年代における大阪市営地下鉄の主力車両。
- 高度経済成長期に大量に製造されたという意味では「大阪市営地下鉄の103系」とも言える。
- 最盛期には366両が在籍したが今は冷房改造された車両のみが残っている。しかもそれも廃車が進んでいる。
- 最初に製造されたのは旧7000・8000形の1967年で最後に製造されたのは1984年。足掛け17年にわたって増備が続いた。
- 登場時はビニールレザーの座席でとにかく硬かった。今でいうJR209系やE231系のような感じか?
- 途中でモケットに変更されたもののそれでも硬く、最終的には今の柔らかいものになった。
- そんな良いものではなくて、ベンチプレスの台みたいな感じ
- E231はまだしも、209系の座席を「良いもの」と言って良いかどうか疑問が残るがなw
- ベンチプレスの台ってのはイメージしやすい例えw
- 最初に投入されたのは谷町線だが最後に残ったのもまた谷町線。
- 前面が京王6000系に似ている。
- 似たような年代(ただ登場は30系の方が5年早い)だったが、京王6000系は30系より2年早く全車引退してしまった。
- あの部分に機器を置いたためという単純な理由だが、左右対称が当たり前の当時としてはそれも斬新なデザインと映ったらしい。
- 旧7000・8000型として登場した車両は前面貫通扉の幅が広かった。
- よく見ると車掌側の窓の上にに運行番号表示器の窓を埋めた跡が見られる。このため車掌側の窓の上辺が他の30系と比べてやや低い。
- このグループは車内の荷物棚が戸袋部以外になかった。
- そのためか側窓の天地寸法もやや大きい。
- 一部に車内灯が中央に配置され、ファンデリアが左右に千鳥配置されている車両も存在した。
- 外観からも通風器の形態が異なるので容易に見分けがついた。
- このタイプの先頭車は末期はほとんどが四つ橋線所属だったが、3000・3500形が各1両のみ谷町線に所属していた。車番は3098・3598で、非冷房時代は谷町線では唯一の青ナンバーの編成だった。
- 側扉は当初は50系に似た角ばった窓が特徴だったが、後に新30系ステンレス車と同じものと交換された。
- 2011年現在大阪市営地下鉄では唯一の抵抗制御車両。
- 関西の大規模鉄道事業者で最初に全営業車両の回生ブレーキ搭載車化を達成した(阪神も非回生車は絶滅寸前だったはず、しかし阪急・京阪はだいぶ減ってきたとはいえ非回生車がだいぶ残っているし、近鉄・南海はいわずもがな。京都市と神戸市は全車回生車だったはずだけど"大規模"鉄道事業者とはいいがたい気が)。
- 京阪は大半が回生ブレーキ搭載だった気がする。もっとも半世紀以上前から回生ブレーキ搭載車を導入しているから当たり前だけど。
- 関西の大規模鉄道事業者で最初に全営業車両の回生ブレーキ搭載車化を達成した(阪神も非回生車は絶滅寸前だったはず、しかし阪急・京阪はだいぶ減ってきたとはいえ非回生車がだいぶ残っているし、近鉄・南海はいわずもがな。京都市と神戸市は全車回生車だったはずだけど"大規模"鉄道事業者とはいいがたい気が)。
- 冷房改造と同時に車内の更新も行われたが、もはや改造前の面影はないほどの徹底ぶり。
- ただシートモケットの薄紫色は色褪せが早かった。
- 冷房改造車で保存された車両は存在しない。
- 一部の車両は北大阪急行電鉄7000・8000(初代)系として製造され、万博終了後に大阪市が買い取ったという経歴を持つ。
- アルミ車両は冷房改造後車両番号が青いプレートになったが、改造前は車体に直接書かれていた。
- 但し新30系のみ。それ以前の30系アルミ車両は当初から青いプレートだった。
- 新30系セミステンレス車は冷房改造前は車体の色と同じ銀色に黒文字のプレートが貼られていた。
- 2013年10月のさよなら運転で引退が決定。
- 冷房改造されたものの、改造車であるためか新20系などと比べてクーラーの効きが悪かった。
- 加えて抵抗制御だったため、トンネル内に抵抗器の熱がこもって暑かった。特にホームに停まる時とか。
