天皇伝/上代
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神代[編集 | ソースを編集]
神武天皇(第1代)[編集 | ソースを編集]
- 輝ける初代天皇。
- だが江戸時代までほぼ注目されることはなかった。
- 陵墓すらどこか分からなくなっていたほど。
- だが江戸時代までほぼ注目されることはなかった。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。
- ま、複数の人物が何十年かかけておこなったことを、ひとりの英雄に仮託したと見るのが妥当なところでしょうけどね。
- このあたりの天皇は在位年数とか寿命が超人的。
数合わせ?- 天孫ニニギノミコトがブスの磐長媛を嫌って遠ざけたので、その祟りで歴代の天皇の寿命が短くなったはずなんだが自己撞着ですな。
- 古代においては春の田植えと秋の収穫の際に年齢を+1したので半分にすれば妥当な歳に落ち着くという説がある。
- 現在の歴史学では判断材料が乏しすぎて積極的に否定も肯定もできない状態らしい。
- 日向から河内をへて大和に入ろうとしたが、長髄彦さんに負けたので南下し、熊野を経て桜井へ。
- なんでそこまで大迂回して大和盆地に行きたかったんやろ。あきらめて別の土地に行けば良さそうなものを。
- いや、吉野に逃げ込んで挽回した勢力は結構ある。古代において盆地や島はなかなか根拠地に適してる。
- 大和国には、何か特別の宝物が眠っていたからではなかろうか。それを手に入れると、天下を取れるみたいな。
- この人が出発した港の日向国美々津が後に日本海軍発祥の地とされた。
- なんでそこまで大迂回して大和盆地に行きたかったんやろ。あきらめて別の土地に行けば良さそうなものを。
- 名を、神日本磐余彦(カンヤマトイワレヒコ)という。狭野(サノ)という名前の記録もある。
綏靖天皇(第2代)[編集 | ソースを編集]
- 神武天皇の三男にして、記紀に記録が少ない欠史八代と言われる第2代~第9代天皇の一。
- ただし、神武天皇の死後に実母を妻にした異母兄を討伐した、という武勇伝が神武天皇の条に載っている。
- でもその原因は、神武天皇崩御後に、綏靖天皇が落ち込みすぎて政治をおろそかにするのがそもそも悪いらしい。
- ただし、神武天皇の死後に実母を妻にした異母兄を討伐した、という武勇伝が神武天皇の条に載っている。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。(すみませんパクリました)
- 初代2代併せて、カンカン2代と呼ぶ。初代カンヤマトイワレヒコ、2代カンヌナカワミミという名前から。
安寧天皇(第3代)~開化天皇(第9代)[編集 | ソースを編集]
- 本当の欠史。都の位置、妻、子供、享年、御陵の位置しか記録がない。
- ちなみに、安寧、懿徳(第4代)、孝昭(第5代)、孝安(第6代)、孝霊(第7代)、孝元(第8代)、開化。
- 孝昭帝~孝元帝の諡号の投げやりさが笑える。いかにも後からつけた感満載。
- この4代は実は全部漢のパクリ。漢の帝号には正式には、高祖と光武帝以外は正式には全部「孝」がつく。
- ちなみに、孝昭皇帝(昭帝)は前漢8代、孝安皇帝(安帝)は後漢6代、孝霊皇帝(霊帝)は後漢12代、孝元皇帝(元帝)は前漢10代。
- 日本書紀とか見るとここら辺の天皇の名前は元々もっと長ったらしい。この辺の天皇号は奈良時代の淡海三船が考えてつけたもの。
- この4代は実は全部漢のパクリ。漢の帝号には正式には、高祖と光武帝以外は正式には全部「孝」がつく。
- 孝昭帝~孝元帝の諡号の投げやりさが笑える。いかにも後からつけた感満載。
- とりあえず、「即位すると遷都」という例が多く見られるので、先帝崩御は「一種の穢れ」とでも考えていたのだろうか。
- ちなみに、安寧、懿徳(第4代)、孝昭(第5代)、孝安(第6代)、孝霊(第7代)、孝元(第8代)、開化。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。(すみませんこれもパクリました)
- 実在説もある。詳しくはウィキペディアの欠史八代の項目を参照。
- 孝昭天皇は珥氏・春日氏・小野氏・粟田氏・柿本氏・大宅氏等のご先祖様。
- 孝昭天皇が実在しなければ小野妹子や小野小町の先祖は誰になるのか?