- そういうこともあってか、あるいは抵抗制御で電力消費が大きいためか最近は特に夏季は昼間は運用されていないことが多かった。
- 初の4扉でステンレスorアルミを使用した車体は内外に多大なインパクトを与えたと伝わる。
- 反面、短期間での大量投入のため、寿命を犠牲にしてでも各部の構造を簡略化したという走ルンですの元祖のような車両でもあった。
- 最終増備まで両構造が並行して製造された。組み替え時に先頭車を中間化した例などもあり、画一的な量産車の割にはバラエティに富む。
- 加えて御堂筋線時代に一度中間車になり、中央線への転用時に再度先頭車に復帰した車両もある。
- 特に冷房改造と同時に中間車化された車両は元運転室の部分を完全に客室に改造したため、先頭車時代の面影は全くなくなった。
- 非冷房時代は新30系とそれ以前の車両の連結も頻繁に見られた。側扉窓の大きさが異なるのですぐに見分けがついた。
- 1980年代以降は下二桁が40番台以前がアルミ車、50番台以降がセミステンレス車に充てられていた。但し1970年代までは3001F~3007Fがセミステンレス車体だった。
- 90番台は1970年代は4両固定編成(先頭車は旧7000・8000形)に充てられていたが、80年代以降谷町・中央線用の6連セミステンレス車に当てられるようになった。そのため3094F~3099Fには初代と2代目が存在する。中でも3099Fの3799・3499は3代目まで存在する。
- 初代90番台は主に2編成組み合わせて8連で御堂筋線に運用されていたが、相互直通の相手である北急2000形にも4連が存在していた。
- これは後に新造の中間車1両を組み込んで5連となり四つ橋線に転用、車番も60番台となった。
- 初代90番台は主に2編成組み合わせて8連で御堂筋線に運用されていたが、相互直通の相手である北急2000形にも4連が存在していた。
- 3001Fと3099Fがともに存在していたが、別に99編成全てがあったわけではなく欠番も多かった。
- 90番台は1970年代は4両固定編成(先頭車は旧7000・8000形)に充てられていたが、80年代以降谷町・中央線用の6連セミステンレス車に当てられるようになった。そのため3094F~3099Fには初代と2代目が存在する。中でも3099Fの3799・3499は3代目まで存在する。
- 3扉車がまだ運用していた頃は4扉車のことを「シルバーカー」と呼称して、乗車位置にその旨を表示していた。(ちなみに、平成に入ってからの一時期千日前線でも運用されていたことがある。)
- 製造が一段落した1973年より、構造を強化した「新30系」にマイナーチェンジしている。特にアルミ車は工法の変更で屋根肩に丸みが付き、印象が変わった。反比例して増備ペースは鈍化した。
- 延命と冷房改造を受けて21世紀を迎えた車両は全て新30系グループに属する。
- 新30系は製造当初から側扉の窓が大きく、車内は暖房が装備されていた。
- 昭和生まれのコマル車の中ではこいつだけ電子警笛をつけられていた。
- 大阪市の摩訶不思議な出会い。
- 後期車は新造当初から電子笛を設置済み。
- 谷町線で最後まで走っていたグループもこれ。
- 製造後10年も経たずに廃車になった車両が存在する。
- 3043・3543・3597の3両。よりによって1984年製の最終新製車だった。中間車が古かったので冷房改造されずに廃車になったらしい。特に3043Fは先頭車のみ新30系だったがアルミ車体だったので先頭車と中間車の車体形状が異なる特異な編成だった。
- 1968年製の先頭車は1969年以降に製造された車両と比べて先頭車前面の貫通路の幅が少し狭かった。
- 3001F~3004F・3008F・3009F・3014F(いずれも新造時)が該当。
- 1969年以降の車両は610mm幅なのに対し1968年製造は550m幅。最初は窓ガラスも小さかった。現在森之宮で保存されている3008号車はその時の姿に復元されている。
- 但し車内側から見たら窓が大きかったのを改造したのがわかる。
- 車内放送のスピーカーの音質が悪かった。