- 後代の武家が自称した「清和源氏の末裔」「桓武平氏の末裔」のようにこじつけという線は考えられる。
- 国史大系版の先代旧事本紀によると、孝昭天皇は、「二人いる」もしくは、「重祚している」ように読める。
- 孝昭天皇が実在しなければ小野妹子や小野小町の先祖は誰になるのか?
- 孝元天皇は葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・巨勢氏のご先祖様。
- 孝元天皇が実在しなければ蘇我馬子や紀貫之の先祖は(ry
- 武内宿禰が、孝元天皇のひ孫。
- 孝元天皇の末の妹が、卑弥呼女王である。
- 孝元天皇が実在しなければ蘇我馬子や紀貫之の先祖は(ry
- 懿徳天皇は、我が国初の「大臣」を置いた天皇になるらしい。
- 年齢の記述がおかしいから存在しない!と言いながら邪馬台国への道のりの記述のおかしさは読み替えを許す人がいる。
- 大体の学者の説を見ても居ないと断言できるような確たる根拠もまた別にこれといってない。
- 7代孝霊8代孝元9代開化を、根子(ネコ)3代と呼ぶ。
- この「ネコ」は尊称を連ねたもので食肉目の動物とは関係ない。
- 「懿徳天皇の在位中に開聞岳が湧出(噴火)した」という記録がある。それこそ後世(江戸時代)の文献の記述なわけだが。
上代[編集 | ソースを編集]
崇神天皇(第10代)[編集 | ソースを編集]
- 一応実在が確認できる最初の天皇らしい。
- 別にここを起点としても2,000年は超すから「万世一系」で十分今は誇れると思うが。いや、26代の継体天皇起点でも……1,500年。
- 和風諡号には、ハツクニシラスという神武天皇と共通する言葉が入っているので、同一人物説もある。
- ハツクニシラスは「初国知らす」=「初めて建国を宣言した人」という意味なので、その点でも「初代」っぽいんだよなあ。
- ここで神武以来の「三輪王朝」と「崇神王朝」の交代が起こったという説もある。
- その崇神王朝が別名三輪王朝で、神武から9代までは「葛城王朝」じゃなかったっけ?
- いわゆる「四道将軍」は、崇神天皇の頃だったかな。
垂仁天皇(第11代)[編集 | ソースを編集]
- 后が「ダンナ(垂仁天皇)よりもお兄ちゃんの方が好きっ」とのたまって天皇暗殺未遂を起こし、そのお兄ちゃんと籠城して心中。
- 同人系の漫画に出てきそうである。
- 野見宿禰と当麻蹴速に日本初の相撲をとらせた方。時に西暦紀元前23年7月。
- その野見宿禰の献策で、土偶を作ることになったそうだ。
- 殉死をなくすために考えたものらしい。
- 土偶やなくて埴輪な。倭彦王の埋葬の際に、生き埋めで殉葬させられた人々の泣きわめき苦しむ声が頭にこびりついて離れなかったらしい。今風に言えばPTSDに近いものだったのではないか。
- さすがに『火の鳥』ヤマト編ばりに地中からシュプレヒコールを上げるということはなかったはず。
- その野見宿禰の献策で、土偶を作ることになったそうだ。
景行天皇(第12代)[編集 | ソースを編集]
- ヤマトタケルをこき使った薄情な天皇というイメージが強いが、実は自分も相当忙しく各地を飛び回っていたらしい。
- 「景行天皇行幸の地」というのは日本各地にやたらと沢山ある。
- まあ、実際には景行天皇から遣わされた使者もしくは軍勢が行っただけではないかとも考えられるが。
- 「景行天皇行幸の地」というのは日本各地にやたらと沢山ある。
成務天皇(第13代)[編集 | ソースを編集]
- ヤマトタケルの異母兄弟。よく弟と言われるが出生順は不詳。
- 若き日のオウスの命(ヤマトタケル)に手足をへし折られた兄、オオウスの命だったんじゃないかという説も。
- 欠史八代並みに記紀の記述が少ない。
仲哀天皇(第14代)[編集 | ソースを編集]
- ヤマトタケルの息子。しかし母はミヤズヒメでもオトタチバナヒメでもない
- 架空の父と架空の妻を持つ仲哀天皇が実在人物のはずがない、と主張している学者も。ほっとけよ。
- 神様が「新羅を帰服させよ」と言ったのにシカトしたため、神の怒りを受けて崩御。その後妻の神功皇后が大活躍。
- 諡号も何となく哀しい。
- 漢風諡号としての「哀」は、夭折したか、あるいは計画した事業が完遂できず挫折した君主に与えられる文字。仲哀天皇は50代まで生きているので前者ではない。やはり三韓征伐の途中で崩御したことによるものだろう。
- このころの天皇はみな人間離れした寿命だったにも関わらず、52歳という現実的な年齢で崩御しためずらしい人物。
応神天皇(第15代)[編集 | ソースを編集]
- 日本で最も支店数が多い八幡宮チェーンの創業者。
- なお実際のところは九州ローカルの神様と母親もメジャーな応神天皇を無理やり結び付けた可能性大だとか。
- お墓は日本で2番目に大きい。
- 明らかに仁徳陵よりも手間がかかっており、基準のとりかたによっては最大。
- その大きさのおかげで、宮内庁も出店を置いている。
- 五ノ三。名鉄の駅ではない。
- 関西人っぽいが生まれは九州博多。バリバリの九州男児たい!
- しかも生後すぐに海外短期留学を経験。国際派たいねえ、格好良か!
- 実際は、関西育ちみたいなので、十中八九こんな話し方はしていないと思われるというのは御愛嬌。
仁徳天皇(第16代)[編集 | ソースを編集]
- 民(たみ)のかまど。
- で、大山古墳は、誰のお墓なのよ。
- 出土した土器によるともう少し時代が下った人の墓という説もある。ただし、今すぐ精査することは不可能。
- 世界最大の墳墓と言われることもあるが、それは容積でも底面積でもなく、「墳丘の長径」という微妙な基準で見た場合。容積や底面積なら応神陵のほうが上だし、大型のピラミッドにはもちろんかなわない。
- 嫁の磐之媛のヤキモチに生涯苦しめられたらしい。
- 脚をバタつかせ、地団駄踏んで怒り狂ったとか。
- 有力者・葛城氏の出だったので、離縁もできず、仁徳天皇は嫁の機嫌をとるのに四苦八苦した。
- 難波の堀江の開削をした。
- 当時の技術で良くできたなぁと言いたくなるぐらいの大工事。
- 中国の南朝・宋に朝貢した「倭の五王」の一番目「讃」はこの人という説が有力。
- でも、応神天皇説や履中天皇説、大和朝廷と無関係な九州あたりの豪族説もある。
- 略奪婚で応神パパの嫁になるはずだった日向髪長媛を奪った。
- 応神パパへの輿入れのため日向から大和へ向かていた日向髪長姫を摂津国桑津村において目撃した仁徳帝はその美貌に一目惚れ。応神パパがその話を聞き、息子と恋闘いをするのは気が引けたのか、媛を簡単に仁徳帝に譲ったとか。
履中天皇(第17代)[編集 | ソースを編集]
- あまり知られていないが実は日本で3番目に大きいお墓で眠っている。
- 酔っ払って眠っていた時に弟に御殿を放火された。
- 「倭の五王」の「珍」はこの人という説が有力。
- でも「讃」と「珍」が兄弟だという中国側の史書に基づき、讃が履中天皇で珍が反正天皇だという説もある。
反正天皇(第18代)[編集 | ソースを編集]
- 仁徳天皇の三男。にしても諡号がひどい。正に反するって…
- 反乱起こしたか、親か親族を殺したか、不倫でもしていたかその辺かなぁ。
- それまでは父子での相続だったのが、履中→反正では兄弟間の相続になったから正に反する、って諡になったと言う説がある。
- イケメンだったらしい。
- 長兄と弟も天皇。次兄は父を焼殺しようとしたので父の命により殺したそうな。
允恭天皇(第19代)[編集 | ソースを編集]
- 古代を代表する美女衣通姫。古事記ではその親父、日本書紀ではその義理の兄。
- 「美しさが衣裳を透かして迫ってくるほどだ」というのが衣通姫の名前の由来。シースルー……?
- 息子の木梨軽皇子は、日本史上初の「妹萌えが行き過ぎて人生を棒に振った」人。
- 当時は近親相姦もよくある話じゃん、と言うが、あくまでも母親違いなら問題なしという条件が付く。つまり……
安康天皇(第20代)[編集 | ソースを編集]
- 暗殺された初めての天皇。誤解して殺した叔父の息子に復讐された。
雄略天皇(第21代)[編集 | ソースを編集]
- ワカタケル大王。武蔵国の稲荷山まで武名を轟かせた。
- 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣を見ると古代のロマンを感じる。
- 熊本の江田船山古墳から見つかった鉄剣にも名前が刻まれているという見解が有力。
- この人の治世時点でヤマト王権の支配が九州から関東まで広がっていたという証拠とされている。
- 倭王武。
- 武に先んずる4人の倭王「讃」「珍」「済」「興」が誰なのかは諸説あるが、武だけは雄略天皇ということでだいたい一致しているようだ。「倭の五王は大和朝廷とは関係ない」と言ってたセンセイ、そこんとこはどうなの?
- 旅先で美少女を見つけ、「都に帰ったら妃に迎えるのでそのつもりでな」と言い置いたが、帰ったらすっかり忘れていた。美少女はお召しを待ち続け、ついに老婆になってしまった。
- ひとこと言いたくて都にやってきた。雄略天皇はあわてて謝罪し、多くの贈り物を持たせた。
- こんなほのぼのエピソード(?)が伝わるのは、人々に親しまれた帝だった証だろう。
- ひとこと言いたくて都にやってきた。雄略天皇はあわてて謝罪し、多くの贈り物を持たせた。
- 万葉集の一番最初に収録されている歌の作者とされる。「籠もよ」で始まるこの歌は、丘で春の菜摘みをしている乙女に求愛をするという内容。つくづく女絡みのエピソードの多い人物である。
- 絶対に失敗しませんと言った職人の前で女官たちにふんどしだけで相撲を取らせてわざと失敗させては嘘をついたと処刑しかけた。
清寧天皇(第22代)[編集 | ソースを編集]
- アルビノであったらしい。妻子なく崩御。
- 諱は「白髪」。そのまんま過ぎる…。
- 読みは「しらが」ではなく「しらか」。
- アルビノ属性のおかげで、二次創作イラストではだいたい美化される。
- 個人的には「北斗の拳」のトキのような、雄々しいお姿を想像してしまう。
- 諱は「白髪」。そのまんま過ぎる…。
顕宗天皇(第23代)[編集 | ソースを編集]
- 父親をワカタケルに誤解されて殺された二王子の弟、ヲケ。
- 二王子の逃亡生活から発見に至るまでは涙涙の物語。
仁賢天皇(第24代)[編集 | ソースを編集]
- 父親をワカタケルに誤解されて殺された二王子の兄、オケ。
- 「俺たちが世に出たのはお前のおかげだ、弟よ」と言って、弟を先に皇位につかせた。
- 弟の顕宗天皇が憎っくき仇である雄略天皇の墓をぶっ壊せと言うので派遣される。すぐ帰ってきたので天皇が訝しむと、ちょこっと端を掘っただけですよ、仇でも天皇陵を壊せば後世の謗りを受けますよと戒めた。
武烈天皇(第25代)[編集 | ソースを編集]
- 「古事記」ではなぜかスルーされ、記述がほとんど無い。「日本書紀」では殷の紂王ばりの暴君扱いされている。
- 紂王の他、夏の桀王、呉の孫晧、隋の煬帝など、「前王朝の最後の王様」というのはボロクソに書かれるのが常。継体天皇から王朝が交代したのではないかという説の根拠のひとつになっている。
- 女官を裸にして馬の交尾を見せ、アソコが濡れた者を殺し、濡れなかった者を奴隷にしたとか意味不明な「暴虐」も。
- マジレスすると、「馬の交尾で濡れるような女は欲求不満の淫乱か獣姦趣味だからイラネ」という事であろう。
- 「濡れなかった者を奴隷にした」ほうはどうなるのかな? やっぱり意味不明としか。
- マジレスすると、「馬の交尾で濡れるような女は欲求不満の淫乱か獣姦趣味だからイラネ」という事であろう。
- 「古事記」がスルーしていること自体、「日本書紀」の記述の信憑性を高めているような気がするのだが……
- 逆でしょ。中国の故事の影響が大きい日本書紀が、古事記がスルーしている天皇をわざわざ貶めているということが、ここでの王朝交代説の信憑性を高めていると思う。
- 武烈天皇の側近は狩野掃部之祐で、のちに武烈天皇を祀る櫻田山神社を久我大連と共に建てた。
- 狩野英孝のご先祖様とされる。
関連項目[編集 | ソースを編集]
- 天皇伝/飛鳥・奈良時代(26代~49代)
- 天皇伝/平安時代(50代~81代)
- 天皇伝/鎌倉時代以降(82代~